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黄輪雑貨本店 新館

双月千年世界 1;蒼天剣

黄輪雑貨本店のブログページです。 小説や待受画像、他ドット絵を掲載しています。 よろしくです(*゚ー゚)ノ

    Index ~作品もくじ~

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    晴奈の話、1話目。
    和風ファンタジー。

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    1.
     時は双月暦506年。

     夜道を駆ける、三毛耳の猫獣人の少女がいた。
     名を、晴奈と言う。
     央南地方で名を馳せる大商家の令嬢であったが、先刻その身分を自ら捨ててきた。
     彼女には志ができたからだ――「あの人のように、強い剣士になりたい」と。

     元々、彼女は何不自由なく育てられていた、箱入り娘であった。ゆくゆくは婿を取らせて家を継がせようと、親が決めていたのだ。
     だが晴奈には、それが何よりの不満になっていた。彼女は物心ついた時から、「自分の人生は自分で決める」「親でも自分を縛れない」と考えるようになっていた。
     そして今日、晴奈はある者との出会いで、その思いをより明確で、具体的なものにしたのだ。
     その結果として今、晴奈は夜道をひた走っていた。「その人」に、もう一度会うため。そして新たに抱いた彼女の志を、全うするために。

     彼女こそ、後に「蒼天剣」の異名を取った女武芸者、セイナ・コウ(黄晴奈)である。
     これより、その物語を――彼女が志を抱き、央南に一大勢力を築く剣術一派、焔流に入門するところから、述べることとする。
    蒼天剣・立志録 1
    »»  2008.10.06.
    * 
    晴奈の話、2話目。
    すべてのはじまり。

    2.
     すべての始まりは彼女が夜道をひた走る、その半日前だった。
     その日も晴奈は親の言いつけ通り、舞踊の稽古と料理の教室に通っていた。前述の通り、「お前の将来を思って」とする親の意向からである。
    (何が、私の将来よ?)
     晴奈は一人、親への不満をつぶやく。親にとって「晴奈の将来」とは黄家の将来であり、親たちの家の将来のことなのである。
     すべては晴奈が将来いい婿を手に入れられるようにと――彼女の意志を反映されること無く――やらされている、「花嫁修業」なのである。
    (私は、あいつらの人形じゃない……)
     ぶつぶつと、不平・不満をつぶやいている。それが、彼女の日課だったのだ。
     その日まで、それだけが教室から家に帰るまでの変わりない毎日における、彼女の気晴らしだった。

     いつもと違ったのは、ここからだった。
     そうして道を歩いていたところで、彼女は治安の行き届いているこの街ではあまり見慣れないものに出くわしたのだ。
     ケンカである。
    「あ……」
     酔っ払い風の、3人のむさくるしい男たちが、エルフの女性に絡んでいた。
     一般的にエルフや長耳などと呼ばれている種族は目鼻立ちがはっきりしており、欧風の趣がある中央大陸北部――通称、央北地方や、北方の大陸に多い種族と見られがちだが、精神性と仁徳を重んじる央南地方の風土に、高い知性と、穏やかな性格を持つ彼らは、存外良くなじむらしく、この地でも見かけることが少なくない。
     男たちはそのエルフににじり寄りながら、一緒に酒を飲もうと言い寄っている。
    「だーらさー、つきあーってってー」
    「断ります」
    「そんらころ、いわらいれさー」
    「断ります」
    「いーじゃん、いーじゃんー」
    「断ります」
     晴奈は遠巻きに見つめながら、男たちに不快感を覚える。
    (嫌な人たち! こんな日の出ているうちからあんなに酔って、恥ずかしいと思わないの?)
     どうやらエルフの女も明らかに男たちを煙たがっているらしく、ひたすら「断ります」としか答えていない。
     それを察したらしく、男たちの語気が次第に荒くなっていく。
    「なんらよー、おたかくとまっちゃっれ」
    「いいきに、あんあよー」
    「きれるよ、きれちゃうよ」
     男たちが女ににじり寄ってくる。
     その下卑た顔が横一列に並ぶのを見た途端、晴奈はとっさに女の近くに寄り、手を引いていた。
    「お姉さん、行こう? こんな人たちに構うこと無いよ」
     間に割って入った晴奈を見て、男たちは憤る。
    「なんらー、このガキ?」
    「やっべ、うっぜ」
    「うるせえ、あっちいけ!」
     そのうち、男たちの一人が晴奈を突き飛ばした。
    「きゃっ!」
     晴奈はばたりと倒れ、手をすりむいてしまう。
     それを見た女が「あっ」と声を上げ、こうつぶやいた。
    「……騒ぎたくは無かったけれど、そんなわけには行かなくなったか」

     女の雰囲気が変わったことに初めに気付いたのは恐らく、倒れて女を仰ぎ見ていた晴奈であろう。それまで逃げ腰だった様子に、急に凄みが差し始めた。
     だがその時点で、男たちはまだ気付いていなかったらしい。
    「じゃますっからだ、ガキ!」
    「いけ、どっかいけ、しね!」
    「さあ、おじょーさん、じゃまがき、え……、え?」
     3人目の男が、ようやく気付いたらしい。何か言いかけて、途中で言葉が途切れたからだ。
    「幼子に向かって、そのような態度! 容赦しない!」
     女がそう叫んだ瞬間、晴奈に向かって「死ね」と言った男が吹っ飛んだ。
    「ぎっ……」
     叫ぼうとしたようだが途中で気を失ったらしく、そのまま仰向けに倒れて動かなくなる。
    「お、おい」
    「な、なにすん……」
     続いてもう一人、くの字に折れてそのまま頭から倒れる。どうやら、女が何か仕掛けたらしいが、傍らで見ていたはずの晴奈でも、何が起こったのか分からない。
     晴奈は立ち上がり、女から少し離れて再度、様子を伺う。そこで女の手に何かが握られているのが、チラリとだが確認できた。
    「あ、あ……」
    「まだ正気が残っているのならば、さっさとそこの2人を担いで立ち去りなさい」
    「……はひ」
     一人残った男は慌てて倒れた仲間を引きずりながら、その場から逃げていった。
     女の手には刀が、刃を逆に返して握られていた。どうやらそれで男たちを叩き、ねじ伏せたらしい。
     これが、後に晴奈の師匠となるエルフ――柊との出会いであった。
    蒼天剣・立志録 2
    »»  2008.10.06.
    晴奈の話、3話目。
    三毛猫姉妹。

    3.
    「大丈夫、晴奈ちゃん?」
     柊が心配そうに晴奈の手のひらを覗き込み、手当てをしてくれている。
    「え、ええ」
     先ほどの騒ぎが一段落したところで、柊がケガをした晴奈に気付き、落ち着いた場所まで連れて行ってくれたのだ。
     流石に魔力の高いエルフらしく、柊は治療術ですぐに傷を治してくれた。
    「ありがとうございます、柊さん」
    「いえいえ、礼を言われるほどのことじゃないわ」
     そう言って柊はにこっと微笑む。
     出会ってたった十数分しか経っていないが、晴奈はこの人のことをとても好きになった。
    「お強いんですね、柊さん」
    「ううん、私なんかまだまだよ。
     むしろ晴奈ちゃんの方こそ、勇気があるわ。普通の人はあんな時に声、かけられないもの」
    「そ、そう、ですか?」
     そう言われて、晴奈は妙に嬉しくなった。
     今までのほめられ方は「女らしい」「可愛い」と言う、親のかける期待に沿うようなものばかりだったが、たった今、柊からかけられた「勇気がある」と言うその言葉は、そんなものとはかけ離れた――「親の期待」とはまったく無関係なところから届いた、まさに晴奈が望んでいたものだったからだ。
    「……いいなぁ、かっこ良くて」
     思わず、晴奈はため息混じりにそんなことをつぶやいていた。
    「ん?」
    「私なんか、全然かっこ良くないです。……どうしたら、柊さんみたいになれるかな?」
     柊は少し困ったような顔をし、言葉を選ぶような口調で返した。
    「うーん、私みたいに、ねぇ。……剣術、かしらね。昔から、励んでいたから」
    「剣術、ですか」
     晴奈はその言葉に、何かを感じた。それが何なのか、この時明確に言うことはできず、結局そこで話は途切れてしまう。
    「じゃ、そろそろ行くわね」
    「え? あ、えっと、どこに?」
     慌ててそう尋ねた晴奈に、柊は依然としてにこやかに、こう答えてくれた。
    「そろそろ故郷に戻ろうと思って。ここから南にある、紅蓮塞って言う修練場なの」
     柊はもう一度にこっと笑い、そのまま去って行く。
     晴奈は別れの言葉も言えずに、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。



     柊と別れた後から、晴奈の中で二つの思いが交錯し始めた。
     柊との出会いは、晴奈に大きな衝撃を与え、「柊さんを追いかけて、自分も剣士になりたい」と言う思いを抱かせたのだ。しかしその思いを実現させれば――憂鬱で仕方の無い日々だったとは言え――今までの平穏な日常が終わってしまう。
     晴奈は家に戻ってからもずっと、剣士の道を取るか、それとも安穏な日々を取ろうかと迷っていた。
     そんな風に考えあぐねていたため、晴奈は家の廊下でうっかり、妹とぶつかってしまった。
    「きゃっ」
     よろけた妹の手を取り、晴奈は頭を下げる。
    「あ、ああ。ごめんなさい、明奈」
     晴奈は慌てて妹の明奈に謝る。
    「どうなさったの、お姉さま?」
     明奈はきょとんとした顔で、晴奈の顔をのぞき見る。
    「ええ。少し、考えごとを」
    「すごく険しい顔をしていらっしゃるわ。一体、どんなことを?」
    「……」
     妹になら話してもいいかと考え、晴奈は明奈を自分の部屋に招き入れ、悩みを打ち明けた。
    「そんなことがあったのですね」
     すべてを聞き終えた明奈は、静かな口ぶりでこう返した。
    「では行った方がよろしいのでは?」「えっ」
     明奈の言葉に晴奈は驚いた。てっきり反論されるか、止められるかと思っていたからだ。
    「黄家は、わたしが継ぎます。だからお姉さま、ご自分の夢を追いかけてらして」
    「で、でも明奈、あなたは?」
     戸惑う晴奈に、明奈は淡々と返す。
    「わたしには、そこまで強い志がありません。せいぜい『良縁に恵まれ、良いお嫁さんになりたい』と言う程度。旧い黄家にふさわしいでしょう?
     でもお姉さまは大きな志を、夢を抱いていらっしゃる。その夢はこの旧い家にいたのでは、終生叶いませんわ」
     たった8歳だが、強いまなざしで語る明奈の言葉によって、13歳の晴奈の心の奥底にカッと火が灯る。
     これまでの、家族に守られ安穏としていた生活から離れ、たった一人で修行に向かい、荒波に揉まれてみようとする勇気が沸き起こった。



     そして夜半――晴奈は荷物をまとめて家を抜け出した。
     柊にもう一度会い、そして柊のような、強く、かっこいい剣士になるために。
    蒼天剣・立志録 3
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、4話目。
    和風魔術剣。

    4.
     2日歩き通し、晴奈はようやく街道を進んでいた柊に追いついた。
    「……!?」
     あちこち土で汚れ、擦り傷だらけになった晴奈を見て、柊はとても驚いた目を向ける。
    「えっと、……晴奈ちゃん?」
    「はい!」
    「どうしてここに?」
    「柊さん。私を、……私を、弟子にしてください!」
     晴奈はいきなり柊の前に座り込み、深々と頭を下げた。
    「ちょ、ちょっと、晴奈ちゃん。あの、困るわ。私も、修行中の身だから」
    「お願いします!」
    「いや、あの、うーん……。あ、そうだ、お家の方と相談して……」「縁を切りました」「え!?」
     晴奈の言動に柊はまた目を丸くし、言葉を失ってしまった。



     柊は何とか説得しようとしたが、結局、晴奈の熱意と意気込みが伝わったらしく、諦め気味にこう答えた。
    「私はまだ修行中の身であるし、私が稽古を付けることはできない。それは理解してほしいの。
     だからともかく、私の師匠の所へ一緒に行きましょう。その人なら晴奈ちゃんが十分納得するように修行を付けてくれるはずだから」
    「……分かりました」
     晴奈はこの条件を呑み、柊と共に向かうこととなった。
     そして2人で街道をひたすら南へ1週間下り続け、2人は岩山に建つ、巨大な要塞の前に到着した。
    「ここが私の属する剣術一派、焔流の総本山であり、央南各地の剣士が修行の場にしている場所――通称『紅蓮塞』よ」
    「ここ、が……」
     その建物を見上げ、晴奈は思わず息を呑む。建物全体から、ビリビリと迫力が伝わってくるように感じたからだ。
     そこはまさに、霊場と言っても過言では無いように思えた。
    「さ、入るわよ」「あ、は、はい!」
     雰囲気に圧倒されながらも、晴奈は勇気を奮い立たせて柊に付いて行く。
     塞の中には修行場やお堂があちこちにあり、どこを見ても剣士たちがたむろしている。何年もここで修行をしていた柊には動じた様子は無いが、初めてここへ入った晴奈は強い威圧感を覚え、不安でたまらなくなりそうだった。
    「あ、あの」「ん?」「……いえ、何でも」
     だがその不安を口にすれば、柊から「やっぱり無理よ」などと言われ、引き返されてしまうかも知れない。そう思った晴奈はぐっと我慢し、柊の後をひたすら付いて行った。
     やがて柊はある部屋の前で立ち止まり、晴奈に振り返った。
    「ここが私の師匠――現焔流の家元、焔重蔵先生のお部屋よ。
     気さくな方だけど礼儀には厳しいから、気を付けてね」
    「はい」
     柊は少し間を置き、すっと戸を開けた。

     部屋の奥では、短耳の老人が正座して本を読んでいた。
    「うん?」
     柊たちに気付き、老人は眼鏡を外して顔を上げる。
     目が合うまでは一見、ただの好々爺のようにも見えたのだが、目が合った瞬間、晴奈の背筋に汗がつつ、と流れる。
    (『熱い』……!? 何だろう、この人? まるで燃え盛る炎が、すぐ近くにあるみたい)
    「おお、久しぶりじゃな雪さん」
    「ご無沙汰しておりました、家元」
     柊は深々と頭を下げ、師匠――焔重蔵に挨拶した。
     重蔵は座ったまま、ニコリと笑って応える。
    「おう、おう、そんな大仰にせんでもいい。ところで雪さん、その『猫』のお嬢さんはどなたかな?」
    「はあ、実は……」
     柊は言われるままに足を崩し、晴奈が焔流への入門を希望している旨を告げた。話を聞き終えた重蔵はあごを撫でながら空を見つめ、「ふむ……」とうなる。
    「どうでしょうか、家元」
     尋ねられ、重蔵は何度か短くうなずきつつ答える。
    「まずは試験を受けさせて見なければ、何とも言えんな。何をおいても、まず資質が無ければ、うちの剣術の真髄を身に付けることはできんからのう」
     重蔵はそう言って立ち上がり、背後に飾っていた刀を手に取った。
    「とは言え、魔力が高いと言われておる『猫』さんじゃったら、その資質も申し分無いじゃろうが――これは、最初に説明しておかなければのう」
     重蔵はそこで言葉を切り、柊と晴奈を手招きした。
     2人が部屋の真ん中に座り直したところで、重蔵は説明を続ける。
    「うちの流派は、その名も『焔流剣術』――読んで字のごとく、焔、つまり火を操る剣術なのじゃ。
     このようにな」
     途端に、重蔵の構えた刀の切っ先にポン、と火が灯る。
    「……!?」
     晴奈は声も出せないほど驚いた。
     刀に灯った火はそのまま、するすると刃先を走っていき、やがて刀全体が火に包まれる。そのまま重蔵は上段に剣を構え、振り下ろした。
    「やあッ!」
     振り下ろされた刀から火が飛び、そのまま床を走る。ジュッと床が焦げる音がし、壁際まで火が走り、しかし燃え広がることも無く、すぐに消えた。
    「あ……、わ……」
     目を白黒させる晴奈を面白がるような口ぶりで、重蔵はこう続けた。
    「これこそが焔流剣術の真髄。刀に火を灯し、剣閃に炎を乗せ、敵を焼く。もちろん、本来の剣術の腕も、不可欠。
     剣を極め、焔を極める。晴さん、自分にその覚悟と資質はあるかな?」
     重蔵は刀を納め、晴奈に笑いかけながら問いかける。
     晴奈はまだ動揺していたが、黙ったまま、コクリとうなずいた。
    蒼天剣・立志録 4
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、5話目。
    入門試験。

    5.
     晴奈は剣道着に着替えさせられ、とあるお堂の中央に座らされた。そして横には、同じように剣道着姿の柊がいる。
     晴奈たちの前に重蔵が立ち、試験について説明する。
    「まあ、やることは至極簡潔なものじゃ。ただ座禅をしてもらう、それだけ。
     3時間じっとする、それ一つのみ。簡単じゃろ?」
    「は、はい……」
     晴奈はまだ少し緊張が取れず、恐る恐る答える。そんな晴奈を見て、重蔵はニコニコと笑みを返す。
    「はは、そう堅くならんと。
     じゃが、油断してはならんぞ。この堂には、鬼が棲んでおるからのう」
    「お、……鬼、ですか?」
     重蔵の言葉に、晴奈は目を丸くした。
    「そう、鬼じゃ。繰り返すが、試験の内容はただ一つ。鬼に惑わされること無く、3時間じっと座禅を組み続けること。それだけじゃ。
     ああ、そうそう。言い忘れておった。雪さんも、『私が晴さんを連れてきたのだから、晴さん一人で試験を受けさせるのは不義。同じように受けさせていただきたい』と言うから、そこに座っておる。
     じゃが、声をかけてはならんぞ。黙してただ座禅、それだけに専念するようにな」
    「はい」
     答えつつ、晴奈は柊の方をチラリと見る。柊はすでに、目をつぶって座禅に入っていた。それを見て、晴奈は慌てて視線を重蔵に戻す。
    「それではわしがここを離れてから、もう一度入ってくるまで。
     一意専心――ひたすら、座禅を通しなさい」
     そう言って重蔵は晴奈たちから離れ、堂の戸を閉める直前に振り返り、一言付け加えた。
    「おお、そうそう。ちなみにこの場所、『伏鬼心克堂』と言うんじゃ」
     そこでにっと薄く笑みを浮かべて、重蔵が戸を閉めた。

     晴奈は言われた通りに座禅を組み、じっとしていた。
    (ふくき、しんこくどう?)
     重蔵が残したその言葉を、晴奈は心の中で何度も読み返す。
    (鬼が潜んでいるから、伏鬼かな。心克って言うのは、克己心――自己を高める心のことだろうな、きっと。
     つまり鬼に負けないで、精神修養しろってことかな)
     色々考えているうち、何の刺激も無いためか、少しうとうとし始めた。
    (ん……。あ、危ない危ない。ちょっと、眠りそうになった。
     ダメダメ、ちゃんと座禅しないと。もし重蔵先生に見られていたら、怒られちゃうかも)
     慌てて、目を開く。その直後、とす、と言う音が、背後から聞こえた。
    (……足音?)
     とす、とすと、晴奈の背後で音が響く。思わず振り返りそうになったが、晴奈は心の中で自分を戒める。
    (ダメダメ、座禅! 座禅を組まないと!)
     その間もずっと、とすとす歩く音が聞こえてくる。ゆったり歩いているらしい、軽い足音である。
    (もしかして、……これが『鬼』? 何だか猫か兎みたいに、軽い足音。もしかしたら、子鬼かな?)
     そう思った瞬間、子供の笑う声が、ほんのかすかに聞こえてきた。
    (あ、やっぱり子鬼なんだ。……鬼でも、子供は可愛げがあるんだなぁ。
     これがもし大人の鬼だったら、きっと足音なんて、『とすとす』みたいなもんじゃないんだろうな)
     晴奈は少し笑いそうになったが、何とかそれをこらえようとした。
     だが、笑いは自然と消えた。笑っていられなくなったのだ。

     突然、地面が揺れる。
     座禅を組んでいた自分の体が――13歳にしてはわりと背が高く、体重もそれ相応にあるはずだが――一瞬、浮かぶほどの揺れだった。
    (きゃあっ!? じ、地震!?)
     叫びそうになったが、先程まで笑いをこらえていたこともあって、何とか声を漏らさずに済む。目をつぶって無理矢理心を落ち着かせ、何が起こったか冷静に予想してみようとする。
    (地震じゃ、無い、よね。外、騒いでないみたいだし――もしかしたら、地震くらいじゃ剣士たちって、騒いだりしないのかも知れないけど――一瞬で止んだ。
     もしかして、もしかしたら……、大人の、鬼?)
     その想像に、思わず晴奈はぶるっと震える。
    (いや、いや……、そんなわけ、無いじゃない! さっきまで、いなかったんだから!
     ……で、でも。子鬼、は、最初いなかった。どこかから姿を現した、から、いるわけで。とすると、その……、鬼も、入ってきたのかな?)
     そう考えた瞬間、また地面が揺れて体が浮き上がる。ずしん、と言う重く大きな音が、晴奈の猫耳をビリビリと震わせた。
    (ひっ……!)
     心の中で叫ぶ。ずっと黙っていたせいか、実際に声を出すまでには至らなかった。晴奈は鬼に怯えながらも、心の中で繰り返し唱える。
    (だ、だ、だ、大丈夫、大丈夫だって! もし襲うなら、背後でウロウロしたりなんか、しないじゃない! とっくに襲って来ているはず! だから、きっと、多分、大丈夫な、はず!
     そ、それに、もし、万が一襲ってきても、柊さんが横にいるんだし、きっと守ってくれる! だから、ほら、心を落ち着けて! ちゃんと座禅を、組まないと!)
     先ほど揺れた時と同様、無理矢理に心を落ち着かせようとするが、恐怖の広がった心は恐ろしい想像ばかりかきたてていく。
    (……でも、鬼に人間が勝てるの? いくら柊さんでも、殺されちゃうんじゃ……!?)
     自分のあらぬ想像を、晴奈は全力で否定しようとした。
    (そ、そんなわけ無い! 無いの! だって、ほら、横には、ちゃんと……)
     そこで晴奈は目を開け、柊の姿を確認して自分を安心させようとした。

     だが、その光景に今度こそ叫びそうになった。
     柊が血を流して倒れている。座禅を組んだまま、横になっている。だが向けられた背中に、いかにも鬼が持っていそうな棍棒が、無残に食い込んでいる。そこからドクドクと血が吹き出しており、どう見ても絶命している。
    (い、……嫌あああぁぁぁッ!)
     恐怖で凍りつき、叫んだつもりののどからは、悲鳴は漏れなかった。先ほどからずっと黙ったままの晴奈は、のどを押さえて震えだす。
    (あ、あああ、柊さん、柊さん……!?)
     恐怖が頂点に達し、晴奈は現状を呪い始めた。
    (何で、何でこんなことに……! ああ、私が、試験を受けるなんて言ったから、柊さんが死んじゃったんだ!
     私の、私のせいだ! 私が、ここに入ったから、柊さんも、一緒に入って、だから、死んで……。
     ……え?)
     恐怖による混乱の渦中にありながらも、晴奈はある矛盾に気が付いた。
    蒼天剣・立志録 5
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、6話目。
    剣士への第一歩。

    6.
     晴奈はもう一度、頭の中を整理する。
    (だって、試験、なんだから。
     重蔵先生は特に仰ってなかったけれど、柊さんもここの剣士なんだから、以前に試験を受けているはず、よね? じゃあ、ここに入っている、……よね?
     だったら、鬼が出るって言うのも、襲うって言うのも知っていたはず。それなら身を護るために、防具なり武器なり、装備しているはず――例え歯が立たないとしてもー―でも柊さんは、道着だけ。襲われる可能性があるのに、道着だけを?
     ……以前は、出てこなかった? 襲われなかった? 二度入ったら、襲われるって言うの? そんなバカな話、無い。それなら重蔵先生は、何度襲われているか分からないじゃない。と言うことは、鬼は襲わない。普通は、襲わない?
     じゃあ、襲ったのは何で? ……あれ? 襲った? 物音も無く? ううん、あれだけドスドス音を立ててるんだから、柊さんが気付かないわけが無いじゃない!?
     おかしい。考えれば考えるほど、矛盾が広がっていく)
     納得行く説明を求め、迷走していく晴奈の心が、少しずつ静まっていく。
    (おかしい、おかしい!
     大体、この堂の入口は、前にある一ヶ所しか無い。前から入って来たのなら、すぐ分かるはず。でも足音が聞こえて来たのは、いつも後ろから――前からの足音は、一度も聞こえて無かった。
     じゃあ、鬼は突然現れたの? いつ? どうして?)
     そこまで考えたところで、晴奈にある閃きが走った。
    (殺されると思ったら、柊さんが殺された。鬼の足音のことを考えたら、鬼が出た。子鬼かなと思ったら、笑い声。
     考えると、現れる?)
     晴奈はもう一度目をつぶり、心を落ち着けて考えた。
    (柊さんは死んでない。じっと、座禅を組んでいる)
     心の中で強く思い、目を開けて横を見た。
     そこには重蔵が戸を閉めた時と同じ姿勢のまま、柊が何事も無かったかのように、静かに座っていた。



     伏鬼心克堂――その意味は、「鬼が潜む心(伏鬼心)を、抑える(克する)堂」。
     雑念によって現れる様々な「鬼」――迷いや不安、猜疑心を、冷静になって消し去ることを学ぶ堂である。
     そして焔流の真髄、炎を操るには、冷静沈着な心が不可欠なのだと言うことを第一に学ぶために、この試験は用意されているのである。



     一旦それに気が付くと、不思議なほど晴奈の心は静まり返った。極めて冷静に、心を落ち着けて、時間が過ぎるのを待った。
     幸い、時間を潰すのは非常に簡単だった。どう言う理屈か晴奈には分からなかったが、この堂は念じれば、何でも出てくるのだ。時間が過ぎ去るまでの間、晴奈は妹のことを思い浮かべることにした。
    (明奈。あなたには、感謝してもしきれない)
     目の前に明奈が現れ、ニッコリと笑いかけてくる。
    (あなたの言葉があったからこそ、私はこうしてここにいる)
     明奈は前に座り込み、穏やかに笑っている。
    (明奈、……ありがとう)
     そうして晴奈はずっと、明奈と声を出さずに語り合っていた。

    「はい、そこまでじゃ」
     どうやら3時間が過ぎたらしい。
     入口の戸が開き、重蔵が入ってきた。柊がすっと立ち、深々と頭を下げる。晴奈も慌てて立ち上がり、同じように頭を下げた。
    「どうやら、合格のようじゃな。3時間、よく頑張った」
     重蔵は笑いながら、晴奈の頭を優しく撫でた。
    「あ、ありがとうございます!」
    「これで晴さんも、晴れて焔流の門下生じゃ。精進、怠らんようにな。
     それから雪さん。よく考えればもう、入門して16年になるのう。そろそろ教える側に回っても良かろう。師範に格上げしておくから、さらに精進するように」
    「はい!」
     柊はとても嬉しそうな顔をして、もう一度頭を下げた。その頭を、重蔵が先ほどと同じように、優しく撫でながらこう言った。
    「それでじゃ。晴さんは、君が指南してあげなさい」
    「え!?」
    「元々君に師事したいと言っておったのじゃし、年老いたわしの下に就いておっては、折角の若い才能も枯れてしまうじゃろう。
     しっかり、鍛えてやりなさい」
    「……はい。しかと、拝命いたしました」
     柊は三度頭を下げ、晴奈に向き直った。
    「改めてよろしくね、晴奈ちゃん。……ううん、晴奈」
    「はい! よろしく、お願いいたします!」
     晴奈ももう一度、深々と頭を下げた。



     こうして黄晴奈は焔流に入門し、師匠・柊雪乃の下で修行を積むことになった。
     これが後の剣聖、「蒼天剣」セイナ・コウの原点である。ここから彼女の、波乱万丈の人生が始まっていくこととなる。

    蒼天剣・立志録 終
    蒼天剣・立志録 6
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、7話目。
    朝練。

    1.
     焔流に入門して以降、晴奈は急速に、剣士としての力を付けて行った。
     元来、強い魔力を持つと言われる猫獣人であり、その資質が火の魔術剣を真髄とする焔流と親和性が高かったことは確かだが、それを差し引いても、師匠である柊の指導や鍛錬が行き届いていたからだろう。

     その日も二人は、早朝から稽古に打ち込んでいた。
    「えいッ!」
    「やあッ!」
     二人の木刀が交錯し、カンと乾いた音が、他に人のいない修練場に響き渡る。
     まだ日も昇らぬ、山中の冷え切った空気が立ち込める時間帯であるにも関わらず、二人は活き活きと木刀を振るっている。
    「いい調子よ、晴奈! それ、もう一度!」
    「はいっ、師匠!」
     二人の出会いから1年が過ぎた双月暦507年、14歳になった晴奈は紅蓮塞で揉まれるうちに――周りの無骨な者たちの影響を受けたらしく――性格や口調が、大きく変化していた。
    「てやあッ!」
     晴奈は飛び上がり、柊の頭上に思い切り木刀を振り下ろす。
    「りゃあッ!」
     柊も木刀でそれを防ぎ、身をひねりながら足と木刀を使って、晴奈を投げ飛ばす。
    「なんのッ!」
     飛ばされた晴奈も、空中で体勢を立て直してストンと地面に降り、柊に再度、斬り込もうとする。
     だが残念ながら姿勢が伴わず、踏み込みを見誤ってよろめいた拍子に、柊に木刀を弾き飛ばされてしまった。
    「あっ……」「勝負、あった」

     朝の稽古を終え、二人は風呂で汗を流していた。
    「いくら身軽な『猫』とは言え、性急な攻めは無謀よ、晴奈」
    「はは……、お恥ずかしいです」
     二人で朝風呂につかりながら、ここはこうだった、次はこうした方がいいと、稽古の内容について熱く意見を交わしている。
    「それでは昼までの精神修養は、……くしゅ」
     議論に熱を入れすぎたせいか、逆に体から熱が奪われ、湯冷めしてしまったらしい。年相応の可愛いくしゃみをした晴奈に、柊は笑う。
    「あはは、ダメよ晴奈。体を健康に保つのも修行の、……くしゅん」
     笑っていた柊も、うっかりくしゃみをしてしまう。
    「……はは」
    「……うふふ」
     師弟二人はばつが悪くなり、互いに笑ってごまかした。



     風呂から上がり、晴奈たちはさっぱりとした気分で朝食を食べていた。
     先程とは違い、ここでは二人とも会話しようとしない。と言うより、央南の人間は基本的に食事中しゃべることは少ないのだ。
     だから、二人で黙々と食べていたところに「晴奈、お客さんが来ているよ」と声をかけられ、部屋の戸を開けられた時には、二人同時にむっとした顔をしたし、伝言に来た者もすぐさま謝った。
     謝ってきたから柊はすぐ表情を直し、軽く頭を下げ返したのだが、晴奈は依然、いぶかしがって表情を変えずにいた。
     単身、紅蓮塞に乗り込んできた晴奈に、外界からの客などいるはずが無いからである。
    「私に、客?」
    「ああ。何でも、黄海から来られたそうだ」
    「黄海……、ですか」
     その地名を聞くなり晴奈の食欲は途端に無くなってしまい、ぱたりと箸を置いた。

     黄海とは晴奈の故郷である、央南北西部有数の大きな港町である。同時に央南西部、黄州の州都でもあり、その州は晴奈の生家、黄家が治めている。
     そのため、その地名を聞く度、晴奈は黄家での生活――すなわち、親の言いなりになっていた自分を思い出し、度々気を滅入らせていた。

    「客の名前は?」
     渋々ながら晴奈はそう尋ねたが、伝えに来た者は首を振る。
    「いや、ただ『晴奈に会いたい』としか……。中年の『猫』で、なかなかいい身なりをしていた。見たところ、どこぞの名士のようだったな」
     それを聞いた瞬間、晴奈は恥ずかしさと苛立たしさを同時に覚えた。
    「どうやら、父のようです。私を、連れ戻しに来たか……」
    蒼天剣・縁故録 1
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、8話目。
    親がでしゃばると、子供は恥ずかしい。

    2.
     客間の前に着いたところで、晴奈はそっと戸を薄く開ける。
     戸の向こう側には、恰幅のいい猫獣人の男が正座している。それは間違い無く晴奈の父、黄紫明だった。
    「はあ……」
     見ただけで、晴奈の心は重苦しく淀んでいく。そこで後ろにいた柊が、そっと晴奈の肩に手をかけた。
    「まあ、あなたの気持ちも分からなくはないけれど……。
     でも、いずれはこうなることと、それとなく分かっていたことでしょう? まさか一生縁を切ったままなんて、義理と仁徳を重んじる央南人らしからぬ考えを抱いていたわけじゃないわよね?」
    「う……、まあ、それは」
     柊は強い言い方で、しかし穏やかな口調で晴奈を諭す。
    「精神修練の際に最も、気を付けることは?」
    「邪念を払うこと」
    「でしょう? 余計なわだかまりを抱えていては、邪念を払うことは無理よ。ここできっちり、けじめを付けなさい」
    「……はい、承知しました」
     晴奈は大きく深呼吸し、少し間を置いてから客間の戸を開けた。柊も念のため晴奈の後に付いて、客間に入っていった。

     晴奈を見た瞬間の、紫明の第一声はこうだった。
    「帰るぞ、晴奈」
     当然、晴奈もこう返す。
    「断ります」
    「何故だ!? もう1年も、こんなむさくるしいところに、……いや、失礼。1年も、家を離れていたのだぞ。そろそろ、家が恋しくなったろう?」
    「いいえ」
     紫明の口ぶりには、晴奈が言うことを聞く、きっと耐えられなくなっているだろうと高をくくっている色が透けて見えている。反面、晴奈はこの1年、うっとうしく思っていた家のことなどすっかり忘れ、嬉々として修行に励んでいる。
     真逆に考えている二人の話がかみ合うわけが無く、場は険悪になる。
    「強がりを言うな、晴奈。女のお前がこのような男ばかりの場で過ごして、辛くないわけが無かろう?」
     そんな言われ方をされて、うなずくような晴奈ではない。苛立ちを隠すことも無く、真っ向から反論した。
    「ここには女もおります。力も技も、そこらの軟弱な男よりずっと強い」
    「そんなわけが無いだろう。女が男より、強いわけがあるまい」
    「……」
     この言葉には、流石の柊も気分を悪くしたらしい。晴奈は背後で、師匠が不快そうに息を呑むのを感じ取った。
    「さあ、言い訳などせずこっちに来るんだ」
    「嫌ですッ!」
     聞く耳を持たない父に晴奈はさらに苛立ち、語気を荒くする。対する紫明も、自然と口調がきつめになっていく。
    「ダダをこねるな、晴奈ッ! 強がるだけ無駄だぞ!? 分かっているんだ、私には!
     さあ、四の五の言わずに一緒に帰るんだ!」
    「嫌だと言ったら、嫌だッ!」
    「いい加減にしろ、早く帰る支度をするんだ!」
     段々言い方が命令になり始め、晴奈はますます態度を硬くする。
    「帰らない! 私は、ここに骨を埋めるッ!」
    「私を煩わせるな! もういい、引っ張ってでも……」
     ついに紫明が怒り出し、晴奈の手をつかんだ瞬間――。
    「嗚呼、嗚呼。いい年をした御仁が、みっともないですぞ」
     どこからか現れた重蔵が、紫明の手をひょいと取った。
    「何だ、この爺は! 離せ、離さんと……」「どうするおつもりかな、黄大人?」
     重蔵が尋ねた途端、紫明の顔色が変わる。どうやら重蔵の並々ならぬ気配に圧され、恐れをなしたらしい。
    「う、ぬ……」「さ、落ち着きなされ」
     紫明は言われるがまま、晴奈に向けていた手を引っ込め、座り直した。
     重蔵は二人から少し離れて座り、ゆったりとした口調で父娘の仲裁に入る。
    「まあ、黄大人のお気持ちもわしには分かりますわい。手塩にかけて育てた娘御が、こんな『むさくるしい』ところに閉じこもっておったら、確かに気が気では無いでしょうな。
     とは言え娘さんは、あなたの所有物では無い。子供が嫌がるものを無理矢理押し付けるのは、親のわがままでしょう。親なら、子供がやりたいことを応援しなされ」
    「し、しかし。その、晴奈だって、ここで1年も暮らせば、耐え切れなく……」
     なおも自分の意見を通そうとする紫明に、重蔵はびしりと言い放つ。
    「それこそ、黄大人のわがままと言うものでしょう。
     黄大人は黄大人であって、晴さん……、娘さんでは無い。娘さんの気持ちは、娘さん本人にしか分からんものです。黄大人の言っていることは、すべてあなた自身の勝手な予想、思い込みに過ぎません。
     それとも黄大人、この部屋に入ってから今までで、娘さんから一言でも『帰りたい』と言う言葉を聞いたのですかな?」
    「ぐぬ……」
     正論を返され、紫明は何も言い返せなくなる。そこで重蔵は晴奈に振り向き、静かに問いかけた。
    「晴さん、どうじゃな? 家に帰りたいか? それとも、修行を続けたいかな?」
    「もちろん、修行を続けたいです」
    「うむ、そうじゃろうな。……黄大人、良ければ一度拝見されてはいかがかな?」
     重蔵の言った意味が分からず、紫明はきょとんとした。
    「え?」
    「娘さんの頑張っておる姿。それを見てから今一度、晴さんが本気で修行を続けたいと言っておるのか、それともちょっと長めの家出でしか無いのか、判断するのがよろしいでしょう」
    蒼天剣・縁故録 2
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、9話目。
    晴奈の初戦。

    3.
     応接間での一悶着から10分ほど後、晴奈たち師弟と紫明は重蔵に連れられて、ある修練場に集められた。
    「えっと……」
     晴奈はそこで、重蔵から真剣を渡される。
    「仕合と言うやつじゃ。丁度いい手合いがおったのでな」
    「手合いって……」
     柊が神妙な顔で、その「相手」を眺める。
    「小鈴じゃない」
    「どーもー」
     その相手は柊に向かって、ぺら、と手を振る。もう一方の手には鈴が大量に飾られた杖が握られていた。
    「あなたが晴奈ちゃんだっけ? 雪乃から聞いてるけど」
    「え、ええ。黄晴奈と申します」
     挨拶した晴奈に、赤毛のエルフも自己紹介を返す。
    「あたしは橘小鈴。雪乃の友達で、魔術師兼旅人。よろしくね」
    「魔術、ですか」
     ちなみに魔術とは、中央大陸の北中部などを初めとして世界中に広く伝わっている、焔流とはまた違う形で精神の力、魔力を操る術のことである。
     と、まだ状況を飲み込みきれていない面々に、重蔵が説明を足す。
    「鈴さんもそれなりの手練でな。丁度温泉街で暇そうにしとったから、晴さんの相手になってもらおうと思ってのう。
     同門が相手でも良かったんじゃが、黄大人に八百長だなどと思われてはかなわんしな」
    「いや、私は、そんな……」
     すっかり調子を狂わされたらしく、紫明の歯切れは悪い。
    「そんなわけで、これから二人に戦ってもらう。分かっていると思うが、二人とも真剣に仕合うこと。負けたと思ったら、潔く降参すること。
     それでは……、開始ッ!」
     重蔵が手を打った瞬間、橘は杖を鳴らし、攻撃を仕掛けてきた。
    「んじゃ、遠慮無く行くわよ! 突き刺せッ!」
     鈴の音と共に、地面から石の槍が伸びる。晴奈はばっと飛び上がり、槍から離れる。
    「わ、わあっ、晴奈!?」
    「まあ、じっと見ていなされ」
     突然の対戦にうろたえ、叫ぶ紫明を、重蔵がニコニコ笑いながらいさめる。
     その間に晴奈は石の槍をかわし切り、橘に斬りかかっていた。
    「やあッ!」
    「『マジックシールド』!」
     だが、晴奈の刀が入るよりも一瞬早く、橘が防御の術を唱える。橘の目の前に薄い透明な壁が現れ、晴奈の刀を止めた。
    「へえ? 子供かと思っていたけど、なかなか気が抜けないわね」
    「侮るなッ!」
     晴奈はもう一度、壁に向かって刀を振り下ろす。
     と同時に、晴奈の刀に、ぱっと赤い光がきらめく。焔流の真髄、「燃える刀」である。魔術と源を同じくするためか、橘が作った壁はあっさり切り裂かれた。
    「え、うそっ!?」
     まだ晴奈を侮っていたらしく、橘は驚いた声を上げる。
     しかしすぐに構え直し、晴奈から距離を取ってもう一度、魔術を放つ。
    「『ストーンボール』!」
     この聞き慣れない単語に、晴奈は心の中でつぶやいていた。
    (どうも魔術と言うものは、聞き慣れない言葉が多いな?
     いつか私も、央中や央北へ行くことがあるのだろうか。そうなると、こんなけったいな名前の術を耳にする機会も、多くなるのだろうか?
     うーん、何だか調子が狂ってしまいそうだ)
     目に見えて動揺している橘とは逆に、晴奈は冷静に立ち向かっていた。1年欠かさず続けた精神修養の成果である。
     魔術によって発生した無数のつぶても難なく避け、晴奈はもう一度橘を斬りつけようとした。
    「くッ……!」
     橘は何とか杖を盾にして晴奈の攻撃を防ぎ、ギン、と金属同士がぶつかり合う音が修練場に鋭くこだまする。
     どうにか攻撃をしのいだところで、橘はまた距離を取り、魔杖を構えようとする。
    「甘いッ!」「え……」
     橘が後ろに飛びのいた瞬間を狙って晴奈が踏み込み、刀の腹でばしっと橘を叩く。刀で押されて体勢を崩し、橘は尻餅をついてしまった。
    「あ、きゃあっ! ……あっ」
     橘が起き上がろうとした時には、晴奈は既に、彼女の首に刃を当てていた。
    「勝負、ありましたね」



    「なーんか、自分にがっかりしちゃったわ、マジで。
     あたしの半分も生きてないよーな子に、あっさりやられるなんて思わなかった」
     対決の後、がっくりと肩を落としている橘を、柊が慰めていた。
    「まあまあ……。もう一度、修行を積んで再戦すればいいじゃない」
    「うー……。修行とかめんどくさいけど、……この体たらくじゃ仕方無いかぁ」
     ちなみにその後、橘はしばらくの間、晴奈たちと共に精神修養を主として修行に励んでいた。よほど、晴奈の戦いぶりに感心したのだろう。
    蒼天剣・縁故録 3
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、10話目。
    親子の雪解け。

    4.
     晴奈の戦いぶりにすっかり圧倒されてしまったらしく、仕合が終わった後も紫明は、呆然と立ち尽くしていた。
    「あ、の……、父上?」
    「……」
     晴奈が呼びかけてもぽかんとしたまま、反応が無い。
    「父上」
    「……」
    「……お、お父様」
    「あ、……う、うむ」
     ようやく我に返り、紫明は娘の顔をじっと見つめてきた。
    「何だか、魂を抜かれた気分だ。まさかあれほど苛烈な戦い方を、お前がするとは」
    「あれが、私の求める道なのです。私はもっともっと、道を進んで、極めたいのです」
    「……そうか」
     紫明はそれきり背を向け、じっとうつむいていた。

     次の日になって、紫明は紅蓮塞を発った。
    「家に連れ帰るのは諦めた。お前を説得するのは私でも無理だ。
     まあ、その……。もしも家が恋しくなったら、その時は遠慮せず帰ってきてくれ。母さんも明奈も、心配しているからな」
    「はい」
     最初に会った時とはガラリと違う雰囲気の中、黄親子は別れの挨拶を交わしていた。
    「それじゃ、元気でな。……風邪、引いたりするんじゃないぞ」
    「はい」
     そこで言葉が切れ、二人は黙々と、並んで紅蓮塞の門へ進む。
    「では、父上。お元気で」
     門前で晴奈が口を開いたところで、紫明がこう返した。
    「……その、なんだ。応援、するからな」
    「ありがとうございます、父上」
     晴奈は涙が出そうになるのを、深いお辞儀でごまかした。



     その一ヶ月後。
    「『応援する』って、こう言うことか……」
     晴奈と柊、重蔵の前には、山のような金貨と、食糧が積んであった。無論、送り主は紫明である。
     一緒に送られてきた手紙には、「晴奈の健康と上達を願って 黄水産、黄金融、他黄商会一同及び、総帥・黄紫明より」としたためられていた。
    「ん、まあ、お父さんの、愛じゃと思って、のう、雪さん?」
    「は、はは……、そうですね、はい、ええ、もう」
     晴奈は顔を真っ赤にして、頭と猫耳をクシャクシャとかき乱しながら、尻尾をいからせて叫んだ。
    「恥ずかしいことをするなッ、この、クソ親父ーッ!」



     ちなみにこの後、晴奈は改めて自分の故郷を訪ね、母と妹の明奈にも自分が剣士としての修行を積んでいることを自ら伝えた。
     1年もの間抱えていたわだかまりが消えたことで、紅蓮祭に戻って以降、晴奈はより一層、修行に打ち込むようになった。

     しかしさらにこの1年後、自分が焔流剣士の道を歩んだことがとある騒動のきっかけになるなど――この時の晴奈には、知る由も無かった。

    蒼天剣・縁故録 終
    蒼天剣・縁故録 4
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、11話目。
    黒と赤の炎。

    1.
     央南と央中、その二地域を分かつ屏風山脈に、ある組織の総本山がある。
     その名は「黒炎教団」。伝説の奸雄、克大火(カツミ・タイカ)を神と崇める集団である。

     克大火――年齢・種族不詳。
     名前から央南の生まれと推察できるが、どこの地方かまでは不明。魔術と剣術の達人であり、色黒の肌を漆黒の衣服と洋風の外套で覆った、長身の男性だそうである。
     巷のうわさに曰く、「200年近く前に起こった戦争の頃から、ずっと若い青年の姿で生きている」、「凶悪な強さを持ち、誰一人打ち負かした者はいない」、「不老不死の秘術を知る唯一の人間、いや、神、もしくは悪魔だ」と、半ば神話や伝説じみた話があちこちに伝わっており、そこに神性を見出した者たちが教団を創り上げたらしい。

     教団員たちは克の存在を絶対的なものにすべく、彼の弱点と言われる様々なものを撤廃・廃絶しようと画策している。
     まず、彼を敗北寸前まで追い詰めたと言われる、雷の魔術。あらゆる魔術を打ち砕き、克の魔術すら無効化したと言う、伝説の剣。そして――200年前の戦争で興隆・活躍し、後に克と対立した剣術一派、焔流。



     双月暦508年、初春。
    「またか……!」
    「しつこくてかなわん!」
    「今度こそ、斬り散らしてくれるわ!」
     いつに無く、紅蓮塞が騒々しい。あちこちで剣士たちがいきり立ち、走り回っているからだ。しかし、まだここに来て2年ほどしか経っていない晴奈には、彼らが何に憤り、何をしようとしているのか分からない。
    「師匠、何かあったのですか?」
    「ええ、少しね」
     横にいた晴奈の師匠、柊は、せわしなく動き回る剣士たちの邪魔にならないよう、自分たちの部屋に戻ってから詳しく説明してくれた。
    「黒炎教団って知ってる?」
    「ええ、故郷でも何度か見かけたことがあります。黒い外套と黒装束を着込んだ、真っ黒な者たちですよね?
     うわさに聞くに、央南の東部地域では蛇蝎のごとく忌み嫌われているとか、西端では絶大な政治力を有しているとか」
    「ええ。その教団がね、うちに攻めて来るのよ」
    「攻めて来る? 一体、何故に?」
     話を続けながら、柊は刀を手にし、和紙で拭い出す。どうやら彼女も、戦いに備えるつもりらしい。
    「黒白戦争の頃に活躍した奸雄、克大火と対立した一派だから、だそうよ。
     黒炎教団は克を信奉しているから、その敵が今もいるとなれば何が何でも打ち倒そうとしているのよ」
     この説明に、晴奈は目を丸くして呆れる。
    「こ、黒白って確か……、4世紀の戦争だった、ような?
     そんな過去の因縁を、まだ引っ張っていると言うのですか?」
     晴奈の言葉に、柊は刀に打粉しつつ、クスッと笑う。
    「まあ、宗教ってそう言うものよ。央北の天帝教だって、1世紀の経典をずっと使っているんだし。
     ともかく、そんなわけで。何年かに一度、彼らはこの紅蓮塞を潰そうと攻めてくるのよ」
     柊はもう一度刀を綺麗に拭いて、鞘に納めた。
    蒼天剣・血風録 1
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、12話目。
    姉御魔術師再登場。

    2.
     紅蓮塞は中核となる本丸を囲むように、大小50程度ある修行場と、さらにその倍ほどの宿場・居間が連なっている。
     普段はその字面の通りに修行の場、居住区として機能しているが、有事の際にはその様相は一変し、要塞としての働きを見せる。
     それが紅蓮塞の、「塞」たる所以である。

     襲撃の報せから数日も立たないうちに、紅蓮塞の守りは堅固なものとなった。塞内のいたるところに武器・医薬品が積み上げられ、要所には数人の手練が詰めた。
     当然、師範格の柊も晴奈ともども駆り出され、紅蓮塞北西側の修行場、嵐月堂の護りに付くことになった。
    「師匠。黒炎の者たちは一体、どこから攻めると?」
     三方を囲む急坂をぐるっと眺め、晴奈が尋ねる。
     それを受けて、柊も周囲を見回しながら答えた。
    「そうね……、ここから侵入するとなると、境内の垣を乗り越えるか、それとも破るか。もしくは山肌から降りて来るか、の2通りでしょうね。
     いずれにしても、油断は禁物よ。敵は克直伝の魔術を使うそうだから」
    「なるほど。……ん?」
     晴奈は柊が言葉を間違えたと思い、こんな風に突っ込んでみた。
    「直伝、ですか? まさか200年前の人間が現代に直接、伝えたと?」
     ところが柊は真面目な顔で、言葉を選ぶような口ぶりでポツポツと答えた。
    「その、ね、うーん、何て、言ったらいいかな。
     克はまだ生きている、らしいの。それも若々しい、青年の姿で」
    「え? まだ、生きている!? まさか!」
     現実離れした答えが返ってくるとは思わず、晴奈は声を高くして聞き返した。
    「ありえません。人の寿命など、精々60年や80年、どんなに長くとも100年でしょう。それは確かに、長耳の方は長寿と聞き及んでおりますし、何かしらの記録では、150年の大往生を果たした方もいるとか。
     しかしそれを踏まえても、ずっと青年のままと言うのは眉唾でしょう。長耳の方とて、60なり70になれば相応に老けるはずですし」「晴奈」
     言葉を立て並べて反論した晴奈に、柊は静かな声で返した。
    「それが、克が克たる所以よ。
     200年生きる。不老不死の存在。誰もがそんな話、ありえないと言う。『そんな悪魔じみた話があるものか』とね。
     でも克は別なの。だって彼は、悪魔だもの」
    「あく、……ま?」
    「そう、悪魔。知ってる、晴奈?」
     柊はそう前置きし、薄い笑みを浮かべる。
    「克大火は色んな通り名を持っているけれど、その一つが『黒い悪魔』なの。
     彼は、本物よ」
    「……」
     柊の目には、嘘をついたりからかっているような色は無い。
     その目を見て、晴奈はぞっと寒気を覚えた。

     と、山肌の一部が突然爆ぜる。
     いくつもの岩塊が山肌から飛び散り、晴奈たちに向かって飛んでくる。
    「わあっ!?」
    「怯むな、焼けッ!」
     そこにいた何人かは一瞬たじろいだが、年長者や手練の者たちは臆することなく、「燃える刀」で飛んでくる岩を焼き切り、叩き落とす。
    「黒炎だ! 攻めてきたぞーッ!」
     大声で叫ぶ声があちこちから聞こえてくる。
     それを受けて、柊がつぶやく。
    「今回は敵が多そうね。かなり大規模に人を送ってるみたい」
    「え?」
    「じゃなきゃ、こんなに四方八方から来るぞ来るぞって聞こえて来ないし」
    「な、なるほど」
     程なく嵐月堂にも、教団員たちが山肌を滑るようにして侵入してきた。
     いや、何人かは「本当に」滑っている。駆け下りるような感じではなく、わずかに空中に浮き上がり、するすると空を走っているのだ。
    「あれは!?」
     晴奈の目にはそれが異様な光景に映り、うろたえる。
     一方、柊は未だ、平然と構えている。
    「魔術よ。確か、名前は……」「『エアリアル』、風の魔術よ。魔術が盛んな地域では、わりと有名な術ね。つっても、あそこまで使いこなせるヤツはあんまりいないけど」
     二人の後ろから、聞き覚えのある声がかけられる。振り向くと、かつて晴奈と戦った相手、橘が魔杖を手に立っていた。
    「橘殿、来られていたのですか?」
    「うん、つい1週間ほど前にね。んで、呑気に温泉で一杯やってたトコに、『何卒お力を貸していただきたく候』なーんて、丁寧に頼み込まれちゃったのよ。
     まあ、ココは修行するのにはいい場所だし、温泉もお酒もいいのが揃ってるしね。無くなったりブッ壊されたりすんのも嫌だし、手伝ったげるわ、雪乃。ソレから晴奈」
    「かたじけない、橘殿!」
     深々と頭を下げた晴奈に、橘は手をぺらぺらと振って返す。
    「アハハ……、そう堅くならないでよ、コドモのくせに。
     さ、ソレじゃボチボチ、迎え撃つわよ!」
     そう言うなり、橘は魔杖をシャラと鳴らし、魔術を放った。
    「『ホールドピラー』! 阻めッ!」
     地面を駆け下りていた教団員たちの何人かが、岩肌から突然飛び出した石柱に突き飛ばされ、また、ガッチリと四肢をつかまれる。
    「おわっ!?」
    「ぐあ……っ!」
    「いでてて、離せ、離せッ!」
     橘の術で、第一陣の半分近くが蹴散らされる。
     だが、「エアリアル」で空中を飛んでいた者たちはすい、と事も無げに石柱を避けてしまう。しかし侵入してきた端から剣士たちがねじ伏せているのが、半ば呆然と山肌を見つめていた晴奈の視界に映った。
    (これが……)
     一瞬のうちに起こったこれらの光景にあてられ、晴奈はぶるっと武者震いする。
    (これが戦い、か。……戦いか!)
     晴奈の中で熱く、そして激しく燃えるものが噴き出し始めていた。
    蒼天剣・血風録 2
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、13話目。
    因縁の発端。

    3.
     戦いは時間が経つごとに、激しさを増していく。一体何百人、いや、何千人いるのか――教団員は続々と、絶え間なく侵入してくる。
     最初の頃は威力が高い反面、長めの呪文や大掛かりな動作を伴う術を使っていた橘も、威力は低くなるが、時間をかけずに発動できる術で応戦し始めており、余裕が無くなっているのが伺える。
     柊もあちこちを走り回り、立て続けに教団員たちを切り捨てている。いつものたおやかな表情も、穏やかなしぐさも、今は勇猛な女武芸者のそれとなっている。
     そしてこの時、勿論晴奈も戦っていた。15歳と言う若さをほとばしらせる、俊敏で鋭い動きで、師匠でさえも一瞬、目を見張るほどの立ち回りを見せていた。
    「でやーッ!」
     まるで閃光のような剣閃が、敵に向かって走っていく。
    「が、あ……」
     敵は短いうめき声をあげて、どさりと倒れる。晴奈はすぐさま倒れた敵を踏み越え、その後ろに立っていた敵に向け、刀を払う。
    「うぐ、く……」
     瞬く間にもう一人。
    「それッ!」
     その敵も踏み台にして、また一人。
     あまりの攻勢の強さに、晴奈の周囲にいた者たちは、敵・味方関係なく、度肝を抜かれていた。
    「何だ、あの『猫』は……!?」
    「黄か?」
     同輩、先輩らが目を見張る一方で、教団側の士気は明らかに落ち始めている。
    「く……、歯が立ちそうも無い……!」
    「こりゃマズいぜ! 退くしか無い!」
     すぐ横で戦っていた橘に至っては、表情が半ば凍っている。
    「せ、晴奈ちゃん。怖いって、ソレ」
     だが、当の本人にはそれらの声が耳に入らない。異様な高揚感と陶酔感で、周りが見えなくなり始めていたのだ。
    (敵は、敵は……ッ、どこだッ!)

     その闘気に引き寄せられたのか、嵐月堂の境内をしゅっと一直線に横切る者が現れた。
     柊がその異様な気配を感じ取り、暴走気味の晴奈に向かって手を伸ばす。
    「晴奈、危ない!」「え」
     柊は彼女の手を強く引っ張り、体勢を崩させる。
     その直後、先ほどまで晴奈の頭があった辺りを、ヒュンと黒い棒が横切った。
    「チッ、外したか!」
     晴奈が顔を上げると、そこには黒い僧兵服に身を包んだ、晴奈と同年代くらいの、狼獣人の少年の姿があった。
    「調子に乗っている猫女を葬るチャンスだったが……。なかなか、うまく行かんものだな」
     その「狼」は3つに分かれた棍棒をヒュンヒュンと振り回しながら、偉そうに言い放つ。
    「10代半ばで得物が三節棍、んで、黒毛の狼獣人……?」
     その武器を見た橘が、杖を構えて叫ぶ。
    「まさかあんた、ウィルバー・ウィルソン!?」
    「ほお、俺の名を知っているのか。クク、俺も有名になったもんだな」
    「狼」はニヤつきつつ、橘に向かって片目をつぶる。いわゆる「ウインク」であるが、晴奈には何をやっているのか分からない。
    (目にゴミでも入ったか? ……何なのだ、この高慢な『狼』は?)
     晴奈はすっと立ち、刀を構え直した。師匠のおかげで少し冷まされたが、まだ頭の中は高揚し、たぎったままだ。
    「敵の陣中で、よくもそれだけ余裕が見せられるものだな、犬」
     晴奈の挑発に対し、「狼」は「ヘッ」と笑って、馬鹿にした様子を見せる。
    「お前、オレと同い年くらいか? やめておけ、様になってないぜ。それから……」
     突然表情を変え、怒りに満ちた形相で晴奈に襲い掛かった。
    「このウィルバー・ウィルソンをなめるな、猫女ッ!」

     飛んできた棍の先端を、晴奈が刀を払って弾く。勢い良く飛び散る火花をものともせず、晴奈はすぐさま第二撃をねじ込む。
     今度はウィルバーが防御に回り、不敵な笑みを浮かべる。
    「フン、わりとすばしっこいな。だが、オレには敵うまい」
     攻撃を受けた部分の棍を軸に、他の棍を回転させる。勢い良く回る棍が、晴奈の目の高さまで上がる。攻撃が来ると構え、晴奈は一歩退く。
     ところが――。
    「はは、そう来ると思ったぜ!」
     ウィルバーは上がってきた棍をつかみ、そこを軸にして、また棍が回転。ヒュンと風を切る音を立て、晴奈の頭上にまで棍が伸びる。
    「……ッ!」
     退いた直後で、晴奈の動作には余裕が無くなっている。棍は動けない晴奈の額に、鈍い音を立ててぶつかった。
     その瞬間、晴奈の視界がぎゅっと、音を立てそうな勢いで暗くなる。額から後頭部にかけて電気の走るような、何かが突き抜ける衝撃を感じながら、晴奈の意識が乱れる。
    (な……、あ……、し、しま、った……)
     気を失う直前、ウィルバーの勝ち誇った声と――。
    「ククク、だから言ったのだ。オレには敵うまいと……」「克の真似なんかしてるヒマあんの、ボウヤ?」「ぐえっ」
     相手が倒れる音を、聞いた。
    蒼天剣・血風録 3
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、14話目。
    戦いが終わって……。

    4.
    「……!」
     晴奈は目を覚まし、飛び起きた。
     と同時に額に鋭い痛みが走り、顔をしかめる。
    「く、……ぅ」
    「大丈夫、晴奈ちゃん?」
     すぐ横に、心配そうな顔を見せる橘が座っていた。どうやら、倒れた晴奈の看病をしてくれていたらしい。
    「た、戦いは!?」
    「終わったわよ。無事に追い払ったわ」
    「そ、そう、です……、か」
     晴奈は安堵とも、後悔とも、羞恥とも取れる、複雑な感情を覚え、たまらず涙をこぼした。
    「私は……、馬鹿だ」
    「ん?」
    「あの『狼』をふざけた馬鹿者と侮って……、その結果が、これか。
     何のことは無い――私自身、その馬鹿と何ら、変わらなかったのか……ッ!」
     痛む頭を抱えながら、晴奈は自分を恥じた。



     あの戦いの後、晴奈は丸一日眠っており、その間に戦いは終わっていた。
     十数名の犠牲は出たものの、その何倍もの被害を敵に与え、紅蓮塞は今回も守られた。
     あのウィルバーと言う「狼」も、手下の教団員たちに抱きかかえられるようにして逃げ去ったと言う。
    「あのウィルソンって言うヤツね、実は教団教主の息子なのよ。克信仰って言うより、克かぶれで有名なの。ま、あの年頃なら真似したくなるよーなタイプだし、克って。
     ま、そんなだから中身はお子様。晴奈を気絶させて勝ち誇ってる間、隙だらけで背中を見せてたから、あたしが思いっきり引っぱたいてあげたからね」
    「……かたじけない」
     晴奈はまだ、涙が止まらない。それを橘はずっと眺めていたが、やがて立ち上がり、晴奈を一人残して部屋を出て行った。

     少ししてから、晴奈は橘の泊まっている部屋を訪ねた。杖の鈴を手入れしていた橘が、くるりと向き直って微笑みかける。
    「あら、もう大丈夫?」
    「はい、まだ痛みはありますが、何とか歩けます。
     ……橘殿、いくつか質問してよろしいでしょうか?」
    「ん、いいけど?」
    「あの……、克大火を知っているようなご様子でしたが、実際に会ったことが?」
     そう尋ねたところで、橘は隠す様子も無く答えた。
    「何回かあるわよ。うわさ通りって感じの人。央北の街で見た時のコト、聞く?」
     晴奈は無言でうなずいた。
    「んじゃ、初めて会った時のコト。
     あれは央北の、ドコの街だったかな……。その時は何と言うか、煙かもやみたいに、虚ろな感じだったわ。きっと街の人は、彼がそこにいたことさえ気付かなかったんじゃないかしら。とにかく煙のように、静かな男だった。
     でも。そこに何人か、武器を持った者が現れた――きっと克を倒して、名声を得ようとしたのかも――そして、克が彼らに気付いた瞬間……」
     そこで、橘は間を置く。
    「……瞬間、克は変貌した。
     それまでのぼんやりした煙のような印象は消えて、すさまじいほどの殺気が彼から立ち上った。次の瞬間、克を狙っていた人たちはあっさり死んだわ」
     平然としゃべっているように見えるが、良く見れば橘の額には汗がにじんでいる。よほどその時の光景が、恐ろしかったのだろう。
    「何をしたのか、分かんなかったけど。向かっていった一人が、いきなり燃え出した。それを見た瞬間、他の人たちはみんな怯んで立ち止まった。すぐにその人たちも、一瞬で血だるまになって、崩れるように倒れて死んだ。
     逃げようとした人もいたんだけどね――『殺される危険も背負わずに、俺を倒す気か? おこがましいとは思わんのか』と克に言われて――やっぱり斬られてた」
     その話に、晴奈はゴクリと唾を飲む。
    (自分たちはあの修羅場で何十分も、何時間もかけて、命の奪い合いをしていた。だが克は一瞬で、何人もの命を簡単に絶つのか。
     なるほど、確かに悪魔と言う話は本当らしい)



     恥ずべき敗北を喫し、落ち込んでいた晴奈を、さらに落胆させる報せが届いた。
     焔流に資金援助をしていた黄家が、黒炎教団によって襲われたと言うのだ。その上黄海は占領され、黄家の財産は没収。
     宗主である黄紫明の家族も人質にとられ、現在紫明が単身、交渉を行っていると言う。
    「そんな! では、明奈も!?」
    「恐らくは、捕まって……」
    「……そんな」

     それから何度か、細々とした情報が伝わった。
     教団は今回の襲撃失敗の原因を、資金援助を受けたことによる勢力拡大のせいとし、その大本を叩いたと吹聴していたこと。
     黄家は明奈の身柄と引き換えに、黄海の解放を約束してもらったこと。そのまま明奈は黒炎教団の総本山、黒鳥宮に幽閉されたこと。黄家は明奈の身柄を案じ、焔流への資金援助を打ち切ったこと。
     明奈は強制的に教団に入信させられ、宮内で粛々と生活しているが、幸い明奈には無闇な危害が加えられてはいないこと。
     そんなささやかな情報が、晴奈の心を苦しめ、また、ほのかに安心させた。

    「大丈夫かなー、晴奈ちゃん」
     橘が柊に、不安そうな顔で尋ねる。
    「大丈夫。あの子は強い子よ」
     そう言って、柊は橘をある堂に連れて行く。
    「そっと開けてね。邪魔しちゃ、悪いから」
    「邪魔……?」
     橘は戸を、そっと開いて中を覗き見る。そこでは堂の中央で、晴奈が座禅を組んでいた。
    「ああ、そうね。強い子、……ね」
     二人はうなずき、ふたたび戸を閉めた。

    蒼天剣・血風録 終
    蒼天剣・血風録 4
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、15話目。
    ふわふわ毛玉。

    1.
     目の前をふわりと通りかかった「毛玉」を見て、晴奈は驚いた声を上げた。
    「えっ」
    「はい?」
     と、「毛玉」がくるん、と隠れる。
    「あの、何か?」
    「あ、いえ。何でも」
    「はぁ……?
     その「毛玉」の持ち主は首を傾げたが、晴奈が何も言わないので、けげんな顔をしたまま通り過ぎる。
     その場に残った晴奈は口を抑え、顔を赤くして――ここ最近の彼女らしからぬ口調で――ぽつりとつぶやいた。
    「か、可愛い……」

     その数分後、晴奈は恐る恐るといった仕草で、柊の部屋を訪ねていた。
    「師匠、変なことと思われるかも知れませんが、一つ、伺いたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
     尋ねた晴奈に、自室で読書をしていた柊は苦笑して返す。
    「どうしたの、晴奈? そんなカチコチになって」
     尋ね返され、晴奈はためらい気味に打ち明ける。
    「あの、恥ずかしながら、私はあまり世俗に詳しくないので、こんな質問をしては笑われるかも知れず、恐縮なのですが」
    「ん?」
    「何と言いますか、世の中には、その……」
    「世の中には?」
    「兎獣人と言えば良いのでしょうか、兎耳に尻尾、の方もいるのでしょうか?」
    「ええ、いるわよ。央南ではあまり、見かけない人たちだけれど」
     それを聞いて晴奈は小さく、コク、とうなずいた。
    「やはり、いるのですか。……見間違えではなかったのだな」
    「いきなりどうしたの?」
     一人で納得している晴奈に、柊は不思議そうに首を傾げている。
    「あ、そのですね。実は先ほど、その『兎』らしき方を見かけまして」
    「へぇ、珍しいわね」
     柊は本を閉じ、興味深そうな目を向ける。
    「外国の人ね、きっと。西方かしら」
    「西方ですか。師匠は行ったことが?」
     柊は小さくうなずき、懐かしそうな口ぶりで話した。
    「前に行ったのは、5、6年ほど前かしらね。旅の間はここでは見られない人種も、数多く見かけたわ」
    「世界には、そんなに色んな人種がいるのですね。はぁー……」
     柊の話を聞きながら、晴奈は先ほど見かけた「兎」の姿を思い返していた。
    (可愛かったな、あの人……)
     まるでぬいぐるみのような毛並みの「兎」――晴奈は央南の外の世界に、強い興味を抱いた。
    「し、師匠」
    「ん?」
     晴奈はまた、恐る恐る尋ねる。
    「もし良ければ、その……、外国のお話など、その、もう少し、お聞かせいただけますか?」
     それを聞いて、柊はクスっと笑いながら晴奈の頭を撫でた。
    「ええ、いいわよ。外国の、可愛い人たちの話もね」
    「はは……」
     柊に内心を見透かされ、晴奈は顔を赤らめた。
    蒼天剣・紀行録 1
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、16話目。
    柊師匠の地理講座。

    2.
     柊は自分の日記を取り出し、パラパラとめくりながら話し始めた。
    「そうね……、世界の有名どころは、ほぼ回ったかしら。世界の中心、クロスセントラル。世界一の大都市、ゴールドコースト。それから……」「あ、あの、師匠」
     晴奈は慌てて手を挙げ、話をさえぎる。
    「ん?」
    「すみません、私は、その、世俗に疎いと言いますか、地理に明るくないと言いますか、……央南から出たことが無いもので、果たしてどこがどこなのか」
    「ああ、そうね、そう言ってたわね。ごめんごめん」
     柊は小さく頭を下げ、話を仕切り直す。
    「じゃ、そこら辺から説明するわね。
     晴奈が自分で言った通り、ここは『央南』。即ち、中央大陸の南部地域。中央大陸はその名の通り、昔から歴史の舞台、政治の中央となってきた大陸なの。そしてこの大陸は、大きな2つの山脈によって、3つの地域に区切られているわ」
     柊は懐から紙を取り出し、中央大陸の絵――「し」の字に広がった、どこかモコモコとした形――をスラスラと描いていく。
     枠を描いたところで、その枠を三等分するような線をすっ、すっと引いた。

    「この下の線の右にある、鉤状に出っ張ったところが央南。晴奈も知っての通り、ここは『仁徳と礼節の世界』ね。『猫』や『虎』、『狐』、そしてわたしみたいな長耳(エルフ)と言った人種が多く見られるわ。
     まあ、説明するほどのこともあんまり無いから、この辺は飛ばして――そこから西へ進んだ、この線の辺り。この一帯に、屏風山脈と言う山々が連なっているの。
     この前戦った黒炎教団の本拠地、黒鳥宮はここにあるわ。教団は央中、つまり中央大陸中部からの文化も流れこんでいるから、名前や言葉も、それらしいものが多いみたいね」
    「なるほど……。私と戦った『狼』の、あの、うい、ういう、……ウィルバーと言う名前も、その一端なのですね」
     晴奈のたどたどしいしゃべり方に、柊はクス、と微笑んだ。

     続いて柊は、上と下の線の間を指し示す。
    「それで、この屏風山脈を越えた先が、央中。
     ここは『狐と狼の世界』とも呼ばれているわ。昔から栄えている名家、王侯貴族のほとんどが『狐』や『狼』の種族だから、そう呼ばれているの。頭が良くて狡猾な『狐』と、親分肌、姐御肌で気が強い『狼』だから、大物揃いなのもうなずけるわね。
     そのせいか、両種族の仲はちょっと悪いみたいね。もし彼らのケンカに運悪く居合わせたら……」
     柊は人差し指をピンと立て、いじわるっぽく笑う。
    「下手に仲裁しようとは、しない方がいいわよ。巻き込まれると大変だから」
    「はは……」
     師匠のおどけたような口ぶりから、きっとそのような状況に巻き込まれたことがあるのだろうと推察し、晴奈は苦笑した。
    「そんな2種族が大多数を占める土地柄だから、そこに住む人々はみんな、多少の違いはあれど計算高い人たちばかり。あまたの実力者たちが日々、自分が明日の王侯貴族、大商人になれる方法を考え、実践している。それもあって、栄枯盛衰の度合いは他地域の比じゃないわ。昔から代々続く家系って言うのはかなり、稀な存在になっているわね。
     だから、央中で代々続く名家って言うと、それはもう、かなりの家柄と言うことになるわけだけど、その中でも双璧をなすのが、世界一の大商家、『狐』のゴールドマン家と、世界中の職人の総元締めである、『狼』のネール家。この両家だけで、央中の財の半分以上を握っているそうよ」
    「へぇ、そんなに大きいのですか」
     そう返しつつ、晴奈は頭の中で比較してみる。
    (我が黄家も央南随一の大商家だと聞いてはいるが、確か……、父上によれば、『我が家が持つ富は央南全土の一割ほどもある』とか何とか。
     央南と央中が同じ規模かどうかは分からぬが、それでも1割と半分ではあまりにも違う。単純に考えて5倍となるわけだし。……うーむ、正に格が違うと言うか、何と言うか)
     はっきり捉えきれず、晴奈は比較を諦めた。
     その間にも、柊の話は続いている。
    「さっき言っていたゴールドコーストと言う街が、ゴールドマン家の本拠地。その世界的財力と政治的影響力から、央中の政治と経済の中心地としてにぎわっているわ」
     柊は屏風山脈を模した線の下端に点を打ち、楽しそうに語る。
    「観光地としても有名で、商人、政治家、資産家、傭兵や観光客に至るまで、世界中から様々な人が集まってくる。わたしが行った時も、色んな友達ができたわね」
    「そうなのですか、……ふむ」
     楽しげな柊を見て、晴奈の胸中にワクワクとした気持ちが沸き起こる。それを見抜いた柊が、嬉しそうにニコニコと笑う。
    「にぎやかで騒がしいところだったけれど、ついつい半年以上も長居してしまったわね。
     晴奈、あなたももし央中へ旅に出ることがあれば、絶対行ってみた方がいいわよ」
    「はい!」

     続いて柊は、地図の上側に引いた線の下側を指し示す。
    「央中のもう一つの名家、ネール家の本拠地はここ、クラフトランドと言うところよ。
     ここは周辺に鉄や銅の鉱山、木材に適した森林が豊富だから、自然にそれらを加工・製品化する職人たちの組織――いわゆるギルドが数多く存在しているの。
     だから、街中に鍛冶屋や工房があって……」
     そう言って柊は長い耳をつかみ、ふさぐしぐさを見せる。
    「とーっても、うるさいの。ここは残念ながら、2日といられなかったわ」
    「なるほど……」
    「でも、作られる製品はどれも一流品。わたしもここで、刀を打ってもらったんだけどね」
     柊は傍らに置いていた刀を手に取り、晴奈に見せる。
    「ね? すごく綺麗でしょ?」
    「そう、ですね。しかし、央中でも刀が作られているとは」
    「そこに、ちょっとした逸話と言うか、伝説があるのよ。
     あの『黒い悪魔』克大火がその昔、ネール家の開祖と共に、『神器』とまで称される一振りの刀を作ったと言われているの。
     刀の名は『妖艶刀 雪月花』、見る者をとりこにする異様な美しさをたたえた刀で、克と共に打ったネール大公は、そこで刀作りに目覚めたと言われているわ。
     以来、ネール家では刀鍛冶を厚遇し、それで央中にも刀作りが広まったそうよ。ちなみに今でも、克はその刀を使っているらしいわ」
    「ふむ……」
     克の名前と伝説を聞き、晴奈は橘から伝え聞いた話を思い出して、わずかながら身震いした。
     だが、伝説の奸雄をも満足させると言う、優れた逸品を創り上げた名家にも、強い興味が沸いてくる。
    「『狼』には正直、あまり良い印象を持っていなかったのですが、少し感銘を受けました」
    「クス、あのウィルバー君のせいね。……でも『狼』は、友達になれれば快い種族なのよ。仲間思いで情に厚い人たちだから」
     そう言って柊は、クラフトランドの話を続ける。
    「もう一つ伝説と言えば、ネール家には克が密かに教えた秘術が伝わっているそうなの。
     それが何なのかはわたしも詳しくは知らないけれど、ネール家は鍛冶屋の頭領だし、きっとそれに関係する術なんでしょうね」
    「なるほど……」
    「狐と狼の世界」について一通り聞き終え、晴奈は早くも、央中に思いを馳せていた。
    蒼天剣・紀行録 2
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、17話目。
    地域と種族。

    3.
     柊は地図の上部分に引いた線のさらに上を指し、話を続ける。
    「央南、央中と来たから、次は央北――中央大陸北部の話。
     ここは『天帝と政治の世界』。世界最大の宗教である天帝教と、中央大陸北中部や西方大陸に影響力を持つ巨大な政治組織、『中央政府』の本拠地ね」
    「中央、政府?」
     あまりに物々しい語感に、晴奈は胡散臭さを覚える。
    「まあ、向こうとこっちでは、言葉のズレがちょっとあるから。『中央大陸の政府』って言う意味合いだし、そんなに大仰なものでも無いわ。
     北中部の国家、ギルド、商会など様々な団体、組織が加盟する大きな政治共同体で、古代から中央大陸、いえ、世界政治に大きな影響力を持っているわ。……と言っても、時代を重ねるごとにその影響力は弱まって、今は央北と央中の北部、あと西方の東岸あたりまでが、現在の勢力圏ね。
     で、この中央政府って、元々は双月暦元年に現れたと言う神様――『天帝』が自分の創った宗教、天帝教を広めるために創設したらしいわ」
    「ふむ……、神様が人間たちの世界の政治を執り行った、と言うことですか。何だか本当に、おとぎ話のような……」
     晴奈の言葉に、柊はクスクスと笑う。
    「まあ、古い伝説だし、どこまでが本当なのかはちょっと疑わしいけどね。
     でも、現在世界的に広く使われている双月暦や魔術の基礎は天帝教が発祥らしいし、今でもその名残はあるわね」
    「それで、その天帝教と言うのはどんな宗教なのですか?」
     晴奈の問いに、柊は「うーん」と軽くうなる。
    「わたしも詳しく知っているわけじゃないから、説明できるかどうか……。
     何でも、天帝の言葉や知識を記した経典があって、それに従って、正しく生きることを目的とするとか。まあ、良く分かんないんだけどね」
    「ふーむ……?」
     説明されても、いまいちピンと来ない。柊も十分に分かっているわけでは無いらしく、それ以上の説明はしなかった。
    「ま、そこら辺は置いといて、風土の話をしよっか。
     ここには『狼』、『猫』、エルフ、あとは世界で最も短耳の割合が多いわね。天帝も種族としては、短耳の形をとっていたとか。
     天帝教発祥の地であると共に、それを基礎にした文明の中心地だから、治安も悪くないし交通や産業も活発だったわ。
     あと、人々は概ね明るくて、優しい人たちばかりだった印象があるわね。でも……」
     そこで柊の語調が、少し落ちる。
    「中央政府の本拠地、クロスセントラルは一際にぎやかだけど、色々悪い噂も立っているわね。曰く、『中央政府は克の言いなり』だとか、『大臣たちが日夜、利権の奪い合いに奔走している』とか。中央政府に関しては、本当に黒いうわさが絶えないわね。
     もしクロスセントラルに行くことがあっても、政府関係には近付かない方がいいわよ。得るものは少ないし」
     含みのある言い方に、晴奈は少し引っかかった。
    (どうも関わったことがあるような言い方だな……?)
     だが話の雰囲気から、その辺りを聞くのは避けておくことにした。
    「でも、市街地はとっても楽しいわよ。ここもゴールドコーストと同じくらい人が集まってくる場所だから、退屈はしないわね。ご飯も美味しいし、そっちの方は行って損は無いわね」

     中央大陸の話を一通り聞き終え、晴奈はずっと気になっていたことを尋ねてみた。
    「あの、師匠。『兎』の方は西方人と伺いましたが、西方とはどの辺りなのでしょう?」
    「あ、中央大陸じゃないわ。その『外』ね」
     そう返しつつ、柊は中央大陸の絵の周りに「北」「西」「南」と書き込んだ。
    「中央大陸から西の方にある大陸を、西方大陸と呼んでるのよ。海を隔ててるから、中央とは色々勝手が違うわね。
     例えば人種。央中に『狐』と『狼』が多いのを除けば、中央大陸で一番多いのは短耳ね。その次に長耳で、次いで晴奈と同じ『猫』かしら。
     でも西方だと、短耳や長耳はほとんど見かけなかったわね。わたしが訪れたのは西方の、ほんの一部だけだったけど、それでも圧倒的に多く見かけたのは、『兎』だったわ。『猫』も、旅人以外ではまったく見かけなかったかも」
    「なるほど……」
     晴奈は相槌を打ちながら無意識に筆を執り、可愛らしい兎を描く。
     それを眺めていた柊は、ぷっと吹き出した。
    「……ふふ、晴奈、あなた変なところで可愛いわね」
    「へ?」
     晴奈は素っ頓狂な声を出し、筆を止める。柊はクスクス笑いながら、手を振った。
    「ううん、何でもない」
    蒼天剣・紀行録 3
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、18話目。
    異国からの招かれざる客。

    4.
     柊から世界の話を一通り教わった後も、晴奈は彼女から、あちこちを旅した話を面白おかしく聞いていた。
    「……でね、その時に会った『狐』と『狼』が、本当に仲が悪くて」
    「ふふ……」
     央中で出会った商人たちのケンカの話に移り、柊が懐かしそうに話していたところで――。
    「……あ」
     突然、柊が神妙な顔になり、話を止めてしまった。
    「どうされたのですか?」
    「ちょっと、ね。嫌な奴のこと、思い出しちゃったの。
     こんな風に、そのケンカしてた2人と談笑してた時にいきなり割り込んできて、『柊、勝負だ!』なんて怒鳴り散らす、迷惑な奴がいたのよ」
     柊の顔が、わずかに曇る。どうやら本当に――人当たりのいい彼女にしては珍しく――その人物を嫌っているらしい。
    「なーんか、嫌な予感がするのよね……」
     柊はす、と立ち上がり、刀を持って部屋を出る。
    「師匠? 何故刀を?」
     ぎょっとして尋ねた晴奈に、柊は憂鬱そうな口ぶりで説明する。
    「ゴールドコーストにね、闘技場があるのよ。で、裏で誰が勝つか賭けをしてて、そいつがいつも本命――つまり、強いの。
     で、昔にちょっとした事情から、そいつと戦わなきゃいけなくなったんだけど、ね」
     柊は晴奈に手招きし、付いてくるよう促す。
    「わたし勝ったのよ、そいつに。それ以来、何年かに一度、ここを訪ねてきて……」
    「『勝負だ!』、と言うわけですか」
     そのまま二人で廊下を進み、修行場へと向かった。
    「そう言うこと。よく考えたら、そろそろ来るかも知れない時期だわ」
     柊がため息混じりにつぶやいた、その瞬間――。
    「あ、先生! 柊先生!」
     若い剣士が、小走りに2人へ駆け寄ってきた。
     柊は剣士が手にしている手紙を見て、何かを感じ取ったような、そして非常に嫌そうな、複雑な表情を見せた。
    「赤毛の熊獣人から?」
    「えっ」
     剣士は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに気を取り直し、こわばった顔を向ける。
    「は、はい。あの、果たし状を預かりまして……」
    「そう」
     柊の顔はとても大儀そうに見える。事実、そうだったのだろう――受け取った果たし状を、中身も見ずに破り捨てた。
    「『峡月堂で待っている』と伝えて連れてきて」
    「しょ、承知しました」
     剣士の姿を見送ってから、柊はとても重たげなため息をついた。
    「はーぁ。やっぱり来たかー……。うわさをすれば、ね」
    「師匠?」
    「……ま、一緒に来て、晴奈。あいつと二人きりだと、息が詰まりそうだから」
    「はあ……」
     晴奈はこの時、とても戸惑っていた。今まで師匠のこんな嫌そうな顔は、弟子入りを頼み込んだ時ですら見たことが無かったからだ。

     だがこの直後、柊がこれほど大儀がった理由を、晴奈も嫌と言うほど理解した。
     その「熊」が本当に面倒くさい、剣呑な男だったからである。

    蒼天剣・紀行録 終
    蒼天剣・紀行録 4
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、19話目。
    不機嫌な師匠。

    1.
    「柊雪乃と言う女性はとてもよくできた人だ」、と晴奈はいつも思っている。
     エルフに良く見られる儚げで華奢な容姿と、気さくで面倒見が良く、温かい雰囲気を併せ持っている。
     そして何より一流の女剣士であり、その強さは彼女の二つと無い魅力である。
    「美しく」、「優しく」、そして「かっこ良くて」「強い」――晴奈にとって師匠、柊雪乃は何よりも、どんな人物よりも手本にしたいと心から思える、まさに「こんな人になりたい」と願ってやまない理想像なのだ。



     だから――師匠のこんな大儀そうな顔を見ているのは、晴奈としても非常に心苦しいものだった。
    「はぁ……」
     ため息はもう、何十回ついたか分からない。師弟合わせれば百に届くかと言う数にはなっている。
    「遅い、ですね」
    「そうね」
     素っ気無い返事に、晴奈はそれ以上言葉をつなげられない。手持ち無沙汰になり、しょうがなく自分の尻尾をいじりつつ、相手が来るのを待つ。
    「……クスッ」
     そうしていると、柊が小さく笑った。
    「晴奈。あなた良く、尻尾をいじっているわね」
    「え? あ、はい。そうですね」
     半ば無意識の行動だったので、晴奈は少し気恥ずかしくなり、尻尾から手を離す。
    「尻尾の細長い獣人って、『猫』か『虎』くらいだけど、みんな良く、そうやって手入れしているみたいね。『狼』とか『狐』になると、櫛まで使って綺麗に梳かしていたりするし」
    「まあ、自分の体の一部ですから」
    「ね、……ちょっと、触っていい?」
     柊は不意に、晴奈の尻尾を指差す。
    「はい、大丈夫です」
     晴奈も柊に尻尾を向け、触らせた。
    「……ふさふさね。でもちょっと、さらさらした感じもあるかしら」
     柊は尻尾をもそもそと撫で、楽しげな声を漏らす。触っても良いと言ったとはいえ、撫でられるのは少し、くすぐったくて恥ずかしい。
    「あ、あのー」
    「ん? ああ、ゴメン。晴奈が触ってるの見ていたら、わたしも触ってみたくなっちゃって」
     謝りつつも、尻尾から手は離さない。
    「はー……。まだ来ないのかなぁ」
    「師匠、一つ聞いてもよろしいですか?」
    「ん?」
     ここでようやく、柊は尻尾から手を離した。
    「相手の熊獣人と言うのは、どのような男なのですか?」
    「ん、……うーん。まあ、その、……ねぇ」
     柊は、今度は自分の髪をいじりながら、ゆっくりと説明した。
    「一言で言うと『面倒くさい奴』、ね。
     まず、自分が無条件に偉いと思ってるもんだから、勝ったら威張り散らす。負けたら言い訳する。その上、人の話や都合を聞かない。相手が自分に合わせて当然、と考えている尊大な男よ」
    「むう」
     話に聞くだけでも、面倒な相手と言うのが良く分かる。
    「さらに嫌なのが、話が通じないと言うこと」
    「通じない? 異国の者だからですか?」
    「いえ、そうじゃなくて――いえ、少しはあるかも知れないけれど――他人の話を、理解しようとしないのよ。
     何を言っても、『自分には関係無い話』『相手が勝手な理屈を言ってるだけ』と決め付けて流す。そうして彼の口から出てくるのは――自分がいかに偉いか、と言う自慢話だけ」
    「それは、……また、何と言うか、……面倒ですね」
     顔をしかめる晴奈に、柊は困ったように笑って返した。
    「だから、できれば会いたくないんだけど」
    「……来たよう、ですね」
     ドスドスと重い足音が、戸の向こう側からようやく聞こえてきた。
    蒼天剣・手本録 1
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、20話目。
    柊雪乃の四番勝負。

    2.
     バン、と力任せな音を立ててその熊獣人の男が入ってきた。
    「よう、ヒイラギ」
     人を端から見下した目つき、胸を反らした尊大な態度、そして央南ではあるまじき、屋内での土足――どこからどう見ても、まともな性格と礼儀を持った人間には見えなかった。
     そしてその口から出てくる言葉も、彼の態度がそのまま現れていた。
    「今度こそ、俺の方が強いと証明しに来たぜ。さあ、勝負しやがれ!」
    「はいはい」
     柊は本当に面倒くさそうな様子で立ち上がり、「熊」に向き直った。
    「これで4度目よ? もういい加減、観念したらどうなの?」
    「フン。言っとくがな、これまでの3回は理由があって負けたんだ。
     最初のは油断してたからだし、2度目のは体調が悪かったんだ。3度目のも武器の調子が悪かった。
     今度は元気一杯、武器も新調したし、お前みたいなガリガリ女に負けるはずが無え」
     戦う前からべらべらと言い訳を並べるこの男に、晴奈は内心、呆れ返っていた。
    (本当に言い訳がましい。本当にあの『熊』、強いのか?)
     そんな晴奈の視線に気付いたのか、「熊」は晴奈の方をぐるっと向いた。
    「何だ、このガキ? 人をじろじろ見やがって」
    「ガキとは失礼ね。わたしの一番弟子よ」
     柊がたしなめるが、「熊」はフン、と馬鹿にしたような鼻息を漏らす。
    「へーそうかい。こんな乳臭い小娘はべらせて、先生気分か? お偉くなったもんだな、ヒイラギ」
     その言い草に晴奈は激怒しかけたが、より早く、激しく怒り出したのは柊の方だった。
    「クラウン、わたしの悪口ならいくらでも言って構わないわ。でもね」
     次の瞬間、柊は熊獣人の首に刃を当てていた。
    「わたしの弟子を侮辱するなら、命も覚悟しなさいよ。もしもう一度侮辱するようなことがあったら、勝負なんか関係無く叩き斬るわよ」
    「……ヘッ」
     クラウンは刃をつかみ、くい、と横に流した。
    「分かった分かった、じゃあさっさとやれよ」
     謝るどころか、うざったそうに答えるクラウンを見て、晴奈は心の中で叫んだ。
    (師匠ッ! 絶対、勝って下さい! 私もこの『熊』、捨て置けません!)



     傍目に観ても、柊がかなり頭に来ていることは明らかだった。
     武具を装備している間中ずっと無言だったし、付き人に肩や腕を揉ませ、斜に構えて笑っているクラウンに対して何度も、侮蔑と怒りの混じった視線を向けていたからだ。

     そして両者の準備が整い次第、すぐに柊とクラウンの勝負が始まった。
     当初からクラウンは、手にしている鉈をブンブンと振り回して柊を追う。剛力で知られる「熊」のせいか、何太刀かに一度、柊の武具をかすめ、その度に柊は少し、弾かれているように見える。
    「楽勝だな」
    「そうかしら」
     ニヤニヤと笑い、勝ち誇って鉈を振るうクラウンに対し、柊はただ睨みつけるだけで、刀を抜こうともしない。柄に手をかけたまま、飛び回ってばかりいるのだ。
    (師匠、何をされているのですか!? 反撃してくださいッ!)
     二人の戦いを見守っている晴奈は、何もしない師匠の姿にうろたえている。
    「ふーむ」
     と、いつの間にか、晴奈の横に重蔵が立っており、二人の勝負を眺めている。
    「なるほどなるほど。どうやら雪さん、一撃必殺を狙っておるのじゃな」
    「一撃必殺、……ですか?」
     晴奈はけげんな表情を重蔵に向けた。

    「一撃必殺」と言えば聞こえはいいが、これは実際狙ってみると、非常に難しい。
     まず、敵を一撃で倒すような攻撃、威力となると、よほど強力な打撃を与えなければならない。となれば自然に、攻撃の動作は大がかりなものとなり、比例して隙も大きくなる。
     さらに一撃で倒すとなれば、必然的に急所を狙った攻撃となるため、敵に動きが察知されやすくなる。
     強力な攻撃手段の確保、隙の抑制、敵に悟らせないための配慮――この3点を揃えなければ、一撃必殺の成功は無い。

     重蔵の言葉を聞き、晴奈は頭の中で勝負の状況を検討する。
    (確かに今、敵は油断している。師匠も間合いを取り、大きな隙を見せていない。
     後は打撃か。一体いつ、どう出る? その一撃をどう出すのだ?)
     晴奈は固唾を呑み、柊の一挙手一投足を見守っている。それを横目で眺めながら、重蔵が解説してくれた。
    「ほれ、あの『熊』さん。動作が一々、大仰じゃと思わんか?」
    「ふむ……」
     言われて見れば、クラウンの動作はどれも大味で単調に見える。
     鉈を大きく払い、振り下ろすその動きは、傍から見ていればとても分かりやすい。クラウンの鉈の振り回し方には、上から振り下ろすか、左右に払うか程度の差異しか無いのだ。
     普段から形稽古で、様々な刀の構え方、振るい方を学んでいる晴奈から見れば、クラウンの攻撃は呆れるほど稚拙で一本調子なものに見えた。
    (なるほど、あれなら攻撃を繰り出す直前の動作を見切ってしまえば、簡単にかわせるな)
     続いて、重蔵はこう指摘する。
    「それと、雪さんの動き。相手を引っ張りまわしておるな」
    「ふむ……」
     ただ退いているようにしか見えなかった柊の動きも、敵の動作と合わせて考えれば、すべて空振りさせるための戦術なのだと分かる。
    「ああして相手を動かすだけ動かし、疲労するのを待って……」
    「そこで、必殺を?」
    「きっと、その算段を整えておるのじゃろうな」
     程無く、クラウンの動きが目に見えて鈍ってきた。
     大兵肥満なその巨体でバタバタと動き回らされていたために、クラウンはとても苦しそうに肩で息をし、ボタボタと汗を流している。
    「ハッ、ハッ、俺を、ハッ、おちょ、ハッ、おちょくってんのか、ハッ」
    「……」
     答えないまま、柊はそこでようやく刀を抜いたようだ。
    「ようだ」と言うのは、晴奈にはその動作が確認できなかったからだ。

     ともかく、一瞬のうちに決着は付いた。
     クラウンの鉈は彼方に弾き飛ばされており、丸腰になった彼の首筋にいつの間にか、柊がぴたっと刀を当てていた。
    蒼天剣・手本録 2
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、21話目。
    師匠を酔わせてどうするつもり?

    3.
    「見事な居合い抜きじゃったな、雪さん」
     勝負を終え、汗を拭っていた柊の元に、重蔵がニコニコしながらやって来た。
    「いえ、まだまだです」
    「謙遜せずとも良い。まさに一撃必殺――胸のすくような、ほれぼれする技じゃった」
     重蔵にほめちぎられた柊は、顔をほんのり赤くして頭を下げた。
    「恐縮です」
     師匠をほめられ、晴奈も嬉しくなる。
    「お疲れ様でした、師匠」
    「ありがと、晴奈」
     晴奈に向けられたその顔は、いつも通りの穏やかな笑顔だった。

     一方。
    「いや、だからな、今日はやっぱり俺、ほんのちょっと体調が悪かったんだよ。それにな、この鉈まだ新品だからな、まだしっくり、手になじんでなかったんだって。それでも善戦した方なんだって、そーゆーマイナス要素があったにも関わらず、……あ、それにほら、ここは敵の本拠地だろ? 『負けろ』みたいな空気をさー、俺感じちゃって。そう、空気が悪い、それなんだよ。それが敗因なんだって。じゃなきゃ、俺があんな女に……」
     クラウンは自分の付き人たちに向かって、愚痴じみた言い訳をブツブツとこぼしていた。
     結局30分ほど愚痴を吐いた後、自分でもいたたまれなくなったらしく、彼はその場から逃げるように帰っていった。



     その晩、晴奈と柊は勝利を祝って、ささやかな酒宴を開いた。
    「さ、師匠」
    「ありがと」
     晴奈が柊の杯に酒を注ぎ、柊はそれを飲み干す。
    「ふう……。本当に、今日は疲れたわ。……ふふっ」
    「師匠?」
     突然笑った柊に、晴奈はけげんな顔をする。
    「晴奈、あなた勝負の間中、ずっと顔がこわばっていたわね」
    「み、見ていたのですか?」
     晴奈はあの緊迫した勝負の中、師匠に自分を見る余裕があったのかと驚いた。
    「そんなに不安だった?」
    「いえ、そんなことは……。ただ、家元から『師匠は一撃必殺を狙っている』と聞かされたので、いつ、どのように繰り出すのかと、後学のために注視していた次第で」
    「ふふ、そうだったの。流石は家元ね」
     柊はもう一度、一息に酒を飲み干す。ぐいぐいと呑んでいたためか、その顔は少しとろんとしている。
    「……晴奈、あなたもどう?」
     柊は晴奈に杯を渡し、酒に手を伸ばす。
    「え? あ、いや、私は、その……」
    「あら? 呑んでみたくないの?」
     そう言われれば、美味しそうに酒を呑む師匠に多少触発されてはいるので、呑んでみたくはある。
    「……少しだけ、なら」
     晴奈は恥ずかしそうに、杯を差し出した。
    「うふふふ……」
     どうやら柊は、大分酔っているらしかった。

     師匠に付き合ううち、晴奈も大分酔ってしまった。
    「ふわ、あ……」
     思わず、大あくびが出てしまう。柊の方を見ると、すでに眠り込んでいる。
    (いけない、いけない。風邪を、引いてしまう)
     ふらりと立ち上がり、食膳や酒瓶を片付け、床の用意をする。
    「うにゃ……、せえな?」
     柊も目を覚まし、晴奈に声をかけてきた。
    「師匠、今床を整えておりますので、そちらでお休みください」
    「んー、ありがと。……ごめん、おみずもってきてちょうらい」
    「あ、はい」
     近くの井戸から水を汲んできて、椀に注いで柊に手渡す。
    「ありがと。……ふふ、わたし、おさけすきなんらけろ、よあいのよ」
    「そのよう、ですね」
    「せえな、あんまいよっれないろれ。うらやあしいなぁ」
     呂律が回っていないので、何と言っているのか今ひとつ、理解はできなかったが、言わんとすることは何となく分かる。
    「いえ、そんなことは。
     さあ、床のご用意ができました。今日はもう、お休みください」
    「ん、ありがと。せえなも、もうねる?」
    「あ、はい」
     晴奈がそう答えると、柊は晴奈の手を取り、引っ張った。
    「いっしょにねよ?」
    「……はぁ?」



     晴奈と柊は普段、別々の部屋で寝ている。
     だからこんな風に、二人揃って枕を並べることは無いのだが、師匠の誘いでもあるし、酔い方もひどかったので、晴奈は放っておけず、その日は二人並んで眠ることとなった。
    「ふー……、よこになると、ちょっとらくね」
     まだ呂律は怪しいが、先ほどよりは平静を取り戻したようだ。
    「んー……。そっか、はじめてよね。こうやってふたりでねるのって」
    「そう、ですね」
    「こんなによっぱらったのも、なんねんぶりかなー」
    「少なくとも、私がこちらに着てからは、初めてお見かけします」
    「そっかー」
     しばらく、間が空く。眠ったのかと晴奈が思った途端、また声がかけられる。
    「ねえ、せいな」
    「はい」
    「こんどさ、ちょっとだけ、とおでしてみない?」
    「遠出?」
    「そ、ひとつきか、ふたつきか、それくらい。みじかく、たびしない?」
    「いいですね。是非、お願いします」
    「ん……」
     また、静かになる。
     今度は完璧に眠ったらしく、すうすうと言う寝息が聞こえてきた。
    蒼天剣・手本録 3
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、22話目。
    小旅行のはじまり。

    4.
     翌朝、柊と晴奈は昨日の酒宴など無かったかのように、黙々と食事を取っていた。
    「……」
    「……」
     一足先に柊が食べ終え、茶をゆっくりと飲み始める。そして晴奈が食べ終わったところで、柊が口を開いた。
    「どこに行こっか?」
    「え?」
     何の話か分からず、晴奈が聞き返す。
    「ほら、夕べ話してた、旅の話。さっと行って、さっと帰れるところがいいわよね」
    「ああ……。えーと、その、どこがいいでしょうか」
     地理に詳しくない晴奈は、そのまま聞き返す。
    「んー、じゃあ央南東部の……、そうね、州都の青江辺りなんかどうかしら?
     同じ央南だからこことそれほど勝手が違うことも無いし、途中に険しい山とかも無いから、万一何かあってもすぐ戻れるもの」
    「ふむ……。では、それでお願いします」
    「ふふ、楽しみね」
     柊はうれしそうな顔で、茶を一息に飲み干した。



     こんな感じで、晴奈は柊と共に央南東部へと旅に出た。
    「青江とは、どのような場所なのですか?」
    「あなたの故郷、黄海と同じ港町よ。昔話も豊富で、退屈しない場所ね」
    「ほう……」
     13の頃までほとんど、自分の住む街から出たことの無かった晴奈は、その話に心をときめかせていた。
    (黄海とはまた別の港町、か。楽しみだ)
    「ふふ……」
     唐突に、柊が笑う。
    「どうされました?」
    「ん、ああ……」
     柊は楽しそうに微笑みかける。
    「あなたいつも、そんなに笑う方じゃないわよね、って」
    「え?」
     そう返されて、晴奈はいつの間にか自分が笑みを浮かべていたことに気が付く。
    「そう、ですね。心が浮ついておりました」
    「わたしもよ、うふふ……」
     そう言ってはいるが、いつも笑顔でいるからか、晴奈には柊の様子がいつもと違うようには感じられない。
     しかしやはり、柊は上機嫌になっているらしい。楽しそうな口ぶりで、晴奈に色々と話しかけている。
    「わたしね、こうして旅をする度に思うんだけど」
    「はい」
    「やっぱり旅は、一人より二人の方がいいなって」
    「はあ……?」
     突然そんなことを言われ、晴奈はきょとんとする。
    「そんなものでしょうか」
    「そんなものよ。一人旅も楽しいと言えば楽しいけれど、こうして二人で、色んなこと話しながら歩くの、好きだから。
     ね、覚えてる? わたしの友達の、小鈴」
    「橘殿ですね」
    「そう、そう。あの子ともね、何度か一緒に旅したことあったんだけどね」
     クスクスと笑いながら、柊はこう続ける。
    「あの子といると、なんでか騒動って言うか、事件みたいなのにいっつも巻き込まれるのよね」
    「そうなのですか?」
     晴奈が目を丸くするのを見て、柊はまた笑う。
    「ええ。それはそれで退屈しなかったけど、でもやっぱり普段の倍は疲れちゃうのよね。まあ、晴奈となら、流石にそんなことにはならないと思うけど。
     あなたとなら、楽しい旅になりそうね、って」
    「ええ。楽しい旅にしましょう」
     晴奈は力一杯うなずき、嬉しさと楽しさを表した。

    蒼天剣・手本録 終
    蒼天剣・手本録 4
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、23話目。
    はじめての二人旅。

    1.
     青い海。蒼い空。そして対照的な白い雲。
    「わあ……!」
     岬に立っていた晴奈は、感嘆の声を上げた。
     その様子をクスクスと笑いながら眺めつつ、柊が教えてくれる。
    「この絶景が、青江の由縁ね。『し』の字に広がる中央大陸の最東端で、北方の大陸とほぼ、南北の直線状にある街なの。
     間には大陸も大きな島も無いから、北方からの冷たく澄んだ海流が、さえぎられることなく流れ込んでくるらしいの。
     だから時折、北方でしか見られない魚も紛れ込んでくるそうよ」
    「へえ」
     それを聞いた晴奈は海を覗き込んでみる。すると浅瀬に、チラホラと魚の姿を見つけることができた。
    「ふむ……。アジと、イワシが多いですね」
    「ん?」
    「魚です。実家が水産業をしていたので、魚には詳しいんですよ」
    「へぇ。……どう? 北方の魚はいた?」
     興味深げに尋ねた柊に対し、晴奈は残念そうに首を振りつつ答える。
    「夏だからでしょうか。それらしいものは、見当たらないですね」
    「そっか。ちょっと残念ね。じゃ、また冬になったら来てみよっか」
    「そうですね。その時なら、見られるかも」

     こんな風に気楽な、物見遊山の気分で、二人は青江に到着した。
     ただ、この時点まではまだ、柊の口から剣術の「け」の字も出ていなかったし、晴奈も正直なところ、ここで剣の修行をするとは思っていなかった。
    「さてと」
     と、海を眺めていた柊が、ここで唐突に口を開く。水面を覗いていた晴奈は、顔を上げる。
    「行こっか」
    「え? どこにでしょう」
    「この街にね、わたしの古い友人がいるのよ。彼も焔流の剣士で、今はこの青江で剣術道場を開いているの。
     旅と晴奈の修行、その二つをまとめてやっちゃおうと思ってね。だからここに来たのよ」
    「な、るほど」
     晴奈は「単なる息抜きではなかったのか」と言う若干がっかりした思いと、「どんな人物で、どのような修行を行うのだろう」と言う期待の混じった返事をした。
    (まあ、人生思い通りには行かないものだな)
     晴奈は心中で、自分の浮き立っていた心を笑い飛ばした。



     だが、この言葉は後に別の意味を持って、もう一度晴奈と、柊の心に浮かんでくることとなる。
     この街で行うはずの修行が、思いもよらない方向へと向かってしまったからだ。
    蒼天剣・討仇録 1
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、24話目。
    いなくなった友人。

    2.
     青江の街を海岸に沿って進みつつ、柊はこの街で道場を開いていると言うその人物について説明してくれた。
    「彼の名前は楢崎瞬二。短耳で、わたしの9つ上の36歳。
     今から7年前、焔流の免許皆伝を得て紅蓮塞を離れ、それ以来ずっとここに住んでいるの」
    「なるほど」
     郊外の住宅街に差し掛かったところで、柊が道の向こうにある大きな建物を指差す。
    「あそこが道場。さ、行きましょ」
    「はい」
     だが、道場の前に立った途端、柊は首をかしげた。
    「あ、れ……?」
     道場に掲げられた看板には、「楢崎」と言う名前はどこにも無い。それどころか焔流の文字も家紋も、どこにも見当たらない。
    「島、道場? あの、師匠?」
    「お、おかしいわね? ここの、はずなんだけれど」
     二人は顔を見合わせ、唖然とする。柊は動揺しているらしく、その口調はたどたどしい。
    「あ、その、え? ……間違ってない、わよね、住所は。……ここ、よね。……しま、って誰なの? ……え? 楢崎は、どこに行っちゃったの?」
    「あの、師匠。とりあえず中に入り、仔細を聞いてみてはいかがでしょうか?」
    「そ、そうね」
     恐る恐る、二人はその島道場に足を踏み入れる。途端に、中にいた門下生と思しき虎獣人に声をかけられた。
    「おい、そこの女。うちに何の用だ」
    「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
     柊に尋ねられ、門下生は嫌そうな表情を浮かべた。
    「何だ?」
    「この道場って確か楢崎瞬二のもの、だったわよね?」
     そう聞いた途端、門下生は顔を背ける。
    「……し、らない」
     門下生の動揺を読み取った柊は、もう一度尋ねてみる。
    「知らないはずは無いわ。ここは確かに楢崎の道場だったはず。今、楢崎はどこにいるの?」
    「知らないと言ったら知らない!」
     門下生はブルブルと首を振り、頑なに否定する。その様子を見て、晴奈と柊は目で相槌を打つ。
    (……参ったわね。これじゃ、埒が明かないわ)
    (出直しましょうか?)
    (そうね、それがいいかも)
     二人はそのまま、道場を後にしようとしたが――。
    「楢崎? ああ、わしが倒した、あの男のことか」
     道場の奥から、白髪に白いヒゲをたくわえた、壮年の短耳が姿を現した。
    「あなたが、島さん?」
     いぶかしげに尋ねた柊に、男は大仰にうなずいて返す。
    「いかにも。島竜王とは、わしのことだ」
     晴奈と柊は、直感的にこの男の性格を見抜き――以前に良く似た男がいたため――また、目で会話する。
    (うーん、クラウンみたいな奴ね)
    (ええ、確かに)
    「それで、楢崎が何だと?」
     大儀そうに尋ねてきた島に、柊が聞き返した。
    「あの、島さん、でしたか。楢崎を倒したとはつまり、道場破りをなさったと言うことでしょうか?」
    「いかにも。ほんの3ヶ月前だが、ここで恥知らずにも道場を構えていた其奴を、わしがこらしめてやったのだ。
     まったく、あの程度の力量で人を教えようとは、ふざけた男だ」
     この言葉を聞いて晴奈は、一瞬だけ師匠の方に目をやった。
    (……ああ、やっぱりだ)
     晴奈の予想通り、柊から怒気が漏れていた。
     だが彼女はよほどのことが無い限り、その怒りを表に出すことは無いと晴奈は知っているし、実際、この時は冷静に、柊は島に続けてこう尋ねていた。
    「そうですか。今、楢崎はどちらに?」
     島は大仰に首を振り、答える。
    「知ったことか。今頃は自分の無能を嘆いて身投げでもして、魚や鳥のエサにでもなっているのかもな」
     この返答に眉をひそめつつ、晴奈は再度、柊を見る。
     無表情だったが、柊の目は確実に、怒りでたぎっていた。



     道場を後にしたところで、柊は怒りをあらわにした。
    「あの男に、楢崎が負ける? 信じられない! そんなこと、あり得ないわ!
     楢崎の強さはわたしが良く知っている! 間違ってもあんな、性根の腐った奴に敗れるような男じゃない!
     晴奈、一緒に楢崎を探しましょう。事の真偽を確かめないと」
    「はい」
     二人は市街地に移り、街の者に楢崎のことを尋ねてみた。
     だがやはり、楢崎の行方は誰も知らないと言う。その代わりに聞いたのは、あの島と言う男の悪評ばかりだった。
    「あの島と言う男、何でも楢崎さんと勝負する前に、何かを仕込んだとか。それに楢崎さんが引っかかって、その結果敗れてしまったそうだ」
    「島は小ずるい男で、ああしてあちこちの道場を食い潰しているらしい。本人は名士気取りらしいが、実際は酒癖も手癖も悪い、鼻つまみ者だ」
    「あいつが道場を乗っ取ってこの街に居座ってからと言うもの、道場界隈ではケンカが絶えないし、ご近所も迷惑してるそうだ」
     ひどい評判に、晴奈は怒りに震えていた。
    「何と言う下劣な奴だ!」
    「本当、剣士の風上にも置けない奴ね。……何としてでも、楢崎を見つけないと」
     柊も晴奈と動揺、憤っている。しかし、その一方で不安な様子も見せていた。
    (やはり楢崎殿の消息がつかめぬことを、気にかけておられるらしい。見付かってほしいものだが……)
     その後も懸命に聞き込みを続けたが、二人は結局楢崎本人を見付けることも、その消息をたどることもできなかった。
    蒼天剣・討仇録 2
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、25話目。
    思い出話、恨み話。

    3.
    「はあ……」
     宿に戻ってからずっと、柊は机に頬杖を付き、ため息を漏らしている。
    「楢崎殿、一体どこへ行ってしまったのでしょうね。ご無事だと良いのですが」
    「もしかしたら……」
     柊は顔を青ざめさせ、こんなことをつぶやく。
    「本当に負けたことを恥じ、自害した、……なんてこと、無いわよね」
    「し、師匠?」
     縁起でもないその言葉に、晴奈は目を丸くする。
    「だから『無い』ってば。楢崎はそんな、やわな男じゃないわ」
     柊は微笑むが、その笑顔には力が無く、余計に晴奈の不安をかき立てる。
     それを察したのか、柊は話題を変え、楢崎の人柄について話し始めた。
    「楢崎はどちらかと言うと失敗をバネにして、成長する男。わたしが入門した時から、そう言う人だった。
     普段から気性が穏やかで、勝負事はあまり得意では無かったわ。いつも真正面からぶつかる、正々堂々とした戦い方を好むことから『剛剣』と呼ばれ、慕われていたの。
     どこまでも正直で、清々しくて、はっきり言って好人物。紅蓮塞にいた時は、兄のように慕っていた。それとね」
     柊は――他に誰がいるわけでも無いのに、わざわざ――晴奈の耳に口を近付けて、そっとささやいた。
    「わたしの、初恋の人、……だった」
    「そう、でしたか。……今は?」
     柊はすっと晴奈から離れ、肩をすくめる。
    「彼は結婚してしまったし、塞を離れてからは急に、そんな気持ちはしぼんでしまった。
     それでも今なお、兄のように思っているけどね」
     そう言って、柊は恥ずかしそうに笑った。それを受けて、晴奈も思わず微笑んでしまう。
    「……無事だといいですね、楢崎殿」
    「そうね」



     その夜、既に眠っていた晴奈たちの部屋の戸が、トントンと申し訳なさそうに叩かれた。
    「夜分遅く、すみません。柊様、お話があります」
     その消え入りそうな声を聞き、柊がのそのそと起き上がり、眠たげな声で応じる。
    「……何かしら? なぜ、わたしのことを?」
     戸の向こうから、真剣な声色でこう返って来た。
    「我が師、楢崎瞬二のことでお話がございます」
     それを聞いた瞬間、柊の長耳がぴくっと跳ね上がった。
    「開けるわ。話を聞かせて」
     柊が戸を開けるなり入ってきたのは、昼間晴奈たちに声をかけた、あの虎獣人の門下生だった。
    「昼間は大変、失礼いたしました。あなたが柊雪乃様だと、存じ上げなかったもので」
    「いいわ、別に。それより、何故私のことを?」
     柊の問いに、彼はぺこぺこと頭を下げながら答える。
    「先生から伺っておりました。緑髪の長耳で非常に腕の立つ、可憐で優しげな剣士だと。
     あなたが帰った後に、先生から聞いていた特徴を思い出し、慌ててこちらを尋ねた次第です」
    「そう……」
     この辺りで晴奈も起き上がり、眠い目をこすりながら話の輪に入る。
    「楢崎殿は、どうなったのですか? 門下生だったあなたならご存知のはずですが」
    「ええ、存じております。ですがそのことを話す前にまず、自己紹介をさせていただきます。
     私の名は、柏木栄一と申します。3ヶ月前まで楢崎先生の一番弟子でした。ところがあの島と言う男が先生と勝負し、負かしてしまって以来、私はあの下劣な男の小間使いをさせられております」
    「そこを、詳しく聞きたいわ。なぜ楢崎ともあろう男が、あんな者に遅れを取ったの?」
     柊に尋ねられた途端、柏木は表情を曇らせる。
    「……先生は、負けるしかなかったのです。何故ならその前日、先生のご子息がかどわかされたからです」
    「何ですって……!?」
    「脅迫されていたのです。『息子の命が惜しければ、道場を明け渡せ』と」
     瞬間、柊師弟は激昂した。
    「ふざけた真似をッ!」
    「幼い子を危険にさらしてまで、己の利欲を取るなんて!」
    「お待ち下さい。話には、続きがあります」
     柏木は涙を流しながらも、話を続ける。
    「勝負に負けた後も、ご子息は戻ってこなかった。すでに、どこかへ売り飛ばされたと言うのです。
     負かされた直後に奴自身からその言葉を聞いた先生は、島に負わされたケガも忘れてご子息を探しに出て、そのまま行方が……」
    「なんと……、なんとむごい!」
     あまりに残酷な話を聞かされ、晴奈は怒りで尻尾の毛を毛羽立たせる。
    「奥方も心労で倒れられ、今は臥せっております。
     私自身が仇を討とうとしたものの、実際島は強く、私ではとても太刀打ちできなかったのです。ですが柊様ならきっと、あの男を倒せるでしょう!
     お願いです、柊様! 何卒あの悪党、貧乏神、寄生虫――島を討ってください!」
    「……」
     柊は口を開かない。その代わりに刀を手に取り、下ろしていた髪を巻き上げ始めた。それを見た晴奈も、同じように外へ出る支度を取る。
     支度が整ったところで、柊が静かに、しかし力強く答えた。
    「任せなさい。すぐ片付けるわ」
     柊と晴奈の周りには、たぎるように熱い「気」が広がっていた。
    蒼天剣・討仇録 3
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、26話目。
    殴り込み。

    4.
     今宵は双新月――白い月も、赤い月も見えない、そんな夜である。
     月の光の無い真っ暗な夜道を、二つの影が滑るように進む。その影は青江の海岸線に沿って進み、恐るべき速さでかつて友が住み、今は仇に奪われた屋敷に走っていく。
     友の仇を討ち取るために。

     道場のど真ん中で酒を飲み、肴を食い散らしていた島は、ぞくっと身震いする。
    「……な、なんだ? この気配は」
     腐ってもまだ、一端の剣士ではあるらしい。さっと立ち上がり、床の間に飾っていた刀に手をやった。
     ほぼ同時に道場の扉が×状に裂け、燃え上がる。一瞬で燃え尽きた扉の向こうには、柊と晴奈の姿があった。
    「昼間の武芸者どもか。一体、わしに何の用だ?」
     柊は道場が震えるような、高く、大きな声で応えた。
    「我が名は柊雪乃! 焔流、免許皆伝の身である! 今宵は我が友である楢崎瞬二の無念を晴らしに参った! 島竜王、その命頂戴する!」
     柊の刀に火が灯る。横にいた晴奈の刀にも同じく火が灯り、今度は晴奈が叫ぶ。
    「我が名は黄晴奈! 焔流門下生である! 我が師、柊雪乃に助太刀いたす!」
    「は、は……。逆恨みもいいところだ。まっとうな勝負で、わしはこの道場を手に入れたのだ。無念だの仇だの、片腹痛いわ!」
     臆面もなくそう言い放つ島に、二人が憤った声で叫び返す。
    「ほざくな、戯言を! 楢崎の家族に危害を加え、脅迫したこと! 知らぬと思うのか!」
    「知らんわ! 証拠でもあると言うのか!?」
     なおもしらばっくれる島をにらみつけ、柊と晴奈は同時に刀を振り上げる。
    「問答無用! 我らは友の無念を晴らすのみ!」
     そして同時に、刀を振り下ろした。
    「『火射』ッ!」
     振り下ろした刀の延長線上を滑り、炎が走っていく。炎の滑る速度は非常に早く、島は慌てて飛びのいた。
    「お、っと! いきなり攻撃か! 油断を突くなど、それでも剣士か、お前ら!」
    「敵を前にして油断など、それこそ剣士ではない! 覚悟しろ、島ッ!」
     柊師弟は同時に道場へ飛び込み、島に斬りかかる。だが島は両手に刀を持ち、二人の太刀を防ぐ。
    「二刀流か!」
    「ふっふ、女の剣など打ち破るのはたやすい! 刀錆にしてくれるわ!」
     そう言うと島は二人の刀を弾き、左にいた晴奈に向かって両手の刀を振り抜いた。
    「む……ッ」
     晴奈の刀を挟むように剣閃が走り、絡め取って弾く。
    「ほら、胴ががら空きだッ!」
     島の右手が伸び、晴奈の腹に向かって刀を突き入れる。だが俊敏な「猫」である晴奈は、瞬時に後ろへ飛びのき、突きをかわした。
    「チッ! すばしっこい……」「でやあッ!」「うぬっ!?」
     島の意識が一瞬、晴奈に集中したその隙を狙い、柊が袈裟斬りを入れる。ところがこれも島が背中に刀を回し、防いでしまう。
    「無駄だ! 島式二刀流は攻防一体! 片手が防げば、片手が刺す!」
    「あら、そう」「ならば」
     もう一度、柊師弟は連携を見せる。島の前後から、同時に薙いだ。
    「はははっ、それも万全よ!」
     島は逆手に刀を持ち、二人の攻撃を弾く。
    「どうだ、この鉄壁! この刀の壁! お前ら如きに破れる代物では無い!」
    「そうかしら」「手ぬるい」
     師弟は不敵に笑い――交互に打ち合い始めた。
     晴奈が島に斬り込む。島はそれを弾く。弾くと同時に柊が突く。島はもう片手でそれを打ち落とす。落とした瞬間、晴奈が刀を振り下ろす。
    「む、お、この、ぐ……っ」
     晴奈たちの旋風のような無限の連打を受け、島は一向に、攻勢に転じることができない。
    「ま、ま、待て、待て、待てと、言うに」
     次第に、島から弱気が漏れる。
    「やめ、がっ、やめて、ぐっ、やめてくれ、ぎっ」
     島の刀がガクガクと歪み、島自身も脂汗を流し始める。
    「は、う、かん、べん、して、うぐ、してくれ、ひぃ」
     だが、師弟の太刀筋は弱まるどころか、勢いを増していく。
    「わ、わる、わるかった、あやま、ああ、あやまるか、ら、かんべ、かん、か、か……」
     だが、二人に島を許す気など毛頭無い。
    「今さら、そんなことを言っても無駄だ」「冥府でじっくり、反省するがいいわ」
     やがて島の刀も両腕も、限界に達し――その胴に、柊師弟の刀が到達した。



     一夜明け、道場では大掃除が行われた。島が食い散らかし、飲み散らかしたものの後片付けと、島との死闘の後始末である。
     勿論晴奈と柊も手伝い、昼前には綺麗に片付けられた。
    「これで、あいつのいた面影は無くなった、かな」
    「本当に、ありがとうございました! 本当に、何とお礼を言って良いか!」
     柏木は声を震わせ、泣きながら柊に礼を言った。
    「いいわよ、これしきのことで。わたしとしては、仇が討てただけで満足だから」
    「いえ、そんな! 何かお礼をしなければ、剣士の名折れです!」
    「そう? じゃあ……」
     柊は所期の目的――晴奈の修行の相手を、柏木たち門下生に頼むことにした。柊本人も修行に付き合い、本家焔流と楢崎派焔流の交流は大いに盛り上がった。



     そして一ヶ月が経ち、二人は紅蓮塞への帰路に着いた。
     その途上、柊はぽつりとつぶやく。
    「晴奈、強くなったわね」
    「え?」
    「島とやりあった時の、あの勢いと剣の冴え。わたしと互角に張り合えるほどの完成度だったわ。
     もしかしたら近いうち、わたしはあなたに追い抜かれてしまうかもしれないわね」
     晴奈は驚き、バタバタと手を振る。
    「な、何を仰いますか! 私なんて、まだまだ……」
    「ううん、謙遜しないで。きっとあなたは、わたしより強くなる。強くなってくれるわ」
     そう言った柊は、とても美しい笑顔をしていた。
    「あなたが――わたしの弟子が、わたしより強くなるなら、それほど嬉しいことは無い。
     頑張って、晴奈。あなたはもっと強くなれる子よ」

    蒼天剣・討仇録 終
    蒼天剣・討仇録 4
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、27話目。
    晴奈の昇華。

    1.
     人を含め、何物においても、何のきっかけも無しに、突然その姿や性質が変わることは無い。

     黄晴奈にしても、元は単なる町娘である。
     その「ただの人」であるはずの彼女に、周囲が思いもよらぬような変化を与えたのは、焔流の剣士である柊雪乃だった。
     彼女との出会いが晴奈にただならぬ衝撃を与え、剣士としての道を歩ませることとなったのだ。

     その後も晴奈には、「きっかけ」が連続して訪れた。
     魔術師橘との出会い、ウィルバーとの戦い、師匠とクラウンとの勝負、いくつもの旅――その様々な経験が、ついに彼女を、その高みにまで登らせた。



     双月暦512年、秋。
    「……はぁ。参ったわねぇ」
     晴奈はいきなり、柊からこう言われた。
    「え?」
     これまで6年やってきたように、その日もいつも通りに、二人で朝稽古を始めようとしたのだが、晴奈が木刀を構えた瞬間、柊がため息をついたのだ。
    「どうされたのですか、師匠?」
    「まあ、打ち合えば分かるわ」
     そう言って柊は一歩、踏み込んできた。
    (これは……)
     その瞬間、晴奈の頭にたぎるような感覚――黒炎が攻めてきた時や、島と戦った時に感じたのと同じ、息が止まるような緊張感が生じる。
    (……殺気!?)
     元より「稽古であっても真剣にやる」と約束してはいたが、それは技術の面と心持ちで、だけのことであり、まさか本当に殺すつもりでやってきたわけでは無い。
     だがこの時、柊は明らかに本気でかかって来た。その一挙手一投足に、本気で晴奈を殺そうとする気配がにじんでいるのを、晴奈はぞくりと感じていた。
    「くッ!」
     柊が斬りかかると同時に、晴奈は木刀で防御する。だが、ボキ、と言う鈍い音と共に、晴奈の持っていた木刀が真っ二つに折れた。
     柊はいつの間にか真剣を構え、さらにその刃は赤く輝いている。それは紛れも無く、焔流の「燃える刀」だった。
    「し、師匠!? 一体、何故に!?」
    「問答無用ッ! 刀を抜け、晴奈ッ!」
     師匠から向けられる正真正銘の殺意に、晴奈は若干戸惑い、怯む。
    (一体、何をしているのですか、師匠!?)
     だが、その困惑を無理矢理押さえ込み、腰に差していた刀を抜く。
    (……いや、今はそんなことを考えるな)
     晴奈は頭から余計な思考を追い出し、覚悟を決める。
    (今考えるべきは目の前の――『敵』を倒すことだ!)
     晴奈は刀を構え、刃に炎を灯した。

     まだ日も差さぬ、朝もやの立ち込める修行場に、二つの火がゆらめいていた。二人はしばらくにらみ合ったまま、静止する。
     そして先に、柊が仕掛けた。
    「ぃやああああッ!」
     燃え盛る刀を振り上げ、飛び上がる。
     晴奈は瞬時に、柊の太刀筋を袈裟斬りと判断し、刀を脇に構える。
    「させるかッ!」
     晴奈は地面を滑るように低く跳ぶ。一歩分体が前に進み、柊の間合いから外れる。
     柊の刀は晴奈の体を裂くこと無く、切れ味の悪い鍔本が肩に食い込むに留まった。
    「くあ……、あお、おあぁぁッ!」
     痛みからの叫びを気合の声に変え、晴奈は刀の柄を柊の鳩尾にめり込ませる。
    「く、は……」
     柊の口からか細い呻きが漏れ、がくりと頭を垂れてその場に崩れ落ちた。
     それを見た途端、晴奈の緊張が解ける。呼吸を整え、次第に冷静さを取り戻し、そこでようやく、自分が師匠を倒したと自覚した。
    「……師匠!」
     我に返った晴奈は、慌てて柊の側に駆け寄る。柊はぐったりとし、動かない。その青ざめた顔を見て、晴奈の顔からも血の気が引く。
    (ま、まさか。柄で突いたとは言え、打ち所が悪かったか……!?)
     晴奈は柊を抱きかかえ、必死で呼ぶ。
    「師匠! 大丈夫ですか、師匠!」
     何度か声をかけたところで、柊のうめき声が返って来た。
    「……くぅ、痛たた」
     真っ青な顔をしている割にはしゃんとした動作で、柊は晴奈の手をつかむ。
    「強くなったわね、晴奈」
    「え?」
    「今の動き、そして気迫。それに迷いない太刀筋。19でもう、その域に達するなんて」
    「え、あ、ありがとうございます。……あの、師匠?」
     生きていたと安堵する間も無く突然の賞賛を受け、晴奈は戸惑っている。
     それを知ってか知らずか――柊はこう続けた。
    「もう、わたしから教えることは何も無い。修行はおしまいよ」
    蒼天剣・烈士録 1
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、28話目。
    免許皆伝試験。

    2.
     晴奈と柊の戦いから3時間ほど後、晴奈は柊に連れられ、家元である重蔵の前に並んで座っていた。
    「ふむ、そうか。晴さん、師匠に追いつきなすったか」
     重蔵は腕を組み、何かを考え込む様子を見せる。
     やがて決心したように、ぱたりと膝を打った。
    「ようやった、晴さん。良くぞ6年と言う短い歳月で、そこまで己を磨き上げたものじゃ」
    「は、はあ。ありがとうございます、家元」
    「じゃが、まだ免許皆伝とはいかんな。今はまだ、その手前じゃ。
     どうする、晴さん。免許皆伝の証を、狙ってみるかの?」
     この問いに、晴奈の心は当惑すると同時に、とても高揚した。
    (め、免許皆伝!?
     まだ、私は19で、そう、6年だ。修行してまだ、6年しか経っていない。こんな若輩者がそんなものをもらって、いいのか?
     い、いや、しかし。家元が直々に、そうお声をかけてくださっているのだ。であれば、私にその資格があると言っているも、同然なのでは。
     ならば、……狙ってみるか?)
     晴奈は目を閉じ、心を落ち着かせる。
    「どうかな?」
     重蔵がもう一度聞いてくる。晴奈は少し間を置いた後、「はい」と答えた。

     晴奈はふたたび、あの「鬼が出る」堂――伏鬼心克堂を訪れた。免許皆伝の試験は、この堂で行われるのだ。
     だが、入門試験として入った前回と比べ、違う点があった。まず、前もって刀を大小二振りと、武具を身に付けた状態で入らされたことだ。
    (まるで、誰かと戦えと言っているような?)
     いぶかしみつつ堂に入ったところで、重蔵が床を指し示した。
    「さあ、晴さん。そこに座って、わしの話をよーく聞きなさい」
    「あ、はい」
     言われた通りに、晴奈は正座する。そしてもう一つの違いについても、ここで聞かされた。
    「これから一昼夜、丸一日。ここにいてもらう。その間眠らずにいられれば、試験は修了。晴れて、免許皆伝じゃ。
     じゃが、勝手は入門の時とはちと違う。この堂の仕組みには、気付いておるじゃろ?」
    「はい。己の心が、鬼を作るのですね」
     晴奈の回答に、重蔵は深くうなずいてこう続ける。
    「そう。確かに入門時の仕掛けは、そうじゃった。
     じゃが、今度の仕掛けはそれとは、ちと違う。出てくるのは、鬼では無いのじゃ」
    「鬼では無い? では、一体何が?」
     重蔵は首を横に、ゆっくりと振る。
    「それは、晴さん自身で確認し、その理由を考えてみなさい。それがこの試験の答えであり、真意じゃ」
     そう言って、重蔵は堂から出て行った。



     試験が始まってから1時間が過ぎた。
     完全武装した状態での座禅は、流石に武具がうっとうしすぎて気が散ってしまう。とりあえず最初のうちはじっと座ってはいたが、やがてそれにも飽きた。
     晴奈は何とも無しに立ち上がり、重蔵が言っていた、この試験に出てくる「何か」を待ち構えることにした。
    (鬼ではない、か。この重装備だし、もしかすれば鬼と戦えと言っているのかと思ったが、そうでは無いのか。
     では、一体何と戦うのだ?)
     敵を待ち構えることと、思案に暮れる他にはやることが無いので、晴奈は手入れでもしようかと、刀を鞘から抜いた。
    (……!)
     と、その刃に黒い影が映っている――晴奈の背後に、誰かがいるのだ。
    「何奴だ!」
     振り返ると、そこには忘れようにも忘れられない、狼獣人の顔があった。
    「……!? ウィルバー! 何故、ここにいるのだ!」
    「……」
     かつて晴奈に手痛い敗北を負わせた、あのウィルバーがいたのだ。
     ウィルバーは一言も発さず、いきなり襲い掛かってくる。
    「く、この……!」
     4年前と同じく、三節棍は変幻自在の動きを見せ、晴奈を翻弄する。一端をうかつに刀で受けると、もう一端が跳んでくる。
     最初は距離を取りつつ、棍を受けずに弾いて防御していたが、跳んでくる棍は重く、何度も受けるうちに晴奈の手がしびれてきた。
    「……くそッ」
     接近戦は不利と判断し、晴奈は後ろに飛びのく。すかさず一歩踏み込み、間合いを詰めてきたウィルバーを見て、晴奈は瞬時にある戦術を閃く。
    「それッ!」
     踏み込んできたウィルバーに、突きを浴びせる。当然、ウィルバーは防御するため、棍でそれを絡め取る。
    (棍を使ってくるならば、至極面倒な相手になる。だが、それを封じれば……!)
     防御に棍を使うならば当然、その瞬間だけは棍での攻撃ができない。
     晴奈は絡め取られた刀から手を離し、脇差を抜いてウィルバーの眉間を斬りつけた。
    「……!」
     ウィルバーの額から血が噴き出し、そのままバタリと前のめりに倒れた。
    「ハァ、ハァ……。何故、こいつがここに?」
     刀を拾いながら、晴奈は呼吸を整える。
     倒れたまま動かないウィルバーを見下ろしながら、とどめを刺そうと一歩踏み出した、その時――。
    「……!?」
     風を切る音に気付き、とっさに身をよじる。それと同時に、石の槍が頬をかすめた。
    「たっ、橘殿!? いきなり、何をするのです!?」
     先程のウィルバーと同様、橘がいつの間にか、杖を構えて立っていた。
    「……」
     そして橘もまた、無言で襲い掛かってきた。



    「ゼェ、ゼェ」
     堂にこもってから、あっと言う間に8時間が経とうとしていた。
    「わけが、分からぬ」
     最初にウィルバーが襲い掛かったのを撃退してから、既に20人近い手練を打ちのめしている。辺りには彼らが一言も発さず、また、目を覚ますことも無く倒れ伏している。
     襲ってくるのはウィルバーを初めとする、黒炎の者たち。橘や柏木など、修行を共にした者たち――どう言うわけか、晴奈と出会ってきた様々な者たちが、敵味方を問わず、引っ切り無しに襲ってくるのだ。
    「一体、何故に?」
     19歳にして剣術を極めた晴奈とて、8時間も兵(つわもの)たちを相手にし続けては、さすがに疲れも色濃く表れてくる。肩で息をし、後ろでまとめた髪はとうにほつれ、乱れている。敵から受けたダメージも少なくない。
     それを体現するかのように、鉢金がパキ、と音を立てて割れた。
    「後、一体、何人、倒せば、いいのだ!?」
     晴奈以外動く者がいない堂内で、晴奈は鉢金を投げ捨て、叫ぶ。

     と――またしても、敵が現れた。
    蒼天剣・烈士録 2
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、29話目。
    本当の敵とは。

    3.
     さらに時は過ぎ、十余時間が経過した。
    「ひゅー、はぁー」
     もはや、呼吸もままならない。ひとり言をしゃべる気力も失せた。具足や篭手、脇差もとっくに使い物にならなくなっており、残っているのは刀一振りと胸当て、そして道着だけである。
    (まだか? まだなのか? まだ、時間は……!?)
     途中、この異変に気付いて誰か来るのではと、淡い期待も抱いていたのだが、どう言うわけか焔流の者さえ襲ってくるのである。
     そしてこの事実から推理し、晴奈はある結論に行き着いていた。
    (伏鬼心克堂、すなわち心に伏す鬼を克する堂。ここは心の中のものが、現実に現れるのだ。
     恐らくウィルバーなんかや橘殿など、様々な強敵が出てきたのはそのせいだろう。敵を己自身が想定し、作っているのだ。心の中にいる兵たちを、私自身がこの堂に呼び出しているのだ。
     ……にしても、多い! 私はこれほど多くの者たちと戦ってきたのか? 考えもしなかったが、私はこれだけ多く、人を倒してきたのか。
     しかし、そう考えるならば光明はある。疲れて頭はうまく回らない、が……。もう、考え付く限りのすべての兵は、出尽くしたはずだ。もう、現れるわけが無い。
     他に、私が戦い、その強さを認めた者など、一人も残っていない……はず、だ)
     だが晴奈は、一つの可能性に思い当たってしまう。
    (強い、者? いないか、本当に?
     その強い者たち、彼らを、すべて倒した人間がいる、……だろう?)
     考えた瞬間、しまったと舌打ちする。考えれば、それは現実になるのだ。
    (私としたことが! よりによって、こいつの相手を……!)
     目の前にすうっと、人の影が現れる。そしてその顔が、あらわになる。
    (こいつの――『黄晴奈』の、相手をしなければならぬとは!)
     目の前に現れたのは、自分自身。
     晴奈だった。



     自分自身と戦う。
     この奇妙な戦いに、晴奈は戸惑い、困惑し、そして延々と苦しまねばならなかった。

     勝手知ったる自分のことであるはずなのに、こうして「他人」として向き合うと、大まかな動きは検討が付いても、とっさの反応――意識の外で行われる動作など、細かなところまでは予測し切れない。
     完全に動きを読み切ったつもりでとどめを刺そうとしても、半ば本能的な動きで防がれる。そしてほぼ無意識に繰り出される斬り返しで、晴奈は退かざるを得ない。
     目の前の相手は間違い無く自分なのに、その動きがさっぱり読めないことに、晴奈はまず戸惑っていた。

     そしてようやく相手を「自分とは別のものだ」と割り切り、対応するようにしても、今度はその機敏な動きに翻弄され、またも困惑させられる。
     自分が考えられる限界の動きを、相手もその限界ギリギリでこなしてくる。
    「自分ならばこう対処する」と言う戦術・戦法も、相手がそっくりそのまま使ってくるため、意味が無い。
     力技で押そうとしても、同等の力で押し返してくる。
     己の持てるすべての力を使い切り、捨て身になったとしても、相手も同じ力量で立ち向って来るであろうし、その結果相討ちになるのは明白。
     打つ手が何一つ見出せず、晴奈は今までに無いほどに苦しめられた。

     そして晴奈は――薄々ながらも怯えていた。
     自分自身と戦ってからずっと、その「自分自身」からひどく重苦しく、冷たい悪感情をぶつけられているのだ。
     それはこの19年で最も鋭く、最も強い殺意だった。
    (私が、私を殺そうとしている)
     何度、心が折れそうになったか分からない。芯の強い晴奈でさえ、この殺意に怯えたのだ。
    (こんなに、私は殺気立っていたのか。これほど敵に、殺意を向けていたのか。そして実際、殺した者もあった。
     戦いの中でも、仇を討ちに行った時も、こんなに強い殺意を受けたことは無かった。……私と戦った者は皆、こんな気持ちだったのだろうか)
     相手を倒せない焦りと、絶え間なく浴びせられる殺意で、晴奈の手足が重たくなってくる。
    (今まで思っても見なかったが――私は『戦い』の片側しか見ていなかったのだな。もう片側、倒される者のことなど、まったく思いもよらなかった。
     これほど人を絶望させて――私は敵を、殺すのか)
     晴奈の心の中に、じわりと罪悪感が染み出した。

     自分との戦いが始まって、あっと言う間に2時間が経った。
    (どうすればいい……?)
     両者とも疲労が蓄積しているのが、己の肉体の重さと、相手の顔色で分かる。
    (ここまで、私が強いとは。どうすれば、倒せる? どこに隙がある? 何が弱点だ?
     ……ダメだ、策が浮かばない。ともかく、倒さなければ!)
     そう考えたところで、不意に、頭の中で何かが思い返される。
    (……『倒す』? 倒さなければならない? 何故だ?
     よく考えれば、この試験を修了するには24時間眠らずにいればいいのだ。『敵を倒せ』など、誰も言っていないじゃないか?
     であるならば、襲ってきても、ただ防ぐ。無闇に攻撃はしない。己の体力回復に専念――こちらからは、何もする必要は無いのだ)
     そう考えた晴奈は刀を正眼に構え、相手との距離を取った。それでも相手は襲い掛かってくるが、その都度刀を弾き、距離を取る。こちらはただ防御し、攻撃は一切行わない。
     やがてその状態で5分も経った頃、相手も正眼に構え、そのまま静止した。

    (こちらが戦えば、相手も戦う。
     戦わなければ、相手も戦おうとはしない。
     相手が戦おうとしても、こちらが応じなければ、戦いにはならぬ。
     戦えば戦うだけ私は疲労し、時間を費やし、いたずらに人を傷つけ、苦しめる。それで得られるものがあるならまだしも、この場のように、戦うことに意味が無いのに戦うなど、何の得にもならぬ。ならば、戦わなければよいのだ。
     無闇な戦いは、疲れ、失うだけ――そうか。それこそが、この試験の本意なのか)



     そのまま微動だにせず、晴奈と晴奈は向き合った。
     そして長い時が、立ち尽くす二人の間に茫漠と流れ――24時間が、経った。
    蒼天剣・烈士録 3
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、30話目。
    お説教。

    4.
     堂の戸が、すっと開かれる。重蔵がニコニコと笑みを浮かべながら、堂に入ってきた。
    「おう、おう。起きておったな、晴さん」
     晴奈は一瞬重蔵に顔を向け、すぐに目の前で刀を構えていた「自分」の方に視線を戻した。だが、既にそこには誰もいない。辺りを見回しても、人の姿は重蔵だけである。
     この24時間の間戦ってきた者たちは、どこにもいなかった。
    「さて、聞こうかの。晴さん、この試験は何を問うものじゃろ?」
     すべてを察した顔で、重蔵は晴奈に問いかける。晴奈はこの24時間で至った考えを、率直に話した。
    「……戦いの、意義。無闇に戦うことが、正しいことかどうか。無益な戦いは、無駄であると言うことだと」
    「ほぼ、正解じゃ。じゃが後一つ、逆のことも考えなければならぬ」
    「逆のこと? と言うと」
     晴奈は刀を納めつつ、聞き返す。
    「意味も無く戦えば、どうなる?」
    「意味も、無く……。恐らく、無為。何もなさぬかと」
    「さよう。じゃが、確実に失ったものがある。時間や話す機会、物、その他諸々、そして何より、人命。人は失った分、何かを手に入れようとする生き物じゃ。戦いで失ったものを取り戻そうとし、それは時として次の戦いを生む。
     そして戦いでまた何かを失い、さらに手に入れようとし――行き着く先は、修羅の世界じゃ。こうなるともう、無限の損失しか残らん。永遠に失い続ける人生を歩み、何も生み出すことは無い。それは己自身をも滅ぼす、まさしく地獄じゃ。
     無益な戦いこそ、剣士の名折れと心得よ。それがこの試験の本意じゃ」
    「なるほど……」
     重蔵の答えを聞いて、晴奈はしばらく顔を伏せ、考える。
    「……もう一つ、思ったことがあるのです」
    「うん?」
    「私は、私と向かい合った時、ひどく怯えていました」
     それを聞いた重蔵が、「ほう」と声をあげた。
    「自分まで呼びなすったか」
    「ええ。そして対峙した時、ずっと私は私から殺意をぶつけられていました。お恥ずかしい話ですが、これまで私は、あれほど強い殺意を受けたことが無かったのです」
    「ふむ」
     重蔵は腰を下ろし、晴奈に座るよう促す。
    「まあ、今までの経験から言うとじゃな」
    「はい」
     座り込み、同じ目線にいる晴奈をじっと見て、重蔵は言葉を続ける。
    「晴さんみたいに、自分を呼び出した者は滅多におらんのじゃ。
     呼び出した者は例外なく、若くして才能を開花させ、道を極めた者。そう言う者ほど、自分に自信を持っておるのじゃろうな」
    「はあ……」
    「正直な話、わしが試験を受けることを促した時、『自分にはその資格がある』と思っておったじゃろ?」
    「……はい」
     心中を言い当てられ、晴奈は顔を赤くしてうなずく。
    「そんな者ほど、当然過ぎるほど当然のことに気付かん。『敵を倒す時は逆に、倒されることもある』と言うことにな。それが分からん者ほど修羅になりやすい。
     さっきも言うたが、剣士としてその道に身を落とすことは、何よりも悪い罪じゃ」
     罪、と聞いて晴奈の心がまた痛む。先ほど感じた罪悪感が、思い出されてきた。
    「自分と向かい合った時に感じたそれを、よく覚えておきなさい。修羅の道に足を踏み入れそうになった時、それを思い出せば、思い止まることができるじゃろう」
    「はい……」
     晴奈は重蔵の言葉を、心に深く刻みつけた。

     重蔵は懐から巻物を取り出し、晴奈の眼前で紐解き、開く。
    「これは、焔流剣術の始まりからずっと書き連ねておる、免許皆伝の書じゃ。
     ほれ、この端。『焔玄蔵』と書かれておるじゃろ。これこそが我らの開祖、『焔剣仙』玄蔵。そしてその後に、おびただしい数の名前が連なっておる。これらは皆、焔流を極めし者。免許皆伝の証を得た者たちじゃ。
     そして今日、玄蔵と反対側の端に。黄晴奈の名を連ねよう」
     重蔵は指差した箇所に晴奈の名を書き、晴奈の手を取って拇印を押させた。
    「おめでとう。これより晴さんは、焔流免許皆伝を名乗ってよろしい」
    「……」
     晴奈は何か礼を言おうとしたが、言葉にならない。ばっと体を伏せ、重蔵の前で深々と頭を下げた。



     こうして双月暦512年の秋、晴奈は焔流免許皆伝と言う、最大・最高級の剣士の称号を得た。同時に紅蓮塞での地位も急激に上がり、指導に回ることも多くなった。
     だが、晴奈はこの現状に満足しなかった。いくら強くなっても、強くなったと言う証明を得ても――。
    (明奈を救い出せなくて、何が免許皆伝だ。
     いつか明奈が無事に帰ってくるまでは、いや、私が救い出すその時までは、この言葉を用いるまい)
     晴奈は救い出す機を待ち、黙々と修行に励んでいた。

    蒼天剣・烈士録 終
    蒼天剣・烈士録 4
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、31話目。
    頼りない後輩くん。

    1.
     免許皆伝を果たしてから、晴奈の環境は変わり始めていた。

     まず、第一に。師匠、柊と一緒に過ごす時間が減った。
    「また、別な子の指導を頼まれちゃって」
    「そうですか。では、私の弟弟子、となるわけですね」
     柊が新たな門下生に指導を行うこととなり、免許皆伝の身、即ち「教えるもの無し」である晴奈と付き合う時間は、相対的に減るからである。
     とは言え晴奈もそれを寂しく思うような年頃でもないし、柊もそうは思っていないらしい。
    「ええ、そんなところね。その子が起きたら、また改めて紹介するわね」
    「起き、たら……?」
     柊は困ったように、クスクスと笑った。
    「心克堂で、泡を吹いて倒れちゃったのよ。先が思いやられるわ」
    「な、なんと」

     第二に。自分自身が門下生の指導に当たるようになった。
     と言っても、晴奈は免許皆伝こそ果たせど、まだ「師範」では無い。まだ弟子を取るような身分では無いため、他の門下にいる者たちを集めて基本的な内容を教え、監督すると言う、師範格の補佐のような立場に就くこととなった。
    「わ、私、が、本日の指導に当たる、黄、晴奈だ。……んん、皆、その、精進するように」
    「はい、先生!」
     指導初日であがっている晴奈とは裏腹に、門下生たちは皆初々しく、さわやかな挨拶を返してきた。
    「で、では、えーと、んん。まずは、柔軟体操、からかな。各自、えー、私に合わせて、屈伸を始め、なさい」
    「はい!」
     挨拶はたどたどしかったものの、体を動かし始めると段々、調子が乗り始める。
    「よし、それでは素振り、百本行こうか」
    「はい!」「え」
     多くの者が快活に応える中、小さく戸惑ったような声をあげる者がいる。
    (ん? 入門したての者には多すぎたか……?)
     晴奈も一瞬戸惑ったが、ともかくやらせてみる。
    「……はじめっ」
     晴奈の号令に合わせ、ほとんどの者が軽々と百回、竹刀を振り終わる。
     ところが一名、30回を越えたあたりでへばっている者がいた。
    「ゼェ、さんじゅ、う、さん……、さん、ゼェ、さんじゅう、よん……」
    (お、おいおい)

     第三に。紅蓮塞での交友関係も、新しい広がりを見せた。
    「まったく、『お坊ちゃん』にも困ったものだ」
    「そうですねぇ」
     晴奈と同じく、ここ最近指導に当たるようになった者たちと集まり、碁を囲んだり茶や酒を酌み交わしたりしつつ話をする機会が増えていた。
    「確かに、あれはひ弱だ。剣士に向いていないのでは無いのだろうか」
     碁を指しつつそう評する晴奈に、一同は揃ってうんうんとうなずいている。
    「言えてますねぇ」
    「あのもやしっ子、本当に焔の血筋なのか?」
    「さあ……?」
     続いて、全員が首をひねる。
    「正直に言えば、そうは信じられんよ」
    「まあ、家元が自分の孫であると仰っているし、疑う道理もあるまい」
    「いやー、でもあの子、家元には全然似てませんしねぇ」
    「しかし魔力は、あるようではある。座禅などの修練は、いい成績だった」
     晴奈の言葉に、碁の相手は腕を組んでうなる。
    「ふーむ、そうですか。それなら体を鍛えれば、それなりになるかも知れないですねぇ」
    「今のところは気長に観るのが、いいのではないかと」
    「それがいいかもですねぇ。……ほい、と。へへ、黄さん、悪いですねぇ」
     話している間に、相手が盤上に並んだ晴奈の石を、ひょいひょいと取り上げる。
    「む、うー。……投了」



     先程から晴奈の話に上ってくる、このひ弱で気も弱い、短耳の少年。この少年はその年、塞の話題の中心人物となっていた。
     焔流家元、焔重蔵の孫だと言うのだが、16歳の男子にしては体力も腕力も無く、剣士と言うよりは書生の雰囲気をかもし出している。
     名前は桐村良太。いかにも頼りなげなこの弟弟子を、晴奈も当初、あまり良くは評価していなかった。
    (不安だな、どうも。師匠にいらぬ苦労や心配が増えぬと良いのだが)
    蒼天剣・指導録 1
    »»  2008.10.07.
    晴奈の話、32話目。
    貧弱、貧弱ぅ。

    2.
     紅蓮塞に来た当初から、良太の評価は低かった。
     入門試験の時点で、いきなり倒れたからである。
    「お、鬼があぁ……」
     心克堂の仕組みを見抜くことができず、目の前に鬼を出現させてしまい、そのまま気絶したのだと言う。
    「むう。……じゃが、逃げんかっただけましじゃな」
     結果を聞いた重蔵も困った顔をしたが、この時は妙な温情を見せ、塞内に入れてしまった。そこでまず、ケチが付いた。

     様子見と言う温情を付けて入門し、いざ稽古に入ったものの。
    「ヒィヒィ、ゼェゼェ」
     素振りでばてる。
    「痛っ!」
     稽古でうずくまる。
    「も、もうダメ……」
     5分も走れない。
     まともにできるのは座禅や読経などの、精神修練のみ。
     指導に当たる者たちは良太のことを「祖父の七光りの厄介者」と馬鹿にし、遠ざけていた。



     とは言え晴奈にとっては弟弟子であるし、自分も修行を始めたばかりの頃には似たような扱いを受けたこともある。
     疎ましく思う一方で、どこか親近感のような、同情心のようなものを良太に感じていた。
    「調子はどうだ、良太」
    「あ、晴奈の姉(あね)さん」
     ある日、書庫の側に置いてあった長椅子で一人、本を読んでいる良太を見つけたので、晴奈は声をかけてみた。
     ちなみに良太は姉弟子である晴奈を「姉さん」と呼び、とても慕っている。
    「調子、は……。そうですね、毎日、筋肉痛です」
    「そうか。体力は、前より付いたか?」
    「うーん……。あんまり付いた気、しないです」
    「ふむ、そうか」
     晴奈は良太の横に座り、読んでいる本を眺める。
    「何を読んでいる?」
    「え? ああ、えっと。歴史小説ですね。央南の、八朝時代の頃を書いた本です」
    「そうか。面白いか?」
    「ええ。すごく心が落ち着きます」
     そう言って良太は、にっこりと笑う。
    「実を言うと僕、体を動かすの苦手なんです。ここに来る前から、ずっと本ばかり読んでましたから」
    「前、か。そう言えば、お主は何故ここに?」
     それを尋ねた途端、良太は困ったような顔を見せた。
    「あの、それは、ちょっと……」
     その曇った表情に、晴奈は慌てて手を振る。
    「あ、いやいや。言いたくなければ言わなくとも良い。……そうか、まあ、お主にも色々事情があるのだな」
     ばつが悪くなり、晴奈はそこで言葉を切った。
     と、良太は読んでいた本を閉じ、じっと晴奈を見つめてくる。
    「ん? 私の顔に何か付いているか?」
    「晴奈姉さん、お願いがあるんです」
     良太は座り直し、晴奈に頭を下げた。
    「僕を、鍛え直してください」
    「……ふむ?」
     良太も塞内での自分の評判は良く知っていたらしく、思いつめた顔を晴奈に向け、もう一度頭を下げた。
    「僕に力が無いせいで、おじい様の評判まで落としているらしくて。折角僕に色々してくださったおじい様の顔に、泥を塗るような真似はしたくないんです」
    「なるほど。そう言うことであれば、協力は惜しまない。が……」
     晴奈は良太の体つきを上から下まで一通り眺め、ため息をつく。その体つきはどう見ても、貧弱と言う他無い。
    「……相当、大仕事になりそうだ」

     翌日、晴奈は良太を連れて、紅蓮塞の裏手にある山へと登った。
    「ゼェ、ゼェ」
    「頑張れ、良太」
     登り始めて早々、すでにばてている良太の手を引き、晴奈は山道を進む。
    「どこに、行くん、ですか?」
    「まあ、修行の代名詞だな。いわゆる、山ごもりという奴だ。紅蓮塞が山で修行するために、小屋を作っている。そこを貸してもらったから、しばらくはそこで生活するぞ」
    「山、ごもりです、かぁ」
     良太の声がどんどん弱くなってくる。晴奈はため息混じりに、良太に声をかけた。
    「もう少し頑張れ。しゃべらなくても、いいから」
    「はぃ……」
     2時間ほどかけて、晴奈たちは小屋までたどり着いた。
     なお、蛇足になるが――塞からこの小屋までは、晴奈一人の場合だと20分で着く距離である。
    (ふう……。参るな、のっけから)
    蒼天剣・指導録 2
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、33話目。
    スポ根?

    3.
     山小屋に到着した晴奈たちはとりあえず、休憩に入った。到着した時点で、良太が真っ青な顔でばてていたからである。
    「す、すいま、せん」
    「いいから。ともかく呼吸を整えろ」
    「は、いー」
     晴奈は良太の呼吸が整うまでの短い間、夕べ柊と交わした会話を思い返していた。



     良太が「自分を鍛え直して欲しい」と晴奈に請うた話を聞かされ、柊は頬に手を当ててうなっていた。
    「良太がそんなことを……」
    「任せていただいても、よろしいでしょうか?」
     話を聞いた柊は、腕を組んでもう一度うなる。
    「うーん……、そうねぇ、このままだと修行にならないし。……うん、お願いしようかな」
    「ありがとうございます」
    「お礼を言うのはわたしの方よ。
     ……まあ、重蔵先生からね、『こんなことを頼めるのは雪さんしかおらんでのぉ。どうか、あの子が将来困らんように指導してやってくれ』と言われたんだけど、その……。えっと、思った以上に、体力の無い子でね。いずれはわたしも、付きっきりで鍛えてやろうとは思っていたんだけど、……その、最近、ね、ちょっと、立て込んでいて」
     わずかに目をそらし、困ったような顔でつぶやく柊に、晴奈はドンと自分の胸を叩く。
    「お任せください、師匠。必ず、見違えるように鍛えてみせますよ」
    「ええ、お願いね。……あ、そうそう」
     柊は晴奈の猫耳に口を寄せ、そっとささやいてきた。
    「まあ、無いとは思うけど。油断しちゃダメよ」
    「はぁ……? 何を、油断すると?」
     晴奈の顔を見て、柊は呆れたような笑みを浮かべた。
    「……無いわよね、どう考えても」



    (任せてくれ、とは言ったものの)
     ようやく呼吸が落ち着き、汗を拭いている良太を見て、晴奈は心配になる。
    (山登りでこれか。改めて思うが、なかなか苦労しそうだな)

     ともかく、晴奈と良太の山ごもりは幕を開けた。
    「ほら、ばてるな! もっと根性見せろ!」
    「は、はひ」
     まずは、持久力を付けるための走り込み。やはり5分もしないうちに、良太は走ると言うより歩くと言った方がいいような状態になったが、そこで晴奈が活を入れる。
    「もっと足上げろッ!」
    「は、いっ」
     後ろから声をぶつけ、足を動かせる。
    「ほら、手も振れ! もっと息を吸え! 吐くより吸え!」
    「はい、っ、ハァ、すぅー、ハァ」
    「ほら、また足が上がってないぞ! 足上げろッ!」
     何度も足が止まりそうになっていたが、晴奈の活で何とか30分、良太は走り通した。

     次は竹刀の素振り。
    「まだ40回も行ってない! もっと腕を振り上げろ!」
    「は、ぁ……、はいっ」
     汗だくになり、上半身裸になった良太に、晴奈がまた活を入れる。
    「声が小さい!」
    「はい、っ! 38! 39! 4、0! よんじゅう、いち! よん、じゅう、に! よんじゅう、さん、よ、ん、じゅー……」
    「また腕が下がってる! 声出せ!」
    「45ッ!」
     これもつきっきりで晴奈がしごき、何とか素振り百回をやり通した。

     打って変わって、今度は良太が得意としている精神修養の一環、座禅。
    「……」「……」
     二人とも相手を見つめ合い、一言も発しない。
    「……」「……」
     しごかれ、疲労困憊のはずの良太はまったく、眠たげな気配を見せない。
    「……」「……」
     無論、晴奈も6年経験を積んでいるので、これしきのことで眠ったりはしない。
    「……」「……」
     木々のざわめきと互いの呼吸しか聞こえない小屋の中で、時間は刻々と過ぎていく。
     やがて西日が窓から差し込み、カラスの鳴く声が聞こえてきた。
    「……飯にしようか」「はい」



     その日の修行を終え、二人は夕食を作ることにした。
    「精神力だけは人並み以上だな。あれだけの時間をかけて、疲労を抱えていながら眠らずにおれるなど、そうそうできない」
    「そうですか。ありがとうございます」
     二人並んで台所に立ち、食材を切りながら雑談する。
    「体力も、声をかければかけるだけ絞り出せる。まったく無い、と言うわけでも無さそうだ。この調子なら毎日へこたれずに頑張れば、着実に鍛えられるだろう」
    「本当ですか」
     良太の声が嬉しそうに、台所に響く。
    「ああ。明日からも頑張ろう」
    「はいっ」

     食事も済み、日もすっかり落ちた頃、二人は床に就いた。当然また明日も、早朝から特訓である。
    「本当に、今日はありがとうございました」
    「『姉』の務めみたいなものだ。礼などいらぬ」
    「はは、はい……」
     うとうとしかけたところに、良太が楽しそうに声をかけてきた。
    「姉さん、かぁ。僕、兄弟がいないので、何だか嬉しいです」
    「そうか。まあ、明日も頑張れ、『弟』よ」
    「はい、姉さん」
     短い会話の後、二人ともすぐ眠りに就いた。
    蒼天剣・指導録 3
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、34話目。
    師匠のみょーな心配と、家元の検分。

    4.
     晴奈と良太が山ごもりを始め、一ヶ月が経った。
    「走れ! もっと足上げろ!」「はいっ!」
     初日はすぐにへたり、走ることもままならなかった良太だが、このしごきに体が慣れてきたのか、(多少手足の動きは鈍ったままだが)走り切れるようになった。
    「もう少しで百だ! 後20回、こらえろ!」「はい!」
     まともに30回できなかった素振りも、今は何とか60辺りまで、無難にこなせる。
     晴奈の特訓は、着実に実を結んでいた。

     その夜。
    「そろそろ、山を降りるとするか」
    「え?」
     床に入ったところで、晴奈が声をかけた。
    「この一月、お前はよく頑張った。最初の頃より大分、力は付いたろう。もう皆と同じように稽古をつけても、置いていかれるようなことはあるまい」
    「そうですか……」
     なぜか、良太の声は寂しそうだった。その沈んだ声をいぶかしがりつつも、晴奈はそれ以上何も言わなかった。
     話が途切れて10分も経った頃、良太の方から沈黙を破った。
    「……昔」
    「ん?」
    「昔、僕の母は紅蓮塞にいたそうです」
     唐突に、良太は自分の身の上を語り始めた。
    「でも、おじい様とケンカして出て行ったと、母から聞きました」
    「そうか」
    「母はその後央南を転々とし、やがて玄州の天玄で父と結婚しました。そして僕が生まれたんですが、その後……」
     その口ぶりから、晴奈は良太の家に、何か悲劇があったのだろうと勘付いた。そして良太の口から、予想通りの言葉が出てくる。
    「両親とも、亡くなりました。僕がいない間に、……強盗に襲われて。
     事情を聞いたおじい様は、僕を引き取ってくれました。そして『自分の力で、自分を守れるように精進しなさい』と」
    「……そうか」
    「あの……」
    「ん?」
     良太はそこで、口ごもる。
    「……あの、……いえ。その、一ヶ月の間、ありがとうございました」
     何かを言おうとしたようだが、晴奈はあえて尋ねようとはしなかった。
    「ああ。また何かあれば、何でも相談してくれ」



     翌朝、晴奈たちは山を降り、久々に紅蓮塞へと帰ってきた。そのまま柊のいる部屋まで向かい、二人で修行の成果を報告した。
    「師匠、ただいま戻りました」
    「おかえり、晴奈。それで、良太は強くなった?」
    「ええ、それなりに。紅蓮塞での修行にも耐えられるでしょう」
     それを聞いた柊は、嬉しそうに微笑んだ。
    「良かった。そっちの方はもう安心ね」
     晴奈は柊の言葉を聞き、首をかしげた。
    「そっち、とは?」
     聞いた途端、柊は困ったような顔をした。
    「あ、えーと、その。……無いとは、思うんだけどね」
    「ん?」
     柊は晴奈の猫耳に口を寄せ、そっと尋ねてきた。
    「何にも、無かったわよね?」
    「は? ですから、十分鍛えられたかと」
    「……無さそうね。良かった良かった」
    「?」

     続いて家元、重蔵にも同様に報告する。
     重蔵は柊のように変な勘繰りもせず、素直に喜んだ。
    「そうか、そうか。これで一安心じゃな。
     まあ、少し見てみようかの。二人とも、そこで待っていなさい」
     そう言うなり、重蔵は立ち上がって部屋を出る。
     良太はきょとんとした顔で、晴奈に尋ねる。
    「見てみるって一体、何でしょうか?」
    「実力が付いたかどうかを、だろう」
    「はあ……」
     まだ具体的に何をされるのか分かっていないらしく、良太は首をかしげた。
    「見る……、か? どうやって見るんだろう?」
    「とりあえず」
     晴奈はそっと立ち上がり、部屋の端で座り直した。
    「え?」
     立ち上がりかける良太を手で制しつつ、晴奈はこう助言する。
    「得物は手元に近付けておけ」
    「……あ、なるほど」
     そこで良太も、何が起きるか気付いたらしい。慌てて傍らに置いていた木刀を手に取り、周りの気配を伺うように、きょろきょろと見回す。
     その瞬間、晴奈は何かを感じ取った。
    (ふむ……? 不思議な奴だな。あれだけひ弱なくせに、ここで急に一端の剣気――手練が戦いに臨む際、自然と発するような、そんな空気を帯び始めた。
     多少侮っていたが、やはりこいつも焔の血筋と言うことか?)
     良太を包む空気が変化する。それまで怯え、戸惑う兎のようだった目に、緊急を感じ取っている輝きが、ちらちらと浮かんでくる。
    (しかし、それだけが理由では無さそうだ。
     この目は勇猛果敢に敵を打ち砕く虎とも、圧倒的な威圧感で獲物を狩る狼とも違う、どこか切迫した目つきだ。
     例えるなら、手負いの獣。修羅場を潜り、憔悴しきった羊のような……?)
     晴奈は腕を組みながら、じっと良太を見ていた。

     と、唐突に天井が開き、そこから重蔵が槍を持って飛び込んできた。
    「!」
    「せやあッ!」
     重蔵は飛び込んでくると同時に、槍を振り下ろしてくる。
     良太は目を見開きながら、バタバタと後ろに下がる。間一髪避けることはできたが、休む間も無く重蔵が二撃目を繰り出す。
    「そりゃッ!」
    「……ッ!」
     良太は声も上げず、鞘に収めたままの刀でそれを防ぐ。
    「それ、もう一丁ッ!」
     バンと床を蹴る音とともに、槍がもう一度良太に向かって伸びる。
    「うわ、っ」
     刀を抜けないまま、良太はもう一度鞘で防ごうとした。
    「あ、まずい良太」
     黙って成り行きを見ていた晴奈は、そこで声を漏らす。
     重蔵の槍は良太の鞘のすぐ手前でいきなり、ぴょんと跳ねた。
    「えっ」
     そのまま拳一つほど進んだところで、槍の穂先が勢い良く下がる。バチ、と言う音が響き、良太の刀ははたき落とされてしまった。
    「あ……」
    「ふーむ。晴さん、どれくらいじゃろ?」
     問われた晴奈は、二人が仕合った時間を答える。
    「7、いえ、8秒だったかと」
    「8秒か」
     良太の鼻先に槍を当てたまま、重蔵はぽつりとつぶやいた。
    「まだまだ、じゃなー」
     重蔵は槍を床の間に立てかけ、元の位置に座った。
    蒼天剣・指導録 4
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、35話目。
    不毛な情熱。

    5.
     座り直したところで、重蔵が満足気に感謝の意を表す。
    「まあ、それでも最初の頃に比べれば幾分、様変わりしたのう。ようやった、晴さん」
    「はい、ありがとうございます」
     晴奈たちも元の位置に戻り、揃って頭を下げた。
    「まあ、後何年か、じっくり修練を積みなさい」
    「はい。それでは、失礼……」「待った」
     と、もう一度頭を下げ、立ち上がろうとした良太を、晴奈が止めた。
    「何でしょう、姉さん」
    「一つ聞いてもいいか?」
    「……はい?」
     座り直した良太をじっくりと見て、尋ねる。
    「お主の経緯を聞いたが、嘘をついているだろう」
    「えっ」
    「両親が殺された時、お主はその場にいなかったと言ったな?」
    「え、ええ、はい」
    「本当は、いたんじゃないか?」
    「……!?」
     良太の目が見開かれる。晴奈は続いて尋ねる。
    「あの、家元を待ち構える際の、怯えにも似た鬼気迫る気配。何の危難にも出会わず、安穏と生きてきた者が出せるものでは無い。
     よほど己の身が危機にさらされなければ、得られぬ類のものだ」
    「……」
     良太の額に汗が浮かぶ。二人の様子を見ていた重蔵が、はーっとため息を漏らした。
    「流石じゃな、晴さん。その通りじゃよ」
    「おじい様!」
     良太が止めようとしたが、重蔵は片手を挙げ、それをさえぎる。
    「心配するな、良太。雪さんも晴さんも、口は堅い。周りに吹聴して、お前の秘密を暴くようなことはせんよ」
    「……」
     重蔵は座り直し、ゆっくりと語り始めた。
    「まあ、その。始めはわしと、わしの娘のいさかいが原因じゃった。
     わしも娘も、あの頃はひどく頑固じゃった。娘には剣術やら作法やら色々と教えたが、それをすべて、『私はもっと別な人生を歩みたいの』と言って捨て去った。そして口喧嘩の末に、娘は塞を離れた。
     それからしばらくして、娘から手紙が届いた。『ある街でいい人と出会い、結婚した。男の子が生まれたのだが、名前を考えてくれないか』、とな。正直、わしは少し複雑な気分じゃった。娘が勝手にどこの馬の骨とも知れぬ輩と、と怒った反面、反目していたわしを頼ってくれたその気持ちを嬉しくも思った。……結局、わしは和解した。『良太』と一筆したため、娘に送り返したのじゃ。
     その後、何度か手紙でやり取りし、そしてつい最近、『戻ってみてもいいか』と返事が来た。わしは喜んでそれを了解した。で、どうせなら迎えに行ってやろうとそう考えて、娘夫婦のいる天玄に向かった。じゃが……」
     重蔵はそこで言葉を切る。その顔はいつもよりしわが深くなり、くぼんだ目がひどく悲しそうに光っていた。
    「襲われておった。
     家は扉も、窓も破られ、娘も、夫と思われる男も、むごたらしく殺されておったのじゃ。そしてわしは、今まさに良太に襲いかかろうとしていた男を見つけた。考える間も無く、わしはそいつを斬った。腕は落としたものの、そいつは逃げてしまった。
     後に聞けば、そいつは人さらいだったそうじゃ。央南や、央中で暗躍する人身売買の組織があり、良太はそやつらに狙われたのじゃと。わしは良太を連れて急いで天玄を離れ、ここに戻ってきた」
    「……」
     すすり泣く声が、良太から聞こえてくる。晴奈が振り向くと、良太がボタボタと涙を流しているのが見えた。
     その様子を眺めながら、重蔵は晴奈に礼を言った。
    「鍛えてやってくれてありがとう、晴さん。この調子なら、良太はいつかきっと、大願を成就できるじゃろうな」
    「大願?」
     良太はグスグスと、鼻をすすりながら答えた。
    「仇を、取りたいん、です。僕の両親を、殺した、その男を、討ちたい」
    「……そうか」
     晴奈はなぜか、良太がそんな言葉を吐いたことにひどく、胸が痛んだ。
    (優しいこいつが、そんな悲壮な決意を抱く、……のか。私はもしかしたら、こいつが歩むべきだった人生を、曲げてしまったのでは無いだろうか。
     本当にこいつを、鍛えて良かったものか)



     晴奈の心境とは裏腹に、晴奈の評判は大きく上がった。
    「あの『坊ちゃん』を見事に鍛えるとは、なかなかに優れた練士では無いか」と評され、晴奈に指導を請う者、晴奈を慕う者が多くなった。
     勿論、良太もその一人である。
    「晴奈の姉さん、また今日もお願いしますねっ」
     子犬のように晴奈を慕う良太を見て、晴奈は心の奥にわだかまりを覚えずにはいられない。
    (……しかし)
    「ああ。今日も厳しく行くからな。頑張れよ」
    「はいっ!」
    (こいつがそれを望み、全うしようと言うのならば、応えてやらねばなるまい。
     姉弟子として、また、教官としても)
     晴奈は深呼吸し、雑然とした思いを頭から払いのける。
     良太と、前にいる門下生たちに向かって、大声を上げて指導を始めた。
    「では、今日も行くぞ! まずは柔軟からだ! はじめッ!」

    蒼天剣・指導録 終
    蒼天剣・指導録 5
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、36話目。
    妖怪話と、現代っ子の反応。

    1.
     双月暦512年、暮れ。
     央南中部ではある「化物」のうわさが広まっていた。姿は白い大狐で人語を解し、魔術を操り、人里離れた人家や旅人を狙うと言うのだ。



    「へぇ」
     柊が手紙を読み終わり、驚いたような声を漏らした。
    「晴奈、良太。ちょっとこれ、見てみて」
    「はい、何でしょうか?」
     精神修練の一環として、共に写本をしていた晴奈たちは、師匠の差し出す手紙を手に取り、読んでみた。
    「……え? 狐の、……妖怪、ですか?」
    「冒頭からまた、胡散臭い話ですね」
     晴奈も良太も、けげんな顔で柊に応えた。
    「あの、良く読んでみるとこれ、先生のご友人からの手紙ですよね。助けて欲しい、と書かれているのですが……」
     良太の質問に、柊は困ったような顔でうなずいた。
    「そうなの。何でも、彼がいる街でも被害が出たらしくって。彼が率いている自警団でその妖怪を探して捕まえよう、って言うことになったらしいの。
     それで腕の立つ人が欲しいから、来てくれないかって言うんだけど」
    「はあ……」
     話を聞いた晴奈は写本に戻りながら、率直な意見を述べた。
    「胡散臭いにも、程がありますね」
    「そうですか?」
     意外そうな顔をした良太を見て、晴奈は少し呆れる。
    「そう思わないか? 確かに、困ったことが起きたから手を貸してくれ、と言うこと自体は特に不審でもない。
     私が胡散臭いと言っているのは、妖怪などと言う表現だ」
    「表現? どう言う意味かしら」
     今度は柊が尋ねる。
    「妖怪などいるわけがありません。何しろ私はこれまで一度も、そんな奇怪で非現実的なものを見たことが無いですし」
    「でもほら、黒炎教団の神様とか。300年生きてるって言うし」
     良太の意見も、晴奈はにべも無く否定する。
    「だからそんなもの、私は見たこと無い。知り合いが見たとは言っているが、私自身が確かめたわけでは無いしな」
    「ああ、なるほどね。……うーん」
     晴奈の言い分を聞いて、柊は腕を組む。
     間を置いた後、ゆっくりとした口調で、晴奈と良太に説明し始めた。
    「えーと、ね。晴奈、誤解してると思うんだけど、……いるのよ、実際」
    「え?」
    「神話の時代から、数多の化物がそこら中に存在したと言われているわ。
     天帝教の英雄たちが竜や巨大な狼に襲われ、討伐したと言うおとぎ話を初めとして、その手の話は枚挙に暇が無い。
     でも文明が進むにつれて、そう言った話は少なくなっていった。これは人間が住む地域、生活圏が、そう言った化物の棲む地域に入り込み、侵食したせい。
     だから結果として、その場所にいた化物は討伐、淘汰されて、とっくの昔に消滅しているわ」
    「まあ、そう言う話であればまだ、うなずけます。
     しかしその話を前提にしたとしても、どっちにせよ、既にそんなものはこの世からいなくなった。そう考えられますよね?」
     晴奈の反論に、柊は首を振った。
    「いいえ、まだ世界全域に人間の手が入ったわけじゃないもの。
     この央南に限っても、屏風山脈は峠道から外れれば異世界も同然だし、あちこちの森や近海にも、人間が入り込めない場所はたくさんあるわ。
     だから、まだ駆逐されていない化物、妖怪は、確実にいるのよ。そう見えないのは、そんなところに踏み行ったことが無いからよ。
     これまでの旅も、なるべく安全なところを選んだわけだし」
    「そんなもの、……ですか」
     そう説明されても、まだ晴奈は腑に落ちない。それを察したらしく、柊がすっと立ち上がった。
    「じゃ、証拠を見せてあげる」
    「証拠?」
     柊はいきなり、上着を脱ぎ始めた。良太が素っ頓狂な声を出し、飛び上がる。
    「え、ちょっ、先生!?」
    「ちゃんと下は着てるから。……ほら」
     上着を脱ぎ、肌着をへその上までめくった柊を見て、晴奈たちは絶句した。
    「……!」「その、傷は」
    「刀傷には見えないでしょ?」
     どう見ても、大型獣の爪痕――それが腰から鳩尾の下にかけて、柊の右半身に付いていた。
    「10年くらい前、友人と旅をしてた時に付けられたんだけどね。あの屏風山脈を越える時に、うっかり峠道から外れてしまって。で、襲われたの。
     わたしは大ケガを負うし、魔術師だった友人も杖を折られちゃうし。下手をすれば死んでたところだったわ」
    「……」
     良太は食い入るように、柊の傷痕に見入っている。晴奈は恐る恐る尋ねてみた。
    「その、化物とは」「あら、聞きたいの? 嘘だって言ってたくせに」
     柊は服を着直しながら、珍しく恐ろしげな笑みを浮かべて尋ね返す。
    「……いえ、やめておきます」
     その笑い方があまりにも怖かったので、晴奈は口をつぐんだ。

     ちなみに良太は柊を見つめたまま、放心していた。よほど柊の肌着姿が強烈だったらしい。
    蒼天剣・逢妖録 1
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、37話目。
    三人旅。

    2.
     ともかく柊は友人からの願いを受け、手伝いのために晴奈を、そして後学のために良太を連れ、友人のいる央南中部の村、英岡(えいこう)を訪ねた。
    「やあ、良く来てくれたな雪乃」
     街に着くなり、あごひげを生やした道着姿の、短耳の男が出迎える。道着の家紋とたすきのかけ方からして、確かに同門であるらしい。
    「久しぶりね、謙」
     謙と呼ばれた男は晴奈たちを見て、軽く会釈した。
    「君たちが雪乃のお弟子さんかい? 俺は樫原謙と言う者だ。雪乃とは10年以上前に、一緒に稽古していた」
     晴奈はつられて挨拶を返す。
    「黄晴奈です。お初にお目にかかります、樫原殿」
    「ほう、今どき珍しい、堅い挨拶だな。よろしくお願い申す、黄殿、と」
     良太も晴奈に続き、挨拶をする。
    「桐村良太と言います。始めまして、樫原さん」
    「よろしく、桐村くん。……はは、やっぱり堅っ苦しいのはかなわん。黄くんも楽にしてくれていいからな」
    「さてと、謙。挨拶も済んだことだし、そろそろ例のこと、説明してもらっていい?」
     柊に問われた謙は「おう」と応え、街の方に向かって歩き出す。
    「ま、立ち話もなんだから。俺の家で話そう。飯も出すぜ」

     立ち話も、と言った割には、謙は家までの道中、しゃべり倒した。よほど旧友に会ったのが嬉しかったのだろう。
    「しっかし、雪乃は変わんないな。やっぱり、エルフだからかな」
    「ふふ、そうね。謙はどうなの? ヒゲが生えてるくらいで、見た目はそんなに変わってないけれど」
    「いや、やっぱり34ともなるとどこかしら、おじさん臭くなっちまうみたいだな。嫁さんにもよく、からかわれてるよ」
    「ああ、そう言えば結婚したのよね。奥さん、元気なの?」
     謙は嬉しそうに声をあげる。
    「おお、元気元気。もう4年経つけど、いまだに熱々だよ」
    「あら、のろけちゃって」
     柊は口に手を添え、クスクスと笑う。
    「雪乃はどうなんだ? そろそろ、いい相手はできたか?」
    「ぅへ?」
     謙に尋ねられた柊から、妙な声が出る。
    「はは、まだいないみたいだな。っつーか、オクテなところ、まだ治ってないんだな」
    「い、いいじゃない、わたしのことは」
     柊は顔を赤らめ、パタパタと手を振ってごまかした。
    「あ、そこを右だ」
     謙が指し示した方向に、小ぢんまりとした家が立っている。
    「あ、嫁さんに雪乃たちのこと、言ってくるから。ちょっと待っててくれ」
     謙は一足先に家へ入っていった。晴奈たち三人はその間、謙について話す。
    「大分、気さくな方ですね」
    「ええ、とっても話しやすい人よ。腕も立つし、塞では人気者だったわ」
    「そうなんですか……」
     なぜか、それを聞いた良太の顔が曇る。
    「やっぱり、その、先生も強い方を好まれますか?」
    「え? うーん、まあ、どっちかって言えば、だけど。何でそんなことを?」
    「あ、いえ」
     そうこうするうちに謙が、「狐」の女性を伴って戻ってきた。
    「待たせたな、みんな。彼女が俺の嫁さんだ」
     紹介された狐獣人の女性は、柊たちにぺこりと頭を下げた。
    「はじめまして、棗(なつめ)と申します。主人がお世話になっております」
     こんな田舎には多少場違いにも思える恭しい挨拶に、柊たちも同じように頭を下げ、挨拶を返す。お互いの紹介が済んだところで、謙がその場を締めた。
    「じゃ、そろそろ家で話をしよう。飯は、その後で」

     家に入ってすぐ、棗が台所の方に向かう。
    「ご飯の用意をいたしますから、その間……」
    「おう。見とくわ」
     謙がひらひらと手を振り、何かを了承する。謙は柊たちを居間に案内した後、「ちょっと待っててくれ」と言ってどこかに消えた。
    「見とく、って何でしょう?」
     晴奈の問いに、柊はクス、と笑う。
    「そりゃ新婚さんで、奥さんが忙しい間見るものって言ったら」
    「あ、なるほど」
     そこで晴奈も良太も、答えに行き当たる。
     間も無く柊たちの予想通りに、謙が「狐」の幼児を抱きかかえながら戻ってきた。
    「いや、すまんすまん。待たせたな」
    「いえいえ。……わあ、可愛い」
     柊は子供の顔を覗き込み、その頭を優しく撫でる。自分の子をほめられた謙は、気恥ずかしそうに笑う。
    「へへ……」
    「『狐』だけど、顔は謙に似てるわね。名前は?」
    「桃って言うんだ。ほら、耳と尻尾がちょっと桃色だろ?」
    「なるほどねー」



     余談になるが、この世界にはいわゆる「ハーフ」が存在しない。
     例えば長耳と短耳が結婚し、その子供が生まれたとしても、その子供の耳が足して2で割った大きさ、と言うことは無い。
     顔つきや体格など若干の遺伝は生じるが、その子供は短耳か、長耳のどちらかにしかならない。これは他の種族に対しても、同様である。
     短耳の謙と狐獣人の棗の子である桃も、顔立ちは父親似だが、耳や尻尾と言った身体的特徴は、母親のそれである。
    蒼天剣・逢妖録 2
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、38話目。
    雪中の妖狐。

    3.
    「あ、そうそう。和んでる場合じゃなかったな」
     謙は居間に腰を下ろし、ようやく本題に入った。
    「手紙にも書いていた妖怪なんだが、最近は英岡の東側、天神川下流でよく目撃されているらしい。これまでの目撃例を辿ると、どうやら天玄からこっちに南下しているようだ」
    「天玄から? あんな大都会で、妖怪が出たって言うの?」
     前述の柊の言葉を借りれば、人間が多く暮らす場所では妖怪や化物は現れにくいはずなのだが、謙はうなずいて返す。
    「ああ、その時も大騒ぎになったんだ。もっとも、うわさがうわさを呼んで、妖怪が出たこと自体がうやむやになったが。
     ともかく、その妖怪はこっちに向かって動いている。すでに旅人や郊外の家屋など、被害もチラホラ出ていると言うし、この街を警護している俺としては早急に捕まえるか、殺すかしたいところなんだ」
    「なるほど。それで、次に現れる場所とかはもう、目星が付いてるの?」
     謙はもう一度うなずき、宙を指した手を下ろしていく。
    「ああ。俺たちの予測では、また天神川の、以前より南の地点に現れると読んでいる。それも、一両日中に。
     だから人をあちこちに配置して、天神川周辺をまんべんなく見張るつもりなんだ」

     晴奈たちは到着したその日から、妖怪討伐に参加することとなった。
     夕暮れになってから天神川のほとりにたむろしていた討伐隊に合流し、謙と柊、晴奈、良太の4人で捜索することになった。
    「魔術まで使うと言うからな。気を付けろよ、みんな」
    「ええ」
    「分かりました」
     対人のみとは言え、柊と晴奈は戦い慣れしているせいもあって、割と落ち着いている。
    「りょ、了解です」
     しかしそんな経験など無い良太は、怯えがちに晴奈の袖をつかんでいる。
    「良太。動きにくい」
    「す、すみません」
     謝りながらも、袖から手は離さない。その様子を見ていた謙はぷっ、と吹いた。
    「はは、しっかり者の姉と気弱な弟、って感じだな」
    「ふふ、そうね」
     晴奈は片袖をつかまれたまま、左手をパタパタ振る。
    「勘弁して下さいよ……」
     その様子を温かい目で見ていた謙は、深々とうなずいている。
    「いいなぁ、そう言うのも。次は男の子もいいなぁ」
    「謙、本当におじさん臭いわよ、クスクス……」
    「へへ、そりゃおじさんだしな。お前だって、もう30じゃなかったか?」
     柊はすまし顔で、謙に返す。
    「エルフは長生きなの。あと20年は若者よ、うふふ」
    「はは、そりゃうらやましい」
     二人の笑い声で、良太も緊張がほぐれてきたようだ。晴奈から手を離し、話に加わる。
    「本当に、先生は綺麗な方ですよ」
    「え?」「へ?」
     突然、会話が止まる。晴奈は心の中で呆れている。
    (こいつ、空気読んでないな。突拍子が無いにもほどがある)
    「ああ、どうも、ありがとね」
     とりあえず、柊は礼を言う。謙はニヤニヤしている。良太もとりあえず笑ってはいるが、空気がおかしくなったことに、ここでようやく気付いたようだ。
     と――遠くから、誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。

     叫び声を聞きつけた4人が現場に向かうと、辺りは既に修羅場と化していた。
    「な」
    「何だこりゃ?」
    「凍って、……る」
    「さっ、寒い……」
     年の暮れが近いとは言え、まだ雪の積もらない時期である。ところがその一帯は氷に覆われ、凍り付いているのだ。
     辺りにはチラホラ人が倒れており、その体には霜が分厚く降りている。
    「大変、助けなきゃ!」
    「ええ!」
    「待て!」
     凍りついた者たちを助け出そうとする柊と良太を、謙が止める。
    「……いる。すぐ、近くに」
     晴奈もその気配を感じ取り、刀を抜いて構える。良太はまだ、うろたえたままだ。
    「え、え?」
    「良太、わたしの後ろにいなさい。……来るわ」
     柊がそう言った瞬間、木々を裂いて巨大な狐が飛び込んできた。
     全体的に白く、耳と尻尾の先や手足がわずかに桃色を帯びた、体長2メートルはあろうかと言う大狐だった。
    「ひゃああっ!?」
     叫ぶ良太を気に留めず、晴奈が斬り込む。
    「そらッ!」
    「ギャアアッ!」
     晴奈の刀を避け、大狐はボソボソと何かを「唱えた」。
    「……『アイ、ス……、ジャ、ベリ……、ン』!」
    「な……!?」
     柊が驚き、叫ぶ。晴奈は着地直後で、動けない。大狐の背中辺りに氷の槍が形成され、晴奈に向かって飛んできた。
     が、槍は晴奈から大きくはずれ、後ろの木に当たる。
    「……え?」
     てっきり飛んでくると思い、身構えていた晴奈は呆気に取られる。
    「……グルルル」
    「また来るぞ!」
     今度は大狐の周囲に、拳大の雹が十数個現れ、四方に飛び散る。
    「うわああ!?」「動かないで、良太!」
     今度も、命中精度は低い。ほとんど四人に向かうこと無く、地面や木々にぶつかり、弾けていく。
    「何で……?」
    「使えはするが、当たるまでは行かないらしい。っと、またかよ!?」
     大狐は謙に向き直り、また氷の槍を発射した。
    「チッ……! 『火射』!」
     いち早く反応した謙が焔流の炎でその槍を溶かし、消滅させる。
    「グア!」
     大狐は舌打ちをするように吠え、ぴょんと跳んでその場から消えた。
    「な、何なの……!? 今の、魔術だったわ、よね? まさか本当に、魔術を使うなんて」
    「まあ、あの通りだ。使うんだ、本当に。
     ……っと、こんなこと話してる場合じゃない! まだ助かるかも知れない」
     謙は刀をしまい、周りに倒れている者の救助に向かった。
    蒼天剣・逢妖録 3
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第39話。
    梶原夫婦の事情と、柊一門の寝相。

    4.
     結局あの大狐は捕まえられず、また、凍傷によるケガ人こそ出たものの、凍死した者はいなかった。
     双方大きな被害の出ないまま、今回の討伐作戦は失敗に終わった。

     帰宅した四人を、棗は簡単な食事と熱いお茶で労ってくれた。
    「皆さん、お疲れ様でした」
     差し出された茶を受け取りつつ、謙は壁の時計を見て、呆れた声を上げる。
    「うわ、よく見りゃもう朝方じゃねえか。すまんな棗、こんな時刻まで」
    「いえいえ、ご無事で何よりです」
     二人の様子を見ていた良太はなぜか、うらやましそうに見ている。
    「いいですねぇ、何か」
    「うん?」
    「理想の夫婦、って感じです」
    「はは、そうか?」
     謙は嬉しそうに笑い、お茶を一息に飲む。
    「まあ、俺にはできた嫁さんだよ、本当に」
    「まあ、あなたったら」
     棗は口元に手を当て、コロコロと笑った。
    「そう言えば、二人の馴れ初めとか聞いてなかったわね。どうやって出会ったの?」
    「ん? んー……」
     ところが柊に質問された途端、二人は顔を見合わせて黙り込んでしまった。
    「あ、あら? 何か、いけなかったかしら」
    「あー、いや。悪いってわけじゃないんだが。うーん」
     謙はもう一度、棗を見る。棗は少し困ったような顔を見せたが、口から手を離して説明してくれた。
    「……まあ、主人と懇意にして下さっている方ですから、秘密にしていただければ。
     元々、わたくしは天玄のある名家の出だったのですが、少しばかり、家といさかいがありまして。そこで家を離れ、この街まで来たところで、謙と出会ったのです」
     そこで謙が話を切り上げ、休むよう促した。
    「まあ、巷じゃ良くある恋愛話、さ。……さあ、もう寝よう」

    「ビックリしましたね。まさかここに来て、あんな話が待ってるなんて」
     寝床を用意され、早速横になったところで、良太が口を開く。
    「んあ?」
     早くも半分眠りかかっていた晴奈は、それにぼんやりと応える。
    「そうだな、うん。しかし、幸せそうでいいじゃないか」
    「そうですね、本当。……はあ」
    「どうした?」
     急にため息をついた良太に、晴奈が声をかける。柊からは反応が無いので、既に眠っているらしい。
    「僕、最近よく考えるんです。『幸せな家庭』って、あるのかなって」
    「はあ?」
    「おじい様と母はケンカの末、離れ離れになりました。そして母と父は、……亡くなって。僕は将来、樫原さんみたいに幸せな家庭が作れるのかなって」
     晴奈は眠気が押し寄せる頭で、のたのたと答える。
    「それは、まあ、難しいと思うぞ。お前は、仇討ちをする、だろう?」
    「……はい」
    「そんな危険なことを、しなければならん、そんな人生に、女子供を巻き込む、など」
    「そうです、よね」
     しんみりとした声が返ってきたが、既に晴奈は眠っていた。



    「うう、ん」
     誰かがうめいている声で、晴奈ははっと目を覚ました。
    (あ、いかん。良太の相談に乗っていたのに)
    「すまない、りょ……」「りょう、た」
     晴奈が良太に声をかけようとした矢先、その反対側――すなわち、柊の方から声が聞こえてきた。
    (おっと、起こしたか?)
    「りょうたぁ、ううん……」
     突然、晴奈は尻尾をつかまれた。
    「ひゃん!?」
     妙な声が出てしまう。どうやら、柊が寝ぼけて自分の尻尾を触っているらしい。
    「し、師匠、あの」「いかないでぇ」「にゃうっ!?」
     妙に切なげな声で、柊が尻尾を引っ張る。
    「あの、本当にお止めください」「だめぇ、いかないでぇ」「にゃーッ!?」
     これでもかと強く引っ張られ、晴奈は思わず叫んだ。



    「ふあ、ぁ……」
     朝になり、自然に良太の目が覚めた。のそ、と起き上がり、何気なく晴奈たちを見た。
    「……ちょっ」
     良太の顔が真っ赤になる。柊が晴奈を羽交い絞めにして、嬉しそうな顔で寝息を立てていたのだ。一方の晴奈は、泣きそうな顔で眠っていた。
    「……起こした方がいいかなぁ、これ」

    「ごめんなさいね、晴奈」
    「……いえ」
     部屋の隅で尻尾の付け根を押さえてうずくまる晴奈に、柊が謝っていた。
    (あれほど痛いとは、思いもよらなかった)
    「わたし、変な夢を見ちゃって」
    「どんな夢ですか?」
     顔を洗い終えた良太が問いかけると、柊は顔を赤くしてバタバタと手を振った。
    「いいのっ、何でも無いから」
    「はあ……」
     応えてはくれなかったが、晴奈には粗方の予想が付いていた。
    (散々寝言で、『良太』だの『行かないで』だの言って私の尻尾を引っ張り倒していたから、恐らく良太が崖を踏み外して、命綱を師匠が握っていたとか、そんな夢だろうな。
     ……助けておけよ、師匠の夢の中の私め)
    蒼天剣・逢妖録 4
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第40話。
    師匠の逆鱗。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     正午少し前に、晴奈たちは自警団の会議に参加した。昨夜取り逃がした大狐を、もう一度捕まえようかどうか話し合っているのである。
    「思ったよりてこずった、と言うか」
    「難しいな、捕まえるのは」
    「あの動きに加え、魔術まで使われては……」
     昨夜の失敗で、自警団内の空気は重苦しく淀んでいる。
    「しかし、決して倒せないと言うわけではない。現に、あいつの術は俺が破っている」
     団長である謙は場を盛り上げようとするが、団員の顔に希望の色が浮かんでこない。
    「でも、我々では歯が立ちません」
    「団長以外、ほぼ全滅でしたし」
     一向に場の沸き立たないまま、消極的な案が出される。
    「このまま、放っておくわけには行きませんか?」
    「何だと?」
    「あの狐はどんどん南下しているというじゃないですか。もしかしたら、このまま英岡から離れてくれるかも」
     それを聞いた謙は「ううむ……」とうなり、腕を組む。
    (確かに、一理あると言えば、あるのだが)
     晴奈もその理屈に納得しないではないのだが、どうも引っかかる。
    「しかしですね」
     柊も同様だったらしく、手を挙げた。
    「これまで南下したから、これからもずっと南へ行く、……とは限らないでしょう。
     英岡自体かなり南にありますから、狐の南下がここで止まる可能性は少なくないと思います。ここで村の方には絶対に来ない、とも断言できないですし。
     もう一度捜索に当たり、きっちりと始末を付けておいた方が、後顧の憂いを断てるのでは」
     柊の意見に、各々考え込む様子を見せる。長い沈黙が流れた後、謙が採決を取った。
    「……どちらにしても、このままうなるだけでは埒が明かない。どちらかに決めよう。
     このまま放っておいた方がいい、と言う者」
     こちらの案には10人の手が挙がった。
    「では、もう一度捜索した方がいい、と言う者」
     柊が真っ先に手を挙げる。それに続いて、晴奈と良太が手を挙げる。が、それに続いたのは5人――合計で、8人だった。
    「……決まりだな。
     では、一応の警戒だけはしておくが、こちらから討伐には出向かない、と言うことにしよう」
     謙も不安に思っていたらしく、折衷案を出す形で場をまとめた。



     会議が終わり、晴奈たちはまた樫原家に戻ってきた。
    「おかえりなさい、皆さん」
     洗濯の途中だった棗がにこやかに出迎えてくれる。謙は会議で決まったことを伝え、もう2、3日、夜の巡回をすることを伝えた。
    「そうですか……。でも、ここしばらく、あまり休んでいらっしゃらないのでしょう?」
    「まあ、鍛えてるから心配はいらない。終わったらぐっすり寝るさ」
    「そう……。無理なさらないでくださいね」
     それを見ていた柊と晴奈はほぼ同時に、樫原夫妻に声をかけた。
    「あの、良かったら」「ん?」
     晴奈が引き、柊が提案した。
    「わたしと晴奈で今日の巡回、交代するわよ」
    「え? いや、しかしお客にそんなことは……」
     申し訳無さそうな顔をする謙に人差し指を立て、柊が続ける。
    「水臭いわよ、お客だなんて。一日くらい、家族みんなでゆっくり休んだ方がいいわよ」
    「……そうだな。じゃあ、柊一門のご好意に甘えるとするかな」
     柊はにっこり笑って承諾した。
    「ええ、任せてちょうだい。晴奈と良太がいれば、全然問題無いわ」
     名前を呼ばれ、良太が目を丸くする。
    「え? 僕……」「黙れ。空気読め」「……はい」
     良太が口を開きかけたが、晴奈が小声で黙らせた。

     夕方からの巡回に備え、晴奈たちは寝室に戻った。
    「ゴメンね、良太」
    「いえ、そんな……」
     いつの間にか良太まで参加することにしてしまい、柊が手を合わせて謝っていた。
    「しかし良太、仮に私と師匠だけで行ったらお前、多分困るぞ」
    「え? ……あ、ですよね。家族水入らず、ですもんね」
     良太は頭をポリポリとかいて、柊に謝り返した。
    「すみません、僕の考えが至らなくて」
    「いいのよ、謝らなくて。元々、わたしが勝手に言っちゃったんだから。でも、二人とも頼りにしてるから、今夜はよろしくお願いね」
     頼りにしていると言われ、良太の顔が一気にほころぶ。
    「あ……、は、はいっ! 精一杯、頑張らせていただきますっ!」
    「うふふ、ありがとね」
     晴奈は隣の部屋にいる樫原夫妻の声に耳を傾け、軽くため息をつく。
    「ふむ……。本当に、幸せそうだ」
    「ん?」
    「いや……。私の家族は、ある事件で妹がさらわれたからな。それに私自身、親に反発して家を出た口だし、お前の言っていた『幸せな家庭』って奴に、私も少なからず憧れてはいるんだ」
    「そうだったんですか……。姉さんのところも、大変なんですね。
     ……あ、そう言えば」
     良太は何かに気付き、柊の方を見た。
    「先生って、ずっと紅蓮塞にいたんですよね?」
    「ええ、そうよ」
    「いつから塞にいらっしゃるんですか? ご家族とかは?」
     良太からそう質問された瞬間、ほんの一瞬だけ、柊の顔が曇った。
    「……さあ? 物心付いた時からいたもの。覚えてないわ」
     答えた柊の顔は平静を装っているようにも見えたが、明らかに不快そうな目をしていた。
    「あ……。何か、その、えっと。……すみません」
     良太は慌てて謝ったが、柊の機嫌は直らない。
    「いいのよ、別に。……散歩してくる」
     柊は顔を背け、そのまま部屋を出て行ってしまった。
    「僕、変なこと言っちゃいましたか? ああぁー……」
     良太は頭を抱えてへこんでいる。
    「まあ、虫の居所が悪かったのだろう。気にするな、良太」
     晴奈は良太の肩を叩きながら慰めつつ、柊の態度に疑問を抱いていた。
    (あれほど不快感をあらわにされるとは。一体、何があったのだろう?)
    蒼天剣・逢妖録 5
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第41話。
    きょうだい。

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    6.
     散歩から戻ってきた柊は、すっかりいつも通りの優しげな顔に戻っていた。
    「お待たせ、二人とも。さあ、巡回に行きましょ」
     その顔を見て、晴奈も良太もほっとした。
    (良かった、機嫌が戻ったようだ。
     まったく、普段怒らぬこの方にあんな態度を見せられると、ヒヤヒヤしてしまうな)



     巡回が始まる頃には、短い日差しで若干温くなった空気も、もう既に冷えかかっていた。夕べよりも空気が乾燥し、より寒さが増している。
    「はぁ、寒い」
     良太が鼻まで巻いた襟巻き越しに、白い息を吹く。
    「これも修行みたいなもんだ。我慢しろ」
     そう言う晴奈も良太同様、口と鼻を隠すように襟巻きをしている。
    「姉さんも寒いんじゃないですか?」
    「何を根拠に」
    「ほら、動物の猫だって寒いの、苦手じゃないですか。猫獣人なら、やっぱり」
    「馬鹿なことを。私は猫獣人であって猫ではない。お前だって『裸の耳なんて豚みたいですね』などと言われたら、いい気はしないだろう?」
    「そりゃまあ」
    「大体剣士ともあろうものが少々の暑さ寒さでガタガタと文句を言うな。心頭滅却すれば火もまた涼しと言うだろう」
    「そんなこと言っても、姉さんの耳、プルプルしてますよ」
     晴奈は掌でぺた、と猫耳を覆う。
    「うるさい。……ほら、巡回に集中しろ」
     会話をずっと聞いていた柊は、たまらず笑い出した。
    「……ふ、ふふ、あははっ。本当に二人とも、姉弟みたいね」
    「また、そんなこと……。勘弁してくださいよ、師匠」
     晴奈もつられて笑う。ところが、柊はひとしきり笑った後、唐突に黙り込んでしまった。
    「……姉弟ねぇ。いたのかしら、わたしに」
    「え?」
     柊が何のことを言っているのか分からず、晴奈が聞き返そうとしたその時だった。
    「……晴奈、良太! 何か、感じない?」
     柊の顔が、険しくなった。

     柊に言われて、良太は初めてその気配に気付いた。
     空気が、異様に冷え切っているのだ。既に日は暮れているとは言え、落ちてからたったの数十分で、ここまで気温は下がらない。
     それに何より、獣の臭いが漂ってきている。
    「これ……は」
    「間違い無い、奴だ。良太、下がっていろ」
    「やっぱりまだ、この辺りにいたのね」
     晴奈も柊も静かに刀を抜き、良太を挟むように身構える。くおおん、と言う甲高い叫び声が、辺りにこだまする。
    「う、わ……! 耳が、痛い!」
     良太は叫びに嫌悪感を覚え、耳をふさぐ。晴奈と柊は、身構えたまま動かない。
    「ど、どこから?」
     良太はきょろきょろと、辺りを見回す。だが、昨夜の大狐の姿は、どこにも見当たらない。
     再び、くあああ、と言う叫び声が響き渡る。
    「ひ、い……」
     良太の頭が、締め付けられるように痛む。
    (よ、良く平気でいられるな、二人とも)
     耳を押さえながら、良太は周りの二人に感心していた。
     だがよく見てみると、二人とも脚がガクガクと痙攣している。後ろを向いたままの頭が、異様に震えている。そして、耳からはするる、と血が――。
    「え……!?」
     晴奈と柊は刀を握りしめたまま、二人同時に膝を着いてしまった。
    「『ショックビート』……、これ、で……、うご、け……、ない」
     真正面からのそのそと、大狐が歩いてきた。
    「き、みは、とっさに……、みみを、ふさいだか。にど……、も、かけた……、のに。できれば……、てあら、な、こと……、は、したく、な、かった、……のだ、が」
     狐はパクパクと、口を動かしている。それに合わせて、狐の方向から人間のような声が聞こえてくる。紛れも無く、この大狐がしゃべっているのだ。
    「ひ……」
     良太は慌てて刀を構えるが、恐怖で脚が震え、動けない。
    「うごか……、ないで、くれ。あまり……、さわ、ぎ、に……、した、く、ない」
    「た、助けて……」
     良太は怯えつつも、刀を正眼に構えて牽制しようとする。ところが、ここで大狐が妙なことを言い始めた。
    「たす、けてほしい、のは、こ、……っちの、ほう」
    蒼天剣・逢妖録 6
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第42話。
    妖狐との再戦。

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    7.
    「……え?」
     思いもよらない大狐の言葉に、良太はぽかんとする。
    「た、助けてほしい? って?」
     良太の問いに答える代わりに、大狐は自分の名を名乗った。
    「しょ、……うせい、あま、……あ、ら……、い、ち……と、もう……、す」
    「あまあら、いち?」
    「ああ、はら……、ちい」
    「ああはら、ちい? ……あまはら、いちい? アマハラ・イチイさん、ですか?」
     大狐――イチイは大儀そうに、あごを下ろす。どうやら、うなずいているようだ。
    「いか、に……も。しょう、せい、あに……えに、たばか、られ、……のよう、な、すがたに」
    「え、え……?」
     イチイの声には半ば獣の吠える声が混じり、正確には聞き取れない。だが、何となくは分かってきた。
    「てん、……えん、をぬけ、だし、ここ、ま、で……、にげて、きた、のだが。この、ような、すが、……たになって、は、だれ、……も、まとも、に……、せっして、くれな、……い」
     良太は混乱しつつも、イチイの話を整理する。
    (アマハライチイさん、って言う、……人で。あにえ、って人にだまされて、こんな姿になって、てんえん……、天玄かな? を抜け出して、ここまで逃げてきた? でも、この姿じゃまともに取り合ってくれる人なんかいないから、……それが、妖怪の正体?)
    「あ、あの、イチイさん」
    「なん、だ」
     良太は恐る恐る、イチイに近付く。
    「あの、街の人を襲ったって、聞いたんですが」
    「そ、れは、……おそって、きた、から。……い、いや、しょうせい、もわる、……い、のだ。と、きおり、……じ、じせいが、きか……、なく、な、なる。
     あ、たま、が……、け、け……けも、の、に……」
     イチイのしゃべり方が、次第におかしくなってくる。獣の咆哮が混じり、非常に苦しそうにうめきだした。
    「う、うぐ、……はなれ、ろ、しょう、ねん。しょ、しょう、せい、もう、じせいが……、が、がっ、ガアッ、グアアア!」
     突如、イチイは吠え出した。どうやら、時折自制が利かなくなるらしい。
     良太は慌てて、倒れたままの晴奈たちを起こそうとした。
    「先生! 姉さん! 襲ってきます! 早く……」
     晴奈の襟巻きを引っ張ろうと、手をかけたその時。
    「……何だって? 少し黙ってくれ、良太」
     うるさそうな声を出しながら、晴奈が顔を上げた。
    「姉さん! 大丈夫ですか!?」
    「うるさい。耳が痛い。……ゴボゴボ言ってるんだ」
     晴奈は良太の手をつかんで、どうにか立ち上がる。
    「あ、あの、大丈夫ですか、姉さん?」
     良太が声をかけるが、晴奈は応じず、ただ良太の顔をじっと見ている。
     と、彼女は唐突に顔を傾け、耳をぺちぺちと叩く。すると真っ赤な血がボタボタと、もう片方の耳から垂れてきた。
    「ひゃっ!?」
    「あの叫び声で、鼓膜がおかしくなったようだ。お前が何を言っているか、全然分からぬ」
     今度は反対側に首を傾ける。同じように耳にたまった血を抜き、ようやく地面に落ちていた刀を手に取る。
    「うー、吐きそうだ。何故、こんなに地面が揺れているのだ」
     その言葉と、ユラユラと体を揺らす仕草から、良太は昔読んだ医学の本に、似たような症状が書かれていたことを思い出した。
    (あの術、多分音で耳を潰すんだ。いや、耳だけじゃなく、耳の奥――脳まで揺さぶってるんだろう。多分姉さん、平衡感覚がおかしくなってる。
     そんな状態で、戦えるのか……!?)

     良太の心配は当たっていた。
     晴奈は刀を構えてはみたものの、その途端に、体が右に傾いていく。
    「お、っと」「……!」
     とっさに良太が晴奈の肩をつかんでくる。放してもらおうと良太の方に顔を向けるが、焦点が定まらず、良太の顔がブレて見える。
    「……!」
    「何だって? ……いいや。何か心配はしてくれてそうな顔だ。
     問題無い、大丈夫だ良太。いいから手、放せ」
     晴奈は身をよじって良太の手をはがし、もう一度構え直す。
    「はー、あー、すー、はー、すー、はー」
     晴奈は深呼吸をして、何とか平衡感覚を戻そうとするが、地面は一向に傾いたままだ。
    (参ったな、急坂だ)
     右脚にこれでもかと力を入れ、無理矢理に踏ん張る。
     この間、イチイは何とか頑張ってくれていたようだが、どうやら限界に達したらしく、晴奈に向かって口を大きく拡げ、牙を向いてきた。
    蒼天剣・逢妖録 7
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第43話。
    見えない敵の片鱗。

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    8.
    「来い、白狐」
     体を傾けたまま、晴奈が刀の先を向けて挑発する。その挑発にイチイが乗り、叫びながら飛び込んできた。
    「『火射』ッ!」
     晴奈の刀から炎が走る。凍てつく空気を切り裂き、燃える剣閃がイチイへと飛んで行く。
     しかし、どうやら完全な獣になっても魔術は使えるらしく、イチイのすぐ手前に透明な壁が現れ、そこで炎が阻まれ四散した。
    「あ、姉さん、あの」
     良太はイチイが殺されないよう晴奈に声をかけるが、まだ鼓膜の治らない晴奈が応えるはずも無い。
    「おおおおッ! 『火閃』!」
     晴奈はイチイの目の前へ飛び込み、「壁」に向かって炎の乗った刀を振り下ろす。
    「グアッ!?」
     振り下ろした瞬間、炎は火花に形を変え、バチバチと音を立てて飛び散る。炎が散ると同時に、「壁」に幾筋もの亀裂が入り、消滅した。
    「はー、はー、はーっ、はーっ、ぜぇ、はああ……」
     だが、その一撃で晴奈は力尽きたらしい。ぜぇぜぇと荒い息をしていたが、やがて膝から崩れ、その場にうずくまってしまった。
    「くそ、ここまで、か……ッ」
     晴奈の手から、刀が落ちる。晴奈自身もその場に倒れ、動かなくなった。
    「あ、姉さん!」
    「落ち着いて、良太」
     と、いつの間にか柊も回復したらしく、良太の後ろに立っていた。
    「相討ちよ」
    「え?」
     おたおたしながらも、良太は晴奈とイチイの様子を伺う。
     依然として、晴奈は伸びたままだったが、一方のイチイも晴奈の一撃で額を割られており、仰向けに倒れていた。



    「姉さん、聞こえますか?」
    「ああ、聞こえている」
     柊の治療術で、晴奈の聴力はどうにか元に戻った。だが脳への衝撃はすぐに治るものでは無く、近くの小屋まで運んでもらい、横になっていた。
    「んで、その狐、何て名前だったって?」
     イチイも倒れている間に鎖と荒縄で縛り、今は檻に入れられている。その間に謙たちを呼び、イチイが目を覚まし次第、彼から事の次第を説明してもらおうと、良太が提案したのだ。
    「えっと、アマハライチイさんです」
     良太から名前を聞き、謙の顔が険しくなる。
    「アマハラ……、天原、か?」
    「多分、そうかも……」
     良太の顔も、ひどく不安そうだ。周りの自警団員たちも、神妙な顔を並べている。
    「天原って、まさか、あの天原か?」
    「まさか。名士だぞ、天原家は」
    「いや、しかし。うわさに聞けば、今の当主の桂氏は……」
    「言うなって。どこに奴の間者がいるやら分からん」
     と、晴奈は小声で良太に尋ねる。
    「良太、天原って何だ?」
     対する良太も、小声で説明する。
    「えっと、玄州を治めてる『狐』の方で、州都の天玄に住まわれてるんです。
     何でも今の当主は、何て言うか、そのー、……変わり者だとか」
    「ふむ」
     と、その時。檻の方からガタ、と音が聞こえた。
    「ガッ、グアッ、ギャッ」
     イチイが檻を揺らし、しきりに吠えている。どうやら、今は獣の状態らしい。
    「イチイさん? あの、イチイさーん」
     良太が檻に近寄り、イチイに声をかけてみる。
    「ギャウッ、グウウ」
     だが、一向に人間の言葉をしゃべる気配が無い。団員たちは、揃って疑い深い表情を並べ、その様子を伺っている。
    「本当に、あれが人の言葉を……?」
    「どう聞いても、獣が吠えているとしか」
    「ガセじゃないのか?」
     一向に反応してもらえず、良太も段々と困った様子になる。
    「イチイさんー、あの、起きてくださいよー」
    「ギャッ、ギ……、ぎ、ぎ、き、つい」
     と、ようやく反応が返って来た。
    「しょう、ねん。なわを、といて……、もらえ、ないか?」
     団員たちがそれを聞き、ざわめき出す。
    「……今の聞いたか?」
    「あ、ああ。人の、言葉だ」
    「まさか、本当に?」
     良太は檻を開け、縄と鎖を解いてやった。イチイは一度深呼吸をして、周りにいる者たちを一瞥した。
    「あ、あ。ありが、とう、しょうねん。……だんだん、頭が、はっきりして、きた。
     ここは、どこだ? えーと、その」
    「あ、良太と言います。桐村良太。えっと、ここは天玄から南にある、英岡と言う街です」
    「そうか、ありがとう良太君。
     ……改めて、名乗らせていただこう。小生の名は、天原櫟。天玄の……」
     イチイが名乗ろうとした、その瞬間。
     小屋全体がグラリと揺れた。

    「な……」
     声を出す暇も無く、目の前が「斬られた」。
     まずは小屋の壁が、線を一本引いたかのように、ざっくりと割られる。
     続いて鋼鉄製の檻が、粘土のようにぐしゃりと引き千切られた。
     そして最後に、檻の中のモノ。
    「あ……」
     良太の前半身が、真っ赤に染まった。
     しかし良太には、ケガは無い。どこからも出血などしていない。
    「い……」
     晴奈も、柊も、そして謙たち団員も。
     何が起こったのか分からず、そして動けなかった。
    「イチイさん!? い、イチイさあああん!?」
     良太は力の限り叫んだが、それに答える声は無かった。



    「作戦終了しました」
    《ご苦労でした。まったく、あっちこっち逃げるから面倒だったでしょう?》
     小屋から離れた小さな丘に、顔を布で覆った、黒ずくめの女が立っていた。
    「いえ、それほどでも。……それと、もう一つご報告が」
    《何でしょう?》
    「従姉妹殿を見つけましたが、どう致しましょう?」
    《従姉妹? 僕の? 誰?》
    「棗様です」
    《ああ、そんなのいましたね。でも、まあ、今さら来られても相続問題とか、色々面倒です。とりあえず、放っておいてください》
    「分かりました。それでは帰投します」
     黒装束の女は、夕闇に溶けるように姿を消した。
    蒼天剣・逢妖録 8
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第44話。
    三人旅の終わり。

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    9.
     確かめるまでもなく、イチイは死んでいた。
     この惨状――何者かによる、凄絶な「死刑執行」に恐れをなした自警団員たちは、緘口令を敷いた。妖怪が出たこと自体は隠さなかったものの、この地で捕まえたこと、殺されたこと、そしてその正体について、一切口を閉ざすことにしたのである。
     この結末に、晴奈も良太も不満を感じてはいたが、どこからともなく攻撃を仕掛け、家屋をぶつ切りにするような者が相手では、手も足も出ない。いずれ何かの機に恵まれるよう、同様に口をつぐむしかなかった。
     そしてイチイの死体は、秘密裏に埋葬された。

     そのイチイの墓の前で、良太が泣いていた。
    「イチイさん……」
     ぐすぐすと鼻声で、ずっと彼を偲んでいた。
     と、そこへ誰かがやってくる。
    「あ……棗さん」
     棗は良太と同じように墓の前に座り、手を合わせた。
     そこで顔を上げ、不思議そうに尋ねてきた。
    「あの、何故泣いていらっしゃるのですか?」
    「え?」
     棗は手拭を差し出しながら、悲しそうな顔で尋ねる。
    「この櫟と言う方はあなたにとって、縁もゆかりもない人ですよ。それなのに、何故?」
    「イチイさんは、僕を襲いませんでした。それに、鎖を解いた時、ありがとうと言ってくれましたし、名前も、覚えてもらって……」
     良太は手拭を受け取り、涙と鼻水を拭く。その様子を見ていた棗は、悲しげな顔のまま、クスッと笑う。
    「……お優しい方ですね。うちの人も優しいけれど、あなたの優しさは一層、骨身に染み入るよう」
     棗は墓に手を添え、涙を流した。
    「この方の言葉が正しければ、この人はわたくしの従兄弟でした」
    「え……」
    「この方もお優しい方で、幼い頃から良くしていただきました。頭も良く、きっと次の天原家当主はこの方になるだろうと、囁かれていました。
     ですが実際に当主となったのは、桂小父様。しかも、何故か当主になる前後、わたくしたち一族の血を引く者は皆、不審な死を遂げております。
     ですからわたくしは天玄を出たのですけれど、櫟おじ様は、桂おじ様から逃げることができなかったのでしょうね。何故このようなお姿になったのかは、恐ろしくて想像もできませんが」
     棗は立ち上がり、その場を後にしようとした。それを見て、良太は思わず声をかける。
    「あ、あの、棗さん」
    「はい?」
    「……その、何と言えばいいか」
     棗は振り返り、ふるふると首を振って、優しく返した。
    「いいえ、お気になさらないで。櫟おじ様もこれでようやく楽になれたのですし、わたくしももう、天原棗ではございません。呪われた血筋とは、無関係です」
     そしてまた、踵を返す。良太に背中を向けたまま、棗はこう言い残し、去って行った。
    「そっと、しておいてくださいませ」



     たった二日、三日の滞在だったが、晴奈たちにとっては忘れられぬ旅になった。
    「何だか、どっと疲れてしまいました」
    「そりゃ、昼夜逆転してた上に鼓膜破れて頭痛めて、ってなれば疲れもするわよ」
    「そうですよね、はは……」
     帰路に着いたところで、晴奈は良太が元気の無さ気な顔をしているのに気付く。
    「良太、どうした?」
    「……いえ、何でも」
    「無いわけないじゃない。顔、青いわよ」
     柊がぺた、と良太の額に手を当てる。
    「……あら、今度は赤くなった。風邪?」
    「い、いえ、それは、先生が」
    「あら。わたしが、……どうしたの?」
     柊はいじわるっぽく笑っている。
     傍目に見ればこれも弟をからかう姉、と見えなくも無いのだが、この時晴奈は、柊のわずかな不自然さを見抜いていた。
    (うん? 師匠も、何だか顔に赤みが差している。旅の疲れで熱、出たんじゃないだろうか)
     と、眺めているうちにいつの間にか、晴奈が二人を追い越し、前に出る。
    「あ、晴奈。置いてかないでよー」
     それに気付いた柊が、またもイタズラっぽい声を出す。
    「おっと、失礼しました。……とは言え、皆疲れていることですし、早目に帰りましょう。双月節も間近ですし」
    「あら、そう言えばそうだったわ。早くしないと年が明けちゃうわね。
     よーし、急いで帰りましょ、晴奈、良太!」
    「はいっ」
     駆け足になる柊に応え、晴奈と良太も走り出した。

    蒼天剣・逢妖録 終
    蒼天剣・逢妖録 9
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第45話。
    夢のお告げ?

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    1.
     ある日、晴奈は気がかりな夢を見た。

     その夢の中で、晴奈は15歳に戻っていた。場所は嵐月堂、かつて黒炎教団と戦ったあの場所である。
    「……? 教団員たちは、どこに?」
     夢の中だからか、記憶は混乱している。
     周りに尋ねようとしたその時、晴奈の目の前を、とても懐かしく、長い間気にかけていた者が横切った。
    「め……」
     声を出そうとした瞬間、景色は一変した。
     晴奈はさらに若返り、13歳になった。場所は黄屋敷、晴奈の実家である。
    「待って、明奈!」
     晴奈は廊下を走り、妹、明奈の後を追った。

     追いかければ追いかけるほど、場所も時間も、晴奈の姿もころころ変わる。
     8歳、故郷の港で。
     18歳、師匠との旅の途上、森に挟まれた街道で。
     14歳、父に己の実力を見せつけた修練場で。
     16歳、青江の街中で。
     19歳、伏鬼心克堂で。
     数え切れないほど多くの場所をさまよい、晴奈は追い続けた。

     何時間経ったのか。
     ようやく、晴奈は追いついた。今、自分が何歳なのか良く、分からない。場所もどこなのか、さっぱり見当がつかない。
    「明奈っ」
     明奈のすぐ後ろまで迫った晴奈は、飛び込んで妹を抱きしめる。妹は動きを止め、そのまま何も言わず、じっとしている。
    「……良かった。ああ、良かった。本当に、……戻って来てくれて」
     そこで、目が覚めた。

     その気がかりな夢に一体何の意味があるのかと、晴奈は目を覚ましてからずっと考えていた。
     朝稽古の時も、朝食の時も、門下生たちに稽古をつける時も、頭の中にはそのことしか浮かんでこない。
    (あの、夢は……。何かの、兆しなのだろうか。これから何か起こることの、現れであろうか)
     そんなことをぐるぐると頭の中で思案し、やがてこんな結論に至った。
    (焔流の門を潜り、早7年。
     免許皆伝も得たし、人を指導するようにもなった。私は十分、力がついたはずだ。あの夢は、私に力が付いたことを、具体化したものなのかも知れぬ。
     それはつまり、私が、いよいよ明奈を救い出せると言う機が――来た、か)

     思うが早いか、晴奈は紅蓮塞を飛び出し、北西へと進んでいた。
     その道の先には、屏風山脈――すなわち、黒炎教団の本拠地、黒鳥宮がある。
    (待ってろ、明奈! 今、助け出してやるからな!)
     晴奈は足早に、街道を突き進んでいく。師匠と何度か旅を経験したおかげで、一人きりでも大まかな道筋は分かる。
    「待ってろよ、明奈」
     晴奈は自分の足の、あまりにも軽快な進み具合に、これも夢では無いかと怪しんだほどだった。



     やがて4日も進んだ頃、晴奈は屏風山脈のふもと、黒荘と言う街にたどり着いた。
     教団が近くにあり、また、街の名前に「黒」とある通り、ここは教団の教区、つまり縄張り内である。
     そのため、一見しただけでも焔流の剣士であると分かる晴奈が来た途端、住人たちは揃っていぶかしげな視線を向けてきた。
    (フン……! こちらは焔流、免許皆伝の身だ! 来るなら来い、黒炎め!)
     口や行動には出さないまでも、晴奈のその態度からは、教団への敵対心がありありと浮かんでいる。
     当然、道を歩けば歩くほど、遠巻きに眺める者たちが続々と増えていく。
    (さあ、いつ来る? どう来る?)
     晴奈の心と態度はどんどん、挑発的になってくる。
     やがて、晴奈の前に一人、男が現れた。
     だがその姿はどう見ても、教団員には見えない。ボロボロの外套と三角形の帽子は、まるで央北か央中のおとぎ話に出てくる、魔法使いのようだった。
    「一つ聞いても、いいね?」
     そのエルフは、眉をひそめながら声をかけてくる。
    「何だ?」
    「君、誰にケンカ売ってるね?」
     晴奈はその言葉を聞いた瞬間、自制を止めた。
    「いいだろう。私はこ……」「バカ」
     名乗りを上げようとした瞬間、目の前が暗転した。

    「……う?」
     気が付くと、晴奈はどこかの、小屋の中で横になっていた。
    「目、覚めたね?」
     横には先程のエルフが座っており、呆れた目を晴奈に向けている。
    「何故、私はここに?」
    「私が運んだね。……どーやら焔の人っぽいけど、何であんなコトしようとしたね?」
    「む?」
    「教団員だらけのあの村で、いきなり『私は焔の剣士だ』なんて、自殺行為もいいとこだね」
     エルフは30代くらいの見た目に似合わない、少年のような高い声と妙な言葉遣いで、晴奈を責める。
    「自殺行為なものか! 私は焔流、免許皆伝の……」「はいはい」
     エルフは晴奈の言葉をさえぎり、彼女の額をペチ、と叩いた。
    「自慢はいいから。私は理由を聞いてるね。なんで焔流の剣士サマがわざわざこんなトコまでやって来て、あんな挑発めいたコトしてたのか、ってのをね」
    「……聞きたいと言うのなら、いくらでも聞かせてやる」
     エルフに促され、晴奈は街に来た理由を説明した。
    「ふーん。妹を救いにねぇ」
     話を聞き終えたエルフは腕を組んだまま斜に構え、黙り込む。晴奈はイライラしつつ立ち上がり、その場を離れようとした。
    「先を急ぐので、これで失礼させてもら……」「話は終わってないよ、おバカ」
     いきなり罵倒され、晴奈は面食らう。
    「なっ!? 誰が馬鹿だと!?」
    「一回ちゃんとボコられなきゃ分かんないみたいだし、その高くなった鼻、ポッキリ折ってあげようかね?」
     エルフは晴奈を頭から、馬鹿にしている。自尊心の高い晴奈は、エルフの態度に怒りをあらわにした。
    「……望むところだ。返り討ちにしてくれる」
    蒼天剣・遭賢録 1
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第46話。
    賢者との遭遇。

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    2.
     小屋の外に出た晴奈は辺りを見回してみる。どうやら黒荘の外れらしく、少し離れたところに人家が見える。
    「ホラ、突っ立ってないでさっさとそっちに行くね」
     すぐ後ろにエルフが立ち、背中をバシッと叩いてくる。
    「……」
     偉そうに振舞うエルフに、晴奈の怒りはさらに膨れる。
     開けた場所に出たところで、エルフはどこからか杖を取り出し、気だるそうに身構える。
    「はい、んじゃ、まー。ちゃっちゃと、やろうかね」
     そのやる気の無い構え方に、晴奈の怒りは頂点に達した。
    (何が『高くなった鼻をポッキリ』だ!? お前自身が増長すること、はなはだしいではないか!
     その油断、高く付くぞ!)
     晴奈は駆け出し、エルフに初太刀を入れようとした。
    「わ、バカだねー」
     それを眺めていたエルフはまた晴奈をあざ笑い、ゆらりと杖を振った。

     その瞬間――。
    「……!?」
     地面が引っくり返り、景色が勢い良く滑る。
     いや、晴奈がさかさまになりながら、吹っ飛んだのだ。
    「敵を知り、己を知れば百戦負け無し。だのに今の君、私のコトをどれだけ知ってるって言うね?」
     エルフの声がやけに遠く、尾を引くように聞こえる。
    「な、何をした!?」
     エルフのはるか後方まで飛ばされた晴奈は、混乱しつつも空中で体勢を立て直し、どうにか無傷で着地する。
    「んでもって、キミは」
     刀を構え直し、エルフの位置を確認しようとしたが、どこにも姿が無い。
    「ど、どこだ!?」
    「どれだけ自分がバカでマヌケで向こう見ずで身の程知らず、ってコトを知ってるね?」
     振り向いてもやはり、エルフを見付けられない。
    「……!」
     晴奈の右肩に電流めいた痛みが走る。
     その痛みが魔術か、それとも杖を振り下ろされたものなのか良く分からないまま、晴奈の脚から力が抜けていく。
    「ぎ……ッ」
     急速に遠のいていく意識の端で、エルフがまた自分をあざける笑い声が聞こえた。

    「……う、っ」
     気が付くと、また小屋の中だった。先程と同じように、エルフが傍らに座っている。
    「目、醒めたね?」
     晴奈は自分に何が起こったのか、懸命に整理し――負けたことを、理解した。



    「ま、それじゃ。一個いっこ考えていこうかね」
     エルフは小屋のものを勝手にいじって、茶を沸かしている。
    「何で君は、私に勝てると思ったね?」
    「それは、その。私は、焔流の免許皆伝であるし」
    「うんうん、それはさっき聞いた。で、免許皆伝だから、何で勝てるって?」
    「え? いや、だから、……その」
     そう問われ、晴奈の思考は止まる。
    「それは君の剣術が一端のモノになったって言う証明であって、誰にでも勝てるって証明では無いよね?」
    「それは……」
     答えに窮する晴奈に構わず、エルフは指摘を続ける。
    「もしそんな風に思ってるなら、それは君の先人全員に対する侮辱だね」
    「なに?」
    「だってね、君がもし、浅はかにもさっきの街中で名乗りを上げてたら、きっと街の人はみんな、君を殺しに来るね。
     ソコで君が負けてさ、『焔流、敵にあらず!』なんて言われちゃったら、焔流のみんなはどんな気持ちになるだろうね?」
    「……!」
     エルフの言った光景を想像し、晴奈はひやりと冷たいものを感じた。
    「免許皆伝は無敵の証明じゃないね。その流派の教えを修め切った、その流派の代表になったって証明だ。
     ソレを履き違えて、『自分はとっても強いんだ』なんて公言したりなんかしたら、とんでもない大恥をかかせることになる。君だけじゃなく、君の属する剣術一派全体にもね」
    「……」
     エルフの説教を、晴奈は頭も猫耳も垂れ、ただ聞くしか無かった。
     そこで茶が沸き、エルフは茶を晴奈に差し出しつつ、説教を締めくくった。
    「敵のコトはおろか、自分のコトすら知らない、分かってない。
     そんなおバカが勝てる道理なんて無いね」

     晴奈は自分の慢心と大言壮語を反省するついでに、自分が見た夢の話をした。
    「私は、妹をつかむ夢を見たのです」
    「ふーん。だから現実でも妹を救えるかも、って?」
    「はい……」
    「ふーん、ソレはソレは、結構な思い付きだね」
     エルフは晴奈の話を、鼻で笑う。
    「きっかけを何かに求めるのは自由だけどね。
     思い立ったら即行動、じゃなくてさ、立ち止まってじっくり考えた方がいいね。『今が本当にその機なのか? 本当は自分の思い込みじゃ無いのか?』ってね」
    「……」
     うつむく晴奈を見て、エルフはふー、とため息をつく。
    「まあ、そう落ち込むなってね。もしかしたら、本当に吉兆かも知れない。無闇に期待するのはおろかだけど、さらりと流すのも味気ないしね。
     そんなもん、『何かいいコトあるかもー』くらいで考えた方がいいね。頼ったり過信したりってのはダメだけどね」
     いいとも、悪いとも言い切れない結論に、晴奈は少し困惑した。
    「そんなもの、ですかね」
    「そんなもんだね。
     さて、そろそろ私は行くね。精進しな」
     エルフは茶を飲み終えるなり、そそくさと小屋を後にした。
     晴奈は小屋に残り、魂を抜かれたような心持ちで、ぼんやりと茶をすする。
    「……あ」
     しばらく経って、晴奈はエルフの名前を聞いていなかったことに気が付いた。
    蒼天剣・遭賢録 2
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第47話。
    賢者の名前と、何かのフラグ。

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    3.
     8日ぶりに戻ってきた晴奈を見て、柊は安堵のため息を漏らした。
    「良かった……! 晴奈、無事に戻ってきたのね」
    「はい。ご心配を、おかけいたしました」
     晴奈は深々と、頭を下げた。その様子を見て、柊は不思議そうな顔をする。
    「ん? 晴奈、何かあった?」
    「……いえ。特に、何も」

     紅蓮塞に戻ってからすぐ、晴奈は精神修養を積むことにした。刀を振るうこともせず、黙々と座禅を組む晴奈の姿に、柊は不安そうな顔を重蔵に見せていた。
    「大丈夫でしょうか、晴奈は」
    「んー、まあ」
     重蔵はぷい、と晴奈から顔を背け、腕を後ろに組んでこう言った。
    「ここしばらく浮ついておった心が、程よく落ち着いたのは確かじゃ。悪いことでは無い。放っておいても、問題は無いじゃろ」
     重蔵の言葉に、柊も「そうですね……」とうなずく。
    「ま、無事に帰ってきて何よりじゃ」



     戻ってからさらに一週間ほど経ち、晴奈はすっかり元の通り、稽古に姿を見せていた。
    (あのエルフの言う通り、私は確かに愚かだったかも知れぬ。気ばかり焦って、とんでもない失態を犯すところだった。
     今一度、修行のやり直しだ)
     そんな風に考え、黙々と木刀を振るっていたところに――。
    「知ってるか? 『旅の賢者』の話」
    「何だそりゃ」
     門下生たちの話し声が聞こえてきた。
     あまり長くなるようであれば諌めようかと考えていたのだが、その内容を聞くうち、晴奈は目を丸くした。
    「何でも、旅人の前に現れて、色々ためになることを教えてくれるって言う、変な奴らしいんだけどな」
    「胡散臭ぇー」
    「まあ、聞けって。で、友達から聞いたんだけど、こないだ黒荘に現れたんだってさ」
    「へー」
    (こ、黒荘?)
     叱るのも忘れ、晴奈は話に耳を傾ける。
    「何でも、ウチの人間ともめたんだって」
    「ホントかよー」
    「見た奴がいるとか、いないとか」
    「いなきゃうわさにならねーよ」
    「そりゃそうだ、ははは……」
    (……汗顔の至りだ)
     修行によるものとは別の、ひやりとした汗が額に浮き出てくる。
     たまらず、晴奈は彼らに声をかけた。
    「もし、お主ら」
    「あ、先生」
     門下生たちはしまったと言う顔をしたが、晴奈は諌めず、二人に尋ねた。
    「その『旅の賢者』とやらの話、詳しく聞かせてくれないか?
     いや、単に興味があるだけなのだが。別に気になるとかでは、無いのだが」
    「はあ? えー、まあ、話せと仰るなら」
     門下生もうわさに聞いた程度であるらしく、説明はたどたどしいものだった。
    「まー、何て言うか、めちゃくちゃ長生きな奴だそうで、あの『黒い悪魔』と同じくらいか、下手するとそれ以上生きてるとか、何とか。
     世界中を旅してて、そいつに出会った歴史上の有名人は、何人もいるらしいですよ。まあ、俺も良く知らないんですが。
     で、確か名前が、……何だっけなぁ? 外国っぽい名前で、えーと、確かー」
     門下生はしばらく記憶を探った後、手を叩いて叫んだ。
    「そうそう! モール、でした。『旅の賢者』モール。それが、そいつの呼び名ですよ」
    「ふむ、モール、か。そうか……」
     晴奈はそれを聞くと、門下生たちの前から立ち去った。
    「……怒られると思ったんだけど。どうしたんだろう、黄先生?」
    「さあ?」
     残された門下生2人は、きょとんとした顔を見合わせていた。

    (そうか、モールと言うのか)
     モールの憎たらしく、ふてぶてしい態度と言葉を思い出し、晴奈はほんの少し、イラつきを覚える。
    (まったく、情けない。あんなヘラヘラとした奴に、いいようにやられてしまうとは!
     今一度、気を引き締めなければ)
     自分のふがいなさを改めようと、ぐっと拳を握ったところで――。
    「あれ、姉さん」
     目の前を良太が通りかかる。
    「お、良太。稽古はどうした?」
    「さっき終わりました。姉さんもですか?」
    「ああ。一風呂浴びてから飯でもと思っていたが、一緒に食べるか?」
    「ええ。……あの、姉さん」
     にこやかだった良太の顔に、困ったような顔色が浮かぶ。
    「ん?」
    「ちょっと、お話があるんですが……。良ければ書庫まで」
    「……?」
     良太の様子が気になり、晴奈は何も言わずに付いていく。
     書庫に着くなり、良太は中に誰もいないことを確かめ、扉を閉める。
    「どうした? 何か妙だぞ、良太」
    「ええ、まあ、その。あんまり、他の人に聞かれたくなくって」
     良太はもう一度、辺りを見回す。
    「えー……、その」
     良太の顔が赤くなってくる。それを見た晴奈は、思わず身構えてしまう。
    「何だ?」
     良太は一歩晴奈に近付き、彼女の耳元でぼそっとつぶやいた。
    「実は、あの……」

    蒼天剣・遭賢録 終
    蒼天剣・遭賢録 3
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第48話。
    衝撃の告白。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     晴奈が黒荘から紅蓮塞に戻って、数週間が過ぎた時のこと。
     晴奈は書庫の中で、いきなり告白された。

    「好きなんです」
    「は?」
     晴奈はぽかんとしてしまう。目の前にいる、顔を真っ赤にした良太を見て、後ろを振り返り、もう一度前を向き、猫耳を掌でポンポンと叩いて問い直す。
    「すまない、良太。もう一度、言ってくれないか?」
    「ですから、あの、好きなんです」
    「……良太」
     晴奈は脱力しそうになるのをこらえて、良太の肩に手を置く。
    「落ち着こう。うん、まあ、落ち着け」
    「えっと、あの」
     良太は手を振り、ゆっくりと説明する。
    「晴奈の姉さんが、好きってことじゃないです。いえ、好きなんですけど、そう言う意味じゃなくて」
    「だから、落ち着け」
    「えーと、えー、ともかく。姉(あね)さんのことは普通に好きです。あの、恋愛とかじゃなくて、本当の姉(ねえ)さんって感じで」
    「ああ、まあ。それなら、いいんだ」
     ほっとする晴奈を見て、良太も安心した顔をする。
    「ええ、まあ、それでですね。その、……が好きなんです」
     安堵のため息が、のどの途中で引っかかる。
    「……もう一度、言ってくれ」
    「先生が、その……」
     晴奈はもう一度、良太の肩に手を置いた。
    「先生って、……聞くが。それは、私の師匠のことか?」
    「……はい」
     良太が答えた瞬間、晴奈は良太を書庫の奥まで押し込んだ。
    「待て待て待て待て! 待て、良太!」
    「は、はい」
     晴奈は良太の肩に手をおいたまま、深呼吸をする。
    「もう一度、聞くぞ」
    「はい」
    「お前が、好きだと、言っているのは、誰だって?」
     良太は顔を真っ赤にしたまま、もう一度答えた。
    「あの、……柊先生です」
    「はぁー……」
     晴奈はそれ以上立っていられなくなり、良太の前にへたり込んだ。
    (こいつ、よりによって自分の師匠を好きになるか……!? 何を考えているんだ、まったく?)
    「あ、その、えーと」
    「うーむ、……そんなことを聞かされてもなぁ」
     晴奈は平静を装って立ち上がるが、内心、かなり動揺していた。良太は軽く咳払いをし、話を続けようとする。
    「こ、コホン。それで、ですね、あの」
    「何だ? 他に何を言う気だ?」
    「えーと、その、ちょっと、聞きたいんですが」
    「……何を?」
     良太はまた、顔を赤くして尋ねてくる。
    「先生の、好きなものって何でしょうか?」
    「はあ?」
     普段、自分が話すこととあまりにも違う部類の話題に、晴奈は頭を抱えてうなる。
    「むう……。好きって、師匠の、好きなものか。うーむ、そうだなぁ……」
     懸命に考えてはみるが、混乱した頭では答えが出てこない。
    「あの、例えば、食べ物とか」
     良太が具体的に質問してくれたので、何とか答えが浮かんでくる。
    「んー、そうだなぁ。キノコなどの山菜は、好んで食べていたな。後、肉料理はあまり、食べないとか。あ、でも鳥料理は好きだと言っていた」
    「ふむふむ」
     良太は懐紙を取り出し、晴奈の言ったことを書き連ねている。
    「じゃあ、えーと、趣味は、何でしょう?」
    「趣味、か。んー、小物を集めるのが好きだと聞いた」
    「じゃ、じゃあ、そのー。どう言う男性が好きか、って、分かります?」
    「はあ? んー……、そう言えば昔、聞いた覚えがあるな」
     晴奈は椅子に腰掛け、記憶を探る。
    「ああ、そうだ。確か強くて正直で、優しい者を好きになったことがある、と言っていた」
    「す、好きになった、人……、ですか」
     良太の顔が、一瞬にして曇る。晴奈は慌てて訂正する。
    「あ、いやいや、その人物は既に塞を離れている。今、師匠が想っている者は、多分、恐らく、いないと、思うぞ」
    「そ、そうですか!」
     また、良太の顔が明るくなる。そのまま良太は、ぺこりと頭を下げて書庫から出て行った。
    「ありがとうございました! また相談、乗ってくださいね!」
     残された晴奈は、良太の浮かれっぷりに、呆気に取られていた。
    「そんなこと聞かされても、……どうしろと」
     晴奈は頭を抱えながら、良太の話を反芻する。
    (実際、どうなのだろう?)
     晴奈は先程挙げた師匠の好みと、良太を比較してみた。
    (良太は確かに優しい子だ。隠しごとはしているが、正直者と言えば正直者だ。後は強さだが、……これは残念、と言うべきか。
     しかし良太と、師匠か……)
     恋愛経験の無い晴奈がいくら考えても、予想も予測も、一向に立たない。
    (……ピンと来ないにも、程がある。私自身が、色恋に興味無いからなぁ)



     結局、良太の告白をこの日以来、聞くことはなかった。
     だから晴奈も、しばらくするとこの一件はすっかり、忘れてしまっていた。
    蒼天剣・鞭撻録 1
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第49話。
    晴奈、撃沈。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     双月暦513年の早春。
     晴奈は20歳、良太は17歳になっていた。
     入門したての頃はひ弱ですぐにばてていた良太だったが、柊師弟の指導のおかげで、今では年相応に筋肉もつき、他の門下生と見劣りしないまでに成長していた。

    「うん。強くなったな、良太」
     良太に稽古をつけていた晴奈は、一段落したところで良太をほめた。良太は嬉しそうにぺこりと頭を下げる。
    「はい、ありがとうございます」
    「これなら教団が攻めて来ても十分護りにつける、……かも知れないな」
     晴奈の言葉に、良太はきょとんとした顔をする。
    「教団が、攻めて来る?」
    「あ、そうか。良太はまだ、知らないか。
     よく考えてみれば、私が15の時に来襲されて以来、ずっと黒炎教団からの音沙汰は無いからなぁ。明奈も無事なんだかどうなんだか」
    「えっと……?」
     晴奈は良太に教団が数年に一度、紅蓮塞に攻め込んでくることを説明した。
    「へぇー。怪しい集団とは聞いていましたが、そんなことまでしてるんですか」
    「もしかしたら、そろそろ来るかも知れないな。以前襲ってきた時から、もう何年も経っているし」
    「へぇ……」
     そこで良太が黙り込んだ。
     会話が不自然に途切れたため、晴奈は良太の顔を見る。
    「良太?」
    「証明に、なりますかね?」
    「え?」
     唐突に、良太が質問してくる。
    「何の証明だ?」
    「えっと、もしも、僕がその防衛戦で活躍できたら、僕の強さの、証明になりますか?」
    「……?」
     唐突な言葉が続き、晴奈は首を傾げる。
    「良太。もっと、落ち着いて説明……」
     言いかけて、晴奈は既視感を覚えた。
    (……? 前にも、こんなことを良太に言ったな、そう言えば?)
    「あ、えっとですね」
     良太は深呼吸し、ゆっくりと説明した。
    「ほら、その、以前に、柊先生は強い男を好まれると、姉さんが言っていたじゃないですか。でも、僕はあまり、強くないですから。姉さんに稽古をつけてもらって、それなりに力はついたとは思うんですが、それを実証する機会が、なかなか無くって」
    「ああ……」
     晴奈はようやく、以前良太が柊のことを好きだと告白していたことを思い出した。
    「そうか、なるほど。もし教団が来て、追い返すことができれば、強いことの証明になる、と」
    「はい、そう思うんですが、どうでしょうか?」
     晴奈は深くため息をつき、良太の額を指でぺちっと弾いた。
    「あいたっ!?」
    「寝言は寝て言え、馬鹿者」
    「ダメ、ですかね?」
    「物事の履き違え、はなはだしいことこの上無い。強さとは、そんなものではない」
    「は、はあ……?」
     良太は一瞬きょとんとしつつ、腕を組んで晴奈の言葉をぶつぶつと繰り返す。
    「強さ……強い証明……」
     明らかに納得が行かなさそうな良太の顔を見て、晴奈は内心、こんなことを思っていた。
    (こう言う時にモール殿のような方がいてくれたなら、納得の行く説明をしてくれそうなのだが。私ではうまく言葉が浮かばん)
     晴奈は一人悩む良太を置いて、修行場を後にした。

     稽古でかいた汗を流すため、晴奈は浴場を訪れた。
    (そろそろ、他の者も来るかな?)
     蛇足になるが、ここは勿論混浴などでは無く、女湯である。
     焔流剣術は剣の腕だけではなく魔力も必要になるため、平均的に男より魔力が高いと言われる女の割合が、他の剣術一派よりも多い。
     それに加えて紅蓮塞は宿場としての機能も備えており、旅客や焔流以外の修行者も多く訪れるため、混浴では何かと都合が悪いのだ。
    (先客は、……いるようだな)
     湯煙の中を一瞥すると、うっすら人の影が1つ、湯船に見えた。
    「お邪魔します」
    「ん? あれ、晴奈ちゃんじゃないの」
    「え? その声は……」
     先客はここに何度か足を運んでいる旅客、橘だった。
    「来ていらしたのですか」
    「ええ。やっぱココのお風呂、冬には最高だし。ま、今年はちょーっと遅くなっちゃったんだけどね」
     そう言って橘は、楽しそうに笑う。晴奈は体を洗いながら、橘と世間話に興じた。
    「今回の目的は、湯治ですか」
    「うん、そんなトコ。いいわよねー、ココ。温泉沸いてるし」
    「山の中ですからね」
    「ホント、隠れた名湯よ。で、今日も修行だったの?」
    「ええ、勿論。……横、失礼します」
     体を洗い終わった晴奈は湯船に入り、橘の横に座る。
    「……ふー。やはり、風呂は気持ちがいい」
    「ホントねぇ。あー、これでお酒があったらいいのになぁ」
    「橘殿は、呑む方ですか?」
    「うん、大好き。こーゆートコで熱燗をきゅーっとやるのが、いいのよねぇ」
     橘はくい、とお猪口で呑む真似をする。その仕草があまりに堂に入っていたので、晴奈は思わず吹き出した。
    「ぷ、はは……。なるほど、それは美味しそうだ」
    「晴奈ちゃんも、お酒呑めんの? って言うか、そっか、もう大人よね」
     そこで橘は晴奈の体を、チラ、と見る。胸の辺りで視線を止め、もう一度同じことを言った。
    「……大人よね?」「失敬な」
     晴奈も負けじと、橘を見返すが――。
    「……完敗だ」「ふっふっふ、参ったか」
     晴奈は猫耳を垂らし、そっぽを向いた。

    「そう言えば、橘殿」
     しばらくそっぽを向いていた晴奈はふと思い立ち、橘に質問してみた。
    「ん?」
    「その、色恋の話は、得意でしょうか?」
     橘の長耳が、嬉しそうにピクピク跳ねる。
    「え? なになに? 晴奈ちゃん、好きな男できた?」
    「あ、いや。私の、弟弟子の話です」
    「へー、弟弟子とデキちゃった?」
    「なっ、違います! そうではなくっ!」
     晴奈は水面でパチャパチャと手を振り、否定する。
    「弟弟子から、色恋の相談を受けたのです!」
    「あーら、なーんだ残念。んで、どんな話?」
     晴奈は少し前に、良太が柊に対して恋をしていることと、彼が強くなりたいと願っていることを説明した。
    「ふーん、雪乃をねぇ。まあ、あの子もキレイだもんね」
    「私は、どうするべきなのでしょう」
    「ん?」
     きょとんとする橘に、晴奈は困った顔で心境を話す。
    「もしも、師匠と良太が結ばれたりすれば、私は二人にどう、接すればいいのか。祝福すべきなのか、それとも修行中の身でありながら師匠をたぶらかすとは、と怒るべきなのか」
    「んー」
     橘は一瞬、チラ、と浴場の入口を見る。
    「まあ、ソレはソレで、アリじゃん? 結ばれたってコトは、二人とも相思相愛で幸せってコトなんだし。アンタに人の幸せ、邪魔する権利も無いわけだしね」
    「まあ、それは、確かに」
    「ソレにさ、聞いてるとその良太って子、戦うとか乱暴系なコトに向いてる気、しないのよね。
     もしそーゆー関係になって、剣の道から外れるなんてコトがあったとしてもさ、その子にとってはそっちの方が、結果的にはいいんじゃん?」
    「……ふ、む」
     その言葉に晴奈も、納得させられるところがあった。
     以前、良太を鍛え直した際に、良太の口から親の仇を取りたい、と発せられたことがある。それを聞いた時、晴奈はとても心苦いものを感じていた。
    「仇を討ちたい」と言う良太のその決意は、心優しい彼には似つかわしくない、呪われた感情だったからである。
    「まあ、もしそんなコトになったらさ」
    「はい」
     橘は親指を立て、ニッコリ笑った。
    「アンタの師匠と弟くんのお祝いゴトなんだし、思いっきり祝福してあげなさいよ」
    「……そうですね」
     晴奈も微笑み返し、親指を立てた。
    蒼天剣・鞭撻録 2
    »»  2008.10.08.
    晴奈の話、第50話。
    黒炎の再襲撃。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     晴奈の予測は、現実になった。
     と言っても、悪い方の予測である。
    「また、黒炎が攻めてきそうだ……!」
    「またか!? まったく、面倒臭くてかなわん!」
    「焼き払ってくれるわ!」
     黒炎教団襲来の報せを受け、塞内では迎撃の準備が行われていた。

    「来るんですか?」
     この騒ぎを聞きつけた良太は、柊に詳しい話を聞いていた。
    「ええ、そのようね。
     でも良太、あなたは中にいなさい。戦いに出られるような腕では無いわ」
    「そんな! 晴奈姉さんだって、15で戦いに出たと言うではないですか!?」
     柊は大きく首を振り、良太の肩に手を置く。
    「晴奈は剣の素質があったから、15歳で出られたの。
     でもあなたには、そこまでの才は無い。それはあなた自身が分かっていることでしょう?」
    「それは、……はい」
    「大人しく、安全な場所でじっとしていて」
    「……分かりました」
     良太はうつむいたまま、素直に返事をした。



     数時間後、晴奈と柊はがっちりと武装を固めて、前回と同じく嵐月堂で待機していた。
    「晴奈、準備はできた?」
    「ええ、万事整いました」
     厳戒態勢で敵の襲来を待ちつつ、晴奈は横に並ぶ柊に声をかける。
    「師匠、あの」
    「ん?」
     晴奈は柊に、良太が柊を想っていることを打ち明けようかと迷ったものの――。
    「……いえ。何でもありません。生き残りましょうね」
    「勿論よ。……そろそろ来るわ。気を引き締めましょう」
    「はいっ」
     5年前と同様に堂の壁が破られ、教団員が侵入してきた。晴奈は目を凝らしてみたが、今回はあの「狼」、ウィルバーの姿は無かった。
    (これは残念。雪辱の機会は無しか)
     ともあれ、晴奈は教団員に飛び掛り、バタバタとなぎ倒していく。前回同様、八面六臂の大立ち回りを見せつけ、敵を次々と倒していった。
    (5年前に比べれば、何とぬるく感じることか)
     柊の方も晴奈と同様、特に苦戦する様子も無く、ひらりひらりと戦場を駆け巡っている。
     3時間ほど戦ったところで、教団員たちは撤退し始める。周りの剣士たちは勝利を確信し、次第に緊張感が消え失せていく。
    「……ふう。後はこのまま、きっちり反撃を抑えていれば勝てるわね。後もう少し頑張りましょう、晴奈」
    「はい!」
     額の汗を拭いながら、柊師弟はほっとした表情を見せ合っていた。
     ところが――。
    「大変だ! 雨月堂が破られたらしい!」
     背後から、伝令役を務めていた剣士が飛び込んできた。
    「雨月堂だって!? あんなところ、今まで狙われなかったじゃないか!」
    「それに、あそこには門下生たちが避難して……!」
    「くそ、もしかしてここを襲っていたのは囮、陽動作戦だったのか!?」
     この報せに、剣士たちは一斉に青ざめた。そして柊師弟も同様に、冷や汗を垂らす。
    「雨月堂、って……」
    「まずい、良太がいる!」
     晴奈たちは急いで、雨月堂に走っていった。

    (そりゃ、ぬるいわけだ! 相手は本気で、かかって来なかったのだから!)
     晴奈も柊も、全速力で塞内を走り抜ける。重たい武具を脱ぎ捨て、道着と胸当て、鉢金、刀大小二本の軽装になって雨月堂を目指す。
    「無事でいろ、良太!」
     軽装になったおかげで、二人は他の剣士たちより若干早く、雨月堂に着くことができた。
     雨月堂は紅蓮塞の中で最も南にある修行場である。通常、教団は北西から攻め込んでくるため、南側にある修行場はまず、狙われない。
     だから教団が襲ってきた際には、この辺りに非戦闘員を非難させていたのだが――。
    「わああっ!」
    「来るな、来るなーッ!」
    「ひいーッ!」
     予想外の強襲に、多くの者が逃げ惑っている。門下生も半分ほどは、怯えて隅に縮こまっている。
     残りの半分は勇気を奮い起こし、懸命に教団員と戦っていたが――。
    (逃げてくれた方がいい。半端な実力や身の丈に合わぬ蛮勇では、到底太刀打ちできる相手では無いのだ。
     ……だが、遅かったか)
     既に数名、門下生が血を流して倒れ、事切れている。皆、手に刀や木刀を持ち、正面から斬られていた。
    (良太はまだ、無事か!?)
     晴奈と柊は、良太の姿を探す。
    「あ、いました!」
     良太は隅で震える者たちの前に立ち、木刀を構えて教団員と対峙していた。だが、良太自身もガタガタと震え、今にも木刀を取り落としそうになっている。
    「良太、今助けに……」「おっと、待ちな」
     走り出そうとした刹那、晴奈の目の前を棍がかすめた。

     その棍を、晴奈は一日たりとも忘れたことは無い。自分の頭を割った武器であるし、忘れられるはずが無いのだ。
    「貴様は!」
     晴奈の真横に、黒い髪の狼獣人がニヤニヤと笑いながら立っていた。
    「ウィルバー! ウィルバー・ウィルソンか!?」
    「へぇ、覚えてたのか」
     5年ぶりに見るウィルバーはたくましく成長し、晴奈よりも頭一つほど背が高い。戦闘服の袖から見える腕にも、精強と言うべき筋肉がたっぷり付いている。
    「えーと、何だっけお前? 名前、聞いて無かったよな。……ま、いいや。ここで殺せば、忘れていいな、うん」
     自分勝手にそうつぶやくなり、ウィルバーは三節棍を構え、襲いかかってきた。
    「馬鹿も休み休み言え!」
     晴奈は向かってきた棍を、勢い良く弾く。キン、と甲高い音を立てて、棍の先端が宙に浮く。
    「お、っと」
     ウィルバーは棍の末端をくい、と引っ張り、浮いた棍を手元に収めた。
    「悪い悪い、なめてた」
    「愚弄するか、私を。ならば私も乗ってやろう、犬め」
     犬、と呼ばれてウィルバーの顔が凍りつく。
    「前にも言ったろうが。……このオレを、犬と呼ぶんじゃねえッ!」
     瞬間、三節棍がうねり、風を切って、何度も晴奈に襲い掛かる。しかし晴奈は顔色一つ変えず、その攻撃をすべて弾き返した。
    「……速ええ。昔より断然、動きも速いし、見切るのも速い」
     ようやくウィルバーは警戒の色を見せ、トン、と短く跳んで後ろに下がり、間合いを取ろうとした。
    「……5年前の借り」
    「え?」
     ウィルバーが後ろに跳ぶと同時に、晴奈は間合いを一気に詰める。
    「今ここで、返させてもらうぞッ!」
     ウィルバーが着地した瞬間、晴奈は突きを入れた。
    「ぐあ!?」
     三節棍で防御している部分を器用にすり抜け、刀がウィルバーの脇腹に刺さる。
     だが戦闘服の下に鎖帷子(くさりかたびら)でも着込んでいたのか、刀は貫通せずに途中で引っかかった。
    「っぐ、……甘い、甘いぜ、『猫』! 通るかよ、こんなもん!」
    「ならば!」
     脇腹に刀を刺したまま、晴奈は刀から手を離し、ウィルバーの鳩尾に拳をめり込ませた。
    「ごふ……っ」
     ウィルバーの顔が一瞬で真っ青になり、そのまま仰向けに倒れ、気を失った。
     晴奈は帷子に絡んだままの刀を引き抜き、血のにじんだ右拳を握りしめながら、涼やかに言い放った。
    「この黄晴奈、侮ってもらっては困る」

     晴奈とウィルバーが戦っている間に、柊は良太に加勢していた。
     良太を囲み、ニタニタ笑っていた教団員を背後から次々に斬りつけ、あっと言う間に全員打ちのめしてしまった。
    「大丈夫、良太!?」
    「あ、あ……、先生!」
     柊の顔を見た途端、良太は木刀を落し、その場に崩れるように座り込む。
     柊は良太の体を抱きしめ、安堵のため息を漏らした。
    「良かった、死んでなかった……!」
    「せ、先生」
     傍から見れば、弟子の安否を気遣う師匠と見える。だが、良太にとっては恋心を抱く者からの抱擁である。当然顔を赤くし、戸惑った。
    「あ、あのっ、その、だ、だ、大丈夫、です」
    「……心配かけて、もう」
     そこへ、ウィルバーを倒した晴奈が戻ってきた。
    「お、……お、っと」
     晴奈と良太の目が合った。
    (もう少し、放っておいてやる。役得だな、良太)
    (す、すみません)
     晴奈は良太と目配せで会話した後、師匠に気付かれないよう、そっと後ろに下がった。
    蒼天剣・鞭撻録 3
    »»  2008.10.08.

    蒼天剣・立志録 1

    2008.10.06.[Edit]
    晴奈の話、1話目。和風ファンタジー。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 時は双月暦506年。 夜道を駆ける、三毛耳の猫獣人の少女がいた。 名を、晴奈と言う。 央南地方で名を馳せる大商家の令嬢であったが、先刻その身分を自ら捨ててきた。 彼女には志ができたからだ――「あの人のように、強い剣士になりたい」と。 元々、彼女は何不自由なく育てられていた、箱入り娘であった。ゆくゆくは婿を取らせて家を継が...

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    * 

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    晴奈の話、2話目。
    すべてのはじまり。

    2.
     すべての始まりは彼女が夜道をひた走る、その半日前だった。
     その日も晴奈は親の言いつけ通り、舞踊の稽古と料理の教室に通っていた。前述の通り、「お前の将来を思って」とする親の意向からである。
    (何が、私の将来よ?)
     晴奈は一人、親への不満をつぶやく。親にとって「晴奈の将来」とは黄家の将来であり、親たちの家の将来のことなのである。
     すべては晴奈が将来いい婿を手に入れられるようにと――彼女の意志を反映されること無く――やらされている、「花嫁修業」なのである。
    (私は、あいつらの人形じゃない……)
     ぶつぶつと、不平・不満をつぶやいている。それが、彼女の日課だったのだ。
     その日まで、それだけが教室から家に帰るまでの変わりない毎日における、彼女の気晴らしだった。

     いつもと違ったのは、ここからだった。
     そうして道を歩いていたところで、彼女は治安の行き届いているこの街ではあまり見慣れないものに出くわしたのだ。
     ケンカである。
    「あ……」
     酔っ払い風の、3人のむさくるしい男たちが、エルフの女性に絡んでいた。
     一般的にエルフや長耳などと呼ばれている種族は目鼻立ちがはっきりしており、欧風の趣がある中央大陸北部――通称、央北地方や、北方の大陸に多い種族と見られがちだが、精神性と仁徳を重んじる央南地方の風土に、高い知性と、穏やかな性格を持つ彼らは、存外良くなじむらしく、この地でも見かけることが少なくない。
     男たちはそのエルフににじり寄りながら、一緒に酒を飲もうと言い寄っている。
    「だーらさー、つきあーってってー」
    「断ります」
    「そんらころ、いわらいれさー」
    「断ります」
    「いーじゃん、いーじゃんー」
    「断ります」
     晴奈は遠巻きに見つめながら、男たちに不快感を覚える。
    (嫌な人たち! こんな日の出ているうちからあんなに酔って、恥ずかしいと思わないの?)
     どうやらエルフの女も明らかに男たちを煙たがっているらしく、ひたすら「断ります」としか答えていない。
     それを察したらしく、男たちの語気が次第に荒くなっていく。
    「なんらよー、おたかくとまっちゃっれ」
    「いいきに、あんあよー」
    「きれるよ、きれちゃうよ」
     男たちが女ににじり寄ってくる。
     その下卑た顔が横一列に並ぶのを見た途端、晴奈はとっさに女の近くに寄り、手を引いていた。
    「お姉さん、行こう? こんな人たちに構うこと無いよ」
     間に割って入った晴奈を見て、男たちは憤る。
    「なんらー、このガキ?」
    「やっべ、うっぜ」
    「うるせえ、あっちいけ!」
     そのうち、男たちの一人が晴奈を突き飛ばした。
    「きゃっ!」
     晴奈はばたりと倒れ、手をすりむいてしまう。
     それを見た女が「あっ」と声を上げ、こうつぶやいた。
    「……騒ぎたくは無かったけれど、そんなわけには行かなくなったか」

     女の雰囲気が変わったことに初めに気付いたのは恐らく、倒れて女を仰ぎ見ていた晴奈であろう。それまで逃げ腰だった様子に、急に凄みが差し始めた。
     だがその時点で、男たちはまだ気付いていなかったらしい。
    「じゃますっからだ、ガキ!」
    「いけ、どっかいけ、しね!」
    「さあ、おじょーさん、じゃまがき、え……、え?」
     3人目の男が、ようやく気付いたらしい。何か言いかけて、途中で言葉が途切れたからだ。
    「幼子に向かって、そのような態度! 容赦しない!」
     女がそう叫んだ瞬間、晴奈に向かって「死ね」と言った男が吹っ飛んだ。
    「ぎっ……」
     叫ぼうとしたようだが途中で気を失ったらしく、そのまま仰向けに倒れて動かなくなる。
    「お、おい」
    「な、なにすん……」
     続いてもう一人、くの字に折れてそのまま頭から倒れる。どうやら、女が何か仕掛けたらしいが、傍らで見ていたはずの晴奈でも、何が起こったのか分からない。
     晴奈は立ち上がり、女から少し離れて再度、様子を伺う。そこで女の手に何かが握られているのが、チラリとだが確認できた。
    「あ、あ……」
    「まだ正気が残っているのならば、さっさとそこの2人を担いで立ち去りなさい」
    「……はひ」
     一人残った男は慌てて倒れた仲間を引きずりながら、その場から逃げていった。
     女の手には刀が、刃を逆に返して握られていた。どうやらそれで男たちを叩き、ねじ伏せたらしい。
     これが、後に晴奈の師匠となるエルフ――柊との出会いであった。

    蒼天剣・立志録 2

    2008.10.06.[Edit]
    晴奈の話、2話目。すべてのはじまり。2. すべての始まりは彼女が夜道をひた走る、その半日前だった。 その日も晴奈は親の言いつけ通り、舞踊の稽古と料理の教室に通っていた。前述の通り、「お前の将来を思って」とする親の意向からである。(何が、私の将来よ?) 晴奈は一人、親への不満をつぶやく。親にとって「晴奈の将来」とは黄家の将来であり、親たちの家の将来のことなのである。 すべては晴奈が将来いい婿を手に入...

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    晴奈の話、3話目。
    三毛猫姉妹。

    3.
    「大丈夫、晴奈ちゃん?」
     柊が心配そうに晴奈の手のひらを覗き込み、手当てをしてくれている。
    「え、ええ」
     先ほどの騒ぎが一段落したところで、柊がケガをした晴奈に気付き、落ち着いた場所まで連れて行ってくれたのだ。
     流石に魔力の高いエルフらしく、柊は治療術ですぐに傷を治してくれた。
    「ありがとうございます、柊さん」
    「いえいえ、礼を言われるほどのことじゃないわ」
     そう言って柊はにこっと微笑む。
     出会ってたった十数分しか経っていないが、晴奈はこの人のことをとても好きになった。
    「お強いんですね、柊さん」
    「ううん、私なんかまだまだよ。
     むしろ晴奈ちゃんの方こそ、勇気があるわ。普通の人はあんな時に声、かけられないもの」
    「そ、そう、ですか?」
     そう言われて、晴奈は妙に嬉しくなった。
     今までのほめられ方は「女らしい」「可愛い」と言う、親のかける期待に沿うようなものばかりだったが、たった今、柊からかけられた「勇気がある」と言うその言葉は、そんなものとはかけ離れた――「親の期待」とはまったく無関係なところから届いた、まさに晴奈が望んでいたものだったからだ。
    「……いいなぁ、かっこ良くて」
     思わず、晴奈はため息混じりにそんなことをつぶやいていた。
    「ん?」
    「私なんか、全然かっこ良くないです。……どうしたら、柊さんみたいになれるかな?」
     柊は少し困ったような顔をし、言葉を選ぶような口調で返した。
    「うーん、私みたいに、ねぇ。……剣術、かしらね。昔から、励んでいたから」
    「剣術、ですか」
     晴奈はその言葉に、何かを感じた。それが何なのか、この時明確に言うことはできず、結局そこで話は途切れてしまう。
    「じゃ、そろそろ行くわね」
    「え? あ、えっと、どこに?」
     慌ててそう尋ねた晴奈に、柊は依然としてにこやかに、こう答えてくれた。
    「そろそろ故郷に戻ろうと思って。ここから南にある、紅蓮塞って言う修練場なの」
     柊はもう一度にこっと笑い、そのまま去って行く。
     晴奈は別れの言葉も言えずに、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。



     柊と別れた後から、晴奈の中で二つの思いが交錯し始めた。
     柊との出会いは、晴奈に大きな衝撃を与え、「柊さんを追いかけて、自分も剣士になりたい」と言う思いを抱かせたのだ。しかしその思いを実現させれば――憂鬱で仕方の無い日々だったとは言え――今までの平穏な日常が終わってしまう。
     晴奈は家に戻ってからもずっと、剣士の道を取るか、それとも安穏な日々を取ろうかと迷っていた。
     そんな風に考えあぐねていたため、晴奈は家の廊下でうっかり、妹とぶつかってしまった。
    「きゃっ」
     よろけた妹の手を取り、晴奈は頭を下げる。
    「あ、ああ。ごめんなさい、明奈」
     晴奈は慌てて妹の明奈に謝る。
    「どうなさったの、お姉さま?」
     明奈はきょとんとした顔で、晴奈の顔をのぞき見る。
    「ええ。少し、考えごとを」
    「すごく険しい顔をしていらっしゃるわ。一体、どんなことを?」
    「……」
     妹になら話してもいいかと考え、晴奈は明奈を自分の部屋に招き入れ、悩みを打ち明けた。
    「そんなことがあったのですね」
     すべてを聞き終えた明奈は、静かな口ぶりでこう返した。
    「では行った方がよろしいのでは?」「えっ」
     明奈の言葉に晴奈は驚いた。てっきり反論されるか、止められるかと思っていたからだ。
    「黄家は、わたしが継ぎます。だからお姉さま、ご自分の夢を追いかけてらして」
    「で、でも明奈、あなたは?」
     戸惑う晴奈に、明奈は淡々と返す。
    「わたしには、そこまで強い志がありません。せいぜい『良縁に恵まれ、良いお嫁さんになりたい』と言う程度。旧い黄家にふさわしいでしょう?
     でもお姉さまは大きな志を、夢を抱いていらっしゃる。その夢はこの旧い家にいたのでは、終生叶いませんわ」
     たった8歳だが、強いまなざしで語る明奈の言葉によって、13歳の晴奈の心の奥底にカッと火が灯る。
     これまでの、家族に守られ安穏としていた生活から離れ、たった一人で修行に向かい、荒波に揉まれてみようとする勇気が沸き起こった。



     そして夜半――晴奈は荷物をまとめて家を抜け出した。
     柊にもう一度会い、そして柊のような、強く、かっこいい剣士になるために。

    蒼天剣・立志録 3

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、3話目。三毛猫姉妹。3.「大丈夫、晴奈ちゃん?」 柊が心配そうに晴奈の手のひらを覗き込み、手当てをしてくれている。「え、ええ」 先ほどの騒ぎが一段落したところで、柊がケガをした晴奈に気付き、落ち着いた場所まで連れて行ってくれたのだ。 流石に魔力の高いエルフらしく、柊は治療術ですぐに傷を治してくれた。「ありがとうございます、柊さん」「いえいえ、礼を言われるほどのことじゃないわ」 そう言って...

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    晴奈の話、4話目。
    和風魔術剣。

    4.
     2日歩き通し、晴奈はようやく街道を進んでいた柊に追いついた。
    「……!?」
     あちこち土で汚れ、擦り傷だらけになった晴奈を見て、柊はとても驚いた目を向ける。
    「えっと、……晴奈ちゃん?」
    「はい!」
    「どうしてここに?」
    「柊さん。私を、……私を、弟子にしてください!」
     晴奈はいきなり柊の前に座り込み、深々と頭を下げた。
    「ちょ、ちょっと、晴奈ちゃん。あの、困るわ。私も、修行中の身だから」
    「お願いします!」
    「いや、あの、うーん……。あ、そうだ、お家の方と相談して……」「縁を切りました」「え!?」
     晴奈の言動に柊はまた目を丸くし、言葉を失ってしまった。



     柊は何とか説得しようとしたが、結局、晴奈の熱意と意気込みが伝わったらしく、諦め気味にこう答えた。
    「私はまだ修行中の身であるし、私が稽古を付けることはできない。それは理解してほしいの。
     だからともかく、私の師匠の所へ一緒に行きましょう。その人なら晴奈ちゃんが十分納得するように修行を付けてくれるはずだから」
    「……分かりました」
     晴奈はこの条件を呑み、柊と共に向かうこととなった。
     そして2人で街道をひたすら南へ1週間下り続け、2人は岩山に建つ、巨大な要塞の前に到着した。
    「ここが私の属する剣術一派、焔流の総本山であり、央南各地の剣士が修行の場にしている場所――通称『紅蓮塞』よ」
    「ここ、が……」
     その建物を見上げ、晴奈は思わず息を呑む。建物全体から、ビリビリと迫力が伝わってくるように感じたからだ。
     そこはまさに、霊場と言っても過言では無いように思えた。
    「さ、入るわよ」「あ、は、はい!」
     雰囲気に圧倒されながらも、晴奈は勇気を奮い立たせて柊に付いて行く。
     塞の中には修行場やお堂があちこちにあり、どこを見ても剣士たちがたむろしている。何年もここで修行をしていた柊には動じた様子は無いが、初めてここへ入った晴奈は強い威圧感を覚え、不安でたまらなくなりそうだった。
    「あ、あの」「ん?」「……いえ、何でも」
     だがその不安を口にすれば、柊から「やっぱり無理よ」などと言われ、引き返されてしまうかも知れない。そう思った晴奈はぐっと我慢し、柊の後をひたすら付いて行った。
     やがて柊はある部屋の前で立ち止まり、晴奈に振り返った。
    「ここが私の師匠――現焔流の家元、焔重蔵先生のお部屋よ。
     気さくな方だけど礼儀には厳しいから、気を付けてね」
    「はい」
     柊は少し間を置き、すっと戸を開けた。

     部屋の奥では、短耳の老人が正座して本を読んでいた。
    「うん?」
     柊たちに気付き、老人は眼鏡を外して顔を上げる。
     目が合うまでは一見、ただの好々爺のようにも見えたのだが、目が合った瞬間、晴奈の背筋に汗がつつ、と流れる。
    (『熱い』……!? 何だろう、この人? まるで燃え盛る炎が、すぐ近くにあるみたい)
    「おお、久しぶりじゃな雪さん」
    「ご無沙汰しておりました、家元」
     柊は深々と頭を下げ、師匠――焔重蔵に挨拶した。
     重蔵は座ったまま、ニコリと笑って応える。
    「おう、おう、そんな大仰にせんでもいい。ところで雪さん、その『猫』のお嬢さんはどなたかな?」
    「はあ、実は……」
     柊は言われるままに足を崩し、晴奈が焔流への入門を希望している旨を告げた。話を聞き終えた重蔵はあごを撫でながら空を見つめ、「ふむ……」とうなる。
    「どうでしょうか、家元」
     尋ねられ、重蔵は何度か短くうなずきつつ答える。
    「まずは試験を受けさせて見なければ、何とも言えんな。何をおいても、まず資質が無ければ、うちの剣術の真髄を身に付けることはできんからのう」
     重蔵はそう言って立ち上がり、背後に飾っていた刀を手に取った。
    「とは言え、魔力が高いと言われておる『猫』さんじゃったら、その資質も申し分無いじゃろうが――これは、最初に説明しておかなければのう」
     重蔵はそこで言葉を切り、柊と晴奈を手招きした。
     2人が部屋の真ん中に座り直したところで、重蔵は説明を続ける。
    「うちの流派は、その名も『焔流剣術』――読んで字のごとく、焔、つまり火を操る剣術なのじゃ。
     このようにな」
     途端に、重蔵の構えた刀の切っ先にポン、と火が灯る。
    「……!?」
     晴奈は声も出せないほど驚いた。
     刀に灯った火はそのまま、するすると刃先を走っていき、やがて刀全体が火に包まれる。そのまま重蔵は上段に剣を構え、振り下ろした。
    「やあッ!」
     振り下ろされた刀から火が飛び、そのまま床を走る。ジュッと床が焦げる音がし、壁際まで火が走り、しかし燃え広がることも無く、すぐに消えた。
    「あ……、わ……」
     目を白黒させる晴奈を面白がるような口ぶりで、重蔵はこう続けた。
    「これこそが焔流剣術の真髄。刀に火を灯し、剣閃に炎を乗せ、敵を焼く。もちろん、本来の剣術の腕も、不可欠。
     剣を極め、焔を極める。晴さん、自分にその覚悟と資質はあるかな?」
     重蔵は刀を納め、晴奈に笑いかけながら問いかける。
     晴奈はまだ動揺していたが、黙ったまま、コクリとうなずいた。

    蒼天剣・立志録 4

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、4話目。和風魔術剣。4. 2日歩き通し、晴奈はようやく街道を進んでいた柊に追いついた。「……!?」 あちこち土で汚れ、擦り傷だらけになった晴奈を見て、柊はとても驚いた目を向ける。「えっと、……晴奈ちゃん?」「はい!」「どうしてここに?」「柊さん。私を、……私を、弟子にしてください!」 晴奈はいきなり柊の前に座り込み、深々と頭を下げた。「ちょ、ちょっと、晴奈ちゃん。あの、困るわ。私も、修行中の身...

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    晴奈の話、5話目。
    入門試験。

    5.
     晴奈は剣道着に着替えさせられ、とあるお堂の中央に座らされた。そして横には、同じように剣道着姿の柊がいる。
     晴奈たちの前に重蔵が立ち、試験について説明する。
    「まあ、やることは至極簡潔なものじゃ。ただ座禅をしてもらう、それだけ。
     3時間じっとする、それ一つのみ。簡単じゃろ?」
    「は、はい……」
     晴奈はまだ少し緊張が取れず、恐る恐る答える。そんな晴奈を見て、重蔵はニコニコと笑みを返す。
    「はは、そう堅くならんと。
     じゃが、油断してはならんぞ。この堂には、鬼が棲んでおるからのう」
    「お、……鬼、ですか?」
     重蔵の言葉に、晴奈は目を丸くした。
    「そう、鬼じゃ。繰り返すが、試験の内容はただ一つ。鬼に惑わされること無く、3時間じっと座禅を組み続けること。それだけじゃ。
     ああ、そうそう。言い忘れておった。雪さんも、『私が晴さんを連れてきたのだから、晴さん一人で試験を受けさせるのは不義。同じように受けさせていただきたい』と言うから、そこに座っておる。
     じゃが、声をかけてはならんぞ。黙してただ座禅、それだけに専念するようにな」
    「はい」
     答えつつ、晴奈は柊の方をチラリと見る。柊はすでに、目をつぶって座禅に入っていた。それを見て、晴奈は慌てて視線を重蔵に戻す。
    「それではわしがここを離れてから、もう一度入ってくるまで。
     一意専心――ひたすら、座禅を通しなさい」
     そう言って重蔵は晴奈たちから離れ、堂の戸を閉める直前に振り返り、一言付け加えた。
    「おお、そうそう。ちなみにこの場所、『伏鬼心克堂』と言うんじゃ」
     そこでにっと薄く笑みを浮かべて、重蔵が戸を閉めた。

     晴奈は言われた通りに座禅を組み、じっとしていた。
    (ふくき、しんこくどう?)
     重蔵が残したその言葉を、晴奈は心の中で何度も読み返す。
    (鬼が潜んでいるから、伏鬼かな。心克って言うのは、克己心――自己を高める心のことだろうな、きっと。
     つまり鬼に負けないで、精神修養しろってことかな)
     色々考えているうち、何の刺激も無いためか、少しうとうとし始めた。
    (ん……。あ、危ない危ない。ちょっと、眠りそうになった。
     ダメダメ、ちゃんと座禅しないと。もし重蔵先生に見られていたら、怒られちゃうかも)
     慌てて、目を開く。その直後、とす、と言う音が、背後から聞こえた。
    (……足音?)
     とす、とすと、晴奈の背後で音が響く。思わず振り返りそうになったが、晴奈は心の中で自分を戒める。
    (ダメダメ、座禅! 座禅を組まないと!)
     その間もずっと、とすとす歩く音が聞こえてくる。ゆったり歩いているらしい、軽い足音である。
    (もしかして、……これが『鬼』? 何だか猫か兎みたいに、軽い足音。もしかしたら、子鬼かな?)
     そう思った瞬間、子供の笑う声が、ほんのかすかに聞こえてきた。
    (あ、やっぱり子鬼なんだ。……鬼でも、子供は可愛げがあるんだなぁ。
     これがもし大人の鬼だったら、きっと足音なんて、『とすとす』みたいなもんじゃないんだろうな)
     晴奈は少し笑いそうになったが、何とかそれをこらえようとした。
     だが、笑いは自然と消えた。笑っていられなくなったのだ。

     突然、地面が揺れる。
     座禅を組んでいた自分の体が――13歳にしてはわりと背が高く、体重もそれ相応にあるはずだが――一瞬、浮かぶほどの揺れだった。
    (きゃあっ!? じ、地震!?)
     叫びそうになったが、先程まで笑いをこらえていたこともあって、何とか声を漏らさずに済む。目をつぶって無理矢理心を落ち着かせ、何が起こったか冷静に予想してみようとする。
    (地震じゃ、無い、よね。外、騒いでないみたいだし――もしかしたら、地震くらいじゃ剣士たちって、騒いだりしないのかも知れないけど――一瞬で止んだ。
     もしかして、もしかしたら……、大人の、鬼?)
     その想像に、思わず晴奈はぶるっと震える。
    (いや、いや……、そんなわけ、無いじゃない! さっきまで、いなかったんだから!
     ……で、でも。子鬼、は、最初いなかった。どこかから姿を現した、から、いるわけで。とすると、その……、鬼も、入ってきたのかな?)
     そう考えた瞬間、また地面が揺れて体が浮き上がる。ずしん、と言う重く大きな音が、晴奈の猫耳をビリビリと震わせた。
    (ひっ……!)
     心の中で叫ぶ。ずっと黙っていたせいか、実際に声を出すまでには至らなかった。晴奈は鬼に怯えながらも、心の中で繰り返し唱える。
    (だ、だ、だ、大丈夫、大丈夫だって! もし襲うなら、背後でウロウロしたりなんか、しないじゃない! とっくに襲って来ているはず! だから、きっと、多分、大丈夫な、はず!
     そ、それに、もし、万が一襲ってきても、柊さんが横にいるんだし、きっと守ってくれる! だから、ほら、心を落ち着けて! ちゃんと座禅を、組まないと!)
     先ほど揺れた時と同様、無理矢理に心を落ち着かせようとするが、恐怖の広がった心は恐ろしい想像ばかりかきたてていく。
    (……でも、鬼に人間が勝てるの? いくら柊さんでも、殺されちゃうんじゃ……!?)
     自分のあらぬ想像を、晴奈は全力で否定しようとした。
    (そ、そんなわけ無い! 無いの! だって、ほら、横には、ちゃんと……)
     そこで晴奈は目を開け、柊の姿を確認して自分を安心させようとした。

     だが、その光景に今度こそ叫びそうになった。
     柊が血を流して倒れている。座禅を組んだまま、横になっている。だが向けられた背中に、いかにも鬼が持っていそうな棍棒が、無残に食い込んでいる。そこからドクドクと血が吹き出しており、どう見ても絶命している。
    (い、……嫌あああぁぁぁッ!)
     恐怖で凍りつき、叫んだつもりののどからは、悲鳴は漏れなかった。先ほどからずっと黙ったままの晴奈は、のどを押さえて震えだす。
    (あ、あああ、柊さん、柊さん……!?)
     恐怖が頂点に達し、晴奈は現状を呪い始めた。
    (何で、何でこんなことに……! ああ、私が、試験を受けるなんて言ったから、柊さんが死んじゃったんだ!
     私の、私のせいだ! 私が、ここに入ったから、柊さんも、一緒に入って、だから、死んで……。
     ……え?)
     恐怖による混乱の渦中にありながらも、晴奈はある矛盾に気が付いた。

    蒼天剣・立志録 5

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、5話目。入門試験。5. 晴奈は剣道着に着替えさせられ、とあるお堂の中央に座らされた。そして横には、同じように剣道着姿の柊がいる。 晴奈たちの前に重蔵が立ち、試験について説明する。「まあ、やることは至極簡潔なものじゃ。ただ座禅をしてもらう、それだけ。 3時間じっとする、それ一つのみ。簡単じゃろ?」「は、はい……」 晴奈はまだ少し緊張が取れず、恐る恐る答える。そんな晴奈を見て、重蔵はニコニコと...

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    晴奈の話、6話目。
    剣士への第一歩。

    6.
     晴奈はもう一度、頭の中を整理する。
    (だって、試験、なんだから。
     重蔵先生は特に仰ってなかったけれど、柊さんもここの剣士なんだから、以前に試験を受けているはず、よね? じゃあ、ここに入っている、……よね?
     だったら、鬼が出るって言うのも、襲うって言うのも知っていたはず。それなら身を護るために、防具なり武器なり、装備しているはず――例え歯が立たないとしてもー―でも柊さんは、道着だけ。襲われる可能性があるのに、道着だけを?
     ……以前は、出てこなかった? 襲われなかった? 二度入ったら、襲われるって言うの? そんなバカな話、無い。それなら重蔵先生は、何度襲われているか分からないじゃない。と言うことは、鬼は襲わない。普通は、襲わない?
     じゃあ、襲ったのは何で? ……あれ? 襲った? 物音も無く? ううん、あれだけドスドス音を立ててるんだから、柊さんが気付かないわけが無いじゃない!?
     おかしい。考えれば考えるほど、矛盾が広がっていく)
     納得行く説明を求め、迷走していく晴奈の心が、少しずつ静まっていく。
    (おかしい、おかしい!
     大体、この堂の入口は、前にある一ヶ所しか無い。前から入って来たのなら、すぐ分かるはず。でも足音が聞こえて来たのは、いつも後ろから――前からの足音は、一度も聞こえて無かった。
     じゃあ、鬼は突然現れたの? いつ? どうして?)
     そこまで考えたところで、晴奈にある閃きが走った。
    (殺されると思ったら、柊さんが殺された。鬼の足音のことを考えたら、鬼が出た。子鬼かなと思ったら、笑い声。
     考えると、現れる?)
     晴奈はもう一度目をつぶり、心を落ち着けて考えた。
    (柊さんは死んでない。じっと、座禅を組んでいる)
     心の中で強く思い、目を開けて横を見た。
     そこには重蔵が戸を閉めた時と同じ姿勢のまま、柊が何事も無かったかのように、静かに座っていた。



     伏鬼心克堂――その意味は、「鬼が潜む心(伏鬼心)を、抑える(克する)堂」。
     雑念によって現れる様々な「鬼」――迷いや不安、猜疑心を、冷静になって消し去ることを学ぶ堂である。
     そして焔流の真髄、炎を操るには、冷静沈着な心が不可欠なのだと言うことを第一に学ぶために、この試験は用意されているのである。



     一旦それに気が付くと、不思議なほど晴奈の心は静まり返った。極めて冷静に、心を落ち着けて、時間が過ぎるのを待った。
     幸い、時間を潰すのは非常に簡単だった。どう言う理屈か晴奈には分からなかったが、この堂は念じれば、何でも出てくるのだ。時間が過ぎ去るまでの間、晴奈は妹のことを思い浮かべることにした。
    (明奈。あなたには、感謝してもしきれない)
     目の前に明奈が現れ、ニッコリと笑いかけてくる。
    (あなたの言葉があったからこそ、私はこうしてここにいる)
     明奈は前に座り込み、穏やかに笑っている。
    (明奈、……ありがとう)
     そうして晴奈はずっと、明奈と声を出さずに語り合っていた。

    「はい、そこまでじゃ」
     どうやら3時間が過ぎたらしい。
     入口の戸が開き、重蔵が入ってきた。柊がすっと立ち、深々と頭を下げる。晴奈も慌てて立ち上がり、同じように頭を下げた。
    「どうやら、合格のようじゃな。3時間、よく頑張った」
     重蔵は笑いながら、晴奈の頭を優しく撫でた。
    「あ、ありがとうございます!」
    「これで晴さんも、晴れて焔流の門下生じゃ。精進、怠らんようにな。
     それから雪さん。よく考えればもう、入門して16年になるのう。そろそろ教える側に回っても良かろう。師範に格上げしておくから、さらに精進するように」
    「はい!」
     柊はとても嬉しそうな顔をして、もう一度頭を下げた。その頭を、重蔵が先ほどと同じように、優しく撫でながらこう言った。
    「それでじゃ。晴さんは、君が指南してあげなさい」
    「え!?」
    「元々君に師事したいと言っておったのじゃし、年老いたわしの下に就いておっては、折角の若い才能も枯れてしまうじゃろう。
     しっかり、鍛えてやりなさい」
    「……はい。しかと、拝命いたしました」
     柊は三度頭を下げ、晴奈に向き直った。
    「改めてよろしくね、晴奈ちゃん。……ううん、晴奈」
    「はい! よろしく、お願いいたします!」
     晴奈ももう一度、深々と頭を下げた。



     こうして黄晴奈は焔流に入門し、師匠・柊雪乃の下で修行を積むことになった。
     これが後の剣聖、「蒼天剣」セイナ・コウの原点である。ここから彼女の、波乱万丈の人生が始まっていくこととなる。

    蒼天剣・立志録 終

    蒼天剣・立志録 6

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、6話目。剣士への第一歩。6. 晴奈はもう一度、頭の中を整理する。(だって、試験、なんだから。 重蔵先生は特に仰ってなかったけれど、柊さんもここの剣士なんだから、以前に試験を受けているはず、よね? じゃあ、ここに入っている、……よね? だったら、鬼が出るって言うのも、襲うって言うのも知っていたはず。それなら身を護るために、防具なり武器なり、装備しているはず――例え歯が立たないとしてもー―でも柊さ...

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    晴奈の話、7話目。
    朝練。

    1.
     焔流に入門して以降、晴奈は急速に、剣士としての力を付けて行った。
     元来、強い魔力を持つと言われる猫獣人であり、その資質が火の魔術剣を真髄とする焔流と親和性が高かったことは確かだが、それを差し引いても、師匠である柊の指導や鍛錬が行き届いていたからだろう。

     その日も二人は、早朝から稽古に打ち込んでいた。
    「えいッ!」
    「やあッ!」
     二人の木刀が交錯し、カンと乾いた音が、他に人のいない修練場に響き渡る。
     まだ日も昇らぬ、山中の冷え切った空気が立ち込める時間帯であるにも関わらず、二人は活き活きと木刀を振るっている。
    「いい調子よ、晴奈! それ、もう一度!」
    「はいっ、師匠!」
     二人の出会いから1年が過ぎた双月暦507年、14歳になった晴奈は紅蓮塞で揉まれるうちに――周りの無骨な者たちの影響を受けたらしく――性格や口調が、大きく変化していた。
    「てやあッ!」
     晴奈は飛び上がり、柊の頭上に思い切り木刀を振り下ろす。
    「りゃあッ!」
     柊も木刀でそれを防ぎ、身をひねりながら足と木刀を使って、晴奈を投げ飛ばす。
    「なんのッ!」
     飛ばされた晴奈も、空中で体勢を立て直してストンと地面に降り、柊に再度、斬り込もうとする。
     だが残念ながら姿勢が伴わず、踏み込みを見誤ってよろめいた拍子に、柊に木刀を弾き飛ばされてしまった。
    「あっ……」「勝負、あった」

     朝の稽古を終え、二人は風呂で汗を流していた。
    「いくら身軽な『猫』とは言え、性急な攻めは無謀よ、晴奈」
    「はは……、お恥ずかしいです」
     二人で朝風呂につかりながら、ここはこうだった、次はこうした方がいいと、稽古の内容について熱く意見を交わしている。
    「それでは昼までの精神修養は、……くしゅ」
     議論に熱を入れすぎたせいか、逆に体から熱が奪われ、湯冷めしてしまったらしい。年相応の可愛いくしゃみをした晴奈に、柊は笑う。
    「あはは、ダメよ晴奈。体を健康に保つのも修行の、……くしゅん」
     笑っていた柊も、うっかりくしゃみをしてしまう。
    「……はは」
    「……うふふ」
     師弟二人はばつが悪くなり、互いに笑ってごまかした。



     風呂から上がり、晴奈たちはさっぱりとした気分で朝食を食べていた。
     先程とは違い、ここでは二人とも会話しようとしない。と言うより、央南の人間は基本的に食事中しゃべることは少ないのだ。
     だから、二人で黙々と食べていたところに「晴奈、お客さんが来ているよ」と声をかけられ、部屋の戸を開けられた時には、二人同時にむっとした顔をしたし、伝言に来た者もすぐさま謝った。
     謝ってきたから柊はすぐ表情を直し、軽く頭を下げ返したのだが、晴奈は依然、いぶかしがって表情を変えずにいた。
     単身、紅蓮塞に乗り込んできた晴奈に、外界からの客などいるはずが無いからである。
    「私に、客?」
    「ああ。何でも、黄海から来られたそうだ」
    「黄海……、ですか」
     その地名を聞くなり晴奈の食欲は途端に無くなってしまい、ぱたりと箸を置いた。

     黄海とは晴奈の故郷である、央南北西部有数の大きな港町である。同時に央南西部、黄州の州都でもあり、その州は晴奈の生家、黄家が治めている。
     そのため、その地名を聞く度、晴奈は黄家での生活――すなわち、親の言いなりになっていた自分を思い出し、度々気を滅入らせていた。

    「客の名前は?」
     渋々ながら晴奈はそう尋ねたが、伝えに来た者は首を振る。
    「いや、ただ『晴奈に会いたい』としか……。中年の『猫』で、なかなかいい身なりをしていた。見たところ、どこぞの名士のようだったな」
     それを聞いた瞬間、晴奈は恥ずかしさと苛立たしさを同時に覚えた。
    「どうやら、父のようです。私を、連れ戻しに来たか……」

    蒼天剣・縁故録 1

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、7話目。朝練。1. 焔流に入門して以降、晴奈は急速に、剣士としての力を付けて行った。 元来、強い魔力を持つと言われる猫獣人であり、その資質が火の魔術剣を真髄とする焔流と親和性が高かったことは確かだが、それを差し引いても、師匠である柊の指導や鍛錬が行き届いていたからだろう。 その日も二人は、早朝から稽古に打ち込んでいた。「えいッ!」「やあッ!」 二人の木刀が交錯し、カンと乾いた音が、他に人...

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    晴奈の話、8話目。
    親がでしゃばると、子供は恥ずかしい。

    2.
     客間の前に着いたところで、晴奈はそっと戸を薄く開ける。
     戸の向こう側には、恰幅のいい猫獣人の男が正座している。それは間違い無く晴奈の父、黄紫明だった。
    「はあ……」
     見ただけで、晴奈の心は重苦しく淀んでいく。そこで後ろにいた柊が、そっと晴奈の肩に手をかけた。
    「まあ、あなたの気持ちも分からなくはないけれど……。
     でも、いずれはこうなることと、それとなく分かっていたことでしょう? まさか一生縁を切ったままなんて、義理と仁徳を重んじる央南人らしからぬ考えを抱いていたわけじゃないわよね?」
    「う……、まあ、それは」
     柊は強い言い方で、しかし穏やかな口調で晴奈を諭す。
    「精神修練の際に最も、気を付けることは?」
    「邪念を払うこと」
    「でしょう? 余計なわだかまりを抱えていては、邪念を払うことは無理よ。ここできっちり、けじめを付けなさい」
    「……はい、承知しました」
     晴奈は大きく深呼吸し、少し間を置いてから客間の戸を開けた。柊も念のため晴奈の後に付いて、客間に入っていった。

     晴奈を見た瞬間の、紫明の第一声はこうだった。
    「帰るぞ、晴奈」
     当然、晴奈もこう返す。
    「断ります」
    「何故だ!? もう1年も、こんなむさくるしいところに、……いや、失礼。1年も、家を離れていたのだぞ。そろそろ、家が恋しくなったろう?」
    「いいえ」
     紫明の口ぶりには、晴奈が言うことを聞く、きっと耐えられなくなっているだろうと高をくくっている色が透けて見えている。反面、晴奈はこの1年、うっとうしく思っていた家のことなどすっかり忘れ、嬉々として修行に励んでいる。
     真逆に考えている二人の話がかみ合うわけが無く、場は険悪になる。
    「強がりを言うな、晴奈。女のお前がこのような男ばかりの場で過ごして、辛くないわけが無かろう?」
     そんな言われ方をされて、うなずくような晴奈ではない。苛立ちを隠すことも無く、真っ向から反論した。
    「ここには女もおります。力も技も、そこらの軟弱な男よりずっと強い」
    「そんなわけが無いだろう。女が男より、強いわけがあるまい」
    「……」
     この言葉には、流石の柊も気分を悪くしたらしい。晴奈は背後で、師匠が不快そうに息を呑むのを感じ取った。
    「さあ、言い訳などせずこっちに来るんだ」
    「嫌ですッ!」
     聞く耳を持たない父に晴奈はさらに苛立ち、語気を荒くする。対する紫明も、自然と口調がきつめになっていく。
    「ダダをこねるな、晴奈ッ! 強がるだけ無駄だぞ!? 分かっているんだ、私には!
     さあ、四の五の言わずに一緒に帰るんだ!」
    「嫌だと言ったら、嫌だッ!」
    「いい加減にしろ、早く帰る支度をするんだ!」
     段々言い方が命令になり始め、晴奈はますます態度を硬くする。
    「帰らない! 私は、ここに骨を埋めるッ!」
    「私を煩わせるな! もういい、引っ張ってでも……」
     ついに紫明が怒り出し、晴奈の手をつかんだ瞬間――。
    「嗚呼、嗚呼。いい年をした御仁が、みっともないですぞ」
     どこからか現れた重蔵が、紫明の手をひょいと取った。
    「何だ、この爺は! 離せ、離さんと……」「どうするおつもりかな、黄大人?」
     重蔵が尋ねた途端、紫明の顔色が変わる。どうやら重蔵の並々ならぬ気配に圧され、恐れをなしたらしい。
    「う、ぬ……」「さ、落ち着きなされ」
     紫明は言われるがまま、晴奈に向けていた手を引っ込め、座り直した。
     重蔵は二人から少し離れて座り、ゆったりとした口調で父娘の仲裁に入る。
    「まあ、黄大人のお気持ちもわしには分かりますわい。手塩にかけて育てた娘御が、こんな『むさくるしい』ところに閉じこもっておったら、確かに気が気では無いでしょうな。
     とは言え娘さんは、あなたの所有物では無い。子供が嫌がるものを無理矢理押し付けるのは、親のわがままでしょう。親なら、子供がやりたいことを応援しなされ」
    「し、しかし。その、晴奈だって、ここで1年も暮らせば、耐え切れなく……」
     なおも自分の意見を通そうとする紫明に、重蔵はびしりと言い放つ。
    「それこそ、黄大人のわがままと言うものでしょう。
     黄大人は黄大人であって、晴さん……、娘さんでは無い。娘さんの気持ちは、娘さん本人にしか分からんものです。黄大人の言っていることは、すべてあなた自身の勝手な予想、思い込みに過ぎません。
     それとも黄大人、この部屋に入ってから今までで、娘さんから一言でも『帰りたい』と言う言葉を聞いたのですかな?」
    「ぐぬ……」
     正論を返され、紫明は何も言い返せなくなる。そこで重蔵は晴奈に振り向き、静かに問いかけた。
    「晴さん、どうじゃな? 家に帰りたいか? それとも、修行を続けたいかな?」
    「もちろん、修行を続けたいです」
    「うむ、そうじゃろうな。……黄大人、良ければ一度拝見されてはいかがかな?」
     重蔵の言った意味が分からず、紫明はきょとんとした。
    「え?」
    「娘さんの頑張っておる姿。それを見てから今一度、晴さんが本気で修行を続けたいと言っておるのか、それともちょっと長めの家出でしか無いのか、判断するのがよろしいでしょう」

    蒼天剣・縁故録 2

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、8話目。親がでしゃばると、子供は恥ずかしい。2. 客間の前に着いたところで、晴奈はそっと戸を薄く開ける。 戸の向こう側には、恰幅のいい猫獣人の男が正座している。それは間違い無く晴奈の父、黄紫明だった。「はあ……」 見ただけで、晴奈の心は重苦しく淀んでいく。そこで後ろにいた柊が、そっと晴奈の肩に手をかけた。「まあ、あなたの気持ちも分からなくはないけれど……。 でも、いずれはこうなることと、それ...

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    晴奈の話、9話目。
    晴奈の初戦。

    3.
     応接間での一悶着から10分ほど後、晴奈たち師弟と紫明は重蔵に連れられて、ある修練場に集められた。
    「えっと……」
     晴奈はそこで、重蔵から真剣を渡される。
    「仕合と言うやつじゃ。丁度いい手合いがおったのでな」
    「手合いって……」
     柊が神妙な顔で、その「相手」を眺める。
    「小鈴じゃない」
    「どーもー」
     その相手は柊に向かって、ぺら、と手を振る。もう一方の手には鈴が大量に飾られた杖が握られていた。
    「あなたが晴奈ちゃんだっけ? 雪乃から聞いてるけど」
    「え、ええ。黄晴奈と申します」
     挨拶した晴奈に、赤毛のエルフも自己紹介を返す。
    「あたしは橘小鈴。雪乃の友達で、魔術師兼旅人。よろしくね」
    「魔術、ですか」
     ちなみに魔術とは、中央大陸の北中部などを初めとして世界中に広く伝わっている、焔流とはまた違う形で精神の力、魔力を操る術のことである。
     と、まだ状況を飲み込みきれていない面々に、重蔵が説明を足す。
    「鈴さんもそれなりの手練でな。丁度温泉街で暇そうにしとったから、晴さんの相手になってもらおうと思ってのう。
     同門が相手でも良かったんじゃが、黄大人に八百長だなどと思われてはかなわんしな」
    「いや、私は、そんな……」
     すっかり調子を狂わされたらしく、紫明の歯切れは悪い。
    「そんなわけで、これから二人に戦ってもらう。分かっていると思うが、二人とも真剣に仕合うこと。負けたと思ったら、潔く降参すること。
     それでは……、開始ッ!」
     重蔵が手を打った瞬間、橘は杖を鳴らし、攻撃を仕掛けてきた。
    「んじゃ、遠慮無く行くわよ! 突き刺せッ!」
     鈴の音と共に、地面から石の槍が伸びる。晴奈はばっと飛び上がり、槍から離れる。
    「わ、わあっ、晴奈!?」
    「まあ、じっと見ていなされ」
     突然の対戦にうろたえ、叫ぶ紫明を、重蔵がニコニコ笑いながらいさめる。
     その間に晴奈は石の槍をかわし切り、橘に斬りかかっていた。
    「やあッ!」
    「『マジックシールド』!」
     だが、晴奈の刀が入るよりも一瞬早く、橘が防御の術を唱える。橘の目の前に薄い透明な壁が現れ、晴奈の刀を止めた。
    「へえ? 子供かと思っていたけど、なかなか気が抜けないわね」
    「侮るなッ!」
     晴奈はもう一度、壁に向かって刀を振り下ろす。
     と同時に、晴奈の刀に、ぱっと赤い光がきらめく。焔流の真髄、「燃える刀」である。魔術と源を同じくするためか、橘が作った壁はあっさり切り裂かれた。
    「え、うそっ!?」
     まだ晴奈を侮っていたらしく、橘は驚いた声を上げる。
     しかしすぐに構え直し、晴奈から距離を取ってもう一度、魔術を放つ。
    「『ストーンボール』!」
     この聞き慣れない単語に、晴奈は心の中でつぶやいていた。
    (どうも魔術と言うものは、聞き慣れない言葉が多いな?
     いつか私も、央中や央北へ行くことがあるのだろうか。そうなると、こんなけったいな名前の術を耳にする機会も、多くなるのだろうか?
     うーん、何だか調子が狂ってしまいそうだ)
     目に見えて動揺している橘とは逆に、晴奈は冷静に立ち向かっていた。1年欠かさず続けた精神修養の成果である。
     魔術によって発生した無数のつぶても難なく避け、晴奈はもう一度橘を斬りつけようとした。
    「くッ……!」
     橘は何とか杖を盾にして晴奈の攻撃を防ぎ、ギン、と金属同士がぶつかり合う音が修練場に鋭くこだまする。
     どうにか攻撃をしのいだところで、橘はまた距離を取り、魔杖を構えようとする。
    「甘いッ!」「え……」
     橘が後ろに飛びのいた瞬間を狙って晴奈が踏み込み、刀の腹でばしっと橘を叩く。刀で押されて体勢を崩し、橘は尻餅をついてしまった。
    「あ、きゃあっ! ……あっ」
     橘が起き上がろうとした時には、晴奈は既に、彼女の首に刃を当てていた。
    「勝負、ありましたね」



    「なーんか、自分にがっかりしちゃったわ、マジで。
     あたしの半分も生きてないよーな子に、あっさりやられるなんて思わなかった」
     対決の後、がっくりと肩を落としている橘を、柊が慰めていた。
    「まあまあ……。もう一度、修行を積んで再戦すればいいじゃない」
    「うー……。修行とかめんどくさいけど、……この体たらくじゃ仕方無いかぁ」
     ちなみにその後、橘はしばらくの間、晴奈たちと共に精神修養を主として修行に励んでいた。よほど、晴奈の戦いぶりに感心したのだろう。

    蒼天剣・縁故録 3

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、9話目。晴奈の初戦。3. 応接間での一悶着から10分ほど後、晴奈たち師弟と紫明は重蔵に連れられて、ある修練場に集められた。「えっと……」 晴奈はそこで、重蔵から真剣を渡される。「仕合と言うやつじゃ。丁度いい手合いがおったのでな」「手合いって……」 柊が神妙な顔で、その「相手」を眺める。「小鈴じゃない」「どーもー」 その相手は柊に向かって、ぺら、と手を振る。もう一方の手には鈴が大量に飾られた杖...

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    晴奈の話、10話目。
    親子の雪解け。

    4.
     晴奈の戦いぶりにすっかり圧倒されてしまったらしく、仕合が終わった後も紫明は、呆然と立ち尽くしていた。
    「あ、の……、父上?」
    「……」
     晴奈が呼びかけてもぽかんとしたまま、反応が無い。
    「父上」
    「……」
    「……お、お父様」
    「あ、……う、うむ」
     ようやく我に返り、紫明は娘の顔をじっと見つめてきた。
    「何だか、魂を抜かれた気分だ。まさかあれほど苛烈な戦い方を、お前がするとは」
    「あれが、私の求める道なのです。私はもっともっと、道を進んで、極めたいのです」
    「……そうか」
     紫明はそれきり背を向け、じっとうつむいていた。

     次の日になって、紫明は紅蓮塞を発った。
    「家に連れ帰るのは諦めた。お前を説得するのは私でも無理だ。
     まあ、その……。もしも家が恋しくなったら、その時は遠慮せず帰ってきてくれ。母さんも明奈も、心配しているからな」
    「はい」
     最初に会った時とはガラリと違う雰囲気の中、黄親子は別れの挨拶を交わしていた。
    「それじゃ、元気でな。……風邪、引いたりするんじゃないぞ」
    「はい」
     そこで言葉が切れ、二人は黙々と、並んで紅蓮塞の門へ進む。
    「では、父上。お元気で」
     門前で晴奈が口を開いたところで、紫明がこう返した。
    「……その、なんだ。応援、するからな」
    「ありがとうございます、父上」
     晴奈は涙が出そうになるのを、深いお辞儀でごまかした。



     その一ヶ月後。
    「『応援する』って、こう言うことか……」
     晴奈と柊、重蔵の前には、山のような金貨と、食糧が積んであった。無論、送り主は紫明である。
     一緒に送られてきた手紙には、「晴奈の健康と上達を願って 黄水産、黄金融、他黄商会一同及び、総帥・黄紫明より」としたためられていた。
    「ん、まあ、お父さんの、愛じゃと思って、のう、雪さん?」
    「は、はは……、そうですね、はい、ええ、もう」
     晴奈は顔を真っ赤にして、頭と猫耳をクシャクシャとかき乱しながら、尻尾をいからせて叫んだ。
    「恥ずかしいことをするなッ、この、クソ親父ーッ!」



     ちなみにこの後、晴奈は改めて自分の故郷を訪ね、母と妹の明奈にも自分が剣士としての修行を積んでいることを自ら伝えた。
     1年もの間抱えていたわだかまりが消えたことで、紅蓮祭に戻って以降、晴奈はより一層、修行に打ち込むようになった。

     しかしさらにこの1年後、自分が焔流剣士の道を歩んだことがとある騒動のきっかけになるなど――この時の晴奈には、知る由も無かった。

    蒼天剣・縁故録 終

    蒼天剣・縁故録 4

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、10話目。親子の雪解け。4. 晴奈の戦いぶりにすっかり圧倒されてしまったらしく、仕合が終わった後も紫明は、呆然と立ち尽くしていた。「あ、の……、父上?」「……」 晴奈が呼びかけてもぽかんとしたまま、反応が無い。「父上」「……」「……お、お父様」「あ、……う、うむ」 ようやく我に返り、紫明は娘の顔をじっと見つめてきた。「何だか、魂を抜かれた気分だ。まさかあれほど苛烈な戦い方を、お前がするとは」「あれが...

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    晴奈の話、11話目。
    黒と赤の炎。

    1.
     央南と央中、その二地域を分かつ屏風山脈に、ある組織の総本山がある。
     その名は「黒炎教団」。伝説の奸雄、克大火(カツミ・タイカ)を神と崇める集団である。

     克大火――年齢・種族不詳。
     名前から央南の生まれと推察できるが、どこの地方かまでは不明。魔術と剣術の達人であり、色黒の肌を漆黒の衣服と洋風の外套で覆った、長身の男性だそうである。
     巷のうわさに曰く、「200年近く前に起こった戦争の頃から、ずっと若い青年の姿で生きている」、「凶悪な強さを持ち、誰一人打ち負かした者はいない」、「不老不死の秘術を知る唯一の人間、いや、神、もしくは悪魔だ」と、半ば神話や伝説じみた話があちこちに伝わっており、そこに神性を見出した者たちが教団を創り上げたらしい。

     教団員たちは克の存在を絶対的なものにすべく、彼の弱点と言われる様々なものを撤廃・廃絶しようと画策している。
     まず、彼を敗北寸前まで追い詰めたと言われる、雷の魔術。あらゆる魔術を打ち砕き、克の魔術すら無効化したと言う、伝説の剣。そして――200年前の戦争で興隆・活躍し、後に克と対立した剣術一派、焔流。



     双月暦508年、初春。
    「またか……!」
    「しつこくてかなわん!」
    「今度こそ、斬り散らしてくれるわ!」
     いつに無く、紅蓮塞が騒々しい。あちこちで剣士たちがいきり立ち、走り回っているからだ。しかし、まだここに来て2年ほどしか経っていない晴奈には、彼らが何に憤り、何をしようとしているのか分からない。
    「師匠、何かあったのですか?」
    「ええ、少しね」
     横にいた晴奈の師匠、柊は、せわしなく動き回る剣士たちの邪魔にならないよう、自分たちの部屋に戻ってから詳しく説明してくれた。
    「黒炎教団って知ってる?」
    「ええ、故郷でも何度か見かけたことがあります。黒い外套と黒装束を着込んだ、真っ黒な者たちですよね?
     うわさに聞くに、央南の東部地域では蛇蝎のごとく忌み嫌われているとか、西端では絶大な政治力を有しているとか」
    「ええ。その教団がね、うちに攻めて来るのよ」
    「攻めて来る? 一体、何故に?」
     話を続けながら、柊は刀を手にし、和紙で拭い出す。どうやら彼女も、戦いに備えるつもりらしい。
    「黒白戦争の頃に活躍した奸雄、克大火と対立した一派だから、だそうよ。
     黒炎教団は克を信奉しているから、その敵が今もいるとなれば何が何でも打ち倒そうとしているのよ」
     この説明に、晴奈は目を丸くして呆れる。
    「こ、黒白って確か……、4世紀の戦争だった、ような?
     そんな過去の因縁を、まだ引っ張っていると言うのですか?」
     晴奈の言葉に、柊は刀に打粉しつつ、クスッと笑う。
    「まあ、宗教ってそう言うものよ。央北の天帝教だって、1世紀の経典をずっと使っているんだし。
     ともかく、そんなわけで。何年かに一度、彼らはこの紅蓮塞を潰そうと攻めてくるのよ」
     柊はもう一度刀を綺麗に拭いて、鞘に納めた。

    蒼天剣・血風録 1

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、11話目。黒と赤の炎。1. 央南と央中、その二地域を分かつ屏風山脈に、ある組織の総本山がある。 その名は「黒炎教団」。伝説の奸雄、克大火(カツミ・タイカ)を神と崇める集団である。 克大火――年齢・種族不詳。 名前から央南の生まれと推察できるが、どこの地方かまでは不明。魔術と剣術の達人であり、色黒の肌を漆黒の衣服と洋風の外套で覆った、長身の男性だそうである。 巷のうわさに曰く、「200年近く前...

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    晴奈の話、12話目。
    姉御魔術師再登場。

    2.
     紅蓮塞は中核となる本丸を囲むように、大小50程度ある修行場と、さらにその倍ほどの宿場・居間が連なっている。
     普段はその字面の通りに修行の場、居住区として機能しているが、有事の際にはその様相は一変し、要塞としての働きを見せる。
     それが紅蓮塞の、「塞」たる所以である。

     襲撃の報せから数日も立たないうちに、紅蓮塞の守りは堅固なものとなった。塞内のいたるところに武器・医薬品が積み上げられ、要所には数人の手練が詰めた。
     当然、師範格の柊も晴奈ともども駆り出され、紅蓮塞北西側の修行場、嵐月堂の護りに付くことになった。
    「師匠。黒炎の者たちは一体、どこから攻めると?」
     三方を囲む急坂をぐるっと眺め、晴奈が尋ねる。
     それを受けて、柊も周囲を見回しながら答えた。
    「そうね……、ここから侵入するとなると、境内の垣を乗り越えるか、それとも破るか。もしくは山肌から降りて来るか、の2通りでしょうね。
     いずれにしても、油断は禁物よ。敵は克直伝の魔術を使うそうだから」
    「なるほど。……ん?」
     晴奈は柊が言葉を間違えたと思い、こんな風に突っ込んでみた。
    「直伝、ですか? まさか200年前の人間が現代に直接、伝えたと?」
     ところが柊は真面目な顔で、言葉を選ぶような口ぶりでポツポツと答えた。
    「その、ね、うーん、何て、言ったらいいかな。
     克はまだ生きている、らしいの。それも若々しい、青年の姿で」
    「え? まだ、生きている!? まさか!」
     現実離れした答えが返ってくるとは思わず、晴奈は声を高くして聞き返した。
    「ありえません。人の寿命など、精々60年や80年、どんなに長くとも100年でしょう。それは確かに、長耳の方は長寿と聞き及んでおりますし、何かしらの記録では、150年の大往生を果たした方もいるとか。
     しかしそれを踏まえても、ずっと青年のままと言うのは眉唾でしょう。長耳の方とて、60なり70になれば相応に老けるはずですし」「晴奈」
     言葉を立て並べて反論した晴奈に、柊は静かな声で返した。
    「それが、克が克たる所以よ。
     200年生きる。不老不死の存在。誰もがそんな話、ありえないと言う。『そんな悪魔じみた話があるものか』とね。
     でも克は別なの。だって彼は、悪魔だもの」
    「あく、……ま?」
    「そう、悪魔。知ってる、晴奈?」
     柊はそう前置きし、薄い笑みを浮かべる。
    「克大火は色んな通り名を持っているけれど、その一つが『黒い悪魔』なの。
     彼は、本物よ」
    「……」
     柊の目には、嘘をついたりからかっているような色は無い。
     その目を見て、晴奈はぞっと寒気を覚えた。

     と、山肌の一部が突然爆ぜる。
     いくつもの岩塊が山肌から飛び散り、晴奈たちに向かって飛んでくる。
    「わあっ!?」
    「怯むな、焼けッ!」
     そこにいた何人かは一瞬たじろいだが、年長者や手練の者たちは臆することなく、「燃える刀」で飛んでくる岩を焼き切り、叩き落とす。
    「黒炎だ! 攻めてきたぞーッ!」
     大声で叫ぶ声があちこちから聞こえてくる。
     それを受けて、柊がつぶやく。
    「今回は敵が多そうね。かなり大規模に人を送ってるみたい」
    「え?」
    「じゃなきゃ、こんなに四方八方から来るぞ来るぞって聞こえて来ないし」
    「な、なるほど」
     程なく嵐月堂にも、教団員たちが山肌を滑るようにして侵入してきた。
     いや、何人かは「本当に」滑っている。駆け下りるような感じではなく、わずかに空中に浮き上がり、するすると空を走っているのだ。
    「あれは!?」
     晴奈の目にはそれが異様な光景に映り、うろたえる。
     一方、柊は未だ、平然と構えている。
    「魔術よ。確か、名前は……」「『エアリアル』、風の魔術よ。魔術が盛んな地域では、わりと有名な術ね。つっても、あそこまで使いこなせるヤツはあんまりいないけど」
     二人の後ろから、聞き覚えのある声がかけられる。振り向くと、かつて晴奈と戦った相手、橘が魔杖を手に立っていた。
    「橘殿、来られていたのですか?」
    「うん、つい1週間ほど前にね。んで、呑気に温泉で一杯やってたトコに、『何卒お力を貸していただきたく候』なーんて、丁寧に頼み込まれちゃったのよ。
     まあ、ココは修行するのにはいい場所だし、温泉もお酒もいいのが揃ってるしね。無くなったりブッ壊されたりすんのも嫌だし、手伝ったげるわ、雪乃。ソレから晴奈」
    「かたじけない、橘殿!」
     深々と頭を下げた晴奈に、橘は手をぺらぺらと振って返す。
    「アハハ……、そう堅くならないでよ、コドモのくせに。
     さ、ソレじゃボチボチ、迎え撃つわよ!」
     そう言うなり、橘は魔杖をシャラと鳴らし、魔術を放った。
    「『ホールドピラー』! 阻めッ!」
     地面を駆け下りていた教団員たちの何人かが、岩肌から突然飛び出した石柱に突き飛ばされ、また、ガッチリと四肢をつかまれる。
    「おわっ!?」
    「ぐあ……っ!」
    「いでてて、離せ、離せッ!」
     橘の術で、第一陣の半分近くが蹴散らされる。
     だが、「エアリアル」で空中を飛んでいた者たちはすい、と事も無げに石柱を避けてしまう。しかし侵入してきた端から剣士たちがねじ伏せているのが、半ば呆然と山肌を見つめていた晴奈の視界に映った。
    (これが……)
     一瞬のうちに起こったこれらの光景にあてられ、晴奈はぶるっと武者震いする。
    (これが戦い、か。……戦いか!)
     晴奈の中で熱く、そして激しく燃えるものが噴き出し始めていた。

    蒼天剣・血風録 2

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、12話目。姉御魔術師再登場。2. 紅蓮塞は中核となる本丸を囲むように、大小50程度ある修行場と、さらにその倍ほどの宿場・居間が連なっている。 普段はその字面の通りに修行の場、居住区として機能しているが、有事の際にはその様相は一変し、要塞としての働きを見せる。 それが紅蓮塞の、「塞」たる所以である。 襲撃の報せから数日も立たないうちに、紅蓮塞の守りは堅固なものとなった。塞内のいたるところに武...

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    晴奈の話、13話目。
    因縁の発端。

    3.
     戦いは時間が経つごとに、激しさを増していく。一体何百人、いや、何千人いるのか――教団員は続々と、絶え間なく侵入してくる。
     最初の頃は威力が高い反面、長めの呪文や大掛かりな動作を伴う術を使っていた橘も、威力は低くなるが、時間をかけずに発動できる術で応戦し始めており、余裕が無くなっているのが伺える。
     柊もあちこちを走り回り、立て続けに教団員たちを切り捨てている。いつものたおやかな表情も、穏やかなしぐさも、今は勇猛な女武芸者のそれとなっている。
     そしてこの時、勿論晴奈も戦っていた。15歳と言う若さをほとばしらせる、俊敏で鋭い動きで、師匠でさえも一瞬、目を見張るほどの立ち回りを見せていた。
    「でやーッ!」
     まるで閃光のような剣閃が、敵に向かって走っていく。
    「が、あ……」
     敵は短いうめき声をあげて、どさりと倒れる。晴奈はすぐさま倒れた敵を踏み越え、その後ろに立っていた敵に向け、刀を払う。
    「うぐ、く……」
     瞬く間にもう一人。
    「それッ!」
     その敵も踏み台にして、また一人。
     あまりの攻勢の強さに、晴奈の周囲にいた者たちは、敵・味方関係なく、度肝を抜かれていた。
    「何だ、あの『猫』は……!?」
    「黄か?」
     同輩、先輩らが目を見張る一方で、教団側の士気は明らかに落ち始めている。
    「く……、歯が立ちそうも無い……!」
    「こりゃマズいぜ! 退くしか無い!」
     すぐ横で戦っていた橘に至っては、表情が半ば凍っている。
    「せ、晴奈ちゃん。怖いって、ソレ」
     だが、当の本人にはそれらの声が耳に入らない。異様な高揚感と陶酔感で、周りが見えなくなり始めていたのだ。
    (敵は、敵は……ッ、どこだッ!)

     その闘気に引き寄せられたのか、嵐月堂の境内をしゅっと一直線に横切る者が現れた。
     柊がその異様な気配を感じ取り、暴走気味の晴奈に向かって手を伸ばす。
    「晴奈、危ない!」「え」
     柊は彼女の手を強く引っ張り、体勢を崩させる。
     その直後、先ほどまで晴奈の頭があった辺りを、ヒュンと黒い棒が横切った。
    「チッ、外したか!」
     晴奈が顔を上げると、そこには黒い僧兵服に身を包んだ、晴奈と同年代くらいの、狼獣人の少年の姿があった。
    「調子に乗っている猫女を葬るチャンスだったが……。なかなか、うまく行かんものだな」
     その「狼」は3つに分かれた棍棒をヒュンヒュンと振り回しながら、偉そうに言い放つ。
    「10代半ばで得物が三節棍、んで、黒毛の狼獣人……?」
     その武器を見た橘が、杖を構えて叫ぶ。
    「まさかあんた、ウィルバー・ウィルソン!?」
    「ほお、俺の名を知っているのか。クク、俺も有名になったもんだな」
    「狼」はニヤつきつつ、橘に向かって片目をつぶる。いわゆる「ウインク」であるが、晴奈には何をやっているのか分からない。
    (目にゴミでも入ったか? ……何なのだ、この高慢な『狼』は?)
     晴奈はすっと立ち、刀を構え直した。師匠のおかげで少し冷まされたが、まだ頭の中は高揚し、たぎったままだ。
    「敵の陣中で、よくもそれだけ余裕が見せられるものだな、犬」
     晴奈の挑発に対し、「狼」は「ヘッ」と笑って、馬鹿にした様子を見せる。
    「お前、オレと同い年くらいか? やめておけ、様になってないぜ。それから……」
     突然表情を変え、怒りに満ちた形相で晴奈に襲い掛かった。
    「このウィルバー・ウィルソンをなめるな、猫女ッ!」

     飛んできた棍の先端を、晴奈が刀を払って弾く。勢い良く飛び散る火花をものともせず、晴奈はすぐさま第二撃をねじ込む。
     今度はウィルバーが防御に回り、不敵な笑みを浮かべる。
    「フン、わりとすばしっこいな。だが、オレには敵うまい」
     攻撃を受けた部分の棍を軸に、他の棍を回転させる。勢い良く回る棍が、晴奈の目の高さまで上がる。攻撃が来ると構え、晴奈は一歩退く。
     ところが――。
    「はは、そう来ると思ったぜ!」
     ウィルバーは上がってきた棍をつかみ、そこを軸にして、また棍が回転。ヒュンと風を切る音を立て、晴奈の頭上にまで棍が伸びる。
    「……ッ!」
     退いた直後で、晴奈の動作には余裕が無くなっている。棍は動けない晴奈の額に、鈍い音を立ててぶつかった。
     その瞬間、晴奈の視界がぎゅっと、音を立てそうな勢いで暗くなる。額から後頭部にかけて電気の走るような、何かが突き抜ける衝撃を感じながら、晴奈の意識が乱れる。
    (な……、あ……、し、しま、った……)
     気を失う直前、ウィルバーの勝ち誇った声と――。
    「ククク、だから言ったのだ。オレには敵うまいと……」「克の真似なんかしてるヒマあんの、ボウヤ?」「ぐえっ」
     相手が倒れる音を、聞いた。

    蒼天剣・血風録 3

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、13話目。因縁の発端。3. 戦いは時間が経つごとに、激しさを増していく。一体何百人、いや、何千人いるのか――教団員は続々と、絶え間なく侵入してくる。 最初の頃は威力が高い反面、長めの呪文や大掛かりな動作を伴う術を使っていた橘も、威力は低くなるが、時間をかけずに発動できる術で応戦し始めており、余裕が無くなっているのが伺える。 柊もあちこちを走り回り、立て続けに教団員たちを切り捨てている。いつも...

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    晴奈の話、14話目。
    戦いが終わって……。

    4.
    「……!」
     晴奈は目を覚まし、飛び起きた。
     と同時に額に鋭い痛みが走り、顔をしかめる。
    「く、……ぅ」
    「大丈夫、晴奈ちゃん?」
     すぐ横に、心配そうな顔を見せる橘が座っていた。どうやら、倒れた晴奈の看病をしてくれていたらしい。
    「た、戦いは!?」
    「終わったわよ。無事に追い払ったわ」
    「そ、そう、です……、か」
     晴奈は安堵とも、後悔とも、羞恥とも取れる、複雑な感情を覚え、たまらず涙をこぼした。
    「私は……、馬鹿だ」
    「ん?」
    「あの『狼』をふざけた馬鹿者と侮って……、その結果が、これか。
     何のことは無い――私自身、その馬鹿と何ら、変わらなかったのか……ッ!」
     痛む頭を抱えながら、晴奈は自分を恥じた。



     あの戦いの後、晴奈は丸一日眠っており、その間に戦いは終わっていた。
     十数名の犠牲は出たものの、その何倍もの被害を敵に与え、紅蓮塞は今回も守られた。
     あのウィルバーと言う「狼」も、手下の教団員たちに抱きかかえられるようにして逃げ去ったと言う。
    「あのウィルソンって言うヤツね、実は教団教主の息子なのよ。克信仰って言うより、克かぶれで有名なの。ま、あの年頃なら真似したくなるよーなタイプだし、克って。
     ま、そんなだから中身はお子様。晴奈を気絶させて勝ち誇ってる間、隙だらけで背中を見せてたから、あたしが思いっきり引っぱたいてあげたからね」
    「……かたじけない」
     晴奈はまだ、涙が止まらない。それを橘はずっと眺めていたが、やがて立ち上がり、晴奈を一人残して部屋を出て行った。

     少ししてから、晴奈は橘の泊まっている部屋を訪ねた。杖の鈴を手入れしていた橘が、くるりと向き直って微笑みかける。
    「あら、もう大丈夫?」
    「はい、まだ痛みはありますが、何とか歩けます。
     ……橘殿、いくつか質問してよろしいでしょうか?」
    「ん、いいけど?」
    「あの……、克大火を知っているようなご様子でしたが、実際に会ったことが?」
     そう尋ねたところで、橘は隠す様子も無く答えた。
    「何回かあるわよ。うわさ通りって感じの人。央北の街で見た時のコト、聞く?」
     晴奈は無言でうなずいた。
    「んじゃ、初めて会った時のコト。
     あれは央北の、ドコの街だったかな……。その時は何と言うか、煙かもやみたいに、虚ろな感じだったわ。きっと街の人は、彼がそこにいたことさえ気付かなかったんじゃないかしら。とにかく煙のように、静かな男だった。
     でも。そこに何人か、武器を持った者が現れた――きっと克を倒して、名声を得ようとしたのかも――そして、克が彼らに気付いた瞬間……」
     そこで、橘は間を置く。
    「……瞬間、克は変貌した。
     それまでのぼんやりした煙のような印象は消えて、すさまじいほどの殺気が彼から立ち上った。次の瞬間、克を狙っていた人たちはあっさり死んだわ」
     平然としゃべっているように見えるが、良く見れば橘の額には汗がにじんでいる。よほどその時の光景が、恐ろしかったのだろう。
    「何をしたのか、分かんなかったけど。向かっていった一人が、いきなり燃え出した。それを見た瞬間、他の人たちはみんな怯んで立ち止まった。すぐにその人たちも、一瞬で血だるまになって、崩れるように倒れて死んだ。
     逃げようとした人もいたんだけどね――『殺される危険も背負わずに、俺を倒す気か? おこがましいとは思わんのか』と克に言われて――やっぱり斬られてた」
     その話に、晴奈はゴクリと唾を飲む。
    (自分たちはあの修羅場で何十分も、何時間もかけて、命の奪い合いをしていた。だが克は一瞬で、何人もの命を簡単に絶つのか。
     なるほど、確かに悪魔と言う話は本当らしい)



     恥ずべき敗北を喫し、落ち込んでいた晴奈を、さらに落胆させる報せが届いた。
     焔流に資金援助をしていた黄家が、黒炎教団によって襲われたと言うのだ。その上黄海は占領され、黄家の財産は没収。
     宗主である黄紫明の家族も人質にとられ、現在紫明が単身、交渉を行っていると言う。
    「そんな! では、明奈も!?」
    「恐らくは、捕まって……」
    「……そんな」

     それから何度か、細々とした情報が伝わった。
     教団は今回の襲撃失敗の原因を、資金援助を受けたことによる勢力拡大のせいとし、その大本を叩いたと吹聴していたこと。
     黄家は明奈の身柄と引き換えに、黄海の解放を約束してもらったこと。そのまま明奈は黒炎教団の総本山、黒鳥宮に幽閉されたこと。黄家は明奈の身柄を案じ、焔流への資金援助を打ち切ったこと。
     明奈は強制的に教団に入信させられ、宮内で粛々と生活しているが、幸い明奈には無闇な危害が加えられてはいないこと。
     そんなささやかな情報が、晴奈の心を苦しめ、また、ほのかに安心させた。

    「大丈夫かなー、晴奈ちゃん」
     橘が柊に、不安そうな顔で尋ねる。
    「大丈夫。あの子は強い子よ」
     そう言って、柊は橘をある堂に連れて行く。
    「そっと開けてね。邪魔しちゃ、悪いから」
    「邪魔……?」
     橘は戸を、そっと開いて中を覗き見る。そこでは堂の中央で、晴奈が座禅を組んでいた。
    「ああ、そうね。強い子、……ね」
     二人はうなずき、ふたたび戸を閉めた。

    蒼天剣・血風録 終

    蒼天剣・血風録 4

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、14話目。戦いが終わって……。4.「……!」 晴奈は目を覚まし、飛び起きた。 と同時に額に鋭い痛みが走り、顔をしかめる。「く、……ぅ」「大丈夫、晴奈ちゃん?」 すぐ横に、心配そうな顔を見せる橘が座っていた。どうやら、倒れた晴奈の看病をしてくれていたらしい。「た、戦いは!?」「終わったわよ。無事に追い払ったわ」「そ、そう、です……、か」 晴奈は安堵とも、後悔とも、羞恥とも取れる、複雑な感情を覚え、た...

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    晴奈の話、15話目。
    ふわふわ毛玉。

    1.
     目の前をふわりと通りかかった「毛玉」を見て、晴奈は驚いた声を上げた。
    「えっ」
    「はい?」
     と、「毛玉」がくるん、と隠れる。
    「あの、何か?」
    「あ、いえ。何でも」
    「はぁ……?
     その「毛玉」の持ち主は首を傾げたが、晴奈が何も言わないので、けげんな顔をしたまま通り過ぎる。
     その場に残った晴奈は口を抑え、顔を赤くして――ここ最近の彼女らしからぬ口調で――ぽつりとつぶやいた。
    「か、可愛い……」

     その数分後、晴奈は恐る恐るといった仕草で、柊の部屋を訪ねていた。
    「師匠、変なことと思われるかも知れませんが、一つ、伺いたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
     尋ねた晴奈に、自室で読書をしていた柊は苦笑して返す。
    「どうしたの、晴奈? そんなカチコチになって」
     尋ね返され、晴奈はためらい気味に打ち明ける。
    「あの、恥ずかしながら、私はあまり世俗に詳しくないので、こんな質問をしては笑われるかも知れず、恐縮なのですが」
    「ん?」
    「何と言いますか、世の中には、その……」
    「世の中には?」
    「兎獣人と言えば良いのでしょうか、兎耳に尻尾、の方もいるのでしょうか?」
    「ええ、いるわよ。央南ではあまり、見かけない人たちだけれど」
     それを聞いて晴奈は小さく、コク、とうなずいた。
    「やはり、いるのですか。……見間違えではなかったのだな」
    「いきなりどうしたの?」
     一人で納得している晴奈に、柊は不思議そうに首を傾げている。
    「あ、そのですね。実は先ほど、その『兎』らしき方を見かけまして」
    「へぇ、珍しいわね」
     柊は本を閉じ、興味深そうな目を向ける。
    「外国の人ね、きっと。西方かしら」
    「西方ですか。師匠は行ったことが?」
     柊は小さくうなずき、懐かしそうな口ぶりで話した。
    「前に行ったのは、5、6年ほど前かしらね。旅の間はここでは見られない人種も、数多く見かけたわ」
    「世界には、そんなに色んな人種がいるのですね。はぁー……」
     柊の話を聞きながら、晴奈は先ほど見かけた「兎」の姿を思い返していた。
    (可愛かったな、あの人……)
     まるでぬいぐるみのような毛並みの「兎」――晴奈は央南の外の世界に、強い興味を抱いた。
    「し、師匠」
    「ん?」
     晴奈はまた、恐る恐る尋ねる。
    「もし良ければ、その……、外国のお話など、その、もう少し、お聞かせいただけますか?」
     それを聞いて、柊はクスっと笑いながら晴奈の頭を撫でた。
    「ええ、いいわよ。外国の、可愛い人たちの話もね」
    「はは……」
     柊に内心を見透かされ、晴奈は顔を赤らめた。

    蒼天剣・紀行録 1

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、15話目。ふわふわ毛玉。1. 目の前をふわりと通りかかった「毛玉」を見て、晴奈は驚いた声を上げた。「えっ」「はい?」 と、「毛玉」がくるん、と隠れる。「あの、何か?」「あ、いえ。何でも」「はぁ……? その「毛玉」の持ち主は首を傾げたが、晴奈が何も言わないので、けげんな顔をしたまま通り過ぎる。 その場に残った晴奈は口を抑え、顔を赤くして――ここ最近の彼女らしからぬ口調で――ぽつりとつぶやいた。「か...

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    晴奈の話、16話目。
    柊師匠の地理講座。

    2.
     柊は自分の日記を取り出し、パラパラとめくりながら話し始めた。
    「そうね……、世界の有名どころは、ほぼ回ったかしら。世界の中心、クロスセントラル。世界一の大都市、ゴールドコースト。それから……」「あ、あの、師匠」
     晴奈は慌てて手を挙げ、話をさえぎる。
    「ん?」
    「すみません、私は、その、世俗に疎いと言いますか、地理に明るくないと言いますか、……央南から出たことが無いもので、果たしてどこがどこなのか」
    「ああ、そうね、そう言ってたわね。ごめんごめん」
     柊は小さく頭を下げ、話を仕切り直す。
    「じゃ、そこら辺から説明するわね。
     晴奈が自分で言った通り、ここは『央南』。即ち、中央大陸の南部地域。中央大陸はその名の通り、昔から歴史の舞台、政治の中央となってきた大陸なの。そしてこの大陸は、大きな2つの山脈によって、3つの地域に区切られているわ」
     柊は懐から紙を取り出し、中央大陸の絵――「し」の字に広がった、どこかモコモコとした形――をスラスラと描いていく。
     枠を描いたところで、その枠を三等分するような線をすっ、すっと引いた。

    「この下の線の右にある、鉤状に出っ張ったところが央南。晴奈も知っての通り、ここは『仁徳と礼節の世界』ね。『猫』や『虎』、『狐』、そしてわたしみたいな長耳(エルフ)と言った人種が多く見られるわ。
     まあ、説明するほどのこともあんまり無いから、この辺は飛ばして――そこから西へ進んだ、この線の辺り。この一帯に、屏風山脈と言う山々が連なっているの。
     この前戦った黒炎教団の本拠地、黒鳥宮はここにあるわ。教団は央中、つまり中央大陸中部からの文化も流れこんでいるから、名前や言葉も、それらしいものが多いみたいね」
    「なるほど……。私と戦った『狼』の、あの、うい、ういう、……ウィルバーと言う名前も、その一端なのですね」
     晴奈のたどたどしいしゃべり方に、柊はクス、と微笑んだ。

     続いて柊は、上と下の線の間を指し示す。
    「それで、この屏風山脈を越えた先が、央中。
     ここは『狐と狼の世界』とも呼ばれているわ。昔から栄えている名家、王侯貴族のほとんどが『狐』や『狼』の種族だから、そう呼ばれているの。頭が良くて狡猾な『狐』と、親分肌、姐御肌で気が強い『狼』だから、大物揃いなのもうなずけるわね。
     そのせいか、両種族の仲はちょっと悪いみたいね。もし彼らのケンカに運悪く居合わせたら……」
     柊は人差し指をピンと立て、いじわるっぽく笑う。
    「下手に仲裁しようとは、しない方がいいわよ。巻き込まれると大変だから」
    「はは……」
     師匠のおどけたような口ぶりから、きっとそのような状況に巻き込まれたことがあるのだろうと推察し、晴奈は苦笑した。
    「そんな2種族が大多数を占める土地柄だから、そこに住む人々はみんな、多少の違いはあれど計算高い人たちばかり。あまたの実力者たちが日々、自分が明日の王侯貴族、大商人になれる方法を考え、実践している。それもあって、栄枯盛衰の度合いは他地域の比じゃないわ。昔から代々続く家系って言うのはかなり、稀な存在になっているわね。
     だから、央中で代々続く名家って言うと、それはもう、かなりの家柄と言うことになるわけだけど、その中でも双璧をなすのが、世界一の大商家、『狐』のゴールドマン家と、世界中の職人の総元締めである、『狼』のネール家。この両家だけで、央中の財の半分以上を握っているそうよ」
    「へぇ、そんなに大きいのですか」
     そう返しつつ、晴奈は頭の中で比較してみる。
    (我が黄家も央南随一の大商家だと聞いてはいるが、確か……、父上によれば、『我が家が持つ富は央南全土の一割ほどもある』とか何とか。
     央南と央中が同じ規模かどうかは分からぬが、それでも1割と半分ではあまりにも違う。単純に考えて5倍となるわけだし。……うーむ、正に格が違うと言うか、何と言うか)
     はっきり捉えきれず、晴奈は比較を諦めた。
     その間にも、柊の話は続いている。
    「さっき言っていたゴールドコーストと言う街が、ゴールドマン家の本拠地。その世界的財力と政治的影響力から、央中の政治と経済の中心地としてにぎわっているわ」
     柊は屏風山脈を模した線の下端に点を打ち、楽しそうに語る。
    「観光地としても有名で、商人、政治家、資産家、傭兵や観光客に至るまで、世界中から様々な人が集まってくる。わたしが行った時も、色んな友達ができたわね」
    「そうなのですか、……ふむ」
     楽しげな柊を見て、晴奈の胸中にワクワクとした気持ちが沸き起こる。それを見抜いた柊が、嬉しそうにニコニコと笑う。
    「にぎやかで騒がしいところだったけれど、ついつい半年以上も長居してしまったわね。
     晴奈、あなたももし央中へ旅に出ることがあれば、絶対行ってみた方がいいわよ」
    「はい!」

     続いて柊は、地図の上側に引いた線の下側を指し示す。
    「央中のもう一つの名家、ネール家の本拠地はここ、クラフトランドと言うところよ。
     ここは周辺に鉄や銅の鉱山、木材に適した森林が豊富だから、自然にそれらを加工・製品化する職人たちの組織――いわゆるギルドが数多く存在しているの。
     だから、街中に鍛冶屋や工房があって……」
     そう言って柊は長い耳をつかみ、ふさぐしぐさを見せる。
    「とーっても、うるさいの。ここは残念ながら、2日といられなかったわ」
    「なるほど……」
    「でも、作られる製品はどれも一流品。わたしもここで、刀を打ってもらったんだけどね」
     柊は傍らに置いていた刀を手に取り、晴奈に見せる。
    「ね? すごく綺麗でしょ?」
    「そう、ですね。しかし、央中でも刀が作られているとは」
    「そこに、ちょっとした逸話と言うか、伝説があるのよ。
     あの『黒い悪魔』克大火がその昔、ネール家の開祖と共に、『神器』とまで称される一振りの刀を作ったと言われているの。
     刀の名は『妖艶刀 雪月花』、見る者をとりこにする異様な美しさをたたえた刀で、克と共に打ったネール大公は、そこで刀作りに目覚めたと言われているわ。
     以来、ネール家では刀鍛冶を厚遇し、それで央中にも刀作りが広まったそうよ。ちなみに今でも、克はその刀を使っているらしいわ」
    「ふむ……」
     克の名前と伝説を聞き、晴奈は橘から伝え聞いた話を思い出して、わずかながら身震いした。
     だが、伝説の奸雄をも満足させると言う、優れた逸品を創り上げた名家にも、強い興味が沸いてくる。
    「『狼』には正直、あまり良い印象を持っていなかったのですが、少し感銘を受けました」
    「クス、あのウィルバー君のせいね。……でも『狼』は、友達になれれば快い種族なのよ。仲間思いで情に厚い人たちだから」
     そう言って柊は、クラフトランドの話を続ける。
    「もう一つ伝説と言えば、ネール家には克が密かに教えた秘術が伝わっているそうなの。
     それが何なのかはわたしも詳しくは知らないけれど、ネール家は鍛冶屋の頭領だし、きっとそれに関係する術なんでしょうね」
    「なるほど……」
    「狐と狼の世界」について一通り聞き終え、晴奈は早くも、央中に思いを馳せていた。

    蒼天剣・紀行録 2

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、16話目。柊師匠の地理講座。2. 柊は自分の日記を取り出し、パラパラとめくりながら話し始めた。「そうね……、世界の有名どころは、ほぼ回ったかしら。世界の中心、クロスセントラル。世界一の大都市、ゴールドコースト。それから……」「あ、あの、師匠」 晴奈は慌てて手を挙げ、話をさえぎる。「ん?」「すみません、私は、その、世俗に疎いと言いますか、地理に明るくないと言いますか、……央南から出たことが無いもの...

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    晴奈の話、17話目。
    地域と種族。

    3.
     柊は地図の上部分に引いた線のさらに上を指し、話を続ける。
    「央南、央中と来たから、次は央北――中央大陸北部の話。
     ここは『天帝と政治の世界』。世界最大の宗教である天帝教と、中央大陸北中部や西方大陸に影響力を持つ巨大な政治組織、『中央政府』の本拠地ね」
    「中央、政府?」
     あまりに物々しい語感に、晴奈は胡散臭さを覚える。
    「まあ、向こうとこっちでは、言葉のズレがちょっとあるから。『中央大陸の政府』って言う意味合いだし、そんなに大仰なものでも無いわ。
     北中部の国家、ギルド、商会など様々な団体、組織が加盟する大きな政治共同体で、古代から中央大陸、いえ、世界政治に大きな影響力を持っているわ。……と言っても、時代を重ねるごとにその影響力は弱まって、今は央北と央中の北部、あと西方の東岸あたりまでが、現在の勢力圏ね。
     で、この中央政府って、元々は双月暦元年に現れたと言う神様――『天帝』が自分の創った宗教、天帝教を広めるために創設したらしいわ」
    「ふむ……、神様が人間たちの世界の政治を執り行った、と言うことですか。何だか本当に、おとぎ話のような……」
     晴奈の言葉に、柊はクスクスと笑う。
    「まあ、古い伝説だし、どこまでが本当なのかはちょっと疑わしいけどね。
     でも、現在世界的に広く使われている双月暦や魔術の基礎は天帝教が発祥らしいし、今でもその名残はあるわね」
    「それで、その天帝教と言うのはどんな宗教なのですか?」
     晴奈の問いに、柊は「うーん」と軽くうなる。
    「わたしも詳しく知っているわけじゃないから、説明できるかどうか……。
     何でも、天帝の言葉や知識を記した経典があって、それに従って、正しく生きることを目的とするとか。まあ、良く分かんないんだけどね」
    「ふーむ……?」
     説明されても、いまいちピンと来ない。柊も十分に分かっているわけでは無いらしく、それ以上の説明はしなかった。
    「ま、そこら辺は置いといて、風土の話をしよっか。
     ここには『狼』、『猫』、エルフ、あとは世界で最も短耳の割合が多いわね。天帝も種族としては、短耳の形をとっていたとか。
     天帝教発祥の地であると共に、それを基礎にした文明の中心地だから、治安も悪くないし交通や産業も活発だったわ。
     あと、人々は概ね明るくて、優しい人たちばかりだった印象があるわね。でも……」
     そこで柊の語調が、少し落ちる。
    「中央政府の本拠地、クロスセントラルは一際にぎやかだけど、色々悪い噂も立っているわね。曰く、『中央政府は克の言いなり』だとか、『大臣たちが日夜、利権の奪い合いに奔走している』とか。中央政府に関しては、本当に黒いうわさが絶えないわね。
     もしクロスセントラルに行くことがあっても、政府関係には近付かない方がいいわよ。得るものは少ないし」
     含みのある言い方に、晴奈は少し引っかかった。
    (どうも関わったことがあるような言い方だな……?)
     だが話の雰囲気から、その辺りを聞くのは避けておくことにした。
    「でも、市街地はとっても楽しいわよ。ここもゴールドコーストと同じくらい人が集まってくる場所だから、退屈はしないわね。ご飯も美味しいし、そっちの方は行って損は無いわね」

     中央大陸の話を一通り聞き終え、晴奈はずっと気になっていたことを尋ねてみた。
    「あの、師匠。『兎』の方は西方人と伺いましたが、西方とはどの辺りなのでしょう?」
    「あ、中央大陸じゃないわ。その『外』ね」
     そう返しつつ、柊は中央大陸の絵の周りに「北」「西」「南」と書き込んだ。
    「中央大陸から西の方にある大陸を、西方大陸と呼んでるのよ。海を隔ててるから、中央とは色々勝手が違うわね。
     例えば人種。央中に『狐』と『狼』が多いのを除けば、中央大陸で一番多いのは短耳ね。その次に長耳で、次いで晴奈と同じ『猫』かしら。
     でも西方だと、短耳や長耳はほとんど見かけなかったわね。わたしが訪れたのは西方の、ほんの一部だけだったけど、それでも圧倒的に多く見かけたのは、『兎』だったわ。『猫』も、旅人以外ではまったく見かけなかったかも」
    「なるほど……」
     晴奈は相槌を打ちながら無意識に筆を執り、可愛らしい兎を描く。
     それを眺めていた柊は、ぷっと吹き出した。
    「……ふふ、晴奈、あなた変なところで可愛いわね」
    「へ?」
     晴奈は素っ頓狂な声を出し、筆を止める。柊はクスクス笑いながら、手を振った。
    「ううん、何でもない」

    蒼天剣・紀行録 3

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、17話目。地域と種族。3. 柊は地図の上部分に引いた線のさらに上を指し、話を続ける。「央南、央中と来たから、次は央北――中央大陸北部の話。 ここは『天帝と政治の世界』。世界最大の宗教である天帝教と、中央大陸北中部や西方大陸に影響力を持つ巨大な政治組織、『中央政府』の本拠地ね」「中央、政府?」 あまりに物々しい語感に、晴奈は胡散臭さを覚える。「まあ、向こうとこっちでは、言葉のズレがちょっとある...

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    晴奈の話、18話目。
    異国からの招かれざる客。

    4.
     柊から世界の話を一通り教わった後も、晴奈は彼女から、あちこちを旅した話を面白おかしく聞いていた。
    「……でね、その時に会った『狐』と『狼』が、本当に仲が悪くて」
    「ふふ……」
     央中で出会った商人たちのケンカの話に移り、柊が懐かしそうに話していたところで――。
    「……あ」
     突然、柊が神妙な顔になり、話を止めてしまった。
    「どうされたのですか?」
    「ちょっと、ね。嫌な奴のこと、思い出しちゃったの。
     こんな風に、そのケンカしてた2人と談笑してた時にいきなり割り込んできて、『柊、勝負だ!』なんて怒鳴り散らす、迷惑な奴がいたのよ」
     柊の顔が、わずかに曇る。どうやら本当に――人当たりのいい彼女にしては珍しく――その人物を嫌っているらしい。
    「なーんか、嫌な予感がするのよね……」
     柊はす、と立ち上がり、刀を持って部屋を出る。
    「師匠? 何故刀を?」
     ぎょっとして尋ねた晴奈に、柊は憂鬱そうな口ぶりで説明する。
    「ゴールドコーストにね、闘技場があるのよ。で、裏で誰が勝つか賭けをしてて、そいつがいつも本命――つまり、強いの。
     で、昔にちょっとした事情から、そいつと戦わなきゃいけなくなったんだけど、ね」
     柊は晴奈に手招きし、付いてくるよう促す。
    「わたし勝ったのよ、そいつに。それ以来、何年かに一度、ここを訪ねてきて……」
    「『勝負だ!』、と言うわけですか」
     そのまま二人で廊下を進み、修行場へと向かった。
    「そう言うこと。よく考えたら、そろそろ来るかも知れない時期だわ」
     柊がため息混じりにつぶやいた、その瞬間――。
    「あ、先生! 柊先生!」
     若い剣士が、小走りに2人へ駆け寄ってきた。
     柊は剣士が手にしている手紙を見て、何かを感じ取ったような、そして非常に嫌そうな、複雑な表情を見せた。
    「赤毛の熊獣人から?」
    「えっ」
     剣士は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに気を取り直し、こわばった顔を向ける。
    「は、はい。あの、果たし状を預かりまして……」
    「そう」
     柊の顔はとても大儀そうに見える。事実、そうだったのだろう――受け取った果たし状を、中身も見ずに破り捨てた。
    「『峡月堂で待っている』と伝えて連れてきて」
    「しょ、承知しました」
     剣士の姿を見送ってから、柊はとても重たげなため息をついた。
    「はーぁ。やっぱり来たかー……。うわさをすれば、ね」
    「師匠?」
    「……ま、一緒に来て、晴奈。あいつと二人きりだと、息が詰まりそうだから」
    「はあ……」
     晴奈はこの時、とても戸惑っていた。今まで師匠のこんな嫌そうな顔は、弟子入りを頼み込んだ時ですら見たことが無かったからだ。

     だがこの直後、柊がこれほど大儀がった理由を、晴奈も嫌と言うほど理解した。
     その「熊」が本当に面倒くさい、剣呑な男だったからである。

    蒼天剣・紀行録 終

    蒼天剣・紀行録 4

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、18話目。異国からの招かれざる客。4. 柊から世界の話を一通り教わった後も、晴奈は彼女から、あちこちを旅した話を面白おかしく聞いていた。「……でね、その時に会った『狐』と『狼』が、本当に仲が悪くて」「ふふ……」 央中で出会った商人たちのケンカの話に移り、柊が懐かしそうに話していたところで――。「……あ」 突然、柊が神妙な顔になり、話を止めてしまった。「どうされたのですか?」「ちょっと、ね。嫌な奴の...

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    晴奈の話、19話目。
    不機嫌な師匠。

    1.
    「柊雪乃と言う女性はとてもよくできた人だ」、と晴奈はいつも思っている。
     エルフに良く見られる儚げで華奢な容姿と、気さくで面倒見が良く、温かい雰囲気を併せ持っている。
     そして何より一流の女剣士であり、その強さは彼女の二つと無い魅力である。
    「美しく」、「優しく」、そして「かっこ良くて」「強い」――晴奈にとって師匠、柊雪乃は何よりも、どんな人物よりも手本にしたいと心から思える、まさに「こんな人になりたい」と願ってやまない理想像なのだ。



     だから――師匠のこんな大儀そうな顔を見ているのは、晴奈としても非常に心苦しいものだった。
    「はぁ……」
     ため息はもう、何十回ついたか分からない。師弟合わせれば百に届くかと言う数にはなっている。
    「遅い、ですね」
    「そうね」
     素っ気無い返事に、晴奈はそれ以上言葉をつなげられない。手持ち無沙汰になり、しょうがなく自分の尻尾をいじりつつ、相手が来るのを待つ。
    「……クスッ」
     そうしていると、柊が小さく笑った。
    「晴奈。あなた良く、尻尾をいじっているわね」
    「え? あ、はい。そうですね」
     半ば無意識の行動だったので、晴奈は少し気恥ずかしくなり、尻尾から手を離す。
    「尻尾の細長い獣人って、『猫』か『虎』くらいだけど、みんな良く、そうやって手入れしているみたいね。『狼』とか『狐』になると、櫛まで使って綺麗に梳かしていたりするし」
    「まあ、自分の体の一部ですから」
    「ね、……ちょっと、触っていい?」
     柊は不意に、晴奈の尻尾を指差す。
    「はい、大丈夫です」
     晴奈も柊に尻尾を向け、触らせた。
    「……ふさふさね。でもちょっと、さらさらした感じもあるかしら」
     柊は尻尾をもそもそと撫で、楽しげな声を漏らす。触っても良いと言ったとはいえ、撫でられるのは少し、くすぐったくて恥ずかしい。
    「あ、あのー」
    「ん? ああ、ゴメン。晴奈が触ってるの見ていたら、わたしも触ってみたくなっちゃって」
     謝りつつも、尻尾から手は離さない。
    「はー……。まだ来ないのかなぁ」
    「師匠、一つ聞いてもよろしいですか?」
    「ん?」
     ここでようやく、柊は尻尾から手を離した。
    「相手の熊獣人と言うのは、どのような男なのですか?」
    「ん、……うーん。まあ、その、……ねぇ」
     柊は、今度は自分の髪をいじりながら、ゆっくりと説明した。
    「一言で言うと『面倒くさい奴』、ね。
     まず、自分が無条件に偉いと思ってるもんだから、勝ったら威張り散らす。負けたら言い訳する。その上、人の話や都合を聞かない。相手が自分に合わせて当然、と考えている尊大な男よ」
    「むう」
     話に聞くだけでも、面倒な相手と言うのが良く分かる。
    「さらに嫌なのが、話が通じないと言うこと」
    「通じない? 異国の者だからですか?」
    「いえ、そうじゃなくて――いえ、少しはあるかも知れないけれど――他人の話を、理解しようとしないのよ。
     何を言っても、『自分には関係無い話』『相手が勝手な理屈を言ってるだけ』と決め付けて流す。そうして彼の口から出てくるのは――自分がいかに偉いか、と言う自慢話だけ」
    「それは、……また、何と言うか、……面倒ですね」
     顔をしかめる晴奈に、柊は困ったように笑って返した。
    「だから、できれば会いたくないんだけど」
    「……来たよう、ですね」
     ドスドスと重い足音が、戸の向こう側からようやく聞こえてきた。

    蒼天剣・手本録 1

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、19話目。不機嫌な師匠。1.「柊雪乃と言う女性はとてもよくできた人だ」、と晴奈はいつも思っている。 エルフに良く見られる儚げで華奢な容姿と、気さくで面倒見が良く、温かい雰囲気を併せ持っている。 そして何より一流の女剣士であり、その強さは彼女の二つと無い魅力である。「美しく」、「優しく」、そして「かっこ良くて」「強い」――晴奈にとって師匠、柊雪乃は何よりも、どんな人物よりも手本にしたいと心から...

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    晴奈の話、20話目。
    柊雪乃の四番勝負。

    2.
     バン、と力任せな音を立ててその熊獣人の男が入ってきた。
    「よう、ヒイラギ」
     人を端から見下した目つき、胸を反らした尊大な態度、そして央南ではあるまじき、屋内での土足――どこからどう見ても、まともな性格と礼儀を持った人間には見えなかった。
     そしてその口から出てくる言葉も、彼の態度がそのまま現れていた。
    「今度こそ、俺の方が強いと証明しに来たぜ。さあ、勝負しやがれ!」
    「はいはい」
     柊は本当に面倒くさそうな様子で立ち上がり、「熊」に向き直った。
    「これで4度目よ? もういい加減、観念したらどうなの?」
    「フン。言っとくがな、これまでの3回は理由があって負けたんだ。
     最初のは油断してたからだし、2度目のは体調が悪かったんだ。3度目のも武器の調子が悪かった。
     今度は元気一杯、武器も新調したし、お前みたいなガリガリ女に負けるはずが無え」
     戦う前からべらべらと言い訳を並べるこの男に、晴奈は内心、呆れ返っていた。
    (本当に言い訳がましい。本当にあの『熊』、強いのか?)
     そんな晴奈の視線に気付いたのか、「熊」は晴奈の方をぐるっと向いた。
    「何だ、このガキ? 人をじろじろ見やがって」
    「ガキとは失礼ね。わたしの一番弟子よ」
     柊がたしなめるが、「熊」はフン、と馬鹿にしたような鼻息を漏らす。
    「へーそうかい。こんな乳臭い小娘はべらせて、先生気分か? お偉くなったもんだな、ヒイラギ」
     その言い草に晴奈は激怒しかけたが、より早く、激しく怒り出したのは柊の方だった。
    「クラウン、わたしの悪口ならいくらでも言って構わないわ。でもね」
     次の瞬間、柊は熊獣人の首に刃を当てていた。
    「わたしの弟子を侮辱するなら、命も覚悟しなさいよ。もしもう一度侮辱するようなことがあったら、勝負なんか関係無く叩き斬るわよ」
    「……ヘッ」
     クラウンは刃をつかみ、くい、と横に流した。
    「分かった分かった、じゃあさっさとやれよ」
     謝るどころか、うざったそうに答えるクラウンを見て、晴奈は心の中で叫んだ。
    (師匠ッ! 絶対、勝って下さい! 私もこの『熊』、捨て置けません!)



     傍目に観ても、柊がかなり頭に来ていることは明らかだった。
     武具を装備している間中ずっと無言だったし、付き人に肩や腕を揉ませ、斜に構えて笑っているクラウンに対して何度も、侮蔑と怒りの混じった視線を向けていたからだ。

     そして両者の準備が整い次第、すぐに柊とクラウンの勝負が始まった。
     当初からクラウンは、手にしている鉈をブンブンと振り回して柊を追う。剛力で知られる「熊」のせいか、何太刀かに一度、柊の武具をかすめ、その度に柊は少し、弾かれているように見える。
    「楽勝だな」
    「そうかしら」
     ニヤニヤと笑い、勝ち誇って鉈を振るうクラウンに対し、柊はただ睨みつけるだけで、刀を抜こうともしない。柄に手をかけたまま、飛び回ってばかりいるのだ。
    (師匠、何をされているのですか!? 反撃してくださいッ!)
     二人の戦いを見守っている晴奈は、何もしない師匠の姿にうろたえている。
    「ふーむ」
     と、いつの間にか、晴奈の横に重蔵が立っており、二人の勝負を眺めている。
    「なるほどなるほど。どうやら雪さん、一撃必殺を狙っておるのじゃな」
    「一撃必殺、……ですか?」
     晴奈はけげんな表情を重蔵に向けた。

    「一撃必殺」と言えば聞こえはいいが、これは実際狙ってみると、非常に難しい。
     まず、敵を一撃で倒すような攻撃、威力となると、よほど強力な打撃を与えなければならない。となれば自然に、攻撃の動作は大がかりなものとなり、比例して隙も大きくなる。
     さらに一撃で倒すとなれば、必然的に急所を狙った攻撃となるため、敵に動きが察知されやすくなる。
     強力な攻撃手段の確保、隙の抑制、敵に悟らせないための配慮――この3点を揃えなければ、一撃必殺の成功は無い。

     重蔵の言葉を聞き、晴奈は頭の中で勝負の状況を検討する。
    (確かに今、敵は油断している。師匠も間合いを取り、大きな隙を見せていない。
     後は打撃か。一体いつ、どう出る? その一撃をどう出すのだ?)
     晴奈は固唾を呑み、柊の一挙手一投足を見守っている。それを横目で眺めながら、重蔵が解説してくれた。
    「ほれ、あの『熊』さん。動作が一々、大仰じゃと思わんか?」
    「ふむ……」
     言われて見れば、クラウンの動作はどれも大味で単調に見える。
     鉈を大きく払い、振り下ろすその動きは、傍から見ていればとても分かりやすい。クラウンの鉈の振り回し方には、上から振り下ろすか、左右に払うか程度の差異しか無いのだ。
     普段から形稽古で、様々な刀の構え方、振るい方を学んでいる晴奈から見れば、クラウンの攻撃は呆れるほど稚拙で一本調子なものに見えた。
    (なるほど、あれなら攻撃を繰り出す直前の動作を見切ってしまえば、簡単にかわせるな)
     続いて、重蔵はこう指摘する。
    「それと、雪さんの動き。相手を引っ張りまわしておるな」
    「ふむ……」
     ただ退いているようにしか見えなかった柊の動きも、敵の動作と合わせて考えれば、すべて空振りさせるための戦術なのだと分かる。
    「ああして相手を動かすだけ動かし、疲労するのを待って……」
    「そこで、必殺を?」
    「きっと、その算段を整えておるのじゃろうな」
     程無く、クラウンの動きが目に見えて鈍ってきた。
     大兵肥満なその巨体でバタバタと動き回らされていたために、クラウンはとても苦しそうに肩で息をし、ボタボタと汗を流している。
    「ハッ、ハッ、俺を、ハッ、おちょ、ハッ、おちょくってんのか、ハッ」
    「……」
     答えないまま、柊はそこでようやく刀を抜いたようだ。
    「ようだ」と言うのは、晴奈にはその動作が確認できなかったからだ。

     ともかく、一瞬のうちに決着は付いた。
     クラウンの鉈は彼方に弾き飛ばされており、丸腰になった彼の首筋にいつの間にか、柊がぴたっと刀を当てていた。

    蒼天剣・手本録 2

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、20話目。柊雪乃の四番勝負。2. バン、と力任せな音を立ててその熊獣人の男が入ってきた。「よう、ヒイラギ」 人を端から見下した目つき、胸を反らした尊大な態度、そして央南ではあるまじき、屋内での土足――どこからどう見ても、まともな性格と礼儀を持った人間には見えなかった。 そしてその口から出てくる言葉も、彼の態度がそのまま現れていた。「今度こそ、俺の方が強いと証明しに来たぜ。さあ、勝負しやがれ!...

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    晴奈の話、21話目。
    師匠を酔わせてどうするつもり?

    3.
    「見事な居合い抜きじゃったな、雪さん」
     勝負を終え、汗を拭っていた柊の元に、重蔵がニコニコしながらやって来た。
    「いえ、まだまだです」
    「謙遜せずとも良い。まさに一撃必殺――胸のすくような、ほれぼれする技じゃった」
     重蔵にほめちぎられた柊は、顔をほんのり赤くして頭を下げた。
    「恐縮です」
     師匠をほめられ、晴奈も嬉しくなる。
    「お疲れ様でした、師匠」
    「ありがと、晴奈」
     晴奈に向けられたその顔は、いつも通りの穏やかな笑顔だった。

     一方。
    「いや、だからな、今日はやっぱり俺、ほんのちょっと体調が悪かったんだよ。それにな、この鉈まだ新品だからな、まだしっくり、手になじんでなかったんだって。それでも善戦した方なんだって、そーゆーマイナス要素があったにも関わらず、……あ、それにほら、ここは敵の本拠地だろ? 『負けろ』みたいな空気をさー、俺感じちゃって。そう、空気が悪い、それなんだよ。それが敗因なんだって。じゃなきゃ、俺があんな女に……」
     クラウンは自分の付き人たちに向かって、愚痴じみた言い訳をブツブツとこぼしていた。
     結局30分ほど愚痴を吐いた後、自分でもいたたまれなくなったらしく、彼はその場から逃げるように帰っていった。



     その晩、晴奈と柊は勝利を祝って、ささやかな酒宴を開いた。
    「さ、師匠」
    「ありがと」
     晴奈が柊の杯に酒を注ぎ、柊はそれを飲み干す。
    「ふう……。本当に、今日は疲れたわ。……ふふっ」
    「師匠?」
     突然笑った柊に、晴奈はけげんな顔をする。
    「晴奈、あなた勝負の間中、ずっと顔がこわばっていたわね」
    「み、見ていたのですか?」
     晴奈はあの緊迫した勝負の中、師匠に自分を見る余裕があったのかと驚いた。
    「そんなに不安だった?」
    「いえ、そんなことは……。ただ、家元から『師匠は一撃必殺を狙っている』と聞かされたので、いつ、どのように繰り出すのかと、後学のために注視していた次第で」
    「ふふ、そうだったの。流石は家元ね」
     柊はもう一度、一息に酒を飲み干す。ぐいぐいと呑んでいたためか、その顔は少しとろんとしている。
    「……晴奈、あなたもどう?」
     柊は晴奈に杯を渡し、酒に手を伸ばす。
    「え? あ、いや、私は、その……」
    「あら? 呑んでみたくないの?」
     そう言われれば、美味しそうに酒を呑む師匠に多少触発されてはいるので、呑んでみたくはある。
    「……少しだけ、なら」
     晴奈は恥ずかしそうに、杯を差し出した。
    「うふふふ……」
     どうやら柊は、大分酔っているらしかった。

     師匠に付き合ううち、晴奈も大分酔ってしまった。
    「ふわ、あ……」
     思わず、大あくびが出てしまう。柊の方を見ると、すでに眠り込んでいる。
    (いけない、いけない。風邪を、引いてしまう)
     ふらりと立ち上がり、食膳や酒瓶を片付け、床の用意をする。
    「うにゃ……、せえな?」
     柊も目を覚まし、晴奈に声をかけてきた。
    「師匠、今床を整えておりますので、そちらでお休みください」
    「んー、ありがと。……ごめん、おみずもってきてちょうらい」
    「あ、はい」
     近くの井戸から水を汲んできて、椀に注いで柊に手渡す。
    「ありがと。……ふふ、わたし、おさけすきなんらけろ、よあいのよ」
    「そのよう、ですね」
    「せえな、あんまいよっれないろれ。うらやあしいなぁ」
     呂律が回っていないので、何と言っているのか今ひとつ、理解はできなかったが、言わんとすることは何となく分かる。
    「いえ、そんなことは。
     さあ、床のご用意ができました。今日はもう、お休みください」
    「ん、ありがと。せえなも、もうねる?」
    「あ、はい」
     晴奈がそう答えると、柊は晴奈の手を取り、引っ張った。
    「いっしょにねよ?」
    「……はぁ?」



     晴奈と柊は普段、別々の部屋で寝ている。
     だからこんな風に、二人揃って枕を並べることは無いのだが、師匠の誘いでもあるし、酔い方もひどかったので、晴奈は放っておけず、その日は二人並んで眠ることとなった。
    「ふー……、よこになると、ちょっとらくね」
     まだ呂律は怪しいが、先ほどよりは平静を取り戻したようだ。
    「んー……。そっか、はじめてよね。こうやってふたりでねるのって」
    「そう、ですね」
    「こんなによっぱらったのも、なんねんぶりかなー」
    「少なくとも、私がこちらに着てからは、初めてお見かけします」
    「そっかー」
     しばらく、間が空く。眠ったのかと晴奈が思った途端、また声がかけられる。
    「ねえ、せいな」
    「はい」
    「こんどさ、ちょっとだけ、とおでしてみない?」
    「遠出?」
    「そ、ひとつきか、ふたつきか、それくらい。みじかく、たびしない?」
    「いいですね。是非、お願いします」
    「ん……」
     また、静かになる。
     今度は完璧に眠ったらしく、すうすうと言う寝息が聞こえてきた。

    蒼天剣・手本録 3

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、21話目。師匠を酔わせてどうするつもり?3.「見事な居合い抜きじゃったな、雪さん」 勝負を終え、汗を拭っていた柊の元に、重蔵がニコニコしながらやって来た。「いえ、まだまだです」「謙遜せずとも良い。まさに一撃必殺――胸のすくような、ほれぼれする技じゃった」 重蔵にほめちぎられた柊は、顔をほんのり赤くして頭を下げた。「恐縮です」 師匠をほめられ、晴奈も嬉しくなる。「お疲れ様でした、師匠」「ありが...

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    晴奈の話、22話目。
    小旅行のはじまり。

    4.
     翌朝、柊と晴奈は昨日の酒宴など無かったかのように、黙々と食事を取っていた。
    「……」
    「……」
     一足先に柊が食べ終え、茶をゆっくりと飲み始める。そして晴奈が食べ終わったところで、柊が口を開いた。
    「どこに行こっか?」
    「え?」
     何の話か分からず、晴奈が聞き返す。
    「ほら、夕べ話してた、旅の話。さっと行って、さっと帰れるところがいいわよね」
    「ああ……。えーと、その、どこがいいでしょうか」
     地理に詳しくない晴奈は、そのまま聞き返す。
    「んー、じゃあ央南東部の……、そうね、州都の青江辺りなんかどうかしら?
     同じ央南だからこことそれほど勝手が違うことも無いし、途中に険しい山とかも無いから、万一何かあってもすぐ戻れるもの」
    「ふむ……。では、それでお願いします」
    「ふふ、楽しみね」
     柊はうれしそうな顔で、茶を一息に飲み干した。



     こんな感じで、晴奈は柊と共に央南東部へと旅に出た。
    「青江とは、どのような場所なのですか?」
    「あなたの故郷、黄海と同じ港町よ。昔話も豊富で、退屈しない場所ね」
    「ほう……」
     13の頃までほとんど、自分の住む街から出たことの無かった晴奈は、その話に心をときめかせていた。
    (黄海とはまた別の港町、か。楽しみだ)
    「ふふ……」
     唐突に、柊が笑う。
    「どうされました?」
    「ん、ああ……」
     柊は楽しそうに微笑みかける。
    「あなたいつも、そんなに笑う方じゃないわよね、って」
    「え?」
     そう返されて、晴奈はいつの間にか自分が笑みを浮かべていたことに気が付く。
    「そう、ですね。心が浮ついておりました」
    「わたしもよ、うふふ……」
     そう言ってはいるが、いつも笑顔でいるからか、晴奈には柊の様子がいつもと違うようには感じられない。
     しかしやはり、柊は上機嫌になっているらしい。楽しそうな口ぶりで、晴奈に色々と話しかけている。
    「わたしね、こうして旅をする度に思うんだけど」
    「はい」
    「やっぱり旅は、一人より二人の方がいいなって」
    「はあ……?」
     突然そんなことを言われ、晴奈はきょとんとする。
    「そんなものでしょうか」
    「そんなものよ。一人旅も楽しいと言えば楽しいけれど、こうして二人で、色んなこと話しながら歩くの、好きだから。
     ね、覚えてる? わたしの友達の、小鈴」
    「橘殿ですね」
    「そう、そう。あの子ともね、何度か一緒に旅したことあったんだけどね」
     クスクスと笑いながら、柊はこう続ける。
    「あの子といると、なんでか騒動って言うか、事件みたいなのにいっつも巻き込まれるのよね」
    「そうなのですか?」
     晴奈が目を丸くするのを見て、柊はまた笑う。
    「ええ。それはそれで退屈しなかったけど、でもやっぱり普段の倍は疲れちゃうのよね。まあ、晴奈となら、流石にそんなことにはならないと思うけど。
     あなたとなら、楽しい旅になりそうね、って」
    「ええ。楽しい旅にしましょう」
     晴奈は力一杯うなずき、嬉しさと楽しさを表した。

    蒼天剣・手本録 終

    蒼天剣・手本録 4

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、22話目。小旅行のはじまり。4. 翌朝、柊と晴奈は昨日の酒宴など無かったかのように、黙々と食事を取っていた。「……」「……」 一足先に柊が食べ終え、茶をゆっくりと飲み始める。そして晴奈が食べ終わったところで、柊が口を開いた。「どこに行こっか?」「え?」 何の話か分からず、晴奈が聞き返す。「ほら、夕べ話してた、旅の話。さっと行って、さっと帰れるところがいいわよね」「ああ……。えーと、その、どこがい...

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    晴奈の話、23話目。
    はじめての二人旅。

    1.
     青い海。蒼い空。そして対照的な白い雲。
    「わあ……!」
     岬に立っていた晴奈は、感嘆の声を上げた。
     その様子をクスクスと笑いながら眺めつつ、柊が教えてくれる。
    「この絶景が、青江の由縁ね。『し』の字に広がる中央大陸の最東端で、北方の大陸とほぼ、南北の直線状にある街なの。
     間には大陸も大きな島も無いから、北方からの冷たく澄んだ海流が、さえぎられることなく流れ込んでくるらしいの。
     だから時折、北方でしか見られない魚も紛れ込んでくるそうよ」
    「へえ」
     それを聞いた晴奈は海を覗き込んでみる。すると浅瀬に、チラホラと魚の姿を見つけることができた。
    「ふむ……。アジと、イワシが多いですね」
    「ん?」
    「魚です。実家が水産業をしていたので、魚には詳しいんですよ」
    「へぇ。……どう? 北方の魚はいた?」
     興味深げに尋ねた柊に対し、晴奈は残念そうに首を振りつつ答える。
    「夏だからでしょうか。それらしいものは、見当たらないですね」
    「そっか。ちょっと残念ね。じゃ、また冬になったら来てみよっか」
    「そうですね。その時なら、見られるかも」

     こんな風に気楽な、物見遊山の気分で、二人は青江に到着した。
     ただ、この時点まではまだ、柊の口から剣術の「け」の字も出ていなかったし、晴奈も正直なところ、ここで剣の修行をするとは思っていなかった。
    「さてと」
     と、海を眺めていた柊が、ここで唐突に口を開く。水面を覗いていた晴奈は、顔を上げる。
    「行こっか」
    「え? どこにでしょう」
    「この街にね、わたしの古い友人がいるのよ。彼も焔流の剣士で、今はこの青江で剣術道場を開いているの。
     旅と晴奈の修行、その二つをまとめてやっちゃおうと思ってね。だからここに来たのよ」
    「な、るほど」
     晴奈は「単なる息抜きではなかったのか」と言う若干がっかりした思いと、「どんな人物で、どのような修行を行うのだろう」と言う期待の混じった返事をした。
    (まあ、人生思い通りには行かないものだな)
     晴奈は心中で、自分の浮き立っていた心を笑い飛ばした。



     だが、この言葉は後に別の意味を持って、もう一度晴奈と、柊の心に浮かんでくることとなる。
     この街で行うはずの修行が、思いもよらない方向へと向かってしまったからだ。

    蒼天剣・討仇録 1

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、23話目。はじめての二人旅。1. 青い海。蒼い空。そして対照的な白い雲。「わあ……!」 岬に立っていた晴奈は、感嘆の声を上げた。 その様子をクスクスと笑いながら眺めつつ、柊が教えてくれる。「この絶景が、青江の由縁ね。『し』の字に広がる中央大陸の最東端で、北方の大陸とほぼ、南北の直線状にある街なの。 間には大陸も大きな島も無いから、北方からの冷たく澄んだ海流が、さえぎられることなく流れ込んでく...

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    晴奈の話、24話目。
    いなくなった友人。

    2.
     青江の街を海岸に沿って進みつつ、柊はこの街で道場を開いていると言うその人物について説明してくれた。
    「彼の名前は楢崎瞬二。短耳で、わたしの9つ上の36歳。
     今から7年前、焔流の免許皆伝を得て紅蓮塞を離れ、それ以来ずっとここに住んでいるの」
    「なるほど」
     郊外の住宅街に差し掛かったところで、柊が道の向こうにある大きな建物を指差す。
    「あそこが道場。さ、行きましょ」
    「はい」
     だが、道場の前に立った途端、柊は首をかしげた。
    「あ、れ……?」
     道場に掲げられた看板には、「楢崎」と言う名前はどこにも無い。それどころか焔流の文字も家紋も、どこにも見当たらない。
    「島、道場? あの、師匠?」
    「お、おかしいわね? ここの、はずなんだけれど」
     二人は顔を見合わせ、唖然とする。柊は動揺しているらしく、その口調はたどたどしい。
    「あ、その、え? ……間違ってない、わよね、住所は。……ここ、よね。……しま、って誰なの? ……え? 楢崎は、どこに行っちゃったの?」
    「あの、師匠。とりあえず中に入り、仔細を聞いてみてはいかがでしょうか?」
    「そ、そうね」
     恐る恐る、二人はその島道場に足を踏み入れる。途端に、中にいた門下生と思しき虎獣人に声をかけられた。
    「おい、そこの女。うちに何の用だ」
    「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
     柊に尋ねられ、門下生は嫌そうな表情を浮かべた。
    「何だ?」
    「この道場って確か楢崎瞬二のもの、だったわよね?」
     そう聞いた途端、門下生は顔を背ける。
    「……し、らない」
     門下生の動揺を読み取った柊は、もう一度尋ねてみる。
    「知らないはずは無いわ。ここは確かに楢崎の道場だったはず。今、楢崎はどこにいるの?」
    「知らないと言ったら知らない!」
     門下生はブルブルと首を振り、頑なに否定する。その様子を見て、晴奈と柊は目で相槌を打つ。
    (……参ったわね。これじゃ、埒が明かないわ)
    (出直しましょうか?)
    (そうね、それがいいかも)
     二人はそのまま、道場を後にしようとしたが――。
    「楢崎? ああ、わしが倒した、あの男のことか」
     道場の奥から、白髪に白いヒゲをたくわえた、壮年の短耳が姿を現した。
    「あなたが、島さん?」
     いぶかしげに尋ねた柊に、男は大仰にうなずいて返す。
    「いかにも。島竜王とは、わしのことだ」
     晴奈と柊は、直感的にこの男の性格を見抜き――以前に良く似た男がいたため――また、目で会話する。
    (うーん、クラウンみたいな奴ね)
    (ええ、確かに)
    「それで、楢崎が何だと?」
     大儀そうに尋ねてきた島に、柊が聞き返した。
    「あの、島さん、でしたか。楢崎を倒したとはつまり、道場破りをなさったと言うことでしょうか?」
    「いかにも。ほんの3ヶ月前だが、ここで恥知らずにも道場を構えていた其奴を、わしがこらしめてやったのだ。
     まったく、あの程度の力量で人を教えようとは、ふざけた男だ」
     この言葉を聞いて晴奈は、一瞬だけ師匠の方に目をやった。
    (……ああ、やっぱりだ)
     晴奈の予想通り、柊から怒気が漏れていた。
     だが彼女はよほどのことが無い限り、その怒りを表に出すことは無いと晴奈は知っているし、実際、この時は冷静に、柊は島に続けてこう尋ねていた。
    「そうですか。今、楢崎はどちらに?」
     島は大仰に首を振り、答える。
    「知ったことか。今頃は自分の無能を嘆いて身投げでもして、魚や鳥のエサにでもなっているのかもな」
     この返答に眉をひそめつつ、晴奈は再度、柊を見る。
     無表情だったが、柊の目は確実に、怒りでたぎっていた。



     道場を後にしたところで、柊は怒りをあらわにした。
    「あの男に、楢崎が負ける? 信じられない! そんなこと、あり得ないわ!
     楢崎の強さはわたしが良く知っている! 間違ってもあんな、性根の腐った奴に敗れるような男じゃない!
     晴奈、一緒に楢崎を探しましょう。事の真偽を確かめないと」
    「はい」
     二人は市街地に移り、街の者に楢崎のことを尋ねてみた。
     だがやはり、楢崎の行方は誰も知らないと言う。その代わりに聞いたのは、あの島と言う男の悪評ばかりだった。
    「あの島と言う男、何でも楢崎さんと勝負する前に、何かを仕込んだとか。それに楢崎さんが引っかかって、その結果敗れてしまったそうだ」
    「島は小ずるい男で、ああしてあちこちの道場を食い潰しているらしい。本人は名士気取りらしいが、実際は酒癖も手癖も悪い、鼻つまみ者だ」
    「あいつが道場を乗っ取ってこの街に居座ってからと言うもの、道場界隈ではケンカが絶えないし、ご近所も迷惑してるそうだ」
     ひどい評判に、晴奈は怒りに震えていた。
    「何と言う下劣な奴だ!」
    「本当、剣士の風上にも置けない奴ね。……何としてでも、楢崎を見つけないと」
     柊も晴奈と動揺、憤っている。しかし、その一方で不安な様子も見せていた。
    (やはり楢崎殿の消息がつかめぬことを、気にかけておられるらしい。見付かってほしいものだが……)
     その後も懸命に聞き込みを続けたが、二人は結局楢崎本人を見付けることも、その消息をたどることもできなかった。

    蒼天剣・討仇録 2

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、24話目。いなくなった友人。2. 青江の街を海岸に沿って進みつつ、柊はこの街で道場を開いていると言うその人物について説明してくれた。「彼の名前は楢崎瞬二。短耳で、わたしの9つ上の36歳。 今から7年前、焔流の免許皆伝を得て紅蓮塞を離れ、それ以来ずっとここに住んでいるの」「なるほど」 郊外の住宅街に差し掛かったところで、柊が道の向こうにある大きな建物を指差す。「あそこが道場。さ、行きましょ」...

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    晴奈の話、25話目。
    思い出話、恨み話。

    3.
    「はあ……」
     宿に戻ってからずっと、柊は机に頬杖を付き、ため息を漏らしている。
    「楢崎殿、一体どこへ行ってしまったのでしょうね。ご無事だと良いのですが」
    「もしかしたら……」
     柊は顔を青ざめさせ、こんなことをつぶやく。
    「本当に負けたことを恥じ、自害した、……なんてこと、無いわよね」
    「し、師匠?」
     縁起でもないその言葉に、晴奈は目を丸くする。
    「だから『無い』ってば。楢崎はそんな、やわな男じゃないわ」
     柊は微笑むが、その笑顔には力が無く、余計に晴奈の不安をかき立てる。
     それを察したのか、柊は話題を変え、楢崎の人柄について話し始めた。
    「楢崎はどちらかと言うと失敗をバネにして、成長する男。わたしが入門した時から、そう言う人だった。
     普段から気性が穏やかで、勝負事はあまり得意では無かったわ。いつも真正面からぶつかる、正々堂々とした戦い方を好むことから『剛剣』と呼ばれ、慕われていたの。
     どこまでも正直で、清々しくて、はっきり言って好人物。紅蓮塞にいた時は、兄のように慕っていた。それとね」
     柊は――他に誰がいるわけでも無いのに、わざわざ――晴奈の耳に口を近付けて、そっとささやいた。
    「わたしの、初恋の人、……だった」
    「そう、でしたか。……今は?」
     柊はすっと晴奈から離れ、肩をすくめる。
    「彼は結婚してしまったし、塞を離れてからは急に、そんな気持ちはしぼんでしまった。
     それでも今なお、兄のように思っているけどね」
     そう言って、柊は恥ずかしそうに笑った。それを受けて、晴奈も思わず微笑んでしまう。
    「……無事だといいですね、楢崎殿」
    「そうね」



     その夜、既に眠っていた晴奈たちの部屋の戸が、トントンと申し訳なさそうに叩かれた。
    「夜分遅く、すみません。柊様、お話があります」
     その消え入りそうな声を聞き、柊がのそのそと起き上がり、眠たげな声で応じる。
    「……何かしら? なぜ、わたしのことを?」
     戸の向こうから、真剣な声色でこう返って来た。
    「我が師、楢崎瞬二のことでお話がございます」
     それを聞いた瞬間、柊の長耳がぴくっと跳ね上がった。
    「開けるわ。話を聞かせて」
     柊が戸を開けるなり入ってきたのは、昼間晴奈たちに声をかけた、あの虎獣人の門下生だった。
    「昼間は大変、失礼いたしました。あなたが柊雪乃様だと、存じ上げなかったもので」
    「いいわ、別に。それより、何故私のことを?」
     柊の問いに、彼はぺこぺこと頭を下げながら答える。
    「先生から伺っておりました。緑髪の長耳で非常に腕の立つ、可憐で優しげな剣士だと。
     あなたが帰った後に、先生から聞いていた特徴を思い出し、慌ててこちらを尋ねた次第です」
    「そう……」
     この辺りで晴奈も起き上がり、眠い目をこすりながら話の輪に入る。
    「楢崎殿は、どうなったのですか? 門下生だったあなたならご存知のはずですが」
    「ええ、存じております。ですがそのことを話す前にまず、自己紹介をさせていただきます。
     私の名は、柏木栄一と申します。3ヶ月前まで楢崎先生の一番弟子でした。ところがあの島と言う男が先生と勝負し、負かしてしまって以来、私はあの下劣な男の小間使いをさせられております」
    「そこを、詳しく聞きたいわ。なぜ楢崎ともあろう男が、あんな者に遅れを取ったの?」
     柊に尋ねられた途端、柏木は表情を曇らせる。
    「……先生は、負けるしかなかったのです。何故ならその前日、先生のご子息がかどわかされたからです」
    「何ですって……!?」
    「脅迫されていたのです。『息子の命が惜しければ、道場を明け渡せ』と」
     瞬間、柊師弟は激昂した。
    「ふざけた真似をッ!」
    「幼い子を危険にさらしてまで、己の利欲を取るなんて!」
    「お待ち下さい。話には、続きがあります」
     柏木は涙を流しながらも、話を続ける。
    「勝負に負けた後も、ご子息は戻ってこなかった。すでに、どこかへ売り飛ばされたと言うのです。
     負かされた直後に奴自身からその言葉を聞いた先生は、島に負わされたケガも忘れてご子息を探しに出て、そのまま行方が……」
    「なんと……、なんとむごい!」
     あまりに残酷な話を聞かされ、晴奈は怒りで尻尾の毛を毛羽立たせる。
    「奥方も心労で倒れられ、今は臥せっております。
     私自身が仇を討とうとしたものの、実際島は強く、私ではとても太刀打ちできなかったのです。ですが柊様ならきっと、あの男を倒せるでしょう!
     お願いです、柊様! 何卒あの悪党、貧乏神、寄生虫――島を討ってください!」
    「……」
     柊は口を開かない。その代わりに刀を手に取り、下ろしていた髪を巻き上げ始めた。それを見た晴奈も、同じように外へ出る支度を取る。
     支度が整ったところで、柊が静かに、しかし力強く答えた。
    「任せなさい。すぐ片付けるわ」
     柊と晴奈の周りには、たぎるように熱い「気」が広がっていた。

    蒼天剣・討仇録 3

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、25話目。思い出話、恨み話。3.「はあ……」 宿に戻ってからずっと、柊は机に頬杖を付き、ため息を漏らしている。「楢崎殿、一体どこへ行ってしまったのでしょうね。ご無事だと良いのですが」「もしかしたら……」 柊は顔を青ざめさせ、こんなことをつぶやく。「本当に負けたことを恥じ、自害した、……なんてこと、無いわよね」「し、師匠?」 縁起でもないその言葉に、晴奈は目を丸くする。「だから『無い』ってば。楢崎...

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    晴奈の話、26話目。
    殴り込み。

    4.
     今宵は双新月――白い月も、赤い月も見えない、そんな夜である。
     月の光の無い真っ暗な夜道を、二つの影が滑るように進む。その影は青江の海岸線に沿って進み、恐るべき速さでかつて友が住み、今は仇に奪われた屋敷に走っていく。
     友の仇を討ち取るために。

     道場のど真ん中で酒を飲み、肴を食い散らしていた島は、ぞくっと身震いする。
    「……な、なんだ? この気配は」
     腐ってもまだ、一端の剣士ではあるらしい。さっと立ち上がり、床の間に飾っていた刀に手をやった。
     ほぼ同時に道場の扉が×状に裂け、燃え上がる。一瞬で燃え尽きた扉の向こうには、柊と晴奈の姿があった。
    「昼間の武芸者どもか。一体、わしに何の用だ?」
     柊は道場が震えるような、高く、大きな声で応えた。
    「我が名は柊雪乃! 焔流、免許皆伝の身である! 今宵は我が友である楢崎瞬二の無念を晴らしに参った! 島竜王、その命頂戴する!」
     柊の刀に火が灯る。横にいた晴奈の刀にも同じく火が灯り、今度は晴奈が叫ぶ。
    「我が名は黄晴奈! 焔流門下生である! 我が師、柊雪乃に助太刀いたす!」
    「は、は……。逆恨みもいいところだ。まっとうな勝負で、わしはこの道場を手に入れたのだ。無念だの仇だの、片腹痛いわ!」
     臆面もなくそう言い放つ島に、二人が憤った声で叫び返す。
    「ほざくな、戯言を! 楢崎の家族に危害を加え、脅迫したこと! 知らぬと思うのか!」
    「知らんわ! 証拠でもあると言うのか!?」
     なおもしらばっくれる島をにらみつけ、柊と晴奈は同時に刀を振り上げる。
    「問答無用! 我らは友の無念を晴らすのみ!」
     そして同時に、刀を振り下ろした。
    「『火射』ッ!」
     振り下ろした刀の延長線上を滑り、炎が走っていく。炎の滑る速度は非常に早く、島は慌てて飛びのいた。
    「お、っと! いきなり攻撃か! 油断を突くなど、それでも剣士か、お前ら!」
    「敵を前にして油断など、それこそ剣士ではない! 覚悟しろ、島ッ!」
     柊師弟は同時に道場へ飛び込み、島に斬りかかる。だが島は両手に刀を持ち、二人の太刀を防ぐ。
    「二刀流か!」
    「ふっふ、女の剣など打ち破るのはたやすい! 刀錆にしてくれるわ!」
     そう言うと島は二人の刀を弾き、左にいた晴奈に向かって両手の刀を振り抜いた。
    「む……ッ」
     晴奈の刀を挟むように剣閃が走り、絡め取って弾く。
    「ほら、胴ががら空きだッ!」
     島の右手が伸び、晴奈の腹に向かって刀を突き入れる。だが俊敏な「猫」である晴奈は、瞬時に後ろへ飛びのき、突きをかわした。
    「チッ! すばしっこい……」「でやあッ!」「うぬっ!?」
     島の意識が一瞬、晴奈に集中したその隙を狙い、柊が袈裟斬りを入れる。ところがこれも島が背中に刀を回し、防いでしまう。
    「無駄だ! 島式二刀流は攻防一体! 片手が防げば、片手が刺す!」
    「あら、そう」「ならば」
     もう一度、柊師弟は連携を見せる。島の前後から、同時に薙いだ。
    「はははっ、それも万全よ!」
     島は逆手に刀を持ち、二人の攻撃を弾く。
    「どうだ、この鉄壁! この刀の壁! お前ら如きに破れる代物では無い!」
    「そうかしら」「手ぬるい」
     師弟は不敵に笑い――交互に打ち合い始めた。
     晴奈が島に斬り込む。島はそれを弾く。弾くと同時に柊が突く。島はもう片手でそれを打ち落とす。落とした瞬間、晴奈が刀を振り下ろす。
    「む、お、この、ぐ……っ」
     晴奈たちの旋風のような無限の連打を受け、島は一向に、攻勢に転じることができない。
    「ま、ま、待て、待て、待てと、言うに」
     次第に、島から弱気が漏れる。
    「やめ、がっ、やめて、ぐっ、やめてくれ、ぎっ」
     島の刀がガクガクと歪み、島自身も脂汗を流し始める。
    「は、う、かん、べん、して、うぐ、してくれ、ひぃ」
     だが、師弟の太刀筋は弱まるどころか、勢いを増していく。
    「わ、わる、わるかった、あやま、ああ、あやまるか、ら、かんべ、かん、か、か……」
     だが、二人に島を許す気など毛頭無い。
    「今さら、そんなことを言っても無駄だ」「冥府でじっくり、反省するがいいわ」
     やがて島の刀も両腕も、限界に達し――その胴に、柊師弟の刀が到達した。



     一夜明け、道場では大掃除が行われた。島が食い散らかし、飲み散らかしたものの後片付けと、島との死闘の後始末である。
     勿論晴奈と柊も手伝い、昼前には綺麗に片付けられた。
    「これで、あいつのいた面影は無くなった、かな」
    「本当に、ありがとうございました! 本当に、何とお礼を言って良いか!」
     柏木は声を震わせ、泣きながら柊に礼を言った。
    「いいわよ、これしきのことで。わたしとしては、仇が討てただけで満足だから」
    「いえ、そんな! 何かお礼をしなければ、剣士の名折れです!」
    「そう? じゃあ……」
     柊は所期の目的――晴奈の修行の相手を、柏木たち門下生に頼むことにした。柊本人も修行に付き合い、本家焔流と楢崎派焔流の交流は大いに盛り上がった。



     そして一ヶ月が経ち、二人は紅蓮塞への帰路に着いた。
     その途上、柊はぽつりとつぶやく。
    「晴奈、強くなったわね」
    「え?」
    「島とやりあった時の、あの勢いと剣の冴え。わたしと互角に張り合えるほどの完成度だったわ。
     もしかしたら近いうち、わたしはあなたに追い抜かれてしまうかもしれないわね」
     晴奈は驚き、バタバタと手を振る。
    「な、何を仰いますか! 私なんて、まだまだ……」
    「ううん、謙遜しないで。きっとあなたは、わたしより強くなる。強くなってくれるわ」
     そう言った柊は、とても美しい笑顔をしていた。
    「あなたが――わたしの弟子が、わたしより強くなるなら、それほど嬉しいことは無い。
     頑張って、晴奈。あなたはもっと強くなれる子よ」

    蒼天剣・討仇録 終

    蒼天剣・討仇録 4

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、26話目。殴り込み。4. 今宵は双新月――白い月も、赤い月も見えない、そんな夜である。 月の光の無い真っ暗な夜道を、二つの影が滑るように進む。その影は青江の海岸線に沿って進み、恐るべき速さでかつて友が住み、今は仇に奪われた屋敷に走っていく。 友の仇を討ち取るために。 道場のど真ん中で酒を飲み、肴を食い散らしていた島は、ぞくっと身震いする。「……な、なんだ? この気配は」 腐ってもまだ、一端の剣...

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    晴奈の話、27話目。
    晴奈の昇華。

    1.
     人を含め、何物においても、何のきっかけも無しに、突然その姿や性質が変わることは無い。

     黄晴奈にしても、元は単なる町娘である。
     その「ただの人」であるはずの彼女に、周囲が思いもよらぬような変化を与えたのは、焔流の剣士である柊雪乃だった。
     彼女との出会いが晴奈にただならぬ衝撃を与え、剣士としての道を歩ませることとなったのだ。

     その後も晴奈には、「きっかけ」が連続して訪れた。
     魔術師橘との出会い、ウィルバーとの戦い、師匠とクラウンとの勝負、いくつもの旅――その様々な経験が、ついに彼女を、その高みにまで登らせた。



     双月暦512年、秋。
    「……はぁ。参ったわねぇ」
     晴奈はいきなり、柊からこう言われた。
    「え?」
     これまで6年やってきたように、その日もいつも通りに、二人で朝稽古を始めようとしたのだが、晴奈が木刀を構えた瞬間、柊がため息をついたのだ。
    「どうされたのですか、師匠?」
    「まあ、打ち合えば分かるわ」
     そう言って柊は一歩、踏み込んできた。
    (これは……)
     その瞬間、晴奈の頭にたぎるような感覚――黒炎が攻めてきた時や、島と戦った時に感じたのと同じ、息が止まるような緊張感が生じる。
    (……殺気!?)
     元より「稽古であっても真剣にやる」と約束してはいたが、それは技術の面と心持ちで、だけのことであり、まさか本当に殺すつもりでやってきたわけでは無い。
     だがこの時、柊は明らかに本気でかかって来た。その一挙手一投足に、本気で晴奈を殺そうとする気配がにじんでいるのを、晴奈はぞくりと感じていた。
    「くッ!」
     柊が斬りかかると同時に、晴奈は木刀で防御する。だが、ボキ、と言う鈍い音と共に、晴奈の持っていた木刀が真っ二つに折れた。
     柊はいつの間にか真剣を構え、さらにその刃は赤く輝いている。それは紛れも無く、焔流の「燃える刀」だった。
    「し、師匠!? 一体、何故に!?」
    「問答無用ッ! 刀を抜け、晴奈ッ!」
     師匠から向けられる正真正銘の殺意に、晴奈は若干戸惑い、怯む。
    (一体、何をしているのですか、師匠!?)
     だが、その困惑を無理矢理押さえ込み、腰に差していた刀を抜く。
    (……いや、今はそんなことを考えるな)
     晴奈は頭から余計な思考を追い出し、覚悟を決める。
    (今考えるべきは目の前の――『敵』を倒すことだ!)
     晴奈は刀を構え、刃に炎を灯した。

     まだ日も差さぬ、朝もやの立ち込める修行場に、二つの火がゆらめいていた。二人はしばらくにらみ合ったまま、静止する。
     そして先に、柊が仕掛けた。
    「ぃやああああッ!」
     燃え盛る刀を振り上げ、飛び上がる。
     晴奈は瞬時に、柊の太刀筋を袈裟斬りと判断し、刀を脇に構える。
    「させるかッ!」
     晴奈は地面を滑るように低く跳ぶ。一歩分体が前に進み、柊の間合いから外れる。
     柊の刀は晴奈の体を裂くこと無く、切れ味の悪い鍔本が肩に食い込むに留まった。
    「くあ……、あお、おあぁぁッ!」
     痛みからの叫びを気合の声に変え、晴奈は刀の柄を柊の鳩尾にめり込ませる。
    「く、は……」
     柊の口からか細い呻きが漏れ、がくりと頭を垂れてその場に崩れ落ちた。
     それを見た途端、晴奈の緊張が解ける。呼吸を整え、次第に冷静さを取り戻し、そこでようやく、自分が師匠を倒したと自覚した。
    「……師匠!」
     我に返った晴奈は、慌てて柊の側に駆け寄る。柊はぐったりとし、動かない。その青ざめた顔を見て、晴奈の顔からも血の気が引く。
    (ま、まさか。柄で突いたとは言え、打ち所が悪かったか……!?)
     晴奈は柊を抱きかかえ、必死で呼ぶ。
    「師匠! 大丈夫ですか、師匠!」
     何度か声をかけたところで、柊のうめき声が返って来た。
    「……くぅ、痛たた」
     真っ青な顔をしている割にはしゃんとした動作で、柊は晴奈の手をつかむ。
    「強くなったわね、晴奈」
    「え?」
    「今の動き、そして気迫。それに迷いない太刀筋。19でもう、その域に達するなんて」
    「え、あ、ありがとうございます。……あの、師匠?」
     生きていたと安堵する間も無く突然の賞賛を受け、晴奈は戸惑っている。
     それを知ってか知らずか――柊はこう続けた。
    「もう、わたしから教えることは何も無い。修行はおしまいよ」

    蒼天剣・烈士録 1

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、27話目。晴奈の昇華。1. 人を含め、何物においても、何のきっかけも無しに、突然その姿や性質が変わることは無い。 黄晴奈にしても、元は単なる町娘である。 その「ただの人」であるはずの彼女に、周囲が思いもよらぬような変化を与えたのは、焔流の剣士である柊雪乃だった。 彼女との出会いが晴奈にただならぬ衝撃を与え、剣士としての道を歩ませることとなったのだ。 その後も晴奈には、「きっかけ」が連続して...

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    晴奈の話、28話目。
    免許皆伝試験。

    2.
     晴奈と柊の戦いから3時間ほど後、晴奈は柊に連れられ、家元である重蔵の前に並んで座っていた。
    「ふむ、そうか。晴さん、師匠に追いつきなすったか」
     重蔵は腕を組み、何かを考え込む様子を見せる。
     やがて決心したように、ぱたりと膝を打った。
    「ようやった、晴さん。良くぞ6年と言う短い歳月で、そこまで己を磨き上げたものじゃ」
    「は、はあ。ありがとうございます、家元」
    「じゃが、まだ免許皆伝とはいかんな。今はまだ、その手前じゃ。
     どうする、晴さん。免許皆伝の証を、狙ってみるかの?」
     この問いに、晴奈の心は当惑すると同時に、とても高揚した。
    (め、免許皆伝!?
     まだ、私は19で、そう、6年だ。修行してまだ、6年しか経っていない。こんな若輩者がそんなものをもらって、いいのか?
     い、いや、しかし。家元が直々に、そうお声をかけてくださっているのだ。であれば、私にその資格があると言っているも、同然なのでは。
     ならば、……狙ってみるか?)
     晴奈は目を閉じ、心を落ち着かせる。
    「どうかな?」
     重蔵がもう一度聞いてくる。晴奈は少し間を置いた後、「はい」と答えた。

     晴奈はふたたび、あの「鬼が出る」堂――伏鬼心克堂を訪れた。免許皆伝の試験は、この堂で行われるのだ。
     だが、入門試験として入った前回と比べ、違う点があった。まず、前もって刀を大小二振りと、武具を身に付けた状態で入らされたことだ。
    (まるで、誰かと戦えと言っているような?)
     いぶかしみつつ堂に入ったところで、重蔵が床を指し示した。
    「さあ、晴さん。そこに座って、わしの話をよーく聞きなさい」
    「あ、はい」
     言われた通りに、晴奈は正座する。そしてもう一つの違いについても、ここで聞かされた。
    「これから一昼夜、丸一日。ここにいてもらう。その間眠らずにいられれば、試験は修了。晴れて、免許皆伝じゃ。
     じゃが、勝手は入門の時とはちと違う。この堂の仕組みには、気付いておるじゃろ?」
    「はい。己の心が、鬼を作るのですね」
     晴奈の回答に、重蔵は深くうなずいてこう続ける。
    「そう。確かに入門時の仕掛けは、そうじゃった。
     じゃが、今度の仕掛けはそれとは、ちと違う。出てくるのは、鬼では無いのじゃ」
    「鬼では無い? では、一体何が?」
     重蔵は首を横に、ゆっくりと振る。
    「それは、晴さん自身で確認し、その理由を考えてみなさい。それがこの試験の答えであり、真意じゃ」
     そう言って、重蔵は堂から出て行った。



     試験が始まってから1時間が過ぎた。
     完全武装した状態での座禅は、流石に武具がうっとうしすぎて気が散ってしまう。とりあえず最初のうちはじっと座ってはいたが、やがてそれにも飽きた。
     晴奈は何とも無しに立ち上がり、重蔵が言っていた、この試験に出てくる「何か」を待ち構えることにした。
    (鬼ではない、か。この重装備だし、もしかすれば鬼と戦えと言っているのかと思ったが、そうでは無いのか。
     では、一体何と戦うのだ?)
     敵を待ち構えることと、思案に暮れる他にはやることが無いので、晴奈は手入れでもしようかと、刀を鞘から抜いた。
    (……!)
     と、その刃に黒い影が映っている――晴奈の背後に、誰かがいるのだ。
    「何奴だ!」
     振り返ると、そこには忘れようにも忘れられない、狼獣人の顔があった。
    「……!? ウィルバー! 何故、ここにいるのだ!」
    「……」
     かつて晴奈に手痛い敗北を負わせた、あのウィルバーがいたのだ。
     ウィルバーは一言も発さず、いきなり襲い掛かってくる。
    「く、この……!」
     4年前と同じく、三節棍は変幻自在の動きを見せ、晴奈を翻弄する。一端をうかつに刀で受けると、もう一端が跳んでくる。
     最初は距離を取りつつ、棍を受けずに弾いて防御していたが、跳んでくる棍は重く、何度も受けるうちに晴奈の手がしびれてきた。
    「……くそッ」
     接近戦は不利と判断し、晴奈は後ろに飛びのく。すかさず一歩踏み込み、間合いを詰めてきたウィルバーを見て、晴奈は瞬時にある戦術を閃く。
    「それッ!」
     踏み込んできたウィルバーに、突きを浴びせる。当然、ウィルバーは防御するため、棍でそれを絡め取る。
    (棍を使ってくるならば、至極面倒な相手になる。だが、それを封じれば……!)
     防御に棍を使うならば当然、その瞬間だけは棍での攻撃ができない。
     晴奈は絡め取られた刀から手を離し、脇差を抜いてウィルバーの眉間を斬りつけた。
    「……!」
     ウィルバーの額から血が噴き出し、そのままバタリと前のめりに倒れた。
    「ハァ、ハァ……。何故、こいつがここに?」
     刀を拾いながら、晴奈は呼吸を整える。
     倒れたまま動かないウィルバーを見下ろしながら、とどめを刺そうと一歩踏み出した、その時――。
    「……!?」
     風を切る音に気付き、とっさに身をよじる。それと同時に、石の槍が頬をかすめた。
    「たっ、橘殿!? いきなり、何をするのです!?」
     先程のウィルバーと同様、橘がいつの間にか、杖を構えて立っていた。
    「……」
     そして橘もまた、無言で襲い掛かってきた。



    「ゼェ、ゼェ」
     堂にこもってから、あっと言う間に8時間が経とうとしていた。
    「わけが、分からぬ」
     最初にウィルバーが襲い掛かったのを撃退してから、既に20人近い手練を打ちのめしている。辺りには彼らが一言も発さず、また、目を覚ますことも無く倒れ伏している。
     襲ってくるのはウィルバーを初めとする、黒炎の者たち。橘や柏木など、修行を共にした者たち――どう言うわけか、晴奈と出会ってきた様々な者たちが、敵味方を問わず、引っ切り無しに襲ってくるのだ。
    「一体、何故に?」
     19歳にして剣術を極めた晴奈とて、8時間も兵(つわもの)たちを相手にし続けては、さすがに疲れも色濃く表れてくる。肩で息をし、後ろでまとめた髪はとうにほつれ、乱れている。敵から受けたダメージも少なくない。
     それを体現するかのように、鉢金がパキ、と音を立てて割れた。
    「後、一体、何人、倒せば、いいのだ!?」
     晴奈以外動く者がいない堂内で、晴奈は鉢金を投げ捨て、叫ぶ。

     と――またしても、敵が現れた。

    蒼天剣・烈士録 2

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、28話目。免許皆伝試験。2. 晴奈と柊の戦いから3時間ほど後、晴奈は柊に連れられ、家元である重蔵の前に並んで座っていた。「ふむ、そうか。晴さん、師匠に追いつきなすったか」 重蔵は腕を組み、何かを考え込む様子を見せる。 やがて決心したように、ぱたりと膝を打った。「ようやった、晴さん。良くぞ6年と言う短い歳月で、そこまで己を磨き上げたものじゃ」「は、はあ。ありがとうございます、家元」「じゃが、...

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    晴奈の話、29話目。
    本当の敵とは。

    3.
     さらに時は過ぎ、十余時間が経過した。
    「ひゅー、はぁー」
     もはや、呼吸もままならない。ひとり言をしゃべる気力も失せた。具足や篭手、脇差もとっくに使い物にならなくなっており、残っているのは刀一振りと胸当て、そして道着だけである。
    (まだか? まだなのか? まだ、時間は……!?)
     途中、この異変に気付いて誰か来るのではと、淡い期待も抱いていたのだが、どう言うわけか焔流の者さえ襲ってくるのである。
     そしてこの事実から推理し、晴奈はある結論に行き着いていた。
    (伏鬼心克堂、すなわち心に伏す鬼を克する堂。ここは心の中のものが、現実に現れるのだ。
     恐らくウィルバーなんかや橘殿など、様々な強敵が出てきたのはそのせいだろう。敵を己自身が想定し、作っているのだ。心の中にいる兵たちを、私自身がこの堂に呼び出しているのだ。
     ……にしても、多い! 私はこれほど多くの者たちと戦ってきたのか? 考えもしなかったが、私はこれだけ多く、人を倒してきたのか。
     しかし、そう考えるならば光明はある。疲れて頭はうまく回らない、が……。もう、考え付く限りのすべての兵は、出尽くしたはずだ。もう、現れるわけが無い。
     他に、私が戦い、その強さを認めた者など、一人も残っていない……はず、だ)
     だが晴奈は、一つの可能性に思い当たってしまう。
    (強い、者? いないか、本当に?
     その強い者たち、彼らを、すべて倒した人間がいる、……だろう?)
     考えた瞬間、しまったと舌打ちする。考えれば、それは現実になるのだ。
    (私としたことが! よりによって、こいつの相手を……!)
     目の前にすうっと、人の影が現れる。そしてその顔が、あらわになる。
    (こいつの――『黄晴奈』の、相手をしなければならぬとは!)
     目の前に現れたのは、自分自身。
     晴奈だった。



     自分自身と戦う。
     この奇妙な戦いに、晴奈は戸惑い、困惑し、そして延々と苦しまねばならなかった。

     勝手知ったる自分のことであるはずなのに、こうして「他人」として向き合うと、大まかな動きは検討が付いても、とっさの反応――意識の外で行われる動作など、細かなところまでは予測し切れない。
     完全に動きを読み切ったつもりでとどめを刺そうとしても、半ば本能的な動きで防がれる。そしてほぼ無意識に繰り出される斬り返しで、晴奈は退かざるを得ない。
     目の前の相手は間違い無く自分なのに、その動きがさっぱり読めないことに、晴奈はまず戸惑っていた。

     そしてようやく相手を「自分とは別のものだ」と割り切り、対応するようにしても、今度はその機敏な動きに翻弄され、またも困惑させられる。
     自分が考えられる限界の動きを、相手もその限界ギリギリでこなしてくる。
    「自分ならばこう対処する」と言う戦術・戦法も、相手がそっくりそのまま使ってくるため、意味が無い。
     力技で押そうとしても、同等の力で押し返してくる。
     己の持てるすべての力を使い切り、捨て身になったとしても、相手も同じ力量で立ち向って来るであろうし、その結果相討ちになるのは明白。
     打つ手が何一つ見出せず、晴奈は今までに無いほどに苦しめられた。

     そして晴奈は――薄々ながらも怯えていた。
     自分自身と戦ってからずっと、その「自分自身」からひどく重苦しく、冷たい悪感情をぶつけられているのだ。
     それはこの19年で最も鋭く、最も強い殺意だった。
    (私が、私を殺そうとしている)
     何度、心が折れそうになったか分からない。芯の強い晴奈でさえ、この殺意に怯えたのだ。
    (こんなに、私は殺気立っていたのか。これほど敵に、殺意を向けていたのか。そして実際、殺した者もあった。
     戦いの中でも、仇を討ちに行った時も、こんなに強い殺意を受けたことは無かった。……私と戦った者は皆、こんな気持ちだったのだろうか)
     相手を倒せない焦りと、絶え間なく浴びせられる殺意で、晴奈の手足が重たくなってくる。
    (今まで思っても見なかったが――私は『戦い』の片側しか見ていなかったのだな。もう片側、倒される者のことなど、まったく思いもよらなかった。
     これほど人を絶望させて――私は敵を、殺すのか)
     晴奈の心の中に、じわりと罪悪感が染み出した。

     自分との戦いが始まって、あっと言う間に2時間が経った。
    (どうすればいい……?)
     両者とも疲労が蓄積しているのが、己の肉体の重さと、相手の顔色で分かる。
    (ここまで、私が強いとは。どうすれば、倒せる? どこに隙がある? 何が弱点だ?
     ……ダメだ、策が浮かばない。ともかく、倒さなければ!)
     そう考えたところで、不意に、頭の中で何かが思い返される。
    (……『倒す』? 倒さなければならない? 何故だ?
     よく考えれば、この試験を修了するには24時間眠らずにいればいいのだ。『敵を倒せ』など、誰も言っていないじゃないか?
     であるならば、襲ってきても、ただ防ぐ。無闇に攻撃はしない。己の体力回復に専念――こちらからは、何もする必要は無いのだ)
     そう考えた晴奈は刀を正眼に構え、相手との距離を取った。それでも相手は襲い掛かってくるが、その都度刀を弾き、距離を取る。こちらはただ防御し、攻撃は一切行わない。
     やがてその状態で5分も経った頃、相手も正眼に構え、そのまま静止した。

    (こちらが戦えば、相手も戦う。
     戦わなければ、相手も戦おうとはしない。
     相手が戦おうとしても、こちらが応じなければ、戦いにはならぬ。
     戦えば戦うだけ私は疲労し、時間を費やし、いたずらに人を傷つけ、苦しめる。それで得られるものがあるならまだしも、この場のように、戦うことに意味が無いのに戦うなど、何の得にもならぬ。ならば、戦わなければよいのだ。
     無闇な戦いは、疲れ、失うだけ――そうか。それこそが、この試験の本意なのか)



     そのまま微動だにせず、晴奈と晴奈は向き合った。
     そして長い時が、立ち尽くす二人の間に茫漠と流れ――24時間が、経った。

    蒼天剣・烈士録 3

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、29話目。本当の敵とは。3. さらに時は過ぎ、十余時間が経過した。「ひゅー、はぁー」 もはや、呼吸もままならない。ひとり言をしゃべる気力も失せた。具足や篭手、脇差もとっくに使い物にならなくなっており、残っているのは刀一振りと胸当て、そして道着だけである。(まだか? まだなのか? まだ、時間は……!?) 途中、この異変に気付いて誰か来るのではと、淡い期待も抱いていたのだが、どう言うわけか焔流の...

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    晴奈の話、30話目。
    お説教。

    4.
     堂の戸が、すっと開かれる。重蔵がニコニコと笑みを浮かべながら、堂に入ってきた。
    「おう、おう。起きておったな、晴さん」
     晴奈は一瞬重蔵に顔を向け、すぐに目の前で刀を構えていた「自分」の方に視線を戻した。だが、既にそこには誰もいない。辺りを見回しても、人の姿は重蔵だけである。
     この24時間の間戦ってきた者たちは、どこにもいなかった。
    「さて、聞こうかの。晴さん、この試験は何を問うものじゃろ?」
     すべてを察した顔で、重蔵は晴奈に問いかける。晴奈はこの24時間で至った考えを、率直に話した。
    「……戦いの、意義。無闇に戦うことが、正しいことかどうか。無益な戦いは、無駄であると言うことだと」
    「ほぼ、正解じゃ。じゃが後一つ、逆のことも考えなければならぬ」
    「逆のこと? と言うと」
     晴奈は刀を納めつつ、聞き返す。
    「意味も無く戦えば、どうなる?」
    「意味も、無く……。恐らく、無為。何もなさぬかと」
    「さよう。じゃが、確実に失ったものがある。時間や話す機会、物、その他諸々、そして何より、人命。人は失った分、何かを手に入れようとする生き物じゃ。戦いで失ったものを取り戻そうとし、それは時として次の戦いを生む。
     そして戦いでまた何かを失い、さらに手に入れようとし――行き着く先は、修羅の世界じゃ。こうなるともう、無限の損失しか残らん。永遠に失い続ける人生を歩み、何も生み出すことは無い。それは己自身をも滅ぼす、まさしく地獄じゃ。
     無益な戦いこそ、剣士の名折れと心得よ。それがこの試験の本意じゃ」
    「なるほど……」
     重蔵の答えを聞いて、晴奈はしばらく顔を伏せ、考える。
    「……もう一つ、思ったことがあるのです」
    「うん?」
    「私は、私と向かい合った時、ひどく怯えていました」
     それを聞いた重蔵が、「ほう」と声をあげた。
    「自分まで呼びなすったか」
    「ええ。そして対峙した時、ずっと私は私から殺意をぶつけられていました。お恥ずかしい話ですが、これまで私は、あれほど強い殺意を受けたことが無かったのです」
    「ふむ」
     重蔵は腰を下ろし、晴奈に座るよう促す。
    「まあ、今までの経験から言うとじゃな」
    「はい」
     座り込み、同じ目線にいる晴奈をじっと見て、重蔵は言葉を続ける。
    「晴さんみたいに、自分を呼び出した者は滅多におらんのじゃ。
     呼び出した者は例外なく、若くして才能を開花させ、道を極めた者。そう言う者ほど、自分に自信を持っておるのじゃろうな」
    「はあ……」
    「正直な話、わしが試験を受けることを促した時、『自分にはその資格がある』と思っておったじゃろ?」
    「……はい」
     心中を言い当てられ、晴奈は顔を赤くしてうなずく。
    「そんな者ほど、当然過ぎるほど当然のことに気付かん。『敵を倒す時は逆に、倒されることもある』と言うことにな。それが分からん者ほど修羅になりやすい。
     さっきも言うたが、剣士としてその道に身を落とすことは、何よりも悪い罪じゃ」
     罪、と聞いて晴奈の心がまた痛む。先ほど感じた罪悪感が、思い出されてきた。
    「自分と向かい合った時に感じたそれを、よく覚えておきなさい。修羅の道に足を踏み入れそうになった時、それを思い出せば、思い止まることができるじゃろう」
    「はい……」
     晴奈は重蔵の言葉を、心に深く刻みつけた。

     重蔵は懐から巻物を取り出し、晴奈の眼前で紐解き、開く。
    「これは、焔流剣術の始まりからずっと書き連ねておる、免許皆伝の書じゃ。
     ほれ、この端。『焔玄蔵』と書かれておるじゃろ。これこそが我らの開祖、『焔剣仙』玄蔵。そしてその後に、おびただしい数の名前が連なっておる。これらは皆、焔流を極めし者。免許皆伝の証を得た者たちじゃ。
     そして今日、玄蔵と反対側の端に。黄晴奈の名を連ねよう」
     重蔵は指差した箇所に晴奈の名を書き、晴奈の手を取って拇印を押させた。
    「おめでとう。これより晴さんは、焔流免許皆伝を名乗ってよろしい」
    「……」
     晴奈は何か礼を言おうとしたが、言葉にならない。ばっと体を伏せ、重蔵の前で深々と頭を下げた。



     こうして双月暦512年の秋、晴奈は焔流免許皆伝と言う、最大・最高級の剣士の称号を得た。同時に紅蓮塞での地位も急激に上がり、指導に回ることも多くなった。
     だが、晴奈はこの現状に満足しなかった。いくら強くなっても、強くなったと言う証明を得ても――。
    (明奈を救い出せなくて、何が免許皆伝だ。
     いつか明奈が無事に帰ってくるまでは、いや、私が救い出すその時までは、この言葉を用いるまい)
     晴奈は救い出す機を待ち、黙々と修行に励んでいた。

    蒼天剣・烈士録 終

    蒼天剣・烈士録 4

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、30話目。お説教。4. 堂の戸が、すっと開かれる。重蔵がニコニコと笑みを浮かべながら、堂に入ってきた。「おう、おう。起きておったな、晴さん」 晴奈は一瞬重蔵に顔を向け、すぐに目の前で刀を構えていた「自分」の方に視線を戻した。だが、既にそこには誰もいない。辺りを見回しても、人の姿は重蔵だけである。 この24時間の間戦ってきた者たちは、どこにもいなかった。「さて、聞こうかの。晴さん、この試験は...

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    晴奈の話、31話目。
    頼りない後輩くん。

    1.
     免許皆伝を果たしてから、晴奈の環境は変わり始めていた。

     まず、第一に。師匠、柊と一緒に過ごす時間が減った。
    「また、別な子の指導を頼まれちゃって」
    「そうですか。では、私の弟弟子、となるわけですね」
     柊が新たな門下生に指導を行うこととなり、免許皆伝の身、即ち「教えるもの無し」である晴奈と付き合う時間は、相対的に減るからである。
     とは言え晴奈もそれを寂しく思うような年頃でもないし、柊もそうは思っていないらしい。
    「ええ、そんなところね。その子が起きたら、また改めて紹介するわね」
    「起き、たら……?」
     柊は困ったように、クスクスと笑った。
    「心克堂で、泡を吹いて倒れちゃったのよ。先が思いやられるわ」
    「な、なんと」

     第二に。自分自身が門下生の指導に当たるようになった。
     と言っても、晴奈は免許皆伝こそ果たせど、まだ「師範」では無い。まだ弟子を取るような身分では無いため、他の門下にいる者たちを集めて基本的な内容を教え、監督すると言う、師範格の補佐のような立場に就くこととなった。
    「わ、私、が、本日の指導に当たる、黄、晴奈だ。……んん、皆、その、精進するように」
    「はい、先生!」
     指導初日であがっている晴奈とは裏腹に、門下生たちは皆初々しく、さわやかな挨拶を返してきた。
    「で、では、えーと、んん。まずは、柔軟体操、からかな。各自、えー、私に合わせて、屈伸を始め、なさい」
    「はい!」
     挨拶はたどたどしかったものの、体を動かし始めると段々、調子が乗り始める。
    「よし、それでは素振り、百本行こうか」
    「はい!」「え」
     多くの者が快活に応える中、小さく戸惑ったような声をあげる者がいる。
    (ん? 入門したての者には多すぎたか……?)
     晴奈も一瞬戸惑ったが、ともかくやらせてみる。
    「……はじめっ」
     晴奈の号令に合わせ、ほとんどの者が軽々と百回、竹刀を振り終わる。
     ところが一名、30回を越えたあたりでへばっている者がいた。
    「ゼェ、さんじゅ、う、さん……、さん、ゼェ、さんじゅう、よん……」
    (お、おいおい)

     第三に。紅蓮塞での交友関係も、新しい広がりを見せた。
    「まったく、『お坊ちゃん』にも困ったものだ」
    「そうですねぇ」
     晴奈と同じく、ここ最近指導に当たるようになった者たちと集まり、碁を囲んだり茶や酒を酌み交わしたりしつつ話をする機会が増えていた。
    「確かに、あれはひ弱だ。剣士に向いていないのでは無いのだろうか」
     碁を指しつつそう評する晴奈に、一同は揃ってうんうんとうなずいている。
    「言えてますねぇ」
    「あのもやしっ子、本当に焔の血筋なのか?」
    「さあ……?」
     続いて、全員が首をひねる。
    「正直に言えば、そうは信じられんよ」
    「まあ、家元が自分の孫であると仰っているし、疑う道理もあるまい」
    「いやー、でもあの子、家元には全然似てませんしねぇ」
    「しかし魔力は、あるようではある。座禅などの修練は、いい成績だった」
     晴奈の言葉に、碁の相手は腕を組んでうなる。
    「ふーむ、そうですか。それなら体を鍛えれば、それなりになるかも知れないですねぇ」
    「今のところは気長に観るのが、いいのではないかと」
    「それがいいかもですねぇ。……ほい、と。へへ、黄さん、悪いですねぇ」
     話している間に、相手が盤上に並んだ晴奈の石を、ひょいひょいと取り上げる。
    「む、うー。……投了」



     先程から晴奈の話に上ってくる、このひ弱で気も弱い、短耳の少年。この少年はその年、塞の話題の中心人物となっていた。
     焔流家元、焔重蔵の孫だと言うのだが、16歳の男子にしては体力も腕力も無く、剣士と言うよりは書生の雰囲気をかもし出している。
     名前は桐村良太。いかにも頼りなげなこの弟弟子を、晴奈も当初、あまり良くは評価していなかった。
    (不安だな、どうも。師匠にいらぬ苦労や心配が増えぬと良いのだが)

    蒼天剣・指導録 1

    2008.10.07.[Edit]
    晴奈の話、31話目。頼りない後輩くん。1. 免許皆伝を果たしてから、晴奈の環境は変わり始めていた。 まず、第一に。師匠、柊と一緒に過ごす時間が減った。「また、別な子の指導を頼まれちゃって」「そうですか。では、私の弟弟子、となるわけですね」 柊が新たな門下生に指導を行うこととなり、免許皆伝の身、即ち「教えるもの無し」である晴奈と付き合う時間は、相対的に減るからである。 とは言え晴奈もそれを寂しく思うよ...

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    晴奈の話、32話目。
    貧弱、貧弱ぅ。

    2.
     紅蓮塞に来た当初から、良太の評価は低かった。
     入門試験の時点で、いきなり倒れたからである。
    「お、鬼があぁ……」
     心克堂の仕組みを見抜くことができず、目の前に鬼を出現させてしまい、そのまま気絶したのだと言う。
    「むう。……じゃが、逃げんかっただけましじゃな」
     結果を聞いた重蔵も困った顔をしたが、この時は妙な温情を見せ、塞内に入れてしまった。そこでまず、ケチが付いた。

     様子見と言う温情を付けて入門し、いざ稽古に入ったものの。
    「ヒィヒィ、ゼェゼェ」
     素振りでばてる。
    「痛っ!」
     稽古でうずくまる。
    「も、もうダメ……」
     5分も走れない。
     まともにできるのは座禅や読経などの、精神修練のみ。
     指導に当たる者たちは良太のことを「祖父の七光りの厄介者」と馬鹿にし、遠ざけていた。



     とは言え晴奈にとっては弟弟子であるし、自分も修行を始めたばかりの頃には似たような扱いを受けたこともある。
     疎ましく思う一方で、どこか親近感のような、同情心のようなものを良太に感じていた。
    「調子はどうだ、良太」
    「あ、晴奈の姉(あね)さん」
     ある日、書庫の側に置いてあった長椅子で一人、本を読んでいる良太を見つけたので、晴奈は声をかけてみた。
     ちなみに良太は姉弟子である晴奈を「姉さん」と呼び、とても慕っている。
    「調子、は……。そうですね、毎日、筋肉痛です」
    「そうか。体力は、前より付いたか?」
    「うーん……。あんまり付いた気、しないです」
    「ふむ、そうか」
     晴奈は良太の横に座り、読んでいる本を眺める。
    「何を読んでいる?」
    「え? ああ、えっと。歴史小説ですね。央南の、八朝時代の頃を書いた本です」
    「そうか。面白いか?」
    「ええ。すごく心が落ち着きます」
     そう言って良太は、にっこりと笑う。
    「実を言うと僕、体を動かすの苦手なんです。ここに来る前から、ずっと本ばかり読んでましたから」
    「前、か。そう言えば、お主は何故ここに?」
     それを尋ねた途端、良太は困ったような顔を見せた。
    「あの、それは、ちょっと……」
     その曇った表情に、晴奈は慌てて手を振る。
    「あ、いやいや。言いたくなければ言わなくとも良い。……そうか、まあ、お主にも色々事情があるのだな」
     ばつが悪くなり、晴奈はそこで言葉を切った。
     と、良太は読んでいた本を閉じ、じっと晴奈を見つめてくる。
    「ん? 私の顔に何か付いているか?」
    「晴奈姉さん、お願いがあるんです」
     良太は座り直し、晴奈に頭を下げた。
    「僕を、鍛え直してください」
    「……ふむ?」
     良太も塞内での自分の評判は良く知っていたらしく、思いつめた顔を晴奈に向け、もう一度頭を下げた。
    「僕に力が無いせいで、おじい様の評判まで落としているらしくて。折角僕に色々してくださったおじい様の顔に、泥を塗るような真似はしたくないんです」
    「なるほど。そう言うことであれば、協力は惜しまない。が……」
     晴奈は良太の体つきを上から下まで一通り眺め、ため息をつく。その体つきはどう見ても、貧弱と言う他無い。
    「……相当、大仕事になりそうだ」

     翌日、晴奈は良太を連れて、紅蓮塞の裏手にある山へと登った。
    「ゼェ、ゼェ」
    「頑張れ、良太」
     登り始めて早々、すでにばてている良太の手を引き、晴奈は山道を進む。
    「どこに、行くん、ですか?」
    「まあ、修行の代名詞だな。いわゆる、山ごもりという奴だ。紅蓮塞が山で修行するために、小屋を作っている。そこを貸してもらったから、しばらくはそこで生活するぞ」
    「山、ごもりです、かぁ」
     良太の声がどんどん弱くなってくる。晴奈はため息混じりに、良太に声をかけた。
    「もう少し頑張れ。しゃべらなくても、いいから」
    「はぃ……」
     2時間ほどかけて、晴奈たちは小屋までたどり着いた。
     なお、蛇足になるが――塞からこの小屋までは、晴奈一人の場合だと20分で着く距離である。
    (ふう……。参るな、のっけから)

    蒼天剣・指導録 2

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、32話目。貧弱、貧弱ぅ。2. 紅蓮塞に来た当初から、良太の評価は低かった。 入門試験の時点で、いきなり倒れたからである。「お、鬼があぁ……」 心克堂の仕組みを見抜くことができず、目の前に鬼を出現させてしまい、そのまま気絶したのだと言う。「むう。……じゃが、逃げんかっただけましじゃな」 結果を聞いた重蔵も困った顔をしたが、この時は妙な温情を見せ、塞内に入れてしまった。そこでまず、ケチが付いた。 ...

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    晴奈の話、33話目。
    スポ根?

    3.
     山小屋に到着した晴奈たちはとりあえず、休憩に入った。到着した時点で、良太が真っ青な顔でばてていたからである。
    「す、すいま、せん」
    「いいから。ともかく呼吸を整えろ」
    「は、いー」
     晴奈は良太の呼吸が整うまでの短い間、夕べ柊と交わした会話を思い返していた。



     良太が「自分を鍛え直して欲しい」と晴奈に請うた話を聞かされ、柊は頬に手を当ててうなっていた。
    「良太がそんなことを……」
    「任せていただいても、よろしいでしょうか?」
     話を聞いた柊は、腕を組んでもう一度うなる。
    「うーん……、そうねぇ、このままだと修行にならないし。……うん、お願いしようかな」
    「ありがとうございます」
    「お礼を言うのはわたしの方よ。
     ……まあ、重蔵先生からね、『こんなことを頼めるのは雪さんしかおらんでのぉ。どうか、あの子が将来困らんように指導してやってくれ』と言われたんだけど、その……。えっと、思った以上に、体力の無い子でね。いずれはわたしも、付きっきりで鍛えてやろうとは思っていたんだけど、……その、最近、ね、ちょっと、立て込んでいて」
     わずかに目をそらし、困ったような顔でつぶやく柊に、晴奈はドンと自分の胸を叩く。
    「お任せください、師匠。必ず、見違えるように鍛えてみせますよ」
    「ええ、お願いね。……あ、そうそう」
     柊は晴奈の猫耳に口を寄せ、そっとささやいてきた。
    「まあ、無いとは思うけど。油断しちゃダメよ」
    「はぁ……? 何を、油断すると?」
     晴奈の顔を見て、柊は呆れたような笑みを浮かべた。
    「……無いわよね、どう考えても」



    (任せてくれ、とは言ったものの)
     ようやく呼吸が落ち着き、汗を拭いている良太を見て、晴奈は心配になる。
    (山登りでこれか。改めて思うが、なかなか苦労しそうだな)

     ともかく、晴奈と良太の山ごもりは幕を開けた。
    「ほら、ばてるな! もっと根性見せろ!」
    「は、はひ」
     まずは、持久力を付けるための走り込み。やはり5分もしないうちに、良太は走ると言うより歩くと言った方がいいような状態になったが、そこで晴奈が活を入れる。
    「もっと足上げろッ!」
    「は、いっ」
     後ろから声をぶつけ、足を動かせる。
    「ほら、手も振れ! もっと息を吸え! 吐くより吸え!」
    「はい、っ、ハァ、すぅー、ハァ」
    「ほら、また足が上がってないぞ! 足上げろッ!」
     何度も足が止まりそうになっていたが、晴奈の活で何とか30分、良太は走り通した。

     次は竹刀の素振り。
    「まだ40回も行ってない! もっと腕を振り上げろ!」
    「は、ぁ……、はいっ」
     汗だくになり、上半身裸になった良太に、晴奈がまた活を入れる。
    「声が小さい!」
    「はい、っ! 38! 39! 4、0! よんじゅう、いち! よん、じゅう、に! よんじゅう、さん、よ、ん、じゅー……」
    「また腕が下がってる! 声出せ!」
    「45ッ!」
     これもつきっきりで晴奈がしごき、何とか素振り百回をやり通した。

     打って変わって、今度は良太が得意としている精神修養の一環、座禅。
    「……」「……」
     二人とも相手を見つめ合い、一言も発しない。
    「……」「……」
     しごかれ、疲労困憊のはずの良太はまったく、眠たげな気配を見せない。
    「……」「……」
     無論、晴奈も6年経験を積んでいるので、これしきのことで眠ったりはしない。
    「……」「……」
     木々のざわめきと互いの呼吸しか聞こえない小屋の中で、時間は刻々と過ぎていく。
     やがて西日が窓から差し込み、カラスの鳴く声が聞こえてきた。
    「……飯にしようか」「はい」



     その日の修行を終え、二人は夕食を作ることにした。
    「精神力だけは人並み以上だな。あれだけの時間をかけて、疲労を抱えていながら眠らずにおれるなど、そうそうできない」
    「そうですか。ありがとうございます」
     二人並んで台所に立ち、食材を切りながら雑談する。
    「体力も、声をかければかけるだけ絞り出せる。まったく無い、と言うわけでも無さそうだ。この調子なら毎日へこたれずに頑張れば、着実に鍛えられるだろう」
    「本当ですか」
     良太の声が嬉しそうに、台所に響く。
    「ああ。明日からも頑張ろう」
    「はいっ」

     食事も済み、日もすっかり落ちた頃、二人は床に就いた。当然また明日も、早朝から特訓である。
    「本当に、今日はありがとうございました」
    「『姉』の務めみたいなものだ。礼などいらぬ」
    「はは、はい……」
     うとうとしかけたところに、良太が楽しそうに声をかけてきた。
    「姉さん、かぁ。僕、兄弟がいないので、何だか嬉しいです」
    「そうか。まあ、明日も頑張れ、『弟』よ」
    「はい、姉さん」
     短い会話の後、二人ともすぐ眠りに就いた。

    蒼天剣・指導録 3

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、33話目。スポ根?3. 山小屋に到着した晴奈たちはとりあえず、休憩に入った。到着した時点で、良太が真っ青な顔でばてていたからである。「す、すいま、せん」「いいから。ともかく呼吸を整えろ」「は、いー」 晴奈は良太の呼吸が整うまでの短い間、夕べ柊と交わした会話を思い返していた。 良太が「自分を鍛え直して欲しい」と晴奈に請うた話を聞かされ、柊は頬に手を当ててうなっていた。「良太がそんなことを……」...

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    晴奈の話、34話目。
    師匠のみょーな心配と、家元の検分。

    4.
     晴奈と良太が山ごもりを始め、一ヶ月が経った。
    「走れ! もっと足上げろ!」「はいっ!」
     初日はすぐにへたり、走ることもままならなかった良太だが、このしごきに体が慣れてきたのか、(多少手足の動きは鈍ったままだが)走り切れるようになった。
    「もう少しで百だ! 後20回、こらえろ!」「はい!」
     まともに30回できなかった素振りも、今は何とか60辺りまで、無難にこなせる。
     晴奈の特訓は、着実に実を結んでいた。

     その夜。
    「そろそろ、山を降りるとするか」
    「え?」
     床に入ったところで、晴奈が声をかけた。
    「この一月、お前はよく頑張った。最初の頃より大分、力は付いたろう。もう皆と同じように稽古をつけても、置いていかれるようなことはあるまい」
    「そうですか……」
     なぜか、良太の声は寂しそうだった。その沈んだ声をいぶかしがりつつも、晴奈はそれ以上何も言わなかった。
     話が途切れて10分も経った頃、良太の方から沈黙を破った。
    「……昔」
    「ん?」
    「昔、僕の母は紅蓮塞にいたそうです」
     唐突に、良太は自分の身の上を語り始めた。
    「でも、おじい様とケンカして出て行ったと、母から聞きました」
    「そうか」
    「母はその後央南を転々とし、やがて玄州の天玄で父と結婚しました。そして僕が生まれたんですが、その後……」
     その口ぶりから、晴奈は良太の家に、何か悲劇があったのだろうと勘付いた。そして良太の口から、予想通りの言葉が出てくる。
    「両親とも、亡くなりました。僕がいない間に、……強盗に襲われて。
     事情を聞いたおじい様は、僕を引き取ってくれました。そして『自分の力で、自分を守れるように精進しなさい』と」
    「……そうか」
    「あの……」
    「ん?」
     良太はそこで、口ごもる。
    「……あの、……いえ。その、一ヶ月の間、ありがとうございました」
     何かを言おうとしたようだが、晴奈はあえて尋ねようとはしなかった。
    「ああ。また何かあれば、何でも相談してくれ」



     翌朝、晴奈たちは山を降り、久々に紅蓮塞へと帰ってきた。そのまま柊のいる部屋まで向かい、二人で修行の成果を報告した。
    「師匠、ただいま戻りました」
    「おかえり、晴奈。それで、良太は強くなった?」
    「ええ、それなりに。紅蓮塞での修行にも耐えられるでしょう」
     それを聞いた柊は、嬉しそうに微笑んだ。
    「良かった。そっちの方はもう安心ね」
     晴奈は柊の言葉を聞き、首をかしげた。
    「そっち、とは?」
     聞いた途端、柊は困ったような顔をした。
    「あ、えーと、その。……無いとは、思うんだけどね」
    「ん?」
     柊は晴奈の猫耳に口を寄せ、そっと尋ねてきた。
    「何にも、無かったわよね?」
    「は? ですから、十分鍛えられたかと」
    「……無さそうね。良かった良かった」
    「?」

     続いて家元、重蔵にも同様に報告する。
     重蔵は柊のように変な勘繰りもせず、素直に喜んだ。
    「そうか、そうか。これで一安心じゃな。
     まあ、少し見てみようかの。二人とも、そこで待っていなさい」
     そう言うなり、重蔵は立ち上がって部屋を出る。
     良太はきょとんとした顔で、晴奈に尋ねる。
    「見てみるって一体、何でしょうか?」
    「実力が付いたかどうかを、だろう」
    「はあ……」
     まだ具体的に何をされるのか分かっていないらしく、良太は首をかしげた。
    「見る……、か? どうやって見るんだろう?」
    「とりあえず」
     晴奈はそっと立ち上がり、部屋の端で座り直した。
    「え?」
     立ち上がりかける良太を手で制しつつ、晴奈はこう助言する。
    「得物は手元に近付けておけ」
    「……あ、なるほど」
     そこで良太も、何が起きるか気付いたらしい。慌てて傍らに置いていた木刀を手に取り、周りの気配を伺うように、きょろきょろと見回す。
     その瞬間、晴奈は何かを感じ取った。
    (ふむ……? 不思議な奴だな。あれだけひ弱なくせに、ここで急に一端の剣気――手練が戦いに臨む際、自然と発するような、そんな空気を帯び始めた。
     多少侮っていたが、やはりこいつも焔の血筋と言うことか?)
     良太を包む空気が変化する。それまで怯え、戸惑う兎のようだった目に、緊急を感じ取っている輝きが、ちらちらと浮かんでくる。
    (しかし、それだけが理由では無さそうだ。
     この目は勇猛果敢に敵を打ち砕く虎とも、圧倒的な威圧感で獲物を狩る狼とも違う、どこか切迫した目つきだ。
     例えるなら、手負いの獣。修羅場を潜り、憔悴しきった羊のような……?)
     晴奈は腕を組みながら、じっと良太を見ていた。

     と、唐突に天井が開き、そこから重蔵が槍を持って飛び込んできた。
    「!」
    「せやあッ!」
     重蔵は飛び込んでくると同時に、槍を振り下ろしてくる。
     良太は目を見開きながら、バタバタと後ろに下がる。間一髪避けることはできたが、休む間も無く重蔵が二撃目を繰り出す。
    「そりゃッ!」
    「……ッ!」
     良太は声も上げず、鞘に収めたままの刀でそれを防ぐ。
    「それ、もう一丁ッ!」
     バンと床を蹴る音とともに、槍がもう一度良太に向かって伸びる。
    「うわ、っ」
     刀を抜けないまま、良太はもう一度鞘で防ごうとした。
    「あ、まずい良太」
     黙って成り行きを見ていた晴奈は、そこで声を漏らす。
     重蔵の槍は良太の鞘のすぐ手前でいきなり、ぴょんと跳ねた。
    「えっ」
     そのまま拳一つほど進んだところで、槍の穂先が勢い良く下がる。バチ、と言う音が響き、良太の刀ははたき落とされてしまった。
    「あ……」
    「ふーむ。晴さん、どれくらいじゃろ?」
     問われた晴奈は、二人が仕合った時間を答える。
    「7、いえ、8秒だったかと」
    「8秒か」
     良太の鼻先に槍を当てたまま、重蔵はぽつりとつぶやいた。
    「まだまだ、じゃなー」
     重蔵は槍を床の間に立てかけ、元の位置に座った。

    蒼天剣・指導録 4

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、34話目。師匠のみょーな心配と、家元の検分。4. 晴奈と良太が山ごもりを始め、一ヶ月が経った。「走れ! もっと足上げろ!」「はいっ!」 初日はすぐにへたり、走ることもままならなかった良太だが、このしごきに体が慣れてきたのか、(多少手足の動きは鈍ったままだが)走り切れるようになった。「もう少しで百だ! 後20回、こらえろ!」「はい!」 まともに30回できなかった素振りも、今は何とか60辺りま...

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    晴奈の話、35話目。
    不毛な情熱。

    5.
     座り直したところで、重蔵が満足気に感謝の意を表す。
    「まあ、それでも最初の頃に比べれば幾分、様変わりしたのう。ようやった、晴さん」
    「はい、ありがとうございます」
     晴奈たちも元の位置に戻り、揃って頭を下げた。
    「まあ、後何年か、じっくり修練を積みなさい」
    「はい。それでは、失礼……」「待った」
     と、もう一度頭を下げ、立ち上がろうとした良太を、晴奈が止めた。
    「何でしょう、姉さん」
    「一つ聞いてもいいか?」
    「……はい?」
     座り直した良太をじっくりと見て、尋ねる。
    「お主の経緯を聞いたが、嘘をついているだろう」
    「えっ」
    「両親が殺された時、お主はその場にいなかったと言ったな?」
    「え、ええ、はい」
    「本当は、いたんじゃないか?」
    「……!?」
     良太の目が見開かれる。晴奈は続いて尋ねる。
    「あの、家元を待ち構える際の、怯えにも似た鬼気迫る気配。何の危難にも出会わず、安穏と生きてきた者が出せるものでは無い。
     よほど己の身が危機にさらされなければ、得られぬ類のものだ」
    「……」
     良太の額に汗が浮かぶ。二人の様子を見ていた重蔵が、はーっとため息を漏らした。
    「流石じゃな、晴さん。その通りじゃよ」
    「おじい様!」
     良太が止めようとしたが、重蔵は片手を挙げ、それをさえぎる。
    「心配するな、良太。雪さんも晴さんも、口は堅い。周りに吹聴して、お前の秘密を暴くようなことはせんよ」
    「……」
     重蔵は座り直し、ゆっくりと語り始めた。
    「まあ、その。始めはわしと、わしの娘のいさかいが原因じゃった。
     わしも娘も、あの頃はひどく頑固じゃった。娘には剣術やら作法やら色々と教えたが、それをすべて、『私はもっと別な人生を歩みたいの』と言って捨て去った。そして口喧嘩の末に、娘は塞を離れた。
     それからしばらくして、娘から手紙が届いた。『ある街でいい人と出会い、結婚した。男の子が生まれたのだが、名前を考えてくれないか』、とな。正直、わしは少し複雑な気分じゃった。娘が勝手にどこの馬の骨とも知れぬ輩と、と怒った反面、反目していたわしを頼ってくれたその気持ちを嬉しくも思った。……結局、わしは和解した。『良太』と一筆したため、娘に送り返したのじゃ。
     その後、何度か手紙でやり取りし、そしてつい最近、『戻ってみてもいいか』と返事が来た。わしは喜んでそれを了解した。で、どうせなら迎えに行ってやろうとそう考えて、娘夫婦のいる天玄に向かった。じゃが……」
     重蔵はそこで言葉を切る。その顔はいつもよりしわが深くなり、くぼんだ目がひどく悲しそうに光っていた。
    「襲われておった。
     家は扉も、窓も破られ、娘も、夫と思われる男も、むごたらしく殺されておったのじゃ。そしてわしは、今まさに良太に襲いかかろうとしていた男を見つけた。考える間も無く、わしはそいつを斬った。腕は落としたものの、そいつは逃げてしまった。
     後に聞けば、そいつは人さらいだったそうじゃ。央南や、央中で暗躍する人身売買の組織があり、良太はそやつらに狙われたのじゃと。わしは良太を連れて急いで天玄を離れ、ここに戻ってきた」
    「……」
     すすり泣く声が、良太から聞こえてくる。晴奈が振り向くと、良太がボタボタと涙を流しているのが見えた。
     その様子を眺めながら、重蔵は晴奈に礼を言った。
    「鍛えてやってくれてありがとう、晴さん。この調子なら、良太はいつかきっと、大願を成就できるじゃろうな」
    「大願?」
     良太はグスグスと、鼻をすすりながら答えた。
    「仇を、取りたいん、です。僕の両親を、殺した、その男を、討ちたい」
    「……そうか」
     晴奈はなぜか、良太がそんな言葉を吐いたことにひどく、胸が痛んだ。
    (優しいこいつが、そんな悲壮な決意を抱く、……のか。私はもしかしたら、こいつが歩むべきだった人生を、曲げてしまったのでは無いだろうか。
     本当にこいつを、鍛えて良かったものか)



     晴奈の心境とは裏腹に、晴奈の評判は大きく上がった。
    「あの『坊ちゃん』を見事に鍛えるとは、なかなかに優れた練士では無いか」と評され、晴奈に指導を請う者、晴奈を慕う者が多くなった。
     勿論、良太もその一人である。
    「晴奈の姉さん、また今日もお願いしますねっ」
     子犬のように晴奈を慕う良太を見て、晴奈は心の奥にわだかまりを覚えずにはいられない。
    (……しかし)
    「ああ。今日も厳しく行くからな。頑張れよ」
    「はいっ!」
    (こいつがそれを望み、全うしようと言うのならば、応えてやらねばなるまい。
     姉弟子として、また、教官としても)
     晴奈は深呼吸し、雑然とした思いを頭から払いのける。
     良太と、前にいる門下生たちに向かって、大声を上げて指導を始めた。
    「では、今日も行くぞ! まずは柔軟からだ! はじめッ!」

    蒼天剣・指導録 終

    蒼天剣・指導録 5

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、35話目。不毛な情熱。5. 座り直したところで、重蔵が満足気に感謝の意を表す。「まあ、それでも最初の頃に比べれば幾分、様変わりしたのう。ようやった、晴さん」「はい、ありがとうございます」 晴奈たちも元の位置に戻り、揃って頭を下げた。「まあ、後何年か、じっくり修練を積みなさい」「はい。それでは、失礼……」「待った」 と、もう一度頭を下げ、立ち上がろうとした良太を、晴奈が止めた。「何でしょう、姉...

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    晴奈の話、36話目。
    妖怪話と、現代っ子の反応。

    1.
     双月暦512年、暮れ。
     央南中部ではある「化物」のうわさが広まっていた。姿は白い大狐で人語を解し、魔術を操り、人里離れた人家や旅人を狙うと言うのだ。



    「へぇ」
     柊が手紙を読み終わり、驚いたような声を漏らした。
    「晴奈、良太。ちょっとこれ、見てみて」
    「はい、何でしょうか?」
     精神修練の一環として、共に写本をしていた晴奈たちは、師匠の差し出す手紙を手に取り、読んでみた。
    「……え? 狐の、……妖怪、ですか?」
    「冒頭からまた、胡散臭い話ですね」
     晴奈も良太も、けげんな顔で柊に応えた。
    「あの、良く読んでみるとこれ、先生のご友人からの手紙ですよね。助けて欲しい、と書かれているのですが……」
     良太の質問に、柊は困ったような顔でうなずいた。
    「そうなの。何でも、彼がいる街でも被害が出たらしくって。彼が率いている自警団でその妖怪を探して捕まえよう、って言うことになったらしいの。
     それで腕の立つ人が欲しいから、来てくれないかって言うんだけど」
    「はあ……」
     話を聞いた晴奈は写本に戻りながら、率直な意見を述べた。
    「胡散臭いにも、程がありますね」
    「そうですか?」
     意外そうな顔をした良太を見て、晴奈は少し呆れる。
    「そう思わないか? 確かに、困ったことが起きたから手を貸してくれ、と言うこと自体は特に不審でもない。
     私が胡散臭いと言っているのは、妖怪などと言う表現だ」
    「表現? どう言う意味かしら」
     今度は柊が尋ねる。
    「妖怪などいるわけがありません。何しろ私はこれまで一度も、そんな奇怪で非現実的なものを見たことが無いですし」
    「でもほら、黒炎教団の神様とか。300年生きてるって言うし」
     良太の意見も、晴奈はにべも無く否定する。
    「だからそんなもの、私は見たこと無い。知り合いが見たとは言っているが、私自身が確かめたわけでは無いしな」
    「ああ、なるほどね。……うーん」
     晴奈の言い分を聞いて、柊は腕を組む。
     間を置いた後、ゆっくりとした口調で、晴奈と良太に説明し始めた。
    「えーと、ね。晴奈、誤解してると思うんだけど、……いるのよ、実際」
    「え?」
    「神話の時代から、数多の化物がそこら中に存在したと言われているわ。
     天帝教の英雄たちが竜や巨大な狼に襲われ、討伐したと言うおとぎ話を初めとして、その手の話は枚挙に暇が無い。
     でも文明が進むにつれて、そう言った話は少なくなっていった。これは人間が住む地域、生活圏が、そう言った化物の棲む地域に入り込み、侵食したせい。
     だから結果として、その場所にいた化物は討伐、淘汰されて、とっくの昔に消滅しているわ」
    「まあ、そう言う話であればまだ、うなずけます。
     しかしその話を前提にしたとしても、どっちにせよ、既にそんなものはこの世からいなくなった。そう考えられますよね?」
     晴奈の反論に、柊は首を振った。
    「いいえ、まだ世界全域に人間の手が入ったわけじゃないもの。
     この央南に限っても、屏風山脈は峠道から外れれば異世界も同然だし、あちこちの森や近海にも、人間が入り込めない場所はたくさんあるわ。
     だから、まだ駆逐されていない化物、妖怪は、確実にいるのよ。そう見えないのは、そんなところに踏み行ったことが無いからよ。
     これまでの旅も、なるべく安全なところを選んだわけだし」
    「そんなもの、……ですか」
     そう説明されても、まだ晴奈は腑に落ちない。それを察したらしく、柊がすっと立ち上がった。
    「じゃ、証拠を見せてあげる」
    「証拠?」
     柊はいきなり、上着を脱ぎ始めた。良太が素っ頓狂な声を出し、飛び上がる。
    「え、ちょっ、先生!?」
    「ちゃんと下は着てるから。……ほら」
     上着を脱ぎ、肌着をへその上までめくった柊を見て、晴奈たちは絶句した。
    「……!」「その、傷は」
    「刀傷には見えないでしょ?」
     どう見ても、大型獣の爪痕――それが腰から鳩尾の下にかけて、柊の右半身に付いていた。
    「10年くらい前、友人と旅をしてた時に付けられたんだけどね。あの屏風山脈を越える時に、うっかり峠道から外れてしまって。で、襲われたの。
     わたしは大ケガを負うし、魔術師だった友人も杖を折られちゃうし。下手をすれば死んでたところだったわ」
    「……」
     良太は食い入るように、柊の傷痕に見入っている。晴奈は恐る恐る尋ねてみた。
    「その、化物とは」「あら、聞きたいの? 嘘だって言ってたくせに」
     柊は服を着直しながら、珍しく恐ろしげな笑みを浮かべて尋ね返す。
    「……いえ、やめておきます」
     その笑い方があまりにも怖かったので、晴奈は口をつぐんだ。

     ちなみに良太は柊を見つめたまま、放心していた。よほど柊の肌着姿が強烈だったらしい。

    蒼天剣・逢妖録 1

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、36話目。妖怪話と、現代っ子の反応。1. 双月暦512年、暮れ。 央南中部ではある「化物」のうわさが広まっていた。姿は白い大狐で人語を解し、魔術を操り、人里離れた人家や旅人を狙うと言うのだ。「へぇ」 柊が手紙を読み終わり、驚いたような声を漏らした。「晴奈、良太。ちょっとこれ、見てみて」「はい、何でしょうか?」 精神修練の一環として、共に写本をしていた晴奈たちは、師匠の差し出す手紙を手に取り...

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    晴奈の話、37話目。
    三人旅。

    2.
     ともかく柊は友人からの願いを受け、手伝いのために晴奈を、そして後学のために良太を連れ、友人のいる央南中部の村、英岡(えいこう)を訪ねた。
    「やあ、良く来てくれたな雪乃」
     街に着くなり、あごひげを生やした道着姿の、短耳の男が出迎える。道着の家紋とたすきのかけ方からして、確かに同門であるらしい。
    「久しぶりね、謙」
     謙と呼ばれた男は晴奈たちを見て、軽く会釈した。
    「君たちが雪乃のお弟子さんかい? 俺は樫原謙と言う者だ。雪乃とは10年以上前に、一緒に稽古していた」
     晴奈はつられて挨拶を返す。
    「黄晴奈です。お初にお目にかかります、樫原殿」
    「ほう、今どき珍しい、堅い挨拶だな。よろしくお願い申す、黄殿、と」
     良太も晴奈に続き、挨拶をする。
    「桐村良太と言います。始めまして、樫原さん」
    「よろしく、桐村くん。……はは、やっぱり堅っ苦しいのはかなわん。黄くんも楽にしてくれていいからな」
    「さてと、謙。挨拶も済んだことだし、そろそろ例のこと、説明してもらっていい?」
     柊に問われた謙は「おう」と応え、街の方に向かって歩き出す。
    「ま、立ち話もなんだから。俺の家で話そう。飯も出すぜ」

     立ち話も、と言った割には、謙は家までの道中、しゃべり倒した。よほど旧友に会ったのが嬉しかったのだろう。
    「しっかし、雪乃は変わんないな。やっぱり、エルフだからかな」
    「ふふ、そうね。謙はどうなの? ヒゲが生えてるくらいで、見た目はそんなに変わってないけれど」
    「いや、やっぱり34ともなるとどこかしら、おじさん臭くなっちまうみたいだな。嫁さんにもよく、からかわれてるよ」
    「ああ、そう言えば結婚したのよね。奥さん、元気なの?」
     謙は嬉しそうに声をあげる。
    「おお、元気元気。もう4年経つけど、いまだに熱々だよ」
    「あら、のろけちゃって」
     柊は口に手を添え、クスクスと笑う。
    「雪乃はどうなんだ? そろそろ、いい相手はできたか?」
    「ぅへ?」
     謙に尋ねられた柊から、妙な声が出る。
    「はは、まだいないみたいだな。っつーか、オクテなところ、まだ治ってないんだな」
    「い、いいじゃない、わたしのことは」
     柊は顔を赤らめ、パタパタと手を振ってごまかした。
    「あ、そこを右だ」
     謙が指し示した方向に、小ぢんまりとした家が立っている。
    「あ、嫁さんに雪乃たちのこと、言ってくるから。ちょっと待っててくれ」
     謙は一足先に家へ入っていった。晴奈たち三人はその間、謙について話す。
    「大分、気さくな方ですね」
    「ええ、とっても話しやすい人よ。腕も立つし、塞では人気者だったわ」
    「そうなんですか……」
     なぜか、それを聞いた良太の顔が曇る。
    「やっぱり、その、先生も強い方を好まれますか?」
    「え? うーん、まあ、どっちかって言えば、だけど。何でそんなことを?」
    「あ、いえ」
     そうこうするうちに謙が、「狐」の女性を伴って戻ってきた。
    「待たせたな、みんな。彼女が俺の嫁さんだ」
     紹介された狐獣人の女性は、柊たちにぺこりと頭を下げた。
    「はじめまして、棗(なつめ)と申します。主人がお世話になっております」
     こんな田舎には多少場違いにも思える恭しい挨拶に、柊たちも同じように頭を下げ、挨拶を返す。お互いの紹介が済んだところで、謙がその場を締めた。
    「じゃ、そろそろ家で話をしよう。飯は、その後で」

     家に入ってすぐ、棗が台所の方に向かう。
    「ご飯の用意をいたしますから、その間……」
    「おう。見とくわ」
     謙がひらひらと手を振り、何かを了承する。謙は柊たちを居間に案内した後、「ちょっと待っててくれ」と言ってどこかに消えた。
    「見とく、って何でしょう?」
     晴奈の問いに、柊はクス、と笑う。
    「そりゃ新婚さんで、奥さんが忙しい間見るものって言ったら」
    「あ、なるほど」
     そこで晴奈も良太も、答えに行き当たる。
     間も無く柊たちの予想通りに、謙が「狐」の幼児を抱きかかえながら戻ってきた。
    「いや、すまんすまん。待たせたな」
    「いえいえ。……わあ、可愛い」
     柊は子供の顔を覗き込み、その頭を優しく撫でる。自分の子をほめられた謙は、気恥ずかしそうに笑う。
    「へへ……」
    「『狐』だけど、顔は謙に似てるわね。名前は?」
    「桃って言うんだ。ほら、耳と尻尾がちょっと桃色だろ?」
    「なるほどねー」



     余談になるが、この世界にはいわゆる「ハーフ」が存在しない。
     例えば長耳と短耳が結婚し、その子供が生まれたとしても、その子供の耳が足して2で割った大きさ、と言うことは無い。
     顔つきや体格など若干の遺伝は生じるが、その子供は短耳か、長耳のどちらかにしかならない。これは他の種族に対しても、同様である。
     短耳の謙と狐獣人の棗の子である桃も、顔立ちは父親似だが、耳や尻尾と言った身体的特徴は、母親のそれである。

    蒼天剣・逢妖録 2

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、37話目。三人旅。2. ともかく柊は友人からの願いを受け、手伝いのために晴奈を、そして後学のために良太を連れ、友人のいる央南中部の村、英岡(えいこう)を訪ねた。「やあ、良く来てくれたな雪乃」 街に着くなり、あごひげを生やした道着姿の、短耳の男が出迎える。道着の家紋とたすきのかけ方からして、確かに同門であるらしい。「久しぶりね、謙」 謙と呼ばれた男は晴奈たちを見て、軽く会釈した。「君たちが雪...

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    晴奈の話、38話目。
    雪中の妖狐。

    3.
    「あ、そうそう。和んでる場合じゃなかったな」
     謙は居間に腰を下ろし、ようやく本題に入った。
    「手紙にも書いていた妖怪なんだが、最近は英岡の東側、天神川下流でよく目撃されているらしい。これまでの目撃例を辿ると、どうやら天玄からこっちに南下しているようだ」
    「天玄から? あんな大都会で、妖怪が出たって言うの?」
     前述の柊の言葉を借りれば、人間が多く暮らす場所では妖怪や化物は現れにくいはずなのだが、謙はうなずいて返す。
    「ああ、その時も大騒ぎになったんだ。もっとも、うわさがうわさを呼んで、妖怪が出たこと自体がうやむやになったが。
     ともかく、その妖怪はこっちに向かって動いている。すでに旅人や郊外の家屋など、被害もチラホラ出ていると言うし、この街を警護している俺としては早急に捕まえるか、殺すかしたいところなんだ」
    「なるほど。それで、次に現れる場所とかはもう、目星が付いてるの?」
     謙はもう一度うなずき、宙を指した手を下ろしていく。
    「ああ。俺たちの予測では、また天神川の、以前より南の地点に現れると読んでいる。それも、一両日中に。
     だから人をあちこちに配置して、天神川周辺をまんべんなく見張るつもりなんだ」

     晴奈たちは到着したその日から、妖怪討伐に参加することとなった。
     夕暮れになってから天神川のほとりにたむろしていた討伐隊に合流し、謙と柊、晴奈、良太の4人で捜索することになった。
    「魔術まで使うと言うからな。気を付けろよ、みんな」
    「ええ」
    「分かりました」
     対人のみとは言え、柊と晴奈は戦い慣れしているせいもあって、割と落ち着いている。
    「りょ、了解です」
     しかしそんな経験など無い良太は、怯えがちに晴奈の袖をつかんでいる。
    「良太。動きにくい」
    「す、すみません」
     謝りながらも、袖から手は離さない。その様子を見ていた謙はぷっ、と吹いた。
    「はは、しっかり者の姉と気弱な弟、って感じだな」
    「ふふ、そうね」
     晴奈は片袖をつかまれたまま、左手をパタパタ振る。
    「勘弁して下さいよ……」
     その様子を温かい目で見ていた謙は、深々とうなずいている。
    「いいなぁ、そう言うのも。次は男の子もいいなぁ」
    「謙、本当におじさん臭いわよ、クスクス……」
    「へへ、そりゃおじさんだしな。お前だって、もう30じゃなかったか?」
     柊はすまし顔で、謙に返す。
    「エルフは長生きなの。あと20年は若者よ、うふふ」
    「はは、そりゃうらやましい」
     二人の笑い声で、良太も緊張がほぐれてきたようだ。晴奈から手を離し、話に加わる。
    「本当に、先生は綺麗な方ですよ」
    「え?」「へ?」
     突然、会話が止まる。晴奈は心の中で呆れている。
    (こいつ、空気読んでないな。突拍子が無いにもほどがある)
    「ああ、どうも、ありがとね」
     とりあえず、柊は礼を言う。謙はニヤニヤしている。良太もとりあえず笑ってはいるが、空気がおかしくなったことに、ここでようやく気付いたようだ。
     と――遠くから、誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。

     叫び声を聞きつけた4人が現場に向かうと、辺りは既に修羅場と化していた。
    「な」
    「何だこりゃ?」
    「凍って、……る」
    「さっ、寒い……」
     年の暮れが近いとは言え、まだ雪の積もらない時期である。ところがその一帯は氷に覆われ、凍り付いているのだ。
     辺りにはチラホラ人が倒れており、その体には霜が分厚く降りている。
    「大変、助けなきゃ!」
    「ええ!」
    「待て!」
     凍りついた者たちを助け出そうとする柊と良太を、謙が止める。
    「……いる。すぐ、近くに」
     晴奈もその気配を感じ取り、刀を抜いて構える。良太はまだ、うろたえたままだ。
    「え、え?」
    「良太、わたしの後ろにいなさい。……来るわ」
     柊がそう言った瞬間、木々を裂いて巨大な狐が飛び込んできた。
     全体的に白く、耳と尻尾の先や手足がわずかに桃色を帯びた、体長2メートルはあろうかと言う大狐だった。
    「ひゃああっ!?」
     叫ぶ良太を気に留めず、晴奈が斬り込む。
    「そらッ!」
    「ギャアアッ!」
     晴奈の刀を避け、大狐はボソボソと何かを「唱えた」。
    「……『アイ、ス……、ジャ、ベリ……、ン』!」
    「な……!?」
     柊が驚き、叫ぶ。晴奈は着地直後で、動けない。大狐の背中辺りに氷の槍が形成され、晴奈に向かって飛んできた。
     が、槍は晴奈から大きくはずれ、後ろの木に当たる。
    「……え?」
     てっきり飛んでくると思い、身構えていた晴奈は呆気に取られる。
    「……グルルル」
    「また来るぞ!」
     今度は大狐の周囲に、拳大の雹が十数個現れ、四方に飛び散る。
    「うわああ!?」「動かないで、良太!」
     今度も、命中精度は低い。ほとんど四人に向かうこと無く、地面や木々にぶつかり、弾けていく。
    「何で……?」
    「使えはするが、当たるまでは行かないらしい。っと、またかよ!?」
     大狐は謙に向き直り、また氷の槍を発射した。
    「チッ……! 『火射』!」
     いち早く反応した謙が焔流の炎でその槍を溶かし、消滅させる。
    「グア!」
     大狐は舌打ちをするように吠え、ぴょんと跳んでその場から消えた。
    「な、何なの……!? 今の、魔術だったわ、よね? まさか本当に、魔術を使うなんて」
    「まあ、あの通りだ。使うんだ、本当に。
     ……っと、こんなこと話してる場合じゃない! まだ助かるかも知れない」
     謙は刀をしまい、周りに倒れている者の救助に向かった。

    蒼天剣・逢妖録 3

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、38話目。雪中の妖狐。3.「あ、そうそう。和んでる場合じゃなかったな」 謙は居間に腰を下ろし、ようやく本題に入った。「手紙にも書いていた妖怪なんだが、最近は英岡の東側、天神川下流でよく目撃されているらしい。これまでの目撃例を辿ると、どうやら天玄からこっちに南下しているようだ」「天玄から? あんな大都会で、妖怪が出たって言うの?」 前述の柊の言葉を借りれば、人間が多く暮らす場所では妖怪や化物...

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    晴奈の話、第39話。
    梶原夫婦の事情と、柊一門の寝相。

    4.
     結局あの大狐は捕まえられず、また、凍傷によるケガ人こそ出たものの、凍死した者はいなかった。
     双方大きな被害の出ないまま、今回の討伐作戦は失敗に終わった。

     帰宅した四人を、棗は簡単な食事と熱いお茶で労ってくれた。
    「皆さん、お疲れ様でした」
     差し出された茶を受け取りつつ、謙は壁の時計を見て、呆れた声を上げる。
    「うわ、よく見りゃもう朝方じゃねえか。すまんな棗、こんな時刻まで」
    「いえいえ、ご無事で何よりです」
     二人の様子を見ていた良太はなぜか、うらやましそうに見ている。
    「いいですねぇ、何か」
    「うん?」
    「理想の夫婦、って感じです」
    「はは、そうか?」
     謙は嬉しそうに笑い、お茶を一息に飲む。
    「まあ、俺にはできた嫁さんだよ、本当に」
    「まあ、あなたったら」
     棗は口元に手を当て、コロコロと笑った。
    「そう言えば、二人の馴れ初めとか聞いてなかったわね。どうやって出会ったの?」
    「ん? んー……」
     ところが柊に質問された途端、二人は顔を見合わせて黙り込んでしまった。
    「あ、あら? 何か、いけなかったかしら」
    「あー、いや。悪いってわけじゃないんだが。うーん」
     謙はもう一度、棗を見る。棗は少し困ったような顔を見せたが、口から手を離して説明してくれた。
    「……まあ、主人と懇意にして下さっている方ですから、秘密にしていただければ。
     元々、わたくしは天玄のある名家の出だったのですが、少しばかり、家といさかいがありまして。そこで家を離れ、この街まで来たところで、謙と出会ったのです」
     そこで謙が話を切り上げ、休むよう促した。
    「まあ、巷じゃ良くある恋愛話、さ。……さあ、もう寝よう」

    「ビックリしましたね。まさかここに来て、あんな話が待ってるなんて」
     寝床を用意され、早速横になったところで、良太が口を開く。
    「んあ?」
     早くも半分眠りかかっていた晴奈は、それにぼんやりと応える。
    「そうだな、うん。しかし、幸せそうでいいじゃないか」
    「そうですね、本当。……はあ」
    「どうした?」
     急にため息をついた良太に、晴奈が声をかける。柊からは反応が無いので、既に眠っているらしい。
    「僕、最近よく考えるんです。『幸せな家庭』って、あるのかなって」
    「はあ?」
    「おじい様と母はケンカの末、離れ離れになりました。そして母と父は、……亡くなって。僕は将来、樫原さんみたいに幸せな家庭が作れるのかなって」
     晴奈は眠気が押し寄せる頭で、のたのたと答える。
    「それは、まあ、難しいと思うぞ。お前は、仇討ちをする、だろう?」
    「……はい」
    「そんな危険なことを、しなければならん、そんな人生に、女子供を巻き込む、など」
    「そうです、よね」
     しんみりとした声が返ってきたが、既に晴奈は眠っていた。



    「うう、ん」
     誰かがうめいている声で、晴奈ははっと目を覚ました。
    (あ、いかん。良太の相談に乗っていたのに)
    「すまない、りょ……」「りょう、た」
     晴奈が良太に声をかけようとした矢先、その反対側――すなわち、柊の方から声が聞こえてきた。
    (おっと、起こしたか?)
    「りょうたぁ、ううん……」
     突然、晴奈は尻尾をつかまれた。
    「ひゃん!?」
     妙な声が出てしまう。どうやら、柊が寝ぼけて自分の尻尾を触っているらしい。
    「し、師匠、あの」「いかないでぇ」「にゃうっ!?」
     妙に切なげな声で、柊が尻尾を引っ張る。
    「あの、本当にお止めください」「だめぇ、いかないでぇ」「にゃーッ!?」
     これでもかと強く引っ張られ、晴奈は思わず叫んだ。



    「ふあ、ぁ……」
     朝になり、自然に良太の目が覚めた。のそ、と起き上がり、何気なく晴奈たちを見た。
    「……ちょっ」
     良太の顔が真っ赤になる。柊が晴奈を羽交い絞めにして、嬉しそうな顔で寝息を立てていたのだ。一方の晴奈は、泣きそうな顔で眠っていた。
    「……起こした方がいいかなぁ、これ」

    「ごめんなさいね、晴奈」
    「……いえ」
     部屋の隅で尻尾の付け根を押さえてうずくまる晴奈に、柊が謝っていた。
    (あれほど痛いとは、思いもよらなかった)
    「わたし、変な夢を見ちゃって」
    「どんな夢ですか?」
     顔を洗い終えた良太が問いかけると、柊は顔を赤くしてバタバタと手を振った。
    「いいのっ、何でも無いから」
    「はあ……」
     応えてはくれなかったが、晴奈には粗方の予想が付いていた。
    (散々寝言で、『良太』だの『行かないで』だの言って私の尻尾を引っ張り倒していたから、恐らく良太が崖を踏み外して、命綱を師匠が握っていたとか、そんな夢だろうな。
     ……助けておけよ、師匠の夢の中の私め)

    蒼天剣・逢妖録 4

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第39話。梶原夫婦の事情と、柊一門の寝相。4. 結局あの大狐は捕まえられず、また、凍傷によるケガ人こそ出たものの、凍死した者はいなかった。 双方大きな被害の出ないまま、今回の討伐作戦は失敗に終わった。 帰宅した四人を、棗は簡単な食事と熱いお茶で労ってくれた。「皆さん、お疲れ様でした」 差し出された茶を受け取りつつ、謙は壁の時計を見て、呆れた声を上げる。「うわ、よく見りゃもう朝方じゃねえか。...

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    晴奈の話、第40話。
    師匠の逆鱗。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     正午少し前に、晴奈たちは自警団の会議に参加した。昨夜取り逃がした大狐を、もう一度捕まえようかどうか話し合っているのである。
    「思ったよりてこずった、と言うか」
    「難しいな、捕まえるのは」
    「あの動きに加え、魔術まで使われては……」
     昨夜の失敗で、自警団内の空気は重苦しく淀んでいる。
    「しかし、決して倒せないと言うわけではない。現に、あいつの術は俺が破っている」
     団長である謙は場を盛り上げようとするが、団員の顔に希望の色が浮かんでこない。
    「でも、我々では歯が立ちません」
    「団長以外、ほぼ全滅でしたし」
     一向に場の沸き立たないまま、消極的な案が出される。
    「このまま、放っておくわけには行きませんか?」
    「何だと?」
    「あの狐はどんどん南下しているというじゃないですか。もしかしたら、このまま英岡から離れてくれるかも」
     それを聞いた謙は「ううむ……」とうなり、腕を組む。
    (確かに、一理あると言えば、あるのだが)
     晴奈もその理屈に納得しないではないのだが、どうも引っかかる。
    「しかしですね」
     柊も同様だったらしく、手を挙げた。
    「これまで南下したから、これからもずっと南へ行く、……とは限らないでしょう。
     英岡自体かなり南にありますから、狐の南下がここで止まる可能性は少なくないと思います。ここで村の方には絶対に来ない、とも断言できないですし。
     もう一度捜索に当たり、きっちりと始末を付けておいた方が、後顧の憂いを断てるのでは」
     柊の意見に、各々考え込む様子を見せる。長い沈黙が流れた後、謙が採決を取った。
    「……どちらにしても、このままうなるだけでは埒が明かない。どちらかに決めよう。
     このまま放っておいた方がいい、と言う者」
     こちらの案には10人の手が挙がった。
    「では、もう一度捜索した方がいい、と言う者」
     柊が真っ先に手を挙げる。それに続いて、晴奈と良太が手を挙げる。が、それに続いたのは5人――合計で、8人だった。
    「……決まりだな。
     では、一応の警戒だけはしておくが、こちらから討伐には出向かない、と言うことにしよう」
     謙も不安に思っていたらしく、折衷案を出す形で場をまとめた。



     会議が終わり、晴奈たちはまた樫原家に戻ってきた。
    「おかえりなさい、皆さん」
     洗濯の途中だった棗がにこやかに出迎えてくれる。謙は会議で決まったことを伝え、もう2、3日、夜の巡回をすることを伝えた。
    「そうですか……。でも、ここしばらく、あまり休んでいらっしゃらないのでしょう?」
    「まあ、鍛えてるから心配はいらない。終わったらぐっすり寝るさ」
    「そう……。無理なさらないでくださいね」
     それを見ていた柊と晴奈はほぼ同時に、樫原夫妻に声をかけた。
    「あの、良かったら」「ん?」
     晴奈が引き、柊が提案した。
    「わたしと晴奈で今日の巡回、交代するわよ」
    「え? いや、しかしお客にそんなことは……」
     申し訳無さそうな顔をする謙に人差し指を立て、柊が続ける。
    「水臭いわよ、お客だなんて。一日くらい、家族みんなでゆっくり休んだ方がいいわよ」
    「……そうだな。じゃあ、柊一門のご好意に甘えるとするかな」
     柊はにっこり笑って承諾した。
    「ええ、任せてちょうだい。晴奈と良太がいれば、全然問題無いわ」
     名前を呼ばれ、良太が目を丸くする。
    「え? 僕……」「黙れ。空気読め」「……はい」
     良太が口を開きかけたが、晴奈が小声で黙らせた。

     夕方からの巡回に備え、晴奈たちは寝室に戻った。
    「ゴメンね、良太」
    「いえ、そんな……」
     いつの間にか良太まで参加することにしてしまい、柊が手を合わせて謝っていた。
    「しかし良太、仮に私と師匠だけで行ったらお前、多分困るぞ」
    「え? ……あ、ですよね。家族水入らず、ですもんね」
     良太は頭をポリポリとかいて、柊に謝り返した。
    「すみません、僕の考えが至らなくて」
    「いいのよ、謝らなくて。元々、わたしが勝手に言っちゃったんだから。でも、二人とも頼りにしてるから、今夜はよろしくお願いね」
     頼りにしていると言われ、良太の顔が一気にほころぶ。
    「あ……、は、はいっ! 精一杯、頑張らせていただきますっ!」
    「うふふ、ありがとね」
     晴奈は隣の部屋にいる樫原夫妻の声に耳を傾け、軽くため息をつく。
    「ふむ……。本当に、幸せそうだ」
    「ん?」
    「いや……。私の家族は、ある事件で妹がさらわれたからな。それに私自身、親に反発して家を出た口だし、お前の言っていた『幸せな家庭』って奴に、私も少なからず憧れてはいるんだ」
    「そうだったんですか……。姉さんのところも、大変なんですね。
     ……あ、そう言えば」
     良太は何かに気付き、柊の方を見た。
    「先生って、ずっと紅蓮塞にいたんですよね?」
    「ええ、そうよ」
    「いつから塞にいらっしゃるんですか? ご家族とかは?」
     良太からそう質問された瞬間、ほんの一瞬だけ、柊の顔が曇った。
    「……さあ? 物心付いた時からいたもの。覚えてないわ」
     答えた柊の顔は平静を装っているようにも見えたが、明らかに不快そうな目をしていた。
    「あ……。何か、その、えっと。……すみません」
     良太は慌てて謝ったが、柊の機嫌は直らない。
    「いいのよ、別に。……散歩してくる」
     柊は顔を背け、そのまま部屋を出て行ってしまった。
    「僕、変なこと言っちゃいましたか? ああぁー……」
     良太は頭を抱えてへこんでいる。
    「まあ、虫の居所が悪かったのだろう。気にするな、良太」
     晴奈は良太の肩を叩きながら慰めつつ、柊の態度に疑問を抱いていた。
    (あれほど不快感をあらわにされるとは。一体、何があったのだろう?)

    蒼天剣・逢妖録 5

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第40話。師匠の逆鱗。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 正午少し前に、晴奈たちは自警団の会議に参加した。昨夜取り逃がした大狐を、もう一度捕まえようかどうか話し合っているのである。「思ったよりてこずった、と言うか」「難しいな、捕まえるのは」「あの動きに加え、魔術まで使われては……」 昨夜の失敗で、自警団内の空気は重苦しく淀んでいる。「しかし、決して倒せないと言うわけではない。現に、...

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    晴奈の話、第41話。
    きょうだい。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     散歩から戻ってきた柊は、すっかりいつも通りの優しげな顔に戻っていた。
    「お待たせ、二人とも。さあ、巡回に行きましょ」
     その顔を見て、晴奈も良太もほっとした。
    (良かった、機嫌が戻ったようだ。
     まったく、普段怒らぬこの方にあんな態度を見せられると、ヒヤヒヤしてしまうな)



     巡回が始まる頃には、短い日差しで若干温くなった空気も、もう既に冷えかかっていた。夕べよりも空気が乾燥し、より寒さが増している。
    「はぁ、寒い」
     良太が鼻まで巻いた襟巻き越しに、白い息を吹く。
    「これも修行みたいなもんだ。我慢しろ」
     そう言う晴奈も良太同様、口と鼻を隠すように襟巻きをしている。
    「姉さんも寒いんじゃないですか?」
    「何を根拠に」
    「ほら、動物の猫だって寒いの、苦手じゃないですか。猫獣人なら、やっぱり」
    「馬鹿なことを。私は猫獣人であって猫ではない。お前だって『裸の耳なんて豚みたいですね』などと言われたら、いい気はしないだろう?」
    「そりゃまあ」
    「大体剣士ともあろうものが少々の暑さ寒さでガタガタと文句を言うな。心頭滅却すれば火もまた涼しと言うだろう」
    「そんなこと言っても、姉さんの耳、プルプルしてますよ」
     晴奈は掌でぺた、と猫耳を覆う。
    「うるさい。……ほら、巡回に集中しろ」
     会話をずっと聞いていた柊は、たまらず笑い出した。
    「……ふ、ふふ、あははっ。本当に二人とも、姉弟みたいね」
    「また、そんなこと……。勘弁してくださいよ、師匠」
     晴奈もつられて笑う。ところが、柊はひとしきり笑った後、唐突に黙り込んでしまった。
    「……姉弟ねぇ。いたのかしら、わたしに」
    「え?」
     柊が何のことを言っているのか分からず、晴奈が聞き返そうとしたその時だった。
    「……晴奈、良太! 何か、感じない?」
     柊の顔が、険しくなった。

     柊に言われて、良太は初めてその気配に気付いた。
     空気が、異様に冷え切っているのだ。既に日は暮れているとは言え、落ちてからたったの数十分で、ここまで気温は下がらない。
     それに何より、獣の臭いが漂ってきている。
    「これ……は」
    「間違い無い、奴だ。良太、下がっていろ」
    「やっぱりまだ、この辺りにいたのね」
     晴奈も柊も静かに刀を抜き、良太を挟むように身構える。くおおん、と言う甲高い叫び声が、辺りにこだまする。
    「う、わ……! 耳が、痛い!」
     良太は叫びに嫌悪感を覚え、耳をふさぐ。晴奈と柊は、身構えたまま動かない。
    「ど、どこから?」
     良太はきょろきょろと、辺りを見回す。だが、昨夜の大狐の姿は、どこにも見当たらない。
     再び、くあああ、と言う叫び声が響き渡る。
    「ひ、い……」
     良太の頭が、締め付けられるように痛む。
    (よ、良く平気でいられるな、二人とも)
     耳を押さえながら、良太は周りの二人に感心していた。
     だがよく見てみると、二人とも脚がガクガクと痙攣している。後ろを向いたままの頭が、異様に震えている。そして、耳からはするる、と血が――。
    「え……!?」
     晴奈と柊は刀を握りしめたまま、二人同時に膝を着いてしまった。
    「『ショックビート』……、これ、で……、うご、け……、ない」
     真正面からのそのそと、大狐が歩いてきた。
    「き、みは、とっさに……、みみを、ふさいだか。にど……、も、かけた……、のに。できれば……、てあら、な、こと……、は、したく、な、かった、……のだ、が」
     狐はパクパクと、口を動かしている。それに合わせて、狐の方向から人間のような声が聞こえてくる。紛れも無く、この大狐がしゃべっているのだ。
    「ひ……」
     良太は慌てて刀を構えるが、恐怖で脚が震え、動けない。
    「うごか……、ないで、くれ。あまり……、さわ、ぎ、に……、した、く、ない」
    「た、助けて……」
     良太は怯えつつも、刀を正眼に構えて牽制しようとする。ところが、ここで大狐が妙なことを言い始めた。
    「たす、けてほしい、のは、こ、……っちの、ほう」

    蒼天剣・逢妖録 6

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第41話。きょうだい。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -6. 散歩から戻ってきた柊は、すっかりいつも通りの優しげな顔に戻っていた。「お待たせ、二人とも。さあ、巡回に行きましょ」 その顔を見て、晴奈も良太もほっとした。(良かった、機嫌が戻ったようだ。 まったく、普段怒らぬこの方にあんな態度を見せられると、ヒヤヒヤしてしまうな) 巡回が始まる頃には、短い日差しで若干温くなった空気も、もう...

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    晴奈の話、第42話。
    妖狐との再戦。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    7.
    「……え?」
     思いもよらない大狐の言葉に、良太はぽかんとする。
    「た、助けてほしい? って?」
     良太の問いに答える代わりに、大狐は自分の名を名乗った。
    「しょ、……うせい、あま、……あ、ら……、い、ち……と、もう……、す」
    「あまあら、いち?」
    「ああ、はら……、ちい」
    「ああはら、ちい? ……あまはら、いちい? アマハラ・イチイさん、ですか?」
     大狐――イチイは大儀そうに、あごを下ろす。どうやら、うなずいているようだ。
    「いか、に……も。しょう、せい、あに……えに、たばか、られ、……のよう、な、すがたに」
    「え、え……?」
     イチイの声には半ば獣の吠える声が混じり、正確には聞き取れない。だが、何となくは分かってきた。
    「てん、……えん、をぬけ、だし、ここ、ま、で……、にげて、きた、のだが。この、ような、すが、……たになって、は、だれ、……も、まとも、に……、せっして、くれな、……い」
     良太は混乱しつつも、イチイの話を整理する。
    (アマハライチイさん、って言う、……人で。あにえ、って人にだまされて、こんな姿になって、てんえん……、天玄かな? を抜け出して、ここまで逃げてきた? でも、この姿じゃまともに取り合ってくれる人なんかいないから、……それが、妖怪の正体?)
    「あ、あの、イチイさん」
    「なん、だ」
     良太は恐る恐る、イチイに近付く。
    「あの、街の人を襲ったって、聞いたんですが」
    「そ、れは、……おそって、きた、から。……い、いや、しょうせい、もわる、……い、のだ。と、きおり、……じ、じせいが、きか……、なく、な、なる。
     あ、たま、が……、け、け……けも、の、に……」
     イチイのしゃべり方が、次第におかしくなってくる。獣の咆哮が混じり、非常に苦しそうにうめきだした。
    「う、うぐ、……はなれ、ろ、しょう、ねん。しょ、しょう、せい、もう、じせいが……、が、がっ、ガアッ、グアアア!」
     突如、イチイは吠え出した。どうやら、時折自制が利かなくなるらしい。
     良太は慌てて、倒れたままの晴奈たちを起こそうとした。
    「先生! 姉さん! 襲ってきます! 早く……」
     晴奈の襟巻きを引っ張ろうと、手をかけたその時。
    「……何だって? 少し黙ってくれ、良太」
     うるさそうな声を出しながら、晴奈が顔を上げた。
    「姉さん! 大丈夫ですか!?」
    「うるさい。耳が痛い。……ゴボゴボ言ってるんだ」
     晴奈は良太の手をつかんで、どうにか立ち上がる。
    「あ、あの、大丈夫ですか、姉さん?」
     良太が声をかけるが、晴奈は応じず、ただ良太の顔をじっと見ている。
     と、彼女は唐突に顔を傾け、耳をぺちぺちと叩く。すると真っ赤な血がボタボタと、もう片方の耳から垂れてきた。
    「ひゃっ!?」
    「あの叫び声で、鼓膜がおかしくなったようだ。お前が何を言っているか、全然分からぬ」
     今度は反対側に首を傾ける。同じように耳にたまった血を抜き、ようやく地面に落ちていた刀を手に取る。
    「うー、吐きそうだ。何故、こんなに地面が揺れているのだ」
     その言葉と、ユラユラと体を揺らす仕草から、良太は昔読んだ医学の本に、似たような症状が書かれていたことを思い出した。
    (あの術、多分音で耳を潰すんだ。いや、耳だけじゃなく、耳の奥――脳まで揺さぶってるんだろう。多分姉さん、平衡感覚がおかしくなってる。
     そんな状態で、戦えるのか……!?)

     良太の心配は当たっていた。
     晴奈は刀を構えてはみたものの、その途端に、体が右に傾いていく。
    「お、っと」「……!」
     とっさに良太が晴奈の肩をつかんでくる。放してもらおうと良太の方に顔を向けるが、焦点が定まらず、良太の顔がブレて見える。
    「……!」
    「何だって? ……いいや。何か心配はしてくれてそうな顔だ。
     問題無い、大丈夫だ良太。いいから手、放せ」
     晴奈は身をよじって良太の手をはがし、もう一度構え直す。
    「はー、あー、すー、はー、すー、はー」
     晴奈は深呼吸をして、何とか平衡感覚を戻そうとするが、地面は一向に傾いたままだ。
    (参ったな、急坂だ)
     右脚にこれでもかと力を入れ、無理矢理に踏ん張る。
     この間、イチイは何とか頑張ってくれていたようだが、どうやら限界に達したらしく、晴奈に向かって口を大きく拡げ、牙を向いてきた。

    蒼天剣・逢妖録 7

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第42話。妖狐との再戦。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -7.「……え?」 思いもよらない大狐の言葉に、良太はぽかんとする。「た、助けてほしい? って?」 良太の問いに答える代わりに、大狐は自分の名を名乗った。「しょ、……うせい、あま、……あ、ら……、い、ち……と、もう……、す」「あまあら、いち?」「ああ、はら……、ちい」「ああはら、ちい? ……あまはら、いちい? アマハラ・イチイさん、ですか?」 ...

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    晴奈の話、第43話。
    見えない敵の片鱗。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    8.
    「来い、白狐」
     体を傾けたまま、晴奈が刀の先を向けて挑発する。その挑発にイチイが乗り、叫びながら飛び込んできた。
    「『火射』ッ!」
     晴奈の刀から炎が走る。凍てつく空気を切り裂き、燃える剣閃がイチイへと飛んで行く。
     しかし、どうやら完全な獣になっても魔術は使えるらしく、イチイのすぐ手前に透明な壁が現れ、そこで炎が阻まれ四散した。
    「あ、姉さん、あの」
     良太はイチイが殺されないよう晴奈に声をかけるが、まだ鼓膜の治らない晴奈が応えるはずも無い。
    「おおおおッ! 『火閃』!」
     晴奈はイチイの目の前へ飛び込み、「壁」に向かって炎の乗った刀を振り下ろす。
    「グアッ!?」
     振り下ろした瞬間、炎は火花に形を変え、バチバチと音を立てて飛び散る。炎が散ると同時に、「壁」に幾筋もの亀裂が入り、消滅した。
    「はー、はー、はーっ、はーっ、ぜぇ、はああ……」
     だが、その一撃で晴奈は力尽きたらしい。ぜぇぜぇと荒い息をしていたが、やがて膝から崩れ、その場にうずくまってしまった。
    「くそ、ここまで、か……ッ」
     晴奈の手から、刀が落ちる。晴奈自身もその場に倒れ、動かなくなった。
    「あ、姉さん!」
    「落ち着いて、良太」
     と、いつの間にか柊も回復したらしく、良太の後ろに立っていた。
    「相討ちよ」
    「え?」
     おたおたしながらも、良太は晴奈とイチイの様子を伺う。
     依然として、晴奈は伸びたままだったが、一方のイチイも晴奈の一撃で額を割られており、仰向けに倒れていた。



    「姉さん、聞こえますか?」
    「ああ、聞こえている」
     柊の治療術で、晴奈の聴力はどうにか元に戻った。だが脳への衝撃はすぐに治るものでは無く、近くの小屋まで運んでもらい、横になっていた。
    「んで、その狐、何て名前だったって?」
     イチイも倒れている間に鎖と荒縄で縛り、今は檻に入れられている。その間に謙たちを呼び、イチイが目を覚まし次第、彼から事の次第を説明してもらおうと、良太が提案したのだ。
    「えっと、アマハライチイさんです」
     良太から名前を聞き、謙の顔が険しくなる。
    「アマハラ……、天原、か?」
    「多分、そうかも……」
     良太の顔も、ひどく不安そうだ。周りの自警団員たちも、神妙な顔を並べている。
    「天原って、まさか、あの天原か?」
    「まさか。名士だぞ、天原家は」
    「いや、しかし。うわさに聞けば、今の当主の桂氏は……」
    「言うなって。どこに奴の間者がいるやら分からん」
     と、晴奈は小声で良太に尋ねる。
    「良太、天原って何だ?」
     対する良太も、小声で説明する。
    「えっと、玄州を治めてる『狐』の方で、州都の天玄に住まわれてるんです。
     何でも今の当主は、何て言うか、そのー、……変わり者だとか」
    「ふむ」
     と、その時。檻の方からガタ、と音が聞こえた。
    「ガッ、グアッ、ギャッ」
     イチイが檻を揺らし、しきりに吠えている。どうやら、今は獣の状態らしい。
    「イチイさん? あの、イチイさーん」
     良太が檻に近寄り、イチイに声をかけてみる。
    「ギャウッ、グウウ」
     だが、一向に人間の言葉をしゃべる気配が無い。団員たちは、揃って疑い深い表情を並べ、その様子を伺っている。
    「本当に、あれが人の言葉を……?」
    「どう聞いても、獣が吠えているとしか」
    「ガセじゃないのか?」
     一向に反応してもらえず、良太も段々と困った様子になる。
    「イチイさんー、あの、起きてくださいよー」
    「ギャッ、ギ……、ぎ、ぎ、き、つい」
     と、ようやく反応が返って来た。
    「しょう、ねん。なわを、といて……、もらえ、ないか?」
     団員たちがそれを聞き、ざわめき出す。
    「……今の聞いたか?」
    「あ、ああ。人の、言葉だ」
    「まさか、本当に?」
     良太は檻を開け、縄と鎖を解いてやった。イチイは一度深呼吸をして、周りにいる者たちを一瞥した。
    「あ、あ。ありが、とう、しょうねん。……だんだん、頭が、はっきりして、きた。
     ここは、どこだ? えーと、その」
    「あ、良太と言います。桐村良太。えっと、ここは天玄から南にある、英岡と言う街です」
    「そうか、ありがとう良太君。
     ……改めて、名乗らせていただこう。小生の名は、天原櫟。天玄の……」
     イチイが名乗ろうとした、その瞬間。
     小屋全体がグラリと揺れた。

    「な……」
     声を出す暇も無く、目の前が「斬られた」。
     まずは小屋の壁が、線を一本引いたかのように、ざっくりと割られる。
     続いて鋼鉄製の檻が、粘土のようにぐしゃりと引き千切られた。
     そして最後に、檻の中のモノ。
    「あ……」
     良太の前半身が、真っ赤に染まった。
     しかし良太には、ケガは無い。どこからも出血などしていない。
    「い……」
     晴奈も、柊も、そして謙たち団員も。
     何が起こったのか分からず、そして動けなかった。
    「イチイさん!? い、イチイさあああん!?」
     良太は力の限り叫んだが、それに答える声は無かった。



    「作戦終了しました」
    《ご苦労でした。まったく、あっちこっち逃げるから面倒だったでしょう?》
     小屋から離れた小さな丘に、顔を布で覆った、黒ずくめの女が立っていた。
    「いえ、それほどでも。……それと、もう一つご報告が」
    《何でしょう?》
    「従姉妹殿を見つけましたが、どう致しましょう?」
    《従姉妹? 僕の? 誰?》
    「棗様です」
    《ああ、そんなのいましたね。でも、まあ、今さら来られても相続問題とか、色々面倒です。とりあえず、放っておいてください》
    「分かりました。それでは帰投します」
     黒装束の女は、夕闇に溶けるように姿を消した。

    蒼天剣・逢妖録 8

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第43話。見えない敵の片鱗。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -8.「来い、白狐」 体を傾けたまま、晴奈が刀の先を向けて挑発する。その挑発にイチイが乗り、叫びながら飛び込んできた。「『火射』ッ!」 晴奈の刀から炎が走る。凍てつく空気を切り裂き、燃える剣閃がイチイへと飛んで行く。 しかし、どうやら完全な獣になっても魔術は使えるらしく、イチイのすぐ手前に透明な壁が現れ、そこで炎が阻まれ四散...

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    晴奈の話、第44話。
    三人旅の終わり。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    9.
     確かめるまでもなく、イチイは死んでいた。
     この惨状――何者かによる、凄絶な「死刑執行」に恐れをなした自警団員たちは、緘口令を敷いた。妖怪が出たこと自体は隠さなかったものの、この地で捕まえたこと、殺されたこと、そしてその正体について、一切口を閉ざすことにしたのである。
     この結末に、晴奈も良太も不満を感じてはいたが、どこからともなく攻撃を仕掛け、家屋をぶつ切りにするような者が相手では、手も足も出ない。いずれ何かの機に恵まれるよう、同様に口をつぐむしかなかった。
     そしてイチイの死体は、秘密裏に埋葬された。

     そのイチイの墓の前で、良太が泣いていた。
    「イチイさん……」
     ぐすぐすと鼻声で、ずっと彼を偲んでいた。
     と、そこへ誰かがやってくる。
    「あ……棗さん」
     棗は良太と同じように墓の前に座り、手を合わせた。
     そこで顔を上げ、不思議そうに尋ねてきた。
    「あの、何故泣いていらっしゃるのですか?」
    「え?」
     棗は手拭を差し出しながら、悲しそうな顔で尋ねる。
    「この櫟と言う方はあなたにとって、縁もゆかりもない人ですよ。それなのに、何故?」
    「イチイさんは、僕を襲いませんでした。それに、鎖を解いた時、ありがとうと言ってくれましたし、名前も、覚えてもらって……」
     良太は手拭を受け取り、涙と鼻水を拭く。その様子を見ていた棗は、悲しげな顔のまま、クスッと笑う。
    「……お優しい方ですね。うちの人も優しいけれど、あなたの優しさは一層、骨身に染み入るよう」
     棗は墓に手を添え、涙を流した。
    「この方の言葉が正しければ、この人はわたくしの従兄弟でした」
    「え……」
    「この方もお優しい方で、幼い頃から良くしていただきました。頭も良く、きっと次の天原家当主はこの方になるだろうと、囁かれていました。
     ですが実際に当主となったのは、桂小父様。しかも、何故か当主になる前後、わたくしたち一族の血を引く者は皆、不審な死を遂げております。
     ですからわたくしは天玄を出たのですけれど、櫟おじ様は、桂おじ様から逃げることができなかったのでしょうね。何故このようなお姿になったのかは、恐ろしくて想像もできませんが」
     棗は立ち上がり、その場を後にしようとした。それを見て、良太は思わず声をかける。
    「あ、あの、棗さん」
    「はい?」
    「……その、何と言えばいいか」
     棗は振り返り、ふるふると首を振って、優しく返した。
    「いいえ、お気になさらないで。櫟おじ様もこれでようやく楽になれたのですし、わたくしももう、天原棗ではございません。呪われた血筋とは、無関係です」
     そしてまた、踵を返す。良太に背中を向けたまま、棗はこう言い残し、去って行った。
    「そっと、しておいてくださいませ」



     たった二日、三日の滞在だったが、晴奈たちにとっては忘れられぬ旅になった。
    「何だか、どっと疲れてしまいました」
    「そりゃ、昼夜逆転してた上に鼓膜破れて頭痛めて、ってなれば疲れもするわよ」
    「そうですよね、はは……」
     帰路に着いたところで、晴奈は良太が元気の無さ気な顔をしているのに気付く。
    「良太、どうした?」
    「……いえ、何でも」
    「無いわけないじゃない。顔、青いわよ」
     柊がぺた、と良太の額に手を当てる。
    「……あら、今度は赤くなった。風邪?」
    「い、いえ、それは、先生が」
    「あら。わたしが、……どうしたの?」
     柊はいじわるっぽく笑っている。
     傍目に見ればこれも弟をからかう姉、と見えなくも無いのだが、この時晴奈は、柊のわずかな不自然さを見抜いていた。
    (うん? 師匠も、何だか顔に赤みが差している。旅の疲れで熱、出たんじゃないだろうか)
     と、眺めているうちにいつの間にか、晴奈が二人を追い越し、前に出る。
    「あ、晴奈。置いてかないでよー」
     それに気付いた柊が、またもイタズラっぽい声を出す。
    「おっと、失礼しました。……とは言え、皆疲れていることですし、早目に帰りましょう。双月節も間近ですし」
    「あら、そう言えばそうだったわ。早くしないと年が明けちゃうわね。
     よーし、急いで帰りましょ、晴奈、良太!」
    「はいっ」
     駆け足になる柊に応え、晴奈と良太も走り出した。

    蒼天剣・逢妖録 終

    蒼天剣・逢妖録 9

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第44話。三人旅の終わり。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -9. 確かめるまでもなく、イチイは死んでいた。 この惨状――何者かによる、凄絶な「死刑執行」に恐れをなした自警団員たちは、緘口令を敷いた。妖怪が出たこと自体は隠さなかったものの、この地で捕まえたこと、殺されたこと、そしてその正体について、一切口を閉ざすことにしたのである。 この結末に、晴奈も良太も不満を感じてはいたが、どこから...

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    晴奈の話、第45話。
    夢のお告げ?

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     ある日、晴奈は気がかりな夢を見た。

     その夢の中で、晴奈は15歳に戻っていた。場所は嵐月堂、かつて黒炎教団と戦ったあの場所である。
    「……? 教団員たちは、どこに?」
     夢の中だからか、記憶は混乱している。
     周りに尋ねようとしたその時、晴奈の目の前を、とても懐かしく、長い間気にかけていた者が横切った。
    「め……」
     声を出そうとした瞬間、景色は一変した。
     晴奈はさらに若返り、13歳になった。場所は黄屋敷、晴奈の実家である。
    「待って、明奈!」
     晴奈は廊下を走り、妹、明奈の後を追った。

     追いかければ追いかけるほど、場所も時間も、晴奈の姿もころころ変わる。
     8歳、故郷の港で。
     18歳、師匠との旅の途上、森に挟まれた街道で。
     14歳、父に己の実力を見せつけた修練場で。
     16歳、青江の街中で。
     19歳、伏鬼心克堂で。
     数え切れないほど多くの場所をさまよい、晴奈は追い続けた。

     何時間経ったのか。
     ようやく、晴奈は追いついた。今、自分が何歳なのか良く、分からない。場所もどこなのか、さっぱり見当がつかない。
    「明奈っ」
     明奈のすぐ後ろまで迫った晴奈は、飛び込んで妹を抱きしめる。妹は動きを止め、そのまま何も言わず、じっとしている。
    「……良かった。ああ、良かった。本当に、……戻って来てくれて」
     そこで、目が覚めた。

     その気がかりな夢に一体何の意味があるのかと、晴奈は目を覚ましてからずっと考えていた。
     朝稽古の時も、朝食の時も、門下生たちに稽古をつける時も、頭の中にはそのことしか浮かんでこない。
    (あの、夢は……。何かの、兆しなのだろうか。これから何か起こることの、現れであろうか)
     そんなことをぐるぐると頭の中で思案し、やがてこんな結論に至った。
    (焔流の門を潜り、早7年。
     免許皆伝も得たし、人を指導するようにもなった。私は十分、力がついたはずだ。あの夢は、私に力が付いたことを、具体化したものなのかも知れぬ。
     それはつまり、私が、いよいよ明奈を救い出せると言う機が――来た、か)

     思うが早いか、晴奈は紅蓮塞を飛び出し、北西へと進んでいた。
     その道の先には、屏風山脈――すなわち、黒炎教団の本拠地、黒鳥宮がある。
    (待ってろ、明奈! 今、助け出してやるからな!)
     晴奈は足早に、街道を突き進んでいく。師匠と何度か旅を経験したおかげで、一人きりでも大まかな道筋は分かる。
    「待ってろよ、明奈」
     晴奈は自分の足の、あまりにも軽快な進み具合に、これも夢では無いかと怪しんだほどだった。



     やがて4日も進んだ頃、晴奈は屏風山脈のふもと、黒荘と言う街にたどり着いた。
     教団が近くにあり、また、街の名前に「黒」とある通り、ここは教団の教区、つまり縄張り内である。
     そのため、一見しただけでも焔流の剣士であると分かる晴奈が来た途端、住人たちは揃っていぶかしげな視線を向けてきた。
    (フン……! こちらは焔流、免許皆伝の身だ! 来るなら来い、黒炎め!)
     口や行動には出さないまでも、晴奈のその態度からは、教団への敵対心がありありと浮かんでいる。
     当然、道を歩けば歩くほど、遠巻きに眺める者たちが続々と増えていく。
    (さあ、いつ来る? どう来る?)
     晴奈の心と態度はどんどん、挑発的になってくる。
     やがて、晴奈の前に一人、男が現れた。
     だがその姿はどう見ても、教団員には見えない。ボロボロの外套と三角形の帽子は、まるで央北か央中のおとぎ話に出てくる、魔法使いのようだった。
    「一つ聞いても、いいね?」
     そのエルフは、眉をひそめながら声をかけてくる。
    「何だ?」
    「君、誰にケンカ売ってるね?」
     晴奈はその言葉を聞いた瞬間、自制を止めた。
    「いいだろう。私はこ……」「バカ」
     名乗りを上げようとした瞬間、目の前が暗転した。

    「……う?」
     気が付くと、晴奈はどこかの、小屋の中で横になっていた。
    「目、覚めたね?」
     横には先程のエルフが座っており、呆れた目を晴奈に向けている。
    「何故、私はここに?」
    「私が運んだね。……どーやら焔の人っぽいけど、何であんなコトしようとしたね?」
    「む?」
    「教団員だらけのあの村で、いきなり『私は焔の剣士だ』なんて、自殺行為もいいとこだね」
     エルフは30代くらいの見た目に似合わない、少年のような高い声と妙な言葉遣いで、晴奈を責める。
    「自殺行為なものか! 私は焔流、免許皆伝の……」「はいはい」
     エルフは晴奈の言葉をさえぎり、彼女の額をペチ、と叩いた。
    「自慢はいいから。私は理由を聞いてるね。なんで焔流の剣士サマがわざわざこんなトコまでやって来て、あんな挑発めいたコトしてたのか、ってのをね」
    「……聞きたいと言うのなら、いくらでも聞かせてやる」
     エルフに促され、晴奈は街に来た理由を説明した。
    「ふーん。妹を救いにねぇ」
     話を聞き終えたエルフは腕を組んだまま斜に構え、黙り込む。晴奈はイライラしつつ立ち上がり、その場を離れようとした。
    「先を急ぐので、これで失礼させてもら……」「話は終わってないよ、おバカ」
     いきなり罵倒され、晴奈は面食らう。
    「なっ!? 誰が馬鹿だと!?」
    「一回ちゃんとボコられなきゃ分かんないみたいだし、その高くなった鼻、ポッキリ折ってあげようかね?」
     エルフは晴奈を頭から、馬鹿にしている。自尊心の高い晴奈は、エルフの態度に怒りをあらわにした。
    「……望むところだ。返り討ちにしてくれる」

    蒼天剣・遭賢録 1

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第45話。夢のお告げ?- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. ある日、晴奈は気がかりな夢を見た。 その夢の中で、晴奈は15歳に戻っていた。場所は嵐月堂、かつて黒炎教団と戦ったあの場所である。「……? 教団員たちは、どこに?」 夢の中だからか、記憶は混乱している。 周りに尋ねようとしたその時、晴奈の目の前を、とても懐かしく、長い間気にかけていた者が横切った。「め……」 声を出そうとした瞬間...

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    晴奈の話、第46話。
    賢者との遭遇。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     小屋の外に出た晴奈は辺りを見回してみる。どうやら黒荘の外れらしく、少し離れたところに人家が見える。
    「ホラ、突っ立ってないでさっさとそっちに行くね」
     すぐ後ろにエルフが立ち、背中をバシッと叩いてくる。
    「……」
     偉そうに振舞うエルフに、晴奈の怒りはさらに膨れる。
     開けた場所に出たところで、エルフはどこからか杖を取り出し、気だるそうに身構える。
    「はい、んじゃ、まー。ちゃっちゃと、やろうかね」
     そのやる気の無い構え方に、晴奈の怒りは頂点に達した。
    (何が『高くなった鼻をポッキリ』だ!? お前自身が増長すること、はなはだしいではないか!
     その油断、高く付くぞ!)
     晴奈は駆け出し、エルフに初太刀を入れようとした。
    「わ、バカだねー」
     それを眺めていたエルフはまた晴奈をあざ笑い、ゆらりと杖を振った。

     その瞬間――。
    「……!?」
     地面が引っくり返り、景色が勢い良く滑る。
     いや、晴奈がさかさまになりながら、吹っ飛んだのだ。
    「敵を知り、己を知れば百戦負け無し。だのに今の君、私のコトをどれだけ知ってるって言うね?」
     エルフの声がやけに遠く、尾を引くように聞こえる。
    「な、何をした!?」
     エルフのはるか後方まで飛ばされた晴奈は、混乱しつつも空中で体勢を立て直し、どうにか無傷で着地する。
    「んでもって、キミは」
     刀を構え直し、エルフの位置を確認しようとしたが、どこにも姿が無い。
    「ど、どこだ!?」
    「どれだけ自分がバカでマヌケで向こう見ずで身の程知らず、ってコトを知ってるね?」
     振り向いてもやはり、エルフを見付けられない。
    「……!」
     晴奈の右肩に電流めいた痛みが走る。
     その痛みが魔術か、それとも杖を振り下ろされたものなのか良く分からないまま、晴奈の脚から力が抜けていく。
    「ぎ……ッ」
     急速に遠のいていく意識の端で、エルフがまた自分をあざける笑い声が聞こえた。

    「……う、っ」
     気が付くと、また小屋の中だった。先程と同じように、エルフが傍らに座っている。
    「目、醒めたね?」
     晴奈は自分に何が起こったのか、懸命に整理し――負けたことを、理解した。



    「ま、それじゃ。一個いっこ考えていこうかね」
     エルフは小屋のものを勝手にいじって、茶を沸かしている。
    「何で君は、私に勝てると思ったね?」
    「それは、その。私は、焔流の免許皆伝であるし」
    「うんうん、それはさっき聞いた。で、免許皆伝だから、何で勝てるって?」
    「え? いや、だから、……その」
     そう問われ、晴奈の思考は止まる。
    「それは君の剣術が一端のモノになったって言う証明であって、誰にでも勝てるって証明では無いよね?」
    「それは……」
     答えに窮する晴奈に構わず、エルフは指摘を続ける。
    「もしそんな風に思ってるなら、それは君の先人全員に対する侮辱だね」
    「なに?」
    「だってね、君がもし、浅はかにもさっきの街中で名乗りを上げてたら、きっと街の人はみんな、君を殺しに来るね。
     ソコで君が負けてさ、『焔流、敵にあらず!』なんて言われちゃったら、焔流のみんなはどんな気持ちになるだろうね?」
    「……!」
     エルフの言った光景を想像し、晴奈はひやりと冷たいものを感じた。
    「免許皆伝は無敵の証明じゃないね。その流派の教えを修め切った、その流派の代表になったって証明だ。
     ソレを履き違えて、『自分はとっても強いんだ』なんて公言したりなんかしたら、とんでもない大恥をかかせることになる。君だけじゃなく、君の属する剣術一派全体にもね」
    「……」
     エルフの説教を、晴奈は頭も猫耳も垂れ、ただ聞くしか無かった。
     そこで茶が沸き、エルフは茶を晴奈に差し出しつつ、説教を締めくくった。
    「敵のコトはおろか、自分のコトすら知らない、分かってない。
     そんなおバカが勝てる道理なんて無いね」

     晴奈は自分の慢心と大言壮語を反省するついでに、自分が見た夢の話をした。
    「私は、妹をつかむ夢を見たのです」
    「ふーん。だから現実でも妹を救えるかも、って?」
    「はい……」
    「ふーん、ソレはソレは、結構な思い付きだね」
     エルフは晴奈の話を、鼻で笑う。
    「きっかけを何かに求めるのは自由だけどね。
     思い立ったら即行動、じゃなくてさ、立ち止まってじっくり考えた方がいいね。『今が本当にその機なのか? 本当は自分の思い込みじゃ無いのか?』ってね」
    「……」
     うつむく晴奈を見て、エルフはふー、とため息をつく。
    「まあ、そう落ち込むなってね。もしかしたら、本当に吉兆かも知れない。無闇に期待するのはおろかだけど、さらりと流すのも味気ないしね。
     そんなもん、『何かいいコトあるかもー』くらいで考えた方がいいね。頼ったり過信したりってのはダメだけどね」
     いいとも、悪いとも言い切れない結論に、晴奈は少し困惑した。
    「そんなもの、ですかね」
    「そんなもんだね。
     さて、そろそろ私は行くね。精進しな」
     エルフは茶を飲み終えるなり、そそくさと小屋を後にした。
     晴奈は小屋に残り、魂を抜かれたような心持ちで、ぼんやりと茶をすする。
    「……あ」
     しばらく経って、晴奈はエルフの名前を聞いていなかったことに気が付いた。

    蒼天剣・遭賢録 2

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第46話。賢者との遭遇。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 小屋の外に出た晴奈は辺りを見回してみる。どうやら黒荘の外れらしく、少し離れたところに人家が見える。「ホラ、突っ立ってないでさっさとそっちに行くね」 すぐ後ろにエルフが立ち、背中をバシッと叩いてくる。「……」 偉そうに振舞うエルフに、晴奈の怒りはさらに膨れる。 開けた場所に出たところで、エルフはどこからか杖を取り出し、気だる...

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    晴奈の話、第47話。
    賢者の名前と、何かのフラグ。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     8日ぶりに戻ってきた晴奈を見て、柊は安堵のため息を漏らした。
    「良かった……! 晴奈、無事に戻ってきたのね」
    「はい。ご心配を、おかけいたしました」
     晴奈は深々と、頭を下げた。その様子を見て、柊は不思議そうな顔をする。
    「ん? 晴奈、何かあった?」
    「……いえ。特に、何も」

     紅蓮塞に戻ってからすぐ、晴奈は精神修養を積むことにした。刀を振るうこともせず、黙々と座禅を組む晴奈の姿に、柊は不安そうな顔を重蔵に見せていた。
    「大丈夫でしょうか、晴奈は」
    「んー、まあ」
     重蔵はぷい、と晴奈から顔を背け、腕を後ろに組んでこう言った。
    「ここしばらく浮ついておった心が、程よく落ち着いたのは確かじゃ。悪いことでは無い。放っておいても、問題は無いじゃろ」
     重蔵の言葉に、柊も「そうですね……」とうなずく。
    「ま、無事に帰ってきて何よりじゃ」



     戻ってからさらに一週間ほど経ち、晴奈はすっかり元の通り、稽古に姿を見せていた。
    (あのエルフの言う通り、私は確かに愚かだったかも知れぬ。気ばかり焦って、とんでもない失態を犯すところだった。
     今一度、修行のやり直しだ)
     そんな風に考え、黙々と木刀を振るっていたところに――。
    「知ってるか? 『旅の賢者』の話」
    「何だそりゃ」
     門下生たちの話し声が聞こえてきた。
     あまり長くなるようであれば諌めようかと考えていたのだが、その内容を聞くうち、晴奈は目を丸くした。
    「何でも、旅人の前に現れて、色々ためになることを教えてくれるって言う、変な奴らしいんだけどな」
    「胡散臭ぇー」
    「まあ、聞けって。で、友達から聞いたんだけど、こないだ黒荘に現れたんだってさ」
    「へー」
    (こ、黒荘?)
     叱るのも忘れ、晴奈は話に耳を傾ける。
    「何でも、ウチの人間ともめたんだって」
    「ホントかよー」
    「見た奴がいるとか、いないとか」
    「いなきゃうわさにならねーよ」
    「そりゃそうだ、ははは……」
    (……汗顔の至りだ)
     修行によるものとは別の、ひやりとした汗が額に浮き出てくる。
     たまらず、晴奈は彼らに声をかけた。
    「もし、お主ら」
    「あ、先生」
     門下生たちはしまったと言う顔をしたが、晴奈は諌めず、二人に尋ねた。
    「その『旅の賢者』とやらの話、詳しく聞かせてくれないか?
     いや、単に興味があるだけなのだが。別に気になるとかでは、無いのだが」
    「はあ? えー、まあ、話せと仰るなら」
     門下生もうわさに聞いた程度であるらしく、説明はたどたどしいものだった。
    「まー、何て言うか、めちゃくちゃ長生きな奴だそうで、あの『黒い悪魔』と同じくらいか、下手するとそれ以上生きてるとか、何とか。
     世界中を旅してて、そいつに出会った歴史上の有名人は、何人もいるらしいですよ。まあ、俺も良く知らないんですが。
     で、確か名前が、……何だっけなぁ? 外国っぽい名前で、えーと、確かー」
     門下生はしばらく記憶を探った後、手を叩いて叫んだ。
    「そうそう! モール、でした。『旅の賢者』モール。それが、そいつの呼び名ですよ」
    「ふむ、モール、か。そうか……」
     晴奈はそれを聞くと、門下生たちの前から立ち去った。
    「……怒られると思ったんだけど。どうしたんだろう、黄先生?」
    「さあ?」
     残された門下生2人は、きょとんとした顔を見合わせていた。

    (そうか、モールと言うのか)
     モールの憎たらしく、ふてぶてしい態度と言葉を思い出し、晴奈はほんの少し、イラつきを覚える。
    (まったく、情けない。あんなヘラヘラとした奴に、いいようにやられてしまうとは!
     今一度、気を引き締めなければ)
     自分のふがいなさを改めようと、ぐっと拳を握ったところで――。
    「あれ、姉さん」
     目の前を良太が通りかかる。
    「お、良太。稽古はどうした?」
    「さっき終わりました。姉さんもですか?」
    「ああ。一風呂浴びてから飯でもと思っていたが、一緒に食べるか?」
    「ええ。……あの、姉さん」
     にこやかだった良太の顔に、困ったような顔色が浮かぶ。
    「ん?」
    「ちょっと、お話があるんですが……。良ければ書庫まで」
    「……?」
     良太の様子が気になり、晴奈は何も言わずに付いていく。
     書庫に着くなり、良太は中に誰もいないことを確かめ、扉を閉める。
    「どうした? 何か妙だぞ、良太」
    「ええ、まあ、その。あんまり、他の人に聞かれたくなくって」
     良太はもう一度、辺りを見回す。
    「えー……、その」
     良太の顔が赤くなってくる。それを見た晴奈は、思わず身構えてしまう。
    「何だ?」
     良太は一歩晴奈に近付き、彼女の耳元でぼそっとつぶやいた。
    「実は、あの……」

    蒼天剣・遭賢録 終

    蒼天剣・遭賢録 3

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第47話。賢者の名前と、何かのフラグ。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 8日ぶりに戻ってきた晴奈を見て、柊は安堵のため息を漏らした。「良かった……! 晴奈、無事に戻ってきたのね」「はい。ご心配を、おかけいたしました」 晴奈は深々と、頭を下げた。その様子を見て、柊は不思議そうな顔をする。「ん? 晴奈、何かあった?」「……いえ。特に、何も」 紅蓮塞に戻ってからすぐ、晴奈は精神修養を積む...

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    晴奈の話、第48話。
    衝撃の告白。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     晴奈が黒荘から紅蓮塞に戻って、数週間が過ぎた時のこと。
     晴奈は書庫の中で、いきなり告白された。

    「好きなんです」
    「は?」
     晴奈はぽかんとしてしまう。目の前にいる、顔を真っ赤にした良太を見て、後ろを振り返り、もう一度前を向き、猫耳を掌でポンポンと叩いて問い直す。
    「すまない、良太。もう一度、言ってくれないか?」
    「ですから、あの、好きなんです」
    「……良太」
     晴奈は脱力しそうになるのをこらえて、良太の肩に手を置く。
    「落ち着こう。うん、まあ、落ち着け」
    「えっと、あの」
     良太は手を振り、ゆっくりと説明する。
    「晴奈の姉さんが、好きってことじゃないです。いえ、好きなんですけど、そう言う意味じゃなくて」
    「だから、落ち着け」
    「えーと、えー、ともかく。姉(あね)さんのことは普通に好きです。あの、恋愛とかじゃなくて、本当の姉(ねえ)さんって感じで」
    「ああ、まあ。それなら、いいんだ」
     ほっとする晴奈を見て、良太も安心した顔をする。
    「ええ、まあ、それでですね。その、……が好きなんです」
     安堵のため息が、のどの途中で引っかかる。
    「……もう一度、言ってくれ」
    「先生が、その……」
     晴奈はもう一度、良太の肩に手を置いた。
    「先生って、……聞くが。それは、私の師匠のことか?」
    「……はい」
     良太が答えた瞬間、晴奈は良太を書庫の奥まで押し込んだ。
    「待て待て待て待て! 待て、良太!」
    「は、はい」
     晴奈は良太の肩に手をおいたまま、深呼吸をする。
    「もう一度、聞くぞ」
    「はい」
    「お前が、好きだと、言っているのは、誰だって?」
     良太は顔を真っ赤にしたまま、もう一度答えた。
    「あの、……柊先生です」
    「はぁー……」
     晴奈はそれ以上立っていられなくなり、良太の前にへたり込んだ。
    (こいつ、よりによって自分の師匠を好きになるか……!? 何を考えているんだ、まったく?)
    「あ、その、えーと」
    「うーむ、……そんなことを聞かされてもなぁ」
     晴奈は平静を装って立ち上がるが、内心、かなり動揺していた。良太は軽く咳払いをし、話を続けようとする。
    「こ、コホン。それで、ですね、あの」
    「何だ? 他に何を言う気だ?」
    「えーと、その、ちょっと、聞きたいんですが」
    「……何を?」
     良太はまた、顔を赤くして尋ねてくる。
    「先生の、好きなものって何でしょうか?」
    「はあ?」
     普段、自分が話すこととあまりにも違う部類の話題に、晴奈は頭を抱えてうなる。
    「むう……。好きって、師匠の、好きなものか。うーむ、そうだなぁ……」
     懸命に考えてはみるが、混乱した頭では答えが出てこない。
    「あの、例えば、食べ物とか」
     良太が具体的に質問してくれたので、何とか答えが浮かんでくる。
    「んー、そうだなぁ。キノコなどの山菜は、好んで食べていたな。後、肉料理はあまり、食べないとか。あ、でも鳥料理は好きだと言っていた」
    「ふむふむ」
     良太は懐紙を取り出し、晴奈の言ったことを書き連ねている。
    「じゃあ、えーと、趣味は、何でしょう?」
    「趣味、か。んー、小物を集めるのが好きだと聞いた」
    「じゃ、じゃあ、そのー。どう言う男性が好きか、って、分かります?」
    「はあ? んー……、そう言えば昔、聞いた覚えがあるな」
     晴奈は椅子に腰掛け、記憶を探る。
    「ああ、そうだ。確か強くて正直で、優しい者を好きになったことがある、と言っていた」
    「す、好きになった、人……、ですか」
     良太の顔が、一瞬にして曇る。晴奈は慌てて訂正する。
    「あ、いやいや、その人物は既に塞を離れている。今、師匠が想っている者は、多分、恐らく、いないと、思うぞ」
    「そ、そうですか!」
     また、良太の顔が明るくなる。そのまま良太は、ぺこりと頭を下げて書庫から出て行った。
    「ありがとうございました! また相談、乗ってくださいね!」
     残された晴奈は、良太の浮かれっぷりに、呆気に取られていた。
    「そんなこと聞かされても、……どうしろと」
     晴奈は頭を抱えながら、良太の話を反芻する。
    (実際、どうなのだろう?)
     晴奈は先程挙げた師匠の好みと、良太を比較してみた。
    (良太は確かに優しい子だ。隠しごとはしているが、正直者と言えば正直者だ。後は強さだが、……これは残念、と言うべきか。
     しかし良太と、師匠か……)
     恋愛経験の無い晴奈がいくら考えても、予想も予測も、一向に立たない。
    (……ピンと来ないにも、程がある。私自身が、色恋に興味無いからなぁ)



     結局、良太の告白をこの日以来、聞くことはなかった。
     だから晴奈も、しばらくするとこの一件はすっかり、忘れてしまっていた。

    蒼天剣・鞭撻録 1

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第48話。衝撃の告白。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 晴奈が黒荘から紅蓮塞に戻って、数週間が過ぎた時のこと。 晴奈は書庫の中で、いきなり告白された。「好きなんです」「は?」 晴奈はぽかんとしてしまう。目の前にいる、顔を真っ赤にした良太を見て、後ろを振り返り、もう一度前を向き、猫耳を掌でポンポンと叩いて問い直す。「すまない、良太。もう一度、言ってくれないか?」「ですから、あの、...

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    晴奈の話、第49話。
    晴奈、撃沈。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     双月暦513年の早春。
     晴奈は20歳、良太は17歳になっていた。
     入門したての頃はひ弱ですぐにばてていた良太だったが、柊師弟の指導のおかげで、今では年相応に筋肉もつき、他の門下生と見劣りしないまでに成長していた。

    「うん。強くなったな、良太」
     良太に稽古をつけていた晴奈は、一段落したところで良太をほめた。良太は嬉しそうにぺこりと頭を下げる。
    「はい、ありがとうございます」
    「これなら教団が攻めて来ても十分護りにつける、……かも知れないな」
     晴奈の言葉に、良太はきょとんとした顔をする。
    「教団が、攻めて来る?」
    「あ、そうか。良太はまだ、知らないか。
     よく考えてみれば、私が15の時に来襲されて以来、ずっと黒炎教団からの音沙汰は無いからなぁ。明奈も無事なんだかどうなんだか」
    「えっと……?」
     晴奈は良太に教団が数年に一度、紅蓮塞に攻め込んでくることを説明した。
    「へぇー。怪しい集団とは聞いていましたが、そんなことまでしてるんですか」
    「もしかしたら、そろそろ来るかも知れないな。以前襲ってきた時から、もう何年も経っているし」
    「へぇ……」
     そこで良太が黙り込んだ。
     会話が不自然に途切れたため、晴奈は良太の顔を見る。
    「良太?」
    「証明に、なりますかね?」
    「え?」
     唐突に、良太が質問してくる。
    「何の証明だ?」
    「えっと、もしも、僕がその防衛戦で活躍できたら、僕の強さの、証明になりますか?」
    「……?」
     唐突な言葉が続き、晴奈は首を傾げる。
    「良太。もっと、落ち着いて説明……」
     言いかけて、晴奈は既視感を覚えた。
    (……? 前にも、こんなことを良太に言ったな、そう言えば?)
    「あ、えっとですね」
     良太は深呼吸し、ゆっくりと説明した。
    「ほら、その、以前に、柊先生は強い男を好まれると、姉さんが言っていたじゃないですか。でも、僕はあまり、強くないですから。姉さんに稽古をつけてもらって、それなりに力はついたとは思うんですが、それを実証する機会が、なかなか無くって」
    「ああ……」
     晴奈はようやく、以前良太が柊のことを好きだと告白していたことを思い出した。
    「そうか、なるほど。もし教団が来て、追い返すことができれば、強いことの証明になる、と」
    「はい、そう思うんですが、どうでしょうか?」
     晴奈は深くため息をつき、良太の額を指でぺちっと弾いた。
    「あいたっ!?」
    「寝言は寝て言え、馬鹿者」
    「ダメ、ですかね?」
    「物事の履き違え、はなはだしいことこの上無い。強さとは、そんなものではない」
    「は、はあ……?」
     良太は一瞬きょとんとしつつ、腕を組んで晴奈の言葉をぶつぶつと繰り返す。
    「強さ……強い証明……」
     明らかに納得が行かなさそうな良太の顔を見て、晴奈は内心、こんなことを思っていた。
    (こう言う時にモール殿のような方がいてくれたなら、納得の行く説明をしてくれそうなのだが。私ではうまく言葉が浮かばん)
     晴奈は一人悩む良太を置いて、修行場を後にした。

     稽古でかいた汗を流すため、晴奈は浴場を訪れた。
    (そろそろ、他の者も来るかな?)
     蛇足になるが、ここは勿論混浴などでは無く、女湯である。
     焔流剣術は剣の腕だけではなく魔力も必要になるため、平均的に男より魔力が高いと言われる女の割合が、他の剣術一派よりも多い。
     それに加えて紅蓮塞は宿場としての機能も備えており、旅客や焔流以外の修行者も多く訪れるため、混浴では何かと都合が悪いのだ。
    (先客は、……いるようだな)
     湯煙の中を一瞥すると、うっすら人の影が1つ、湯船に見えた。
    「お邪魔します」
    「ん? あれ、晴奈ちゃんじゃないの」
    「え? その声は……」
     先客はここに何度か足を運んでいる旅客、橘だった。
    「来ていらしたのですか」
    「ええ。やっぱココのお風呂、冬には最高だし。ま、今年はちょーっと遅くなっちゃったんだけどね」
     そう言って橘は、楽しそうに笑う。晴奈は体を洗いながら、橘と世間話に興じた。
    「今回の目的は、湯治ですか」
    「うん、そんなトコ。いいわよねー、ココ。温泉沸いてるし」
    「山の中ですからね」
    「ホント、隠れた名湯よ。で、今日も修行だったの?」
    「ええ、勿論。……横、失礼します」
     体を洗い終わった晴奈は湯船に入り、橘の横に座る。
    「……ふー。やはり、風呂は気持ちがいい」
    「ホントねぇ。あー、これでお酒があったらいいのになぁ」
    「橘殿は、呑む方ですか?」
    「うん、大好き。こーゆートコで熱燗をきゅーっとやるのが、いいのよねぇ」
     橘はくい、とお猪口で呑む真似をする。その仕草があまりに堂に入っていたので、晴奈は思わず吹き出した。
    「ぷ、はは……。なるほど、それは美味しそうだ」
    「晴奈ちゃんも、お酒呑めんの? って言うか、そっか、もう大人よね」
     そこで橘は晴奈の体を、チラ、と見る。胸の辺りで視線を止め、もう一度同じことを言った。
    「……大人よね?」「失敬な」
     晴奈も負けじと、橘を見返すが――。
    「……完敗だ」「ふっふっふ、参ったか」
     晴奈は猫耳を垂らし、そっぽを向いた。

    「そう言えば、橘殿」
     しばらくそっぽを向いていた晴奈はふと思い立ち、橘に質問してみた。
    「ん?」
    「その、色恋の話は、得意でしょうか?」
     橘の長耳が、嬉しそうにピクピク跳ねる。
    「え? なになに? 晴奈ちゃん、好きな男できた?」
    「あ、いや。私の、弟弟子の話です」
    「へー、弟弟子とデキちゃった?」
    「なっ、違います! そうではなくっ!」
     晴奈は水面でパチャパチャと手を振り、否定する。
    「弟弟子から、色恋の相談を受けたのです!」
    「あーら、なーんだ残念。んで、どんな話?」
     晴奈は少し前に、良太が柊に対して恋をしていることと、彼が強くなりたいと願っていることを説明した。
    「ふーん、雪乃をねぇ。まあ、あの子もキレイだもんね」
    「私は、どうするべきなのでしょう」
    「ん?」
     きょとんとする橘に、晴奈は困った顔で心境を話す。
    「もしも、師匠と良太が結ばれたりすれば、私は二人にどう、接すればいいのか。祝福すべきなのか、それとも修行中の身でありながら師匠をたぶらかすとは、と怒るべきなのか」
    「んー」
     橘は一瞬、チラ、と浴場の入口を見る。
    「まあ、ソレはソレで、アリじゃん? 結ばれたってコトは、二人とも相思相愛で幸せってコトなんだし。アンタに人の幸せ、邪魔する権利も無いわけだしね」
    「まあ、それは、確かに」
    「ソレにさ、聞いてるとその良太って子、戦うとか乱暴系なコトに向いてる気、しないのよね。
     もしそーゆー関係になって、剣の道から外れるなんてコトがあったとしてもさ、その子にとってはそっちの方が、結果的にはいいんじゃん?」
    「……ふ、む」
     その言葉に晴奈も、納得させられるところがあった。
     以前、良太を鍛え直した際に、良太の口から親の仇を取りたい、と発せられたことがある。それを聞いた時、晴奈はとても心苦いものを感じていた。
    「仇を討ちたい」と言う良太のその決意は、心優しい彼には似つかわしくない、呪われた感情だったからである。
    「まあ、もしそんなコトになったらさ」
    「はい」
     橘は親指を立て、ニッコリ笑った。
    「アンタの師匠と弟くんのお祝いゴトなんだし、思いっきり祝福してあげなさいよ」
    「……そうですね」
     晴奈も微笑み返し、親指を立てた。

    蒼天剣・鞭撻録 2

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第49話。晴奈、撃沈。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 双月暦513年の早春。 晴奈は20歳、良太は17歳になっていた。 入門したての頃はひ弱ですぐにばてていた良太だったが、柊師弟の指導のおかげで、今では年相応に筋肉もつき、他の門下生と見劣りしないまでに成長していた。「うん。強くなったな、良太」 良太に稽古をつけていた晴奈は、一段落したところで良太をほめた。良太は嬉しそうにぺこ...

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    晴奈の話、第50話。
    黒炎の再襲撃。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     晴奈の予測は、現実になった。
     と言っても、悪い方の予測である。
    「また、黒炎が攻めてきそうだ……!」
    「またか!? まったく、面倒臭くてかなわん!」
    「焼き払ってくれるわ!」
     黒炎教団襲来の報せを受け、塞内では迎撃の準備が行われていた。

    「来るんですか?」
     この騒ぎを聞きつけた良太は、柊に詳しい話を聞いていた。
    「ええ、そのようね。
     でも良太、あなたは中にいなさい。戦いに出られるような腕では無いわ」
    「そんな! 晴奈姉さんだって、15で戦いに出たと言うではないですか!?」
     柊は大きく首を振り、良太の肩に手を置く。
    「晴奈は剣の素質があったから、15歳で出られたの。
     でもあなたには、そこまでの才は無い。それはあなた自身が分かっていることでしょう?」
    「それは、……はい」
    「大人しく、安全な場所でじっとしていて」
    「……分かりました」
     良太はうつむいたまま、素直に返事をした。



     数時間後、晴奈と柊はがっちりと武装を固めて、前回と同じく嵐月堂で待機していた。
    「晴奈、準備はできた?」
    「ええ、万事整いました」
     厳戒態勢で敵の襲来を待ちつつ、晴奈は横に並ぶ柊に声をかける。
    「師匠、あの」
    「ん?」
     晴奈は柊に、良太が柊を想っていることを打ち明けようかと迷ったものの――。
    「……いえ。何でもありません。生き残りましょうね」
    「勿論よ。……そろそろ来るわ。気を引き締めましょう」
    「はいっ」
     5年前と同様に堂の壁が破られ、教団員が侵入してきた。晴奈は目を凝らしてみたが、今回はあの「狼」、ウィルバーの姿は無かった。
    (これは残念。雪辱の機会は無しか)
     ともあれ、晴奈は教団員に飛び掛り、バタバタとなぎ倒していく。前回同様、八面六臂の大立ち回りを見せつけ、敵を次々と倒していった。
    (5年前に比べれば、何とぬるく感じることか)
     柊の方も晴奈と同様、特に苦戦する様子も無く、ひらりひらりと戦場を駆け巡っている。
     3時間ほど戦ったところで、教団員たちは撤退し始める。周りの剣士たちは勝利を確信し、次第に緊張感が消え失せていく。
    「……ふう。後はこのまま、きっちり反撃を抑えていれば勝てるわね。後もう少し頑張りましょう、晴奈」
    「はい!」
     額の汗を拭いながら、柊師弟はほっとした表情を見せ合っていた。
     ところが――。
    「大変だ! 雨月堂が破られたらしい!」
     背後から、伝令役を務めていた剣士が飛び込んできた。
    「雨月堂だって!? あんなところ、今まで狙われなかったじゃないか!」
    「それに、あそこには門下生たちが避難して……!」
    「くそ、もしかしてここを襲っていたのは囮、陽動作戦だったのか!?」
     この報せに、剣士たちは一斉に青ざめた。そして柊師弟も同様に、冷や汗を垂らす。
    「雨月堂、って……」
    「まずい、良太がいる!」
     晴奈たちは急いで、雨月堂に走っていった。

    (そりゃ、ぬるいわけだ! 相手は本気で、かかって来なかったのだから!)
     晴奈も柊も、全速力で塞内を走り抜ける。重たい武具を脱ぎ捨て、道着と胸当て、鉢金、刀大小二本の軽装になって雨月堂を目指す。
    「無事でいろ、良太!」
     軽装になったおかげで、二人は他の剣士たちより若干早く、雨月堂に着くことができた。
     雨月堂は紅蓮塞の中で最も南にある修行場である。通常、教団は北西から攻め込んでくるため、南側にある修行場はまず、狙われない。
     だから教団が襲ってきた際には、この辺りに非戦闘員を非難させていたのだが――。
    「わああっ!」
    「来るな、来るなーッ!」
    「ひいーッ!」
     予想外の強襲に、多くの者が逃げ惑っている。門下生も半分ほどは、怯えて隅に縮こまっている。
     残りの半分は勇気を奮い起こし、懸命に教団員と戦っていたが――。
    (逃げてくれた方がいい。半端な実力や身の丈に合わぬ蛮勇では、到底太刀打ちできる相手では無いのだ。
     ……だが、遅かったか)
     既に数名、門下生が血を流して倒れ、事切れている。皆、手に刀や木刀を持ち、正面から斬られていた。
    (良太はまだ、無事か!?)
     晴奈と柊は、良太の姿を探す。
    「あ、いました!」
     良太は隅で震える者たちの前に立ち、木刀を構えて教団員と対峙していた。だが、良太自身もガタガタと震え、今にも木刀を取り落としそうになっている。
    「良太、今助けに……」「おっと、待ちな」
     走り出そうとした刹那、晴奈の目の前を棍がかすめた。

     その棍を、晴奈は一日たりとも忘れたことは無い。自分の頭を割った武器であるし、忘れられるはずが無いのだ。
    「貴様は!」
     晴奈の真横に、黒い髪の狼獣人がニヤニヤと笑いながら立っていた。
    「ウィルバー! ウィルバー・ウィルソンか!?」
    「へぇ、覚えてたのか」
     5年ぶりに見るウィルバーはたくましく成長し、晴奈よりも頭一つほど背が高い。戦闘服の袖から見える腕にも、精強と言うべき筋肉がたっぷり付いている。
    「えーと、何だっけお前? 名前、聞いて無かったよな。……ま、いいや。ここで殺せば、忘れていいな、うん」
     自分勝手にそうつぶやくなり、ウィルバーは三節棍を構え、襲いかかってきた。
    「馬鹿も休み休み言え!」
     晴奈は向かってきた棍を、勢い良く弾く。キン、と甲高い音を立てて、棍の先端が宙に浮く。
    「お、っと」
     ウィルバーは棍の末端をくい、と引っ張り、浮いた棍を手元に収めた。
    「悪い悪い、なめてた」
    「愚弄するか、私を。ならば私も乗ってやろう、犬め」
     犬、と呼ばれてウィルバーの顔が凍りつく。
    「前にも言ったろうが。……このオレを、犬と呼ぶんじゃねえッ!」
     瞬間、三節棍がうねり、風を切って、何度も晴奈に襲い掛かる。しかし晴奈は顔色一つ変えず、その攻撃をすべて弾き返した。
    「……速ええ。昔より断然、動きも速いし、見切るのも速い」
     ようやくウィルバーは警戒の色を見せ、トン、と短く跳んで後ろに下がり、間合いを取ろうとした。
    「……5年前の借り」
    「え?」
     ウィルバーが後ろに跳ぶと同時に、晴奈は間合いを一気に詰める。
    「今ここで、返させてもらうぞッ!」
     ウィルバーが着地した瞬間、晴奈は突きを入れた。
    「ぐあ!?」
     三節棍で防御している部分を器用にすり抜け、刀がウィルバーの脇腹に刺さる。
     だが戦闘服の下に鎖帷子(くさりかたびら)でも着込んでいたのか、刀は貫通せずに途中で引っかかった。
    「っぐ、……甘い、甘いぜ、『猫』! 通るかよ、こんなもん!」
    「ならば!」
     脇腹に刀を刺したまま、晴奈は刀から手を離し、ウィルバーの鳩尾に拳をめり込ませた。
    「ごふ……っ」
     ウィルバーの顔が一瞬で真っ青になり、そのまま仰向けに倒れ、気を失った。
     晴奈は帷子に絡んだままの刀を引き抜き、血のにじんだ右拳を握りしめながら、涼やかに言い放った。
    「この黄晴奈、侮ってもらっては困る」

     晴奈とウィルバーが戦っている間に、柊は良太に加勢していた。
     良太を囲み、ニタニタ笑っていた教団員を背後から次々に斬りつけ、あっと言う間に全員打ちのめしてしまった。
    「大丈夫、良太!?」
    「あ、あ……、先生!」
     柊の顔を見た途端、良太は木刀を落し、その場に崩れるように座り込む。
     柊は良太の体を抱きしめ、安堵のため息を漏らした。
    「良かった、死んでなかった……!」
    「せ、先生」
     傍から見れば、弟子の安否を気遣う師匠と見える。だが、良太にとっては恋心を抱く者からの抱擁である。当然顔を赤くし、戸惑った。
    「あ、あのっ、その、だ、だ、大丈夫、です」
    「……心配かけて、もう」
     そこへ、ウィルバーを倒した晴奈が戻ってきた。
    「お、……お、っと」
     晴奈と良太の目が合った。
    (もう少し、放っておいてやる。役得だな、良太)
    (す、すみません)
     晴奈は良太と目配せで会話した後、師匠に気付かれないよう、そっと後ろに下がった。

    蒼天剣・鞭撻録 3

    2008.10.08.[Edit]
    晴奈の話、第50話。黒炎の再襲撃。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 晴奈の予測は、現実になった。 と言っても、悪い方の予測である。「また、黒炎が攻めてきそうだ……!」「またか!? まったく、面倒臭くてかなわん!」「焼き払ってくれるわ!」 黒炎教団襲来の報せを受け、塞内では迎撃の準備が行われていた。「来るんですか?」 この騒ぎを聞きつけた良太は、柊に詳しい話を聞いていた。「ええ、そのようね。...

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