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白猫夢 第4部


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    麒麟の話、第4話。
    秒速1センチの奇跡。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     もしもセイナが。あの英雄、セイナ・コウが。
     もしも、秒速1センチでも歩くのが早かったら。
     あるいはもしも、秒速1センチでも歩くのが遅かったら。
     さて、世界はどうなっただろう?

     もしも秒速1センチ早かったら、彼女は剣士にはならなかった。
     だってそうだろ? 彼女が13歳の時、後に自分の師匠となる人間が酔っ払いに絡まれてるのを何とかしようとして騒ぎに割り込んだのが、出会いのきっかけだった。
     もし秒速1センチ早かったら、彼女はその場に偶然居合わせるコトは無く、そして剣豪セイナが誕生するコトは無かったのさ。

     じゃあ逆に、秒速1センチ遅かったらどうなっていたか?
     そしたらセイナは、あの無双の奥義「星剣舞」を得ることはできず、死んでいただろう。
     その技を会得するコトができたのは、死の淵で友人と最期の邂逅があったから。だけどソイツと友人になれたきっかけは、ゴールドコーストで、とってもいい形で再会できたからだ。
     そのいい形に持ってこれたのは、万全のサポートで闘技場に臨めたからこそ。それより前にゴールドコーストを訪れた時に出会った狐のお姫様や狼のお嬢ちゃんと偶然、出会うコトができたからだ。
     狼ちゃんは後にセイナが闘技場に参加するきっかけをくれたし、その両親はセイナを十二分にサポートしてくれた。狐ちゃんはその友人と仲良くできるきっかけをくれたし、「妹」としてずっと、セイナを支えてくれていた。
     その二人との出会いが無かったら、セイナはきっと不完全な形で闘技場に臨み、そして「友人」と仲良くする機会になんか、絶対に巡り合えなかったはずさ。
     その結果「星剣舞」は永遠に手にできず、そしてあの闇の奥底で半人半人形の女に返り討ちにされて、死んでいただろう。

     だからもし、秒速1センチでも彼女の歩みが早く、あるいは遅ければ。
     たったソレだけで、世界はまるで違うものになっていたんだよ。



     ボクの持論になるけど、世界は言わば、無数の歯車の集合体だと思っている。

     無数の人間が、無数の出会いをし、無数の行動を重ねた末に、無数の結果を生んでいる。
     ソコに人ひとりいないだけで、あるいは人ひとり増えただけで、結末は大きく変わっていくんだ。
     でも、いるコトでその影響が大きい人と、少ない人って言う違い、差異は確かにある。

     コレは、ボクにとっては一つの実験だ。
     その、影響の大きい人間を、故意に作り出せるか? 元々影響の少ない、演劇で言うところの「端役」「脇役」がボクの操作によって、果たして「主役」を食える働きをしてくれるか? そう言う実験だ。
     そしてその結果が、ボクの計画の練り直しを行うにあたって、重要な要素になってくる。



     繰り返すよ。コレはただの、人体実験。
     いや、「人生実験」とでも言うのかな?
    白猫夢・麒麟抄 4
    »»  2013.01.13.
    麒麟を巡る話、第158話。
    道を誤る者。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     央南の大都市、黄海の街はずれ。
     黄派焔流剣術の門下生が5人、隠れるように集まっていた。
    「秋也のヤツ、本当に持って来てくれるのかな……?」
    「どーだろーなー」
    「先生の息子ったって、流石に『アレ』持って来るなんて……」
     こそこそとそんな話をしていたところに、その本人――「黄先生」の息子、黄秋也がやって来た。
    「いやー、苦労したぜ」
    「お、もしかして本当に?」
    「おう」
     秋也は抱えていた風呂敷包みからごそ、と刀を取り出した。
    「これが、『御神体』か?」
    「おう。いっつも床の間に飾ってあった、アレだよ」
     秋也はニヤニヤ笑いながら、その刀を自分の腰に佩く。
    「どーだ」
    「どーだっつってもなぁ」
     門下生たちは苦笑いを返す。
    「やっぱ抜いてみなきゃなぁ」
    「……だな」
     秋也の方も苦笑いを返しつつ、柄に手をかけた。
     と――。
    「あ、あのっ」
     それを止める者が出た。
    「ん? どした、朱明(しゅめい)?」
    「なんか、嫌な予感がするんです」
    「つってもなぁ」
     止めた朱明に対し、他の門下生たちは肩をすくめる。
    「やっぱ見たいじゃん?」
    「なぁ。ここまで来といて抜かないってのは、味気無いぜ」
    「抜いちゃえよ、秋也」
    「ん、ああ」
     その場の流れに逆らえず、朱明は黙って見守ることしかできない。
    (なんか……なんか、怖い)
     朱明はいつの間にか、自分の袴の裾を堅く握りしめていた。

     その間に、秋也は散々もったいぶった後、すらりと刀を抜いていた。
    「……」
     その刀身を目にした途端、門下生たちは絶句する。
    「な、……んだ?」
    「……」
    「き、気味、悪りっ……」
     刀からにじむ青い光が、その場にいた全員の心をさくりと刺す。
    「……うえ、げっ、げろっ」
     不意に、一人が吐く。
    「お、おい、どうし、……うげえええっ」
     もう一人、顔を紫色にし、嘔吐しながら倒れる。
     他の二人も、袴をびしょびしょに濡らして崩れ落ちる。
    「しゅ、しゅ、秋也さん、か、か、かたっ、刀、早く、しまって……」
     朱明も吐き気と虚脱感をこらえながら、刀を抜いたままの秋也に、どうにか声をかける。
    「……」
     しかし、秋也は答えない。
     彼は立ったまま、気を失っているようだった。
     そして朱明の意識も、そこで途切れた。

     朱明が目を覚ましたのは、3日ほど後だった。
     その時には既に、秋也が道場から刀を盗んだことは発覚しており、秋也は師匠であり母である黄晴奈から、相当の叱咤と折檻を受けたと聞かされた。
     朱明を含めた門下生5名は揃って丸坊主にされた後、一ヶ月の謹慎を言い渡された。



     この事件以来――黄晴奈の甥、黄朱明は、目に見えて物静かな性格になったと言う。
     元々から温和で大人しい少年だったのだが、この事件を境に、常に「一歩引いた」態度を執るようになった。
     それを一度、師匠の晴奈から「剣士にしてはいささか消極的ではないか」と、やんわりと咎められたことがあったが――。
    「時には勇気、勇者がただの蛮勇、荒くれ者になることもあります。
     いえ、その人物が元より悪いと言うわけでは無いのです。どれほど高潔で素晴らしい人格者であっても、周りの空気に流されて、あるいは親しき人間にそれとなく唆されて、やむなく道を外すこともある、……と僕は考えているのです。
     それは伯母さん、……あ、いえ、師匠が何度も仰っていた、篠原龍明と言う剣士のそれに近いものでは無いでしょうか? 彼も優れた剣士であったのに、ちょっとした誘惑で自分の道を踏み外してしまったと仰っていたでしょう?
     師匠がいつになく激怒し、僕たちを叱り飛ばしたあの事件も、成り行きは同じでした。秋也さんは確かに優れた剣士だと思いますし、僕も少なからず目標に、そして誇りにしている人です。しかしあの時、秋也さんは仲間のちょっとした冗談に付き合い、そしてあの愚行を犯してしまった。
     それを僕は、危惧しているのです。ですから周りの空気に流されないよう、僕は常に一歩後ろから、状況を見定めようと心得ている。そのつもりなのです」
     毅然とこう返され、晴奈も「あ、うむ」とうなずくしかなかった。



     10代の頃からこれだけ達観した性格を有していたこと、また、己の息子や娘たちと疎遠にになってしまったこともあって、晴奈はまだぼんやりとではあるが、朱明を己の後継者にしようかと考え始めていた。
    白猫夢・逐雪抄 1
    »»  2013.01.14.
    麒麟を巡る話、第159話。
    黄家の談義、焔流の謀議。

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    2.
     晴奈は甥の朱明を後継者にしてもよいかと、まずは彼の母、即ち己の妹である当代黄家宗主、黄明奈に打診した。
    「どうだろう? いや、明奈が自分の後継者にと考えているなら、そちらを優先するが」
    「お姉様」
     これを受けた明奈は眉をひそめ、あからさまに嫌そうな顔を見せた。
    「昔、ご自分にされたこと、忘れてらっしゃるのね」
    「うん?」
    「赤ん坊の頃からお父様に『婿を取り、黄家を継いでもらう』と決められて幼い頃から花嫁修業させられて、それに反発して黄海を出て行ったのは、一体どなたでしたかしら?」
    「う」
     古い記憶を突かれ、晴奈は閉口する。
    「人間、歳をとると親と似たようなことをすると言いますが、まさかお姉様ともあろう方がそれをなさるとは思いませんでしたわ。
     朱くんにも朱くんの考えがあるはずです。それを無視してまず自分の展望を押し付けようだなんて、あの頃のお姉様が今のお姉様を見たら、どんな顔をなさるでしょうね?」
    「す、すまない」
    「……とは言え、確かに朱くんももう20歳を迎えましたし、そろそろ自分の生きる道を定めないといけない頃ではありますね。
     それとなく聞いてみても、いいかも知れません。ただ、今も言ったように朱くんの考えは尊重してくださいね」
    「む、無論だ」
     晴奈はばつの悪い思いをしながらも、小さくうなずいた。



     一方、その頃――。

    「では、いよいよ計画を実行するのですね?」
     晴奈の娘、黄月乃と他数名が、本家焔流家元である焔小雪の前に跪き、紅蓮塞のどこか、暗く締め切った堂の中でこそこそと話し合っていた。
    「ええ。これで我が焔流の屈辱を、余すところなく雪(そそ)ぐことができるはずよ。
     黄。笠尾。深見。御経。九鬼。やって、くれるわね?」
    「勿論です」
     小雪と最も近い位置に並ぶ五名が、揃ってうなずく。
    「よろしい。……まずは、そうね」
     小雪は立ち上がり、そっと小窓を開ける。
    「まずは塞内の体制一新、統一からよ。今のように、わたしがただのお飾りにさせられているこの状況を打破しなければ、何も動きはしないわ。
     そのために、何をすべきか。黄、あなたはどう思う?」
     問われた月乃は、こう答えた。
    「そもそも、この塞内の長たる家元を差し置き、そのさらに上に立つ人間がのうのうと存在していることが、諸悪の根源かと存じます」
    「そうね」
     小雪は窓を閉め、続いて月乃の右隣にいる短耳の男性に尋ねる。
    「笠尾。その諸悪の根源たる者とは、誰のことか分かる?」
    「大先生夫妻……、もとい、焔雪乃と焔良太、両名であるかと」
    「そうね。では深見」
    「はっ」
     笠尾からさらに右隣にいた、これも短耳の男性が応じる。
    「その、諸悪の根源。どうすべきかしら?」
    「論じるまでも無く。亡き者にすべきかと」
    「いや、それは駄目だ」
     と、その意見に、月乃の左隣にいた長耳の男性がが反論した。
    「確かに家元の地位をぼかしている原因ではあることは否めぬが、その前にお二人は、家元の御両親だ。子が親を殺めるなど、どんな道理を用いたとしても正当化されるわけが無い」
    「御経の言うことも一理かと」
     笠尾が続く。
    「我々はあくまで家元を唯一無二、絶対の存在にするのが目的であり、それを貶めては何の意味も成さぬ」
    「ぬう……」
    「……では、御経。次善の策としては、どうすべきかしら」
    「平和的にその存在を封じるとあれば、どこかに幽閉した後、『夫妻は病に伏せり面会できぬ状態である』、とでも広めれば良いかと」
    「そうね。それがいいわ」
    「場所には心当たりがあります」
     五人の中で最も左に座っていた虎獣人の女性が、手を挙げた。
    「それはどこかしら、九鬼?」
    「偶然見付けたのですが、疎星堂に地下があります。恐らく大多数の門下生も、あるいは錬士(れんし:作中においては免許皆伝者)や範士(はんし:作中においては錬士の中でも特に秀でた者)でも、その存在を知らぬ者も多いのではないかと」
    「ふむ。そうね、わたしも初めて聞いたわ。
     ではそこに、焔夫妻を幽閉することにしましょう」
     冷たくそう言い放ち、小雪はにやぁ、と悪辣に笑って見せた。
    白猫夢・逐雪抄 2
    »»  2013.01.15.
    麒麟を巡る話、第160話。
    大先生、雪乃の逐電。

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    3.
     謀議を終え、小雪に追従していた者たちはバラバラと離れ、明日の計画実行の準備へと向かっていた。
     と――その一人であった笠尾が、辺りを伺いつつ紅蓮塞の本堂裏手、焔雪乃・良太夫妻の住む離れを訪れた。
    「もし、大先生……」
     辺りに漏れないよう、そっと声をかける。
    「起きていらっしゃいますか」
    「ええ。今開けるわ」
     少し間を置いて、雪乃が顔を出す。
    「あら、松くん?」
    「はい、笠尾松寿にございます。……失敬」
     笠尾はもう一度辺りを伺い、小雪派の者がいないことを確認してから、ひょいと中へ入った。
    「どうしたの、こんな夜中に?」
     既に真夜中近くであり、奥では雪乃の夫、良太がすやすやと眠っている。
    「その……」
    「ん?」
    「……た、単刀直入に、申し上げます。
     大先生ご夫妻は、お命を狙われております」
     笠尾の話を聞くなり、雪乃はため息をついた。
    「……小雪ね?」
    「左様でございます」
    「でも、あなたは何故それをわたしに?」
     己の立場を暗に問われ、笠尾は額に浮き出た汗を拭う。
    「……確かに小生は、現家元の立身を願っている者の一人ではございます。しかし同時に大先生にも、並々ならぬ大恩がございます。
     いや、……何より、家元ともあろう方が、こんな孝も忠も無い所業をするのか、と考えるに……、あ、いや、その。決して家元のことを悪く言うわけでは無いのですが、しかし……」
    「いいわ、それ以上言わなくて。気持ちは、分かってるつもりだから」
     そう言って雪乃は、笠尾の両手をふんわりと握る。
    「あっ、え、あの……」
    「ありがとね、松くん」
     雪乃はにっこりと微笑み、それから奥に戻りつつ、話を続ける。
    「すぐ発つわ。伝えてくれてありがとう」
    「た、発つ? そんな、急に……」
    「いいえ、急な話では無かったはずよ。
     去年、いえ、一昨年くらいから、我が焔流の風潮は悪い方へ、悪い方へと流れていた。いつか小雪は重圧と我欲に耐えかねて、こんなことをするんじゃないか、とは思っていたのよ。
     だから準備は万全よ。ね、良さん」
    「ふあ……、うん、ばっちりだ」
     眠っていたはずの良太が、雪乃と共に玄関へとやって来る。
    「でも、……まだ一つ、いや、二つ、……じゃないや、ふああ……、二人だ、残してる」
    「良蔵様と、晶奈様ですね」
    「ええ。ここに残したら、きっと小雪はただでは置いておかないでしょうね。
     ねえ、松くん。二人を呼んで来てもらっても、いいかしら?」
     良蔵と晶菜とは、雪乃たちの第二子と第三子、つまり小雪の弟妹である。
     小雪と同様、幼い頃から紅蓮塞で修行を積ませていたが、この数年は二人とも門下生用の寮に住んでおり、この離れからは遠い。
    「承知しました。しかし……」
    「そうね、恐らく見つかったら危険でしょうね。
     ……あ、逆にすればいいかしら」
    「と、言うと?」
    「わたしが迎えに行けばいいのよ。
     いくらなんでも、明日襲う予定の人間を今夜、独断で、しかも単騎で襲うなんて度胸と無鉄砲さは、小雪にも、お付きたちにも無いでしょう?」
    「そ、れは……、そう、かも」
    「それにわたし、こう言う時にうってつけの、『とっておき』の術があるから」
    「とっておき、……ですか?」
     面食らう笠尾を尻目に、雪乃は羽織と刀を身に付ける。
    「松くん。夫を塞外の、安全なところまで運んでくれるかしら?」
    「いや、しかし……」
    「お願い」
     雪乃はそう言って、笠尾に頭を下げて見せた。
     笠尾は当然、狼狽する。
    「せっ、先生! そんな、頭をお上げください!
     ……わ、分かりました。この笠尾、責任持って塞外までお送りいたします」
    「ありがとね」
     雪乃は頭を上げ、再度にっこりと微笑んだ。
    「……ところで」
     と、雪乃は表情を変える。
    「松くん、あなたはその後、どうするの?」
    「その後、……と言うと?」
    「わたしたちを逃がしてくれるのは、本当に助かるわ。でもこれが発覚すれば、あなたはきっとただでは済まないはずよね?
     あなたさえ良ければ、一緒に来てくれると、もっと助かるんだけど」
    「……考えさせてください」
    「いいわ。塞を出たところで、答えを聞きましょ」
     雪乃はもう一度微笑み、それからそっと、離れを出た。
    白猫夢・逐雪抄 3
    »»  2013.01.16.
    麒麟を巡る話、第161話。
    雪乃の子供たち。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     修行場まで近付いたところで、雪乃は魔術を唱えた。
    「『インビジブル』」
     かつて親友、橘小鈴から又聞きした、「旅の賢者」の秘術である。
     唱えると同時に雪乃の姿が消え、誰にも視認できなくなる。
    (これ教わった時、小鈴、むくれてたわね。治療術だけじゃなく、これもわたしの方がうまく使えたから)
     雪乃が使う魔術はほとんど小鈴から伝授されたものだったが、その大半が彼女より、自分の方が得意になってしまった。
    (もし、わたしが本気で剣じゃなく、魔術を学んでいたら。そしたら、大魔術師になっちゃってたのかしら?
     ……なんて、ね。剣士じゃないわたしなんて、わたしじゃないわ)
     透明になった雪乃のすぐ側を、門下生らを連れた範士が仰々しく歩いていく。その手には恐らく明日使う予定であろう刀や槍、刺又が握られていた。
    (小雪派の子たちね。……はぁ)
     彼らとすれ違う度、雪乃の気分は重くなる。
    (どうしてこうなっちゃったのかな。小雪も、昔はいい子だったのに)
     そう思うと同時に、門下生たちの顔を見て、雪乃はこうも思う。
    (いい子、って言えば、……多分、この子たちもそうなんでしょうね。上からの言葉を純粋に信じる、根のまっすぐな子たちなんでしょう。
     でも、……それがいつもいいことだとは、限らないのよ)
     恐らく、普段から小雪派によって黄派焔流や、雪乃らに対する誹謗中傷を聞かされ、それが真実だと信じ切っているのだろう――彼らの目にはこれから行われようとする悪事に対する戸惑いや迷い、良心の呵責などの感情は、ほとんど感じることができなかった。
    (……やはり、わたしが10年、いえ、5年だけでも、家元代理として治めるべきだったのかしら。
     体つきを見れば、ちゃんと剣の修行を積んだのは分かる。でも心の修行は、果たしてどうだったのか?
     どの子も、『先生からこれが正しいと教わったから間違いなく正しいんだ』と言いたげな顔つき。自分がこれから人を殺すかも知れないと言う恐ろしい行為に対してすら、『家元が正しいことだと言ったから』で通そうとしているように見える。
     みんな、ちゃんと心が鍛えられていないんじゃないかしら。自分で『正しい』とは何かって考えること、してないんじゃ無いかしら)



     修行場を抜けて寮に入り、雪乃はようやく、次女の晶奈がいる部屋までたどり着いた。
    「晶奈、まだ起きてる?」
     トントンと戸を叩き、雪乃は反応を伺う。
     しばらくして、眠たげな声が帰って来た。
    「母上……?」
    「ええ、そう。開けてもらって、いい?」
    「はい、ただいま」
     す……、と戸を開け、自分に似た濃い緑髪の、長耳の少女が顔を見せた。
    「ちょっと、入るわね」
    「はい」
     中に入ったところで、雪乃はそっと、晶奈に耳打ちする。
    「お母さんね、今、小雪から狙われてるの」
    「え?」「しー」
     晶奈の口にとん、と人差し指を当て、雪乃は話を続ける。
    「それでね、襲われる前に逃げようってことになったんだけど、晶ちゃん、一緒に来る?」
    「そ、それは、ええ、勿論です」
     晶奈の反応を見て、雪乃はほっとした。
    (良かった……。この子はどうやら、小雪派に取り込まれてはいないみたいね)

     雪乃は晶奈を連れ、今度は良蔵の部屋を訪れた。
    「良蔵、まだ……」
     呼びかけようとしたところで、雪乃は部屋の中からある気配を感じ取った。
    「……」
    「どうされたのですか、母上?」
    「……ねえ、晶ちゃん」
     雪乃は晶奈の手を引き、良蔵の部屋の戸から二歩離れる。
    「お母さんね、今、……ここを開けると、すごくびっくりしそうな気がするの」
    「は、はい?」
    「多分、晶ちゃんもびっくりするんじゃないかな、って」
    「どう言う……、ことですか?」
     さらに二歩離れ、雪乃は小声でぼそ、と応じる。
    「良ちゃん、もう19歳だから、誰かを好きになるとか、女の子と一緒に遊びに行ったりとか、するかも知れないなーって、まあ、それは分かるんだけど。
     ……でも、でもね。女の子と一緒の部屋で生活するって、まだ、ちょっと、良ちゃんには早いんじゃないかなって思うの。晶ちゃんは、どう思う?」
    「そ、そ、それは、……まさか、良お兄様が?」
    「晶ちゃん」
     と、雪乃の顔が強張る。
    「ちょっと、口を閉じていて。今からお母さん、しゃべっちゃいけない術を使うから」
    「……」
     娘が両手を口に当てたのを確認したところで、雪乃は「インビジブル」を発動する。
     それとほぼ同時に――良蔵の部屋から、顔を真っ赤にした寝間着姿の月乃が、刀を持って飛び出してきた。
    「だ、誰だっ!? 誰が覗いていたッ!?」
    「……!」
     自分の背後で、晶奈が息を呑む気配が伝わるが、彼女はちゃんと黙っている。雪乃自身も、パニックを起こしそうな頭を冷静にさせようと努める。
    「……気のせい、……かしら?」
     そのうちに、月乃は誰もいないと判断したらしく、辺りを見回しつつ、良蔵の部屋に戻って行った。
    (……遅かったみたい、ね。良ちゃんはもう、小雪側にいるわ)
     雪乃は晶奈の袖を引いて、その場を後にした。
    白猫夢・逐雪抄 4
    »»  2013.01.17.
    麒麟を巡る話、第162話。
    獣道に迷い込んだ「猫」。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     そのまま寮を後にし、二人は紅蓮塞の門前に向かう。
    「……あのっ、母上」
     と、晶奈が思いつめたような声色で、雪乃に話しかけてきた。
    「ん? どうしたの、晶ちゃん」
    「母上は良お兄様が、……あのような、自堕落な生活を送っていたことに、……その、どうお考えでしょうか?」
    「……」
     雪乃は立ち止まり、そして笑って見せた。
    「そうね、びっくりしたわ。『いつの間にか大人になっちゃったのね』、……なんて、軽く笑ってやりたいけれど。
     でも、……正直に言えば、小雪が謀反を起こそうとしていると聞いた時より、心が痛んだわね」
    「そうですか……」
    「もしも、今が内輪揉めしてる時じゃなくて、それに、5年くらい後になって、そう言うことになったのであれば、確かに笑い話、おめでたい話にできたかも知れないけれど、今は、……落ち込んじゃいそうよ」
    「母上……」
     沈痛な面持ちになる娘を見て、雪乃はもう一度笑う。
    「仕方の無いこと、……と諦めるしか無いわ。良くんも、雪ちゃんも、もうわたしとは違う道を選んでしまったようだから」
    「……私には、踏み外したとしか思えません」
    「そんな風に……」
     雪乃が思わず否定しようとした、その時だった。
    「外れて結構。あなたの道は、苔むした古道よ。歩きたくも無いわ」
     じゃり、と足音を立て、二人の前に月乃が現れた。
    「あなた……」
    「やっぱり先程の闖入者は、大先生でしたか。大方、我々の計画を察知し、ご自身の子供たち共々ここから逃げようとしていたのでしょうが、……残念でしたね」
     月乃はにやぁ、と笑い、自分の唇を指差した。
    「あたしと良は、もう1年半以上も前から、ああ言う関係だったんですけどね。大先生も晶奈も、まったく知らなかったんですね。
     自分の子供のことも把握できない奴が、大先生だなんて!」
    「月乃……ッ!」
     母を嘲られ、晶奈が憤る。
    「いいの晶ちゃん、下がっていて」
     と、それを雪乃が制した。
    「あら、反論もされないんで……」「月ちゃん」
     雪乃は凍りつくような冷たい声で、月乃の話を遮った。
    「あなたも道を踏み外した一人よ。
     あなたの道には仁も礼儀も、貞節も無い。徳も無い。孝も悌も無い。あなたの道は、おおよそ人の歩むような、正しき道では無いわ。
     あなたの歩んでいるそれは、獣道よ!」
    「だから言ってるじゃないですか」
     月乃は刀を抜き、それに火を灯す。
    「あたしはあなたみたいな、時代遅れの道なんか歩いてられないんですよ!」
     襲いかかってきた月乃に、雪乃も刀を抜いて応戦する。
    「道を外した者は皆、そう言うわ。
     古くより大切にされてきた、人の信念と美徳で築かれてきた道を否定し、自分たちの浅ましい、身勝手で利己的な思想で塗り固めた道が真理だと言う。
     それがどれほど愚かで、浅ましいことか!」
     雪乃の刀をすい、すいと避けながら、月乃はこう応じる。
    「あなたは分かってない! あなたたちがそううそぶいて八方美人的に導いてきたせいで、あたしも、家元も、どれほど窮屈な思いをしてきたか!
     上の者にこびへつらい、下の者の顔色を窺ってばかりいた! 同輩にも馬鹿にされないよう、手本であろうと無理な努力ばかりさせられて!
     その結果を見た!? 家元は、名ばかりのお飾りにさせられた! 何か成そうとする度に陰口を叩かれ、成さなければ嘲られ、成功すれば妬まれて、失敗すれば貶められて! いつもいつも、『先代は立派な方だったのに』とか、『当代は器では無かった』とか、何をやっても、やらなくても、家元は傷付けられてばかりいたのよ!
     そしてそれは、あたしも同じだった……! キレイゴトばかり言う母のせいで、バカなことばかりする兄のせいで、あたしはどれだけ嫌な思いをしてきたか、あなたに分かる!? 分からないでしょう!? それを分かってくれたのは、家元たちだけよ!
     だからあたしたちは決別するのよ――あんたたちみたいな上っ面の安い道徳授業ばっかり吹聴する、似非人格者の道とはね!」
     月乃の激情に任せた攻撃を三太刀、四太刀とかわし、雪乃はさらにこう返した。
    「似非と言うなら、あなたたちこそが似非よ。自分の言いたいことばかり言って、それがさも正しいことのように主張している。
     その行為は、あなたたちのことを貶して、それで自分たちが上等な人間になれたと勘違いするような小人たちのそれと、何が違うと言うの?」
    「違う! 違う、違うッ! そんなクズ共と一緒にするなああッ!」
     月乃の刀が、雪乃の左肩をわずかにかすめる。ぢりっ、と羽織の焦げる音と共に、雪乃の左肩から血が飛び散った。
    「うっ……!」
    「これが答えよ! 何十年もキレイゴト抜かしたあんたの剣術より、新しい道を行くあたしの剣術の方、が、……っ」
     勝ち誇りかけた月乃の声が、そこで止まる。
    「これが答え、よ」
     それを継ぐように、雪乃がそう返した。
     ほんの数瞬前まで勝利を確信していたであろう月乃は、今は白目をむいて倒れている。月乃が勝ち誇ったその一瞬の隙を突き、雪乃が急所へ居合を放ったのだ。
    「他人を見下す生き方が正しい、と答えるような人はいないわ。
     前を向かず、下ばかり眺めている人間が、前へ進めるわけが無いでしょう――前から何が来るか、分からなくなるのだから。
     あなたが入り込んでしまったその道が、あなたの剣術を歪めたのよ」
     雪乃は静かに刀を収め、月乃に背を向けた。
    白猫夢・逐雪抄 5
    »»  2013.01.18.
    麒麟を巡る話、第163話。
    人望と指導の賜物。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     月乃と戦っている間に、どうやら相手方も雪乃たちの動きに気付き始めたらしい。
    (塞の上の方に、どんどん灯りが点ってるわね。のんびりしてたら、ここまで来ちゃうかも)
     雪乃は晶奈へ振り返り、声をかける。
    「晶ちゃん、そろそろ行こっか」
    「あ、は、はい」
     晶奈は目を白黒させ、雪乃の後に付く。
    「大丈夫? どこか怪我したの?」
    「い、いえ。……その、母上があれほど怒りをあらわにされるとは思わず」
    「うーん……、怒りって言えば怒りだけど、晶ちゃんが思ってるのとはちょっと違うかしら」
    「と言いますと?」
     きょとんとする娘に、雪乃はこう続ける。
    「あれはちょっと『きつめの』お説教よ。と言っても相手は多分、聞く耳を持ってはくれないでしょうけどね」
    「な、るほど」
    「さ、もう行きましょ」
     雪乃は晶奈の手を引き、門前へと急いだ。

     雪乃にとってこの騒動は、非常に心を痛めるものとなった。
     よりによって現家元であり、己の血を分けた娘でもある小雪が、親である、そして師匠でもある自分に刃を向けたのである。
    「……ねえ、晶ちゃん」
    「はい」
    「お母さん、どこを失敗しちゃったのかしらね」
    「え?」
    「……ううん、何でもないわ」
     そう返したが――横から唐突に、返事が返って来た。
    「師匠は何も間違ってなどいない。あたしはそう信じてますよ」
    「え? ……もしかして、霙ちゃん?」
    「はい、藤川霙子にございます」
     そう言ってひょいと、霙子が姿を現す。
    「微力ながらお助けに参りました。ちなみに」
     そして霙子の背後から、6、7人ほどの人間が続く。
    「我らが焔雪乃門下は全員、師匠の味方ですよ」
    「……ありがとね、霙ちゃん、それからみんな」
     礼を言った雪乃に、愛弟子たちは笑って答える。
    「水臭いっスよ、師匠」
    「そうですよ、礼なんかこっちが言うべきです」
    「俺たちはみんな、先生を剣士の鑑として、ずっと鍛錬積んできたんですから」
    「……うん」
     雪乃は小さくうなずき、そしてきりっと表情を正した。
    「じゃあみんな、これからもわたしに付いてきてくれるかしら?」
    「勿論です」
     弟子たちは異口同音に同意し、雪乃の周りを囲んだ。
    「先生には指一本触れさせやしませんよ!」
    「来るなら来てみろってんだ!」
    「さあ、急ぎましょう先生!」
     雪乃母娘は弟子たちに護られる形で、門までの道を進んだ。
     そしてこれが、騒動に揺れる塞内に強い抑止力と、小雪への反発を生んだらしい――雪乃たちの周りに、続々と門下生や師範格の者たちが集まり始めた。
    「大先生、私もお供します!」
    「あれほど孝の無い者を手本、家元と仰ぐことは、最早できません!」
    「どうか俺たちが付いていくことを、お許しください!」
     集まってくる者たちに、雪乃はしずかにうなずき返す。それを受け、彼らも静かに同行していく。
     そして門に到着する頃には、それは50人、60人を優に超える大所帯になっていた。

     小雪とその取り巻きは、その騒ぎを塞の最上部から眺めていた。
     いや、眺めることしかできなかったのだ。
    「家元、早く騒ぎを収めねば……!」
     そう進言する深見に、小雪は苦々しい顔でこう返した。
    「そんなことしてみなさいよ――わたしは親殺しの上に、同門殺し、大量虐殺者の汚名まで着せられるのよ!? もうあんな人だかりになってしまったら、打つ手は無いわよ!
     一体あんたたち、こんなになるまで何してたのよ……ッ!?」
     怒りに満ちた顔で怒鳴られ、一同は口ごもる。
    「い、いや、明日の準備をと」
    「明日!? 今日起こってることをほっといて、明日の準備をしてたって言うの!?」
    「いや、ですから我々が騒ぎに気付いた時はもう、あのような状態で……」
    「そ、それにそんなことを仰るなら、家元だって」
    「は!? わたしに単身、あの集団の中に飛び込めって言うの!?」
    「いや、その……」
     と、怒鳴り散らしていた小雪は一転、黙り込む。
    「……」
    「……家元?」
    「ま、いいわ」
     けろっとした声でそう返され、一同はきょとんとする。
    「いい、とは?」
    「あっちの方から勝手に出て行ってくれるって言うなら、それでいいわ。ごめんね、ちょっとイラっと来ちゃったから、ひどいこと言っちゃったわ」
    「は、はあ」
    「いえ、我々はそんな、気になどしていないので」
    「そ」
     今度は素っ気なく応じ、それからにやっと笑う。
    「そもそも、あいつらが出て行ったところで、わたしたちには何の被害も無いのよ。何人出て行こうが、本家はうちなんだから。
     あいつらはいずれ、わたしたちのところに頭を下げに来るしか無いのよ。だってそうじゃない? 入門試験と免許皆伝試験を受けさせる場所はここにしか無いし、そしてその免許皆伝者を登録し、認可するのも、この紅蓮塞だけなのよ。
     伏鬼心克堂と、この……」
     小雪は書架から取り出した巻物を、自慢げに振った。
    「『焔流免許皆伝者証書』があれば、あいつらなんてただの、刀を持った難民よ」
    白猫夢・逐雪抄 6
    »»  2013.01.19.
    麒麟を巡る話、第164話。
    焔流の分裂。

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    7.
     門を抜け、街道を進んでしばらくしたところで、雪乃たちは良太と笠尾の二人と合流した。
    「無事で良かった、雪さん。そうそう、松さんもやっぱり、僕たちと一緒に来るってさ」
    「良かったわ。でも……」
     雪乃は良蔵が既に小雪派に付いていたこと、そして月乃が襲いかかって来たことを話した。
    「そうか……、なんか、悲しいな」
     良太はそうつぶやき、雪乃に背を向ける。
    「小雪も良蔵も、僕たちを『親』じゃなく、『敵』だと見なしてしまったんだね。そっか……」
    「良さん……」
     がっくりと肩を落とす夫を見て、雪乃の心にはまた、悲しみがぶり返しかける。
     ところが――その良太の袖口から、にゅっと何かが出て来た。
    「……じゃあ、……残念だけど、これはもう、あの子たちの元には置いておけないんだね」
    「それって、……まさか?」
     良太は振り返り、袖口から巻物を取り出して見せた。
    「うん。最早紅蓮塞にいる焔流は、『本家』とは呼べないよ。
     いや、呼ばせたくない。おじい様の代まで厳格に守ってきた規律・規範を穢されたとあっちゃ、少なくとも『これ』は死守しておかないとね」
     良太が見せた巻物を見て、霙子が「えっ?」と声を挙げる。
    「まさか……、証書ですか?」
    「うん。こんなこともいつかあるんじゃないかと思って、こっそり偽物を作っておいてたんだ。
     これがこっちにある限り、『小雪派焔流』は絶対に、本家を名乗れない」

    「……?」
     雪乃らを追い出し、小雪が有頂天になっていたところで、御経が首を傾げた。
    「家元。ちょっと……、失礼いたします」
    「え、なに?」
     小雪がひらひらと振っていた証書を取り、御経がぱら、とそれを開く。
    「……大変、まずいです、家元」
    「なにが?」
    「これは、偽物です」
    「……なにが?」
    「証書が偽物なのです!」
    「……うそ」
     げらげらと笑っていた小雪の顔が一転、蒼ざめる。
    「み、見せなさいっ!」
     御経から手渡された「証書」を乱暴に広げ、小雪は中に一筆だけ、こう書かれていることを確認した。

    「此を揚々と広げ威張り散らし者 贋(にせ)を贋と見抜けぬ未熟者なり
    紅蓮塞書庫番 焔良太」

    「……ぐ、……っ、あ、のッ」
     小雪は巻物を壁に叩き付け、窓の外に向かって怒鳴りつけた。
    「青瓢箪のクソ親父めえええッ! よくもわたしを、このわたしをッ……、騙したなああああーッ!」



     焔流分裂のニュースは、瞬く間に央南中を駆け巡った。
     央南有数の武力組織であり、伝統ある剣術一派である。その本拠地で騒動が起こり、二分されたとあって、央南中に散っている焔流剣士たち、そして焔流に献金してきた者たちは騒然としていた。
    「御免ね、晴奈」
     師匠にぺこりと頭を下げて謝られ、晴奈は目を白黒させている。
    「いえ、そんな。師匠が困っていると言うのに、何もせぬ弟子などおりません」
     雪乃たちはひとまず同輩の中で最も富と名声、政治的権力を持っている晴奈のところへと身を寄せた。
     勿論晴奈の生家であり、焔流に対して多額の献金および援助を行っていた黄家も、今回の騒動にも敏感に反応していた。
    「とりあえず、わたしのところの対応としては、紅蓮塞への援助は全面的に止めております。他の主だった焔流道場への援助についても、現在は見合わせている状態です」
     黄家当主である明奈は雪乃らにそう説明し、そしてこう続けた。
    「とは言え恐らく紅蓮塞以外の、ほとんどの焔流道場には、元通りお金を出すのでは無いかと思いますが」
    「ふむ?」
    「今回の騒動、橘喜新聞社をはじめとして、あちこちで内情が暴露されておりますし、そうなると紅蓮塞側に付くような道場は、そうそう無いでしょう。
     恐らく大部分、ほとんどの道場が雪乃さんたちの側に付くと思います。となれば援助の流れに関しては実質上、元通りになるかと」
    「だろうな。まさか親殺しを仕掛けようと言うような輩に、……っと、失礼いたしました」
     晴奈は雪乃をチラ、と見て、言葉を切った。
     しかしその後を、雪乃本人が継ぐ。
    「構わないわ。本当のことだもの。
     小雪はやってはならないことを、ついに犯してしまった。その報いはこれから、受けることになる。
     今回の件で、間違いなく紅蓮塞は孤立するわ」
    「経済的にも、政治的にも、あらゆる面において、……ですね」
     そう返した明奈に、晴奈が首を傾げた。
    「どう言うことだ?」
    白猫夢・逐雪抄 7
    »»  2013.01.20.
    麒麟を巡る話、第165話。
    アナリスト、明奈。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    8.
    「まず、経済面ですけれど」
     明奈は自分を指差し、こう説明した。
    「焔流の収入・運営資金は、本拠の紅蓮塞周辺における温泉街からの献金が3割。央南連合軍をはじめとする、武力を必要とする各組織からの報酬と謝礼金が5割。そして残りの2割ですけれど、わたしみたいな央南各都市の有力商人、商家からの献金・援助金です。
     今回の件で、3つ目に関してはほぼ全滅するでしょう。最も多く出資している黄家が止めるのですから、他も追従するでしょうし」
    「確かに。うちがやめれば、他も出し渋るだろうな」
     晴奈がうなずいたところで、明奈もうなずきつつ、こう続ける。
    「軍などからの報酬および謝礼も同様です。
     央南連合軍は年々、剣士の採用および運用の枠を狭めています。近年推し進められてきた軍備近代化に当たり――お姉さまや雪乃さんにこう言っては大変失礼とは思いますが――旧態依然とした白兵戦重視の戦術によって運用されてきた剣士をこのまま置くことは、その目的にそぐわないからです」
    「確かに時節の面、時代の流れから言えば、不本意ではあるが当然だな」
     晴奈は憮然としつつ、妹の意見に同意する。
    「とは言えこれまでのしがらみなり、縁故なりがありますから、何か突飛なことでも起こらない限り、ばっさり手を切るようなこともなかなかできない。軍本営も頭を悩ませていた問題のはずです。
     そこに、今回の一件です。軍本営にしてみれば、これは剣士の大量解雇を行う、格好の口実となります。ついでに剣士たちの総本山、焔流とも手を切り、彼らとの古い慣習・約定を一掃する機会でもあります。
     恐らく今回の件を楯に、央南連合軍は焔流との交流を、完全に絶とうとするでしょうね」
    「なんと利己的な、……とも言い切れぬか。軍には軍の事情もあることであるし。
     ふむ……、となると政治面においても孤立する、とは」
    「ええ。これまで最大の需要を持っていた、言い換えれば『剣士をどこよりも必要としていた』組織、央南連合軍から『もういらない』と手を切られれば、州軍などの他の武力組織も挙って、『剣士切り』に走るでしょう。
     これは言ってみれば、商人と商売の関係に似ています――どこにも自分の作った商品を卸せなくなり、商売の場が立てられなくなった商人は、やがて破産の憂き目を見ることになるでしょう」
    「それが政治的孤立となるわけか」
    「ええ、その通りです。
     資金源を大幅に失い、育ててきた剣士たちを主要武力組織から一挙に追い払われれば、紅蓮塞は資金難と職にあぶれた大勢の剣士たちを抱えることになり、いずれ破産・破滅するでしょうね」



     雪乃らを追い出し、晴れて名実ともに紅蓮塞の主となったものの、小雪は頭を抱えていた。
    「出戻りなんかされたって困るわよ……」
     明奈の読み通り、今回の事件を口実に、央南連合軍や各州の州軍から一斉に、焔流剣士の排斥・解雇が行われ、路頭に迷った剣士たちの半分近くが紅蓮塞へと戻ってきてしまったのだ。
     商人たちからの援助も切られたこともあり、紅蓮塞の経済事情は早くも逼迫しつつあった。
    「出納係に試算を行わせたところ、既に収入の15倍以上の支出が発生しているとのことです。
     このままの財政状況が続けば、紅蓮塞の持つ資金・資産は、来年末には空になってしまいます」
     御経からの報告を、小雪は終始顔をしかめて聞いていた。
    「じゃあ仮に、戻ってきた剣士たちを追い出した場合は?」
    「支出額が多少抑えられるだけで、収入面の激減に変化はありませんから、結果は同じです」
    「収入で賄えるのは、何人くらいになるの?」
    「月当たり60、70名が限界かと。しかし現在の収入は温泉街にしかなく、それもこの一件で客足が遠のいているとのことで……」
    「ジリ貧ってこと、……ね」
     小雪は顔をしかめたまま、取り巻きたちを一瞥する。
    「……どうすべきかしら。策は誰か、無い?」
    「畏れながら」
     と、月乃が手を挙げた。
    「金が無いのなら、あるところへ取りに行けば良いかと」
     その言葉に、小雪の顔が一層強張った。
    「まさか、あなた」
    「ええ。今回の一件に至った原因の一つは、我が母である黄晴奈にもあるはず。彼女に鉄槌を下すと共に、本来我々が受け取るはずだった金を、受け取りに行けば良いのです」
     そう言ってのけた月乃に、取り巻きたちも苦い顔を見せる。
    「黄、その理屈はいくらなんでも無理矢理すぎる」
    「此度の件に加え、さらに黄先生にまで刃を向けるとあっては……」
    「いよいよ我々の立場を危うくするぞ」
     だが――。
    「……乗るしかないわね、その策に」
    「い、家元!?」
     青ざめる御経らに対し、小雪はこう言い放った。
    「どの道『証書』がここに無ければ、わたしたちは本家を名乗れないわ。その『証書』は黄海にある。黄の言う因縁と金も、そこにある。
     すべての絡み、関係がそこにあるのなら、わたしたちは万難を排してでもそこへ押し入らなきゃならないのよ」
    「……」
     確実に、かつ、恐るべき速さで歪みゆく自分たちの道、そして歪めていく張本人を前に、誰も諌めることはできなかった。

    白猫夢・逐雪抄 終
    白猫夢・逐雪抄 8
    »»  2013.01.21.
    麒麟を巡る話、第166話。
    神器の書、信念の書、矜持の書。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     焔流分裂から1週間が経った、双月節も間近のある夜。
    「すみません、質問させていただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
     そう挨拶して朱明が、黄屋敷内の雪乃一家が仮住まいしている部屋へと訪ねてきた。
    「あら、朱明くん。質問って、わたしに?」
    「ええ。あ、もしかしたらこの話は、良太先生の方が詳しいかも知れませんが」
    「僕?」
     娘の晶奈と囲碁に興じていた良太が、顔を挙げる。
    「はい。腑に落ちないことが一点あったので、確認したいのですが」
    「って言うと?」
    「『証書』のことです。
     試験会場が特殊であることは、僕も『向こう』で入門試験を受けた身なので分かっています。確かにあのお堂は二つとない施設であり、本家焔流の証となるでしょう。
     でも証書もまた、本家本元の焔流であることの証明であると言うのが、どうも腑に落ちないのです」
     質問を受け、良太はコクリとうなずく。
    「なるほど。普通の書であれば確かに、複製もできる。そうしてしまえば済む話なのに、どうしてこれに固執するのか、と」
    「ええ」
     これを受け、良太は金庫から証書を取り出し、雪乃に声をかける。
    「雪さん。ちょっとこれを『火刃』で斬ってみて」
    「えっ!?」
     面食らう朱明に構わず、雪乃が応じる。
    「ええ。……はあッ!」
     雪乃が用いたのは刀ではなく、玄関に立てかけていた番傘だったが、それでも相手は「紙」である。
     良太がぽんと投げた証書が一瞬のうちに炎に包まれたのを見て、朱明は珍しく声を荒げた。
    「な、何をするんですか!?」
    「でも、ほら」
     良太が指差した先には、何事も無かったかのように証書が転がっていた。
    「……あ、あれ? 燃えて、……ないですね?」
    「と言うわけなんだ。つまり、これはいわゆる『神器』の一種で、複製のしようが無い、つまりこれもこれで、元祖の焔流だって言う証明になるんだよ。
     もっとも、それを差し引いても」
     良太は証書を広げ、そこに連ねられた名前を朱明に見せる。
    「これだけの人数が焔流の名前を背負ってくれてきたんだ。
     焔流と言うのは『焔玄蔵からの血筋が代々受け継いできた剣術一派』じゃない。これら数百、いや、千にも届こうかと言う数の人間が仁義と礼節の元に紡いできた、真に世界に誇れる『生き方』なんだ。
     これを複製してごまかそうなんて言う輩は、それこそ本家焔流の人間じゃない。その歴史を顧みず、嘘をついてその誇りを貶めるような者が、焔流と名乗ってはいけない」
    「なるほど……。ありがとうございます、良太先生」
    「いやいや」
     良太は肩をすくめ、こう返した。
    「僕は先生じゃないよ。ただの書庫番のおじさんさ」
     と、ここまで会話を傍で聞いていた晶奈が、ぽつりとこうつぶやく。
    「父上の人柄と知性であれば、とてもいい先生になれると思います。と言っても剣の、ではなく、学問の方のですが」
    「はは、それもいいね」
     良太は笑って返すが、雪乃がこれを聞いて、意外なことに顔を曇らせていた。
    「……」
    「どうされました、大先生?」
    「……ねえ?」
     雪乃は神妙な顔をし、良太と晶奈にこう尋ねた。
    「二人とも、まさか盗み聞きなんてしてない、……わよね?」
    「え?」「何を?」
     きょとんとする二人を見て、雪乃は一転、顔を赤らめさせた。
    「あっ、……ううん、なんでも。わたしの勘違いだったみたい。ゴメンね」
    「ん……?」
     怪訝な顔をする皆に、雪乃はいたたまれなくなったらしい。
    「……あ、あのね。実はまだ話がまとまってないから、まだもしかしたら、仮にって、そんなくらいの話なんだけどね。
     晴奈と明奈さんから、こんな話を打診されたの」
    白猫夢・明察抄 1
    »»  2013.01.23.
    麒麟を巡る話、第167話。
    テイク・オフを目の前にして。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     職にあぶれた焔流剣士たちが紅蓮塞に流れてきたのと同様に、黄海にも剣士たちの姿がちらほらと、目に付くようになった。
    「師匠。昔、青江へ旅をした際に楢崎派道場で会った虎獣人のことを、覚えておいででしょうか?」
     明奈を交えて三人で茶を飲んでいたところで晴奈にそう尋ねられ、雪乃はコクリとうなずく。
    「ええ、柏木くんね」
    「彼の息子だと言う子と、つい昨日くらいに話をしまして」
    「へぇ? じゃあ、その子も……」
    「ええ、焔流の免許皆伝を得た後、央南連合軍に就いたそうなのですが、就いて1年も経たぬうちに唐突に除隊されて路頭に迷い、こちらを訪れたとのことでした。
    『このままでは親に合わせる顔がない、どうにか仕事の口を与えてくれないだろうか』、と懇願されたものの……」
     晴奈は表情を曇らせ、こう続ける。
    「既に同様の話が、十件以上にも上っている状態でして。ともかく探してみよう、とはそれぞれに答えておいたものの、私の人脈ではなかなか……」
    「小雪派のせいで、今、焔流の評判は悪くなっていますものね」
     明奈は茶をすすりながら、それに応じる。
    「既存の需要では、対応はできないでしょうね。何か新しい雇用口を考えないと、折角の剣士たちが立ち枯れてしまいます」
    「新しい雇用口……、ねぇ」
     雪乃がそう返したが、いい案は無いらしく、言葉は続かない。
     代わりに明奈が、こう続けた。
    「一応、案は考えています。
     考えてみれば、焔流の剣士さんってみんな、囲碁も打てますし写本や写経もよくされてますし、武芸だけではなく、教養も高いですよね。
     人を『ちゃんと』育てる、と言うことに着目すれば、非常に優れた人材ではないかと思うんです」
    「ふーむ……?」
    「わたし、常々からこう考えているんです」
     そう前置きし、明奈は自分の考えを話す。
    「ここ数年、世界は急に成長した気がします。いえ、今後さらに、もっと成長していくでしょうね。
     この十数年、央南連合や西大海洋同盟は積極的に学校を作ったり、道を整備したりと、様々な社会整備を行ってきました。それは言わば、『下準備』であったと思います」
    「下準備? 何の?」
    「うまく説明はしにくいのですが……、言うなれば、社会をこれまでよりもう一段、優れたものにする、と言う感じでしょうか。
     実際、人の行き来は昔、父が当主であった頃よりもずっと多くなっていますし、輸入品も今まで見たことの無い、目新しいものが次々と現れています。
     今後さらにその勢いは増していくでしょう。そして我々央南の人間は、その勢いに付いていけるのだろうかと、不安にならずにはいられません。
     そう考えると今回の騒動は、単に一つの巨大組織が一地方で混乱をきたした、と言うものに留まらないような、そんな危機感を覚えるんです」
    「十分に大事だと思うんだけど……」
     頬を膨らませる雪乃に、明奈は深々とうなずいて見せる。
    「ええ、それは勿論。その重要性は十分に承知しています。
     でも、このまま放っておけば、今認識しているより一層の、悪い事態に発展しかねない。今後の対応で下手を打てば、央南の世界的地位は一挙に墜落することになる、……と言う意味です」
    「そこまで……?」
     一転、雪乃は怪訝な顔になる。
    「確かに央南随一の剣術一派だけど、この騒動はそこまで波及するものかしら」
    「問題なのは分裂したことではなく、分裂させた小雪派が今後、どう動くかです。
     恐らく資金難と『証書』を取り返そうと言う欲求から、彼らはここ、黄海に攻めて来るでしょう」
    「なに……!?」
    「まあ、無理な話では無いわね。今の小雪は、何をしでかすか分からないくらいに暴走してしまっているもの。金と権威のためであれば、多少の道理は踏み外すでしょうね」
    「それをそのまま看過していれば、焔流に対する世間の評判は、より一層悪い方へ傾くでしょう。
     もし戦いが起こり、小雪派とわたしたち、どちらが勝ったとしても、『焔流は地に堕ちた』と言う悪評の後押しをするだけです。
     絶対に、事態を戦う方向へ持って行ってはいけません。黄海やその周辺、衆人環視の状況で無暗に争うような姿勢を見せれば、それこそ悪評通りの破落戸と見られてしまいます」
    「ふむ……」
    「それよりも元々の評判通りの姿勢を見せ、『焔流はやはり優れた集団なのだ』と広く認識してもらう。これが今後の、あらゆることに関して、最も良い結果につながるものだと考えています。
     そこで考えた案が、『学校』なんです」
    白猫夢・明察抄 2
    »»  2013.01.24.
    麒麟を巡る話、第168話。
    方向転換。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
    「学校?」
     思ってもみない提案に、晴奈も雪乃も面食らう。
    「学校って、つまり、わたしたちが勉強を教えるってこと?」
    「ちょっと違います。確かにそれも多少はやってもらおうとは考えていますが、基本的には元々、紅蓮塞でされていた指導・鍛錬とほぼ変わりません。
     ただ、主旨を少し変えるつもりですが」
    「主旨、……と言うと?」
    「指導の重点を剣術中心のものから、心身育成を重視したものに変えてはどうか、と。
     本当に失礼を承知で言えば、剣術に関する需要は底を打ってしまっている状態です。そんな時勢に、なお『剣術集団』として名を売ろうとしても、評判が上がることはまず、無いでしょう」
    「本当に失礼だな」
     苦い顔をする姉に構わず、明奈は話を続ける。
    「それに今現在の、小雪派が暴走しかねないような状況で、剣術を主体とした指導を行ったとして、それがいい方向に転じるでしょうか?」
    「そうね……、戦争準備とか思われそう」
    「それもありますし、非常に若い方であれば、腕試しなどされたくなるかも知れません。その傾向が強まってしまうと、いくら『上』で戦争を回避しようとしても、『下』が無理やり開戦しようとするでしょう。
     今後の平和と焔流の存続・繁栄を考えれば、思い切った方向転換を考えなければならない。わたしはそう考えています」



    「……と言うのが、打診された話なんだけどね」
    「学校かー」
     話を聞き終えた良太と晶奈は、揃ってうなずいた。
    「いいんじゃない?」「私もそう思います」
    「えっ」
     すんなり賛成されるとは思わず、雪乃は面食らう。
    「え、でも……」
    「元々からおじい様も、武術偏重的な指導・鍛錬は望んでなかったからね。
     それよりも明奈大人の言う、心身育成を重要視してたと思うよ。雪さんも思い当たるところ、あるんじゃないかな」
    「そう、ね。確かにわたし自身も、小手先の技術・技量にはこだわらず、まず心身を鍛えることを第一として指導してたつもりだし。
     でも、他の焔流剣士たちがこれを聞いて、同意して教師になってくれるかどうか」
    「案外、納得するんじゃないかな。
     だって心身育成を第一義として長年指導を続けてきた君を慕って、ここまで一緒にやって来たくらいだもの。
     むしろ今更になって、武術主体に方向転換すると言っちゃったら、みんながっかりしちゃうんじゃないかなぁ」
    「……そうかしら?」
     夫の言葉に勇気づけられたのか、雪乃のその返事は、話し始めた当初より幾分軽い雰囲気となっていた。



     数日後、晴奈と明奈、そして雪乃夫妻は黄海に流れてきた剣士たちを集め、学校設立の旨を打診した。
     雪乃が不安視していた反発は確かにあったものの、半数以上は同意してくれた。
    「先代も『無暗な争いは避けるべし』と仰っていましたし」
    「それに我々だって、何も人を殺す術を指導していたつもりは無い」
    「うむ。人殺し云々が焔流の第一義であったなら、あの免許皆伝試験は何だったのかと言う話になる」
    「学問を教えると言うことには多少の不安はありますが、心身育成ならば喜んで引き受けましょうぞ」
     剣士たちの快い反応を受け、晴奈がこう応える。
    「皆の心意気、そして気概、誠にありがたい限りだ。
     ではこれより学校設立のため、まずはその首長、即ち学校長を選出したいと思うのだが」
     この問いに、剣士たちはしばらく沈黙した後、二者を指し示した。
    「私は黄晴奈範士を推します」
    「いや、俺は焔雪乃大先生が適任ではないかと思っている」
     ほぼ半分に意見が分かれ、雪乃の方も面食らっている様子を見せる。
    「え、いや、わたしはそんな……」「いえ」
     と、晴奈が頭を下げ、雪乃を推した。
    「私などより、師匠の方がその任にふさわしい方であることは、自明のことと思います。
     私も『先生』などと称されて久しくありますが、そもそも私がそう呼ばれるだけの実績、勲功を挙げることができたのは、ひとえに師匠の篤く細微にわたるご指導、ご鞭撻の賜物です。
     それを差し置いて私が皆の長と名乗るなど誠に烏滸がましいことであり、何より師匠の方が、私などよりもっと、大勢の者を正しく導くお力を持っていらっしゃいます。
     どうか師匠、皆を導く大役、今一度引き受けてはいただけないでしょうか」
    「……」
     雪乃は困った顔を浮かべていたが、やがて剣士たちに顔を向け、こう述べた。
    「『焔』の名を授かってから30余年、わたしはこの名を穢さぬよう努めてきました。
     しかし此度の一件で、あろうことかわたしの不肖の娘がこの名に大きな瑕(きず)を付けることとなり、誠に申し訳なく思っていました。
     それでもなお、わたしを推挙してくれること。本当にありがたく、そして、光栄なことと受け止めています。
     その任、謹んでお受けします」
     雪乃は皆に向かって、深々と頭を下げた。
    白猫夢・明察抄 3
    »»  2013.01.25.
    麒麟を巡る話、第169話。
    昔に戻って、昔に戻れなくて。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     雪乃が学校長に選ばれてから数日後、雪乃および経営陣(勿論、明奈率いる黄商会のことである)は次のことを発表した。
     まず、開校の予定日。教員や事務員の募集、校舎建設などの準備があるため、開校は翌545年の4月からとなった。
     その他建設地や募集要項などを黄州全体に発表するとともに、雪乃から己自身の身の振りについての公表があった。



    「このような――焔流分裂と言う一大騒動の――事態を引き起こした原因の一つは、当代家元の母親であり、かつ、後見人でもあるわたしにあります。
     そのような身で焔流の宗家たる名、『焔』を名乗ることは、先代ならびに代々の焔流家元の皆様に大変なご迷惑をかける。……今回の騒動で逐電して以降、強く、そう感じていました。
     付きましては、これを機会として『焔』の名を返上することにし、以後はわたしの旧姓、『柊』を名乗ることにいたします」



     この発表に関しても、明奈からの一声が事前にあった。
     雪乃が発言した内容に加え、明奈は徹底的に小雪派焔流との差別化を図っていたのである。どこまでも「武力主義に傾倒した小雪派とは違う」「あくまで心身育成を第一義とした教育を目指す」と言う姿勢を見せるための、一種のパフォーマンスでもあった。

    「……私はまだ納得行かない気分です。姓まで変える必要があったのか、と」
     一人、晴奈は雪乃にそう告げたが、雪乃はそれに対し、首を横に振った。
    「いいのよ。わたしの気持ちに嘘は無いわ。
     娘がしたこととは言え、それを防げなかったのは親のわたしの責任だもの。これは当然すべきことだったと、わたしはそう思っているわ。
     ただ、これで責任をすべて取ったとは思ってないわ」
    「いや、そんな……ことは……」
     否定しようと口を動かそうとするが、晴奈には二の句が継げなかった。
    「……晴奈」
     雪乃はぎゅっと、晴奈の手を握ってきた。
    「師匠?」
    「……これからわたしは、許されざることをするかも知れない。娘と決定的に、もう後戻りできないくらいの対立を、別離をすることになるかも知れないわ。
     その結末にはもう、仁義も礼節も無いでしょうね。この戦いが終わる時、わたしは焔流剣士として、真っ当な人間として、落第・失格することになるかも、……知れない。
     それでも、……それでも晴奈、あなたはわたしの側にいてくれる?」
     雪乃の震える手を握り返し、晴奈は応える。
    「……無論です。私は終生、師匠の弟子であり、そして」
     そこで晴奈はうつむき、小さな声でこう続けた。
    「唯一私が姉と思い、慕ったのは、師匠のみでございます故」
    「……ありがとう、晴奈」



     明奈の講じた数々の試みは、結果から見れば一応以上の成功を見た。
     新たに設立された学校――「柊学園」にはほぼ予定通りの数の入学希望者が集まり、一方で、黄州内にあぶれていた焔流剣士たちを一括雇用することもできた。
    「これで長期的には成功した、……と考えられますね。
     ただ、短期的な面を考えた場合、大きな問題が一つ残ってはいますが」
    「小雪派がいつ攻めてくるか、だな」
    「ええ」
     明奈はうなずき、卓上に地図を広げる。
    「情報によれば、やはり小雪派は孤立の一途をたどっているようです。
     当座の資金確保と今後の戦線拡大をにらんでか、小雪派は既に武力蜂起し、紅州内の主要都市を制圧したと聞いています。
     しかしその乱暴な行動のため、隣接する西辺州および玄州、白州、そしてわたしたちの統べる黄州との緊張が高まっています。
     わたしとしては、このままその4州が紅州と急速に対立を深め、いっそ断絶・孤立してくれればと考えています」
    「どう言うことだ?」
    「もし万が一、紅州と結託するような州が出た場合、これは央南連合結成以来の、央南分裂の危機につながります。
     そうなれば良くて央南域内の交流停滞、悪くて内戦となり、それはわたしの願う央南の環境向上と、正反対の流れになります。
     だから紅州はこのまま孤立させ、央南連合から弾き出してしまった方がいいのでは、とさえ考えています」
    「明奈、お前は……、徹底的に小雪を悪者にしたいのか?」
     そう尋ねた晴奈に、明奈は暗い顔でこう返した。
    「したい、……ではもうありません。もう、小雪さんは完全な悪者です。
     私利私欲のためいたずらに街を襲い、不法に占拠しているのですから。そのせいで、既に央南連合でも小雪派討伐が検討されています。
     わたしだって、昔の小雪さんの顔を思えば、心が痛まないわけではありません。でも、彼女はもう既に、わたしやお姉様の知る童女の頃の小雪さんではないのですよ」
    「……ああ。……ああ、分かって、……いるさ」
     晴奈は苦々しくそう言って、それきり口をつぐんだ。

    白猫夢・明察抄 終
    白猫夢・明察抄 4
    »»  2013.01.26.
    麒麟を巡る話、第170話。
    交流戦。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     柊学園の設立も決まり、その準備も順調に進んでいた、双月暦544年の春間近の頃。
     この頃には、元々から黄派焔流道場に在籍していた者と、紅蓮塞から移ってきた者との境目も薄くなってきており、その両門下生らが稽古終わりに入り混じって歓談することも、まったく珍しい光景ではなくなっていた。
    「大分空気がしっとりしてきたよなー」
    「だなぁ。先週だったらあんだけ打ち込んでも、汗が垂れたりしなかったもんなぁ」
    「汗かく端から乾いてましたもんね」
    「『狐』とか『猫』にとっちゃ、段々うっとうしい季節になってきたな」
    「そんなコト言ってアンタ、冬は冬で静電気やだって言ってなかった?」
    「言ってた言ってた、あはは……」
     汗でぺったりとした髪と狐耳を拭く同輩を囲み、皆で笑い合う。

     と――その「狐」がこう反論したのが、その後の「お祭り騒ぎ」の発端となった。
    「うっせ。狐獣人はみんなそーなんだよ。『うち』の紀伊見さんだって俺と同じこと言ってたぜ。きっと『そっち』の関戸さんだって、梅雨の時とか『尻尾の付け根が蒸れるっスわぁ』とか言ったりするんじゃね?」
    「言うワケないでしょ」
    「……いや、紅蓮塞の時に結構近いこと言ってた気がする」
    「えー……」
     口を尖らせた同輩に、またも皆が笑う。
     そこへ、今まさに噂に上った張本人――「柊派」の錬士、狐獣人の関戸が現れた。
    「うんうん言ってた言ってた、俺も『狐』だからねぇ」
    「あ、先生」
    「お疲れ様です!」
     門下生たちに並んでぺこ、と頭を下げられ、関戸もぺこりと返す。
    「お疲れー。ってか紀伊見さんもやっぱりそんなこと言ってたんだねぇ。稽古中はツンっとしてちょっと取っ付きにくい感じだったけど、それを聞いたら親近感湧くなー」
    「え、もしかして先生……」
     邪推され、関戸はぱたぱたと手を振って否定する。
    「いやいや、何言ってんの。そんなんじゃないよ。単にさ、『向こう』の人とも仲良くしたいなって、そーゆー話だから」
     そう返した関戸に、門下生の一人がこう尋ねた。
    「仲良くできてないんですか?」
    「ん? あ、いや、仲良くはしてるよ?
     たださ、暮れに押しかけてからずっとバタバタしっぱなしだし、何て言うか、交流を深められるような機会がなかなか作れないなー、って」
    「あー」
     門下生たちは揃ってうなずき、それから間をおいて、一人が手を挙げた。
    「あ、じゃあ……」

    「交流戦?」
     十分後、道場主の晴奈は門下生から、こんな提案を受けた。
    「はい! 柊派の方が来られてからずっと、黙々と稽古を続けておりましたが、よくよく考えてみれば歓迎も何もしてないじゃないですか」
    「成り行きとは言え、折角遠路はるばるお越しいただいたと言うのに、何のお持て成しもしないまま3ヶ月、4ヶ月も経ってしまってますし」
    「ふむ。確かに言う通りだ。このまま何もせずと言うのは、礼儀に欠ける。
     その点は納得できる。だがそれで交流戦を催すと言うのは、相手を差し図るようで失礼ではないだろうか?」
    「いえ、柊派の同輩たちや先生とも話をしてみたんですけども、『単に酒を酌み交わしたりするだけでは面白くない。やはりそれぞれが名にし負う剣術一派で腕を磨いてきた身なのだから、多少は腕比べもしてみたい気持ちはある』と仰っていました」
    「ふーむ……、まあ、多少不純な風も無くはないが……、皆がそう言うのであれば、取り計らってみようか」
    「本当ですか!」
    「やったー!」
     晴奈の返答に、門下生たちは一様に満面の笑みを浮かべ、小躍りした。
    白猫夢・剣宴抄 1
    »»  2013.01.28.
    麒麟を巡る話、第171話。
    お祭り騒ぎ。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     昔から、黄晴奈と言う人物は一つの「悪い癖」を持っていた。
     自分の考えと違うこと、意に沿わないことが起こると、それについて小声でブチブチと文句をこぼす点である。
    「……確かに交流戦を承知しはしたが、こんなお祭り騒ぎにするとは聞いておらぬ。内輪で催すのならまだしも、街中巻き込んでの宴会にするなどとは」「まあまあ」
     そして姉のそう言う性分を、周囲に不快感を与える前にやんわり鎮静させるのが、昔からの明奈の役割である。
    「街の人たちにとっても、柊派の人たちを歓迎したい気持ちは一緒ですよ。ちょうどいい機会ではありませんか。
     それに門下生の方に、こうして街の人たちにも知らせてはどうか、と入れ知恵したのは、実はわたしですし」
    「なに?」
    「内輪で楽しんで終わり、じゃ勿体無いですよ。街にとっても、焔流の剣士さんたちがこんなに大勢いらっしゃることは、誇りでもありますし。
     その敬意をないがしろにして、いつの間にか内輪で集まっていつの間にか終わりだなんて、そっちの方が無礼じゃありません?」
    「……うまく言いくるめられている気がする。……が、まあ、そうだな。折角慕って集まってくれた皆を今更追い返すなど」
    「でしょう?
     さ、お姉様。いつまでも腐ってないで、一緒に楽しみましょう」
     明奈は姉の手を引き、祭りの中へと連れて行った。

     前述の通り、最初は焔流剣士だけで集まり、簡単に技量を競い合って終わり、と言うくらいの規模を予定していたのだが、そこにこの話を聞きつけた明奈が介入。
     黄海全体を巻き込んだ、一大イベントに変えてしまったのである。しかも――。
    「……明奈?」
    「なんでしょう?」
    「あの黒髪に茶白の毛並みの狼獣人、見覚えがあるのだが」
    「ええ。央中からお呼びしました」
    「何のためにだ?」
    「交流戦を盛り上げてくださるとのことで」
    「……賭けなど図ってはいないだろうな?」
    「流石にそこまでできませんよ」
     小声で話しているうちに、その狼獣人――央中の興行家(プロモーター)、プレア・チェイサー女史が晴奈たちに気付き、手を振って近付いてきた。
    「お久しぶりです、セイナさん、メイナさん!」
    「ああ、久しぶりだなプレア」
     握手を交わしたところで、プレアはニコニコと笑みを浮かべながら説明し始めた。
    「今回ですね、メイナさんから『街の人々にも交流戦を楽しんでもらうには、どのように進めればいいか』とご相談をいただきまして。
     それでですね、やっぱり単純に試合をして、その勝敗を予想……」「お、おいおい」
     それを遮り、晴奈は慌てて確認する。
    「賭けは困る。これはあくまで焔流剣士同士の腕を競う試合であって、市国の闘技場ではないのだから」
    「ええ、ええ。勿論承知してます。ただですね、漫然と打ち合いを見てるだけじゃやっぱり飽きてしまうと思いますし、それじゃ場が冷えちゃってつまらないですよ。
     そこでですね、まず第一に試合の密度を濃くしようと思います」
    「密度を濃く?」
    「はい。黄派の方と柊派の方とで5名ずつ代表を選んでいただいて、5対5の団体戦の形式を採ります。
     で、賭けって程ではないんですが、街の皆さんがより盛り上がるように、色々、付け足そうかなーなんて。
    勿論、お金は賭けてません。安心してください」
    「……まあ、金が絡まぬのであれば、許容範囲だな」
     晴奈の許しを受け、プレアはにっこり笑う。
    「ありがとうございます、セイナさん!
     それじゃそろそろ、出場する方に連絡してきますねっ」
     その場を後にするプレアを見送ったところで、晴奈は再度、明奈に耳打ちする。
    「本当に金は、賭けてないんだな?」
    「あら、わたしをお疑いに?」
    「……いや。そうではない。
     だが明奈、お前は存外したたかで、抜け目のない性格をしているからな。金でなくとも、何か賭けているのではないかと思ってな」
    「うふふ」
     晴奈の問いに対し、明奈は笑ってごまかした。
    白猫夢・剣宴抄 2
    »»  2013.01.29.
    麒麟を巡る話、第172話。
    剣士たちの宴、始まる。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     事前に明奈とプレアは試合形式と出場者の選出方法を、両陣営に伝えていた。
     まず前述の通り、試合形式は5対5の勝ち抜き団体戦。先鋒対先鋒から進め、三本勝負の二本先取で勝利。負けた先鋒は次鋒に交代し、同様に負けた側が中堅、副将、大将と交代していき、先に相手側の大将を倒した方が勝利となる。
     そして選出される者については、門下生2名(先鋒・次鋒)と錬士を2名(中堅・副将)、そして範士を1名(大将)ずつとした。これは先鋒や次鋒が大将を倒してしまうような、一方的な試合になってしまうのを避けるためである。
     そして事前に剣士内で集計した人気投票により、出場者が決定された。

     黄派焔流からは、以下の5名。
      先鋒:鍋谷輿生(猫獣人、男性)
      次鋒:黄朱明(猫獣人、男性)
      中堅:紀伊見奈々子(狐獣人、女性)
      副将:水越兵治(長耳、男性)
      大将:清滝敬史(短耳、男性)

     そして柊派からは、以下の5名が選出された。
      先鋒:楠瑛吉(狐獣人、男性)
      次鋒:柊晶奈(長耳、女性)
      中堅:関戸侍郎(狐獣人、男性)
      副将:笠尾松寿(短耳、男性)
      大将:藤川霙子(短耳、女性)

    (ちなみに人気投票において、晴奈と雪乃は対象外となっていた。『選出してしまうと、後でお姉様からものすごく文句を言われそうだから』、……と明奈が判断したためである)



     黄海の広場に作られた特設会場に、この10名が揃う。
     そして司会役を買って出た明奈が彼らの前に立ち、マイクを片手に開会宣言した。
    「黄海市民の紳士、淑女の皆様。そして誇り高き焔流剣士の皆様。本日はこの催しにご参加いただき、誠にありがとうございます!
     さてさて、本日のこの交流戦、市民の皆様方にとってはその焔流の技と精神との結実、その鍛錬の成果を実際に目にするまたと無い機会であり、また、剣士の皆様方にとっては、それを発揮する絶好の機会でもあります!
     どうぞ、市民の皆様方はご声援を! どうぞ、剣士の皆様方はご奮戦を!」
     明奈にあおられる形で、街の者たちは盛り上がりを見せる。そして剣士たちも、多少の差はあるが、一様にワクワクとした様子を見せていた。
    「それでは両陣、先鋒のみ残してひとまずご退場ください! 早速第一回戦、始めさせていただきます!」
     明奈のアナウンスに従い、壇上に鍋谷と楠が残って、竹刀を提げて向かい合う。
    「両者、礼!」
     互いに礼をし、そこで互いに竹刀を構える。
    「……始めっ!」

     先に初太刀を放ったのは、鍋谷の方だった。
    「うりゃああッ!」
     ブン、と竹刀をうならせ、楠の頭を狙う。
     しかし楠はそれをくい、と身をひねってかわし、鍋谷の左に回り込む。
    「やあッ」
     パン、と乾いた小気味の良い音が響き、楠の竹刀が鍋谷の籠手を打った。
    「う……っ」
    「一本!」
     開始からたったの5秒足らずで勝ちを奪われ、鍋谷は絶句した。
    「強え……」
     ぽろ、とそんな弱気の言葉が漏れる。
     それ自体は聞こえはしなかったが、鍋谷の動揺を察した晴奈が、観客席から叱咤する。
    「うろたえるな、輿生! 冷静に構えて行け!」
    「はっ、はい!」
     一方、柊派では雪乃の二番弟子であり、大将でもある霙子が、楠をほめている。
    「やるじゃない、瑛くん! このまま勝っちゃいなさいよ!」
    「はい!」
     再び鍋谷と楠が構え、二戦目が始まる。
    「……ッ、これならどうだーッ!」
     鍋谷は全力で踏み込み、突きを放つ。
     しかしこれも楠はひょいとかわし、鍋谷の背後に回り込む。
    (あ、馬鹿……)
     無防備になった鍋谷を見て、晴奈も、黄派陣営も頭を抱える。
     鍋谷がきょろきょろと辺りを見回した次の瞬間、すぱん、とまたも鋭い音を立てて、その面が叩かれた。
    「勝負あり! 勝者、楠暎吉!」
    「うそだろ……」
     二度も瞬殺され、鍋谷はがくりと膝を着いた。
    「やったー! 万歳、暎くん!」
    「へへ……、ちょっと恥ずかしいです、母上。落ち着いて下さい」
     そして楠の勝利を一番喜んだのは――実は彼の母でもある、霙子だった。
    白猫夢・剣宴抄 3
    »»  2013.01.30.
    麒麟を巡る話、第173話。
    冷静対冷静。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     霙子の息子、暎吉(あきよし)が勝利し、第二回戦は黄派の次鋒、朱明との対決となった。
    「よろしくお願いします」
     そろってぺこ、と頭を下げ、竹刀を構える。
     この対戦は知る人ぞ知る、面白い組み合わせだった。片や雪乃の一番弟子、晴奈の甥であり、片や雪乃の二番弟子、霙子の息子である。
     雪乃の一番弟子と二番弟子の、それぞれの孫弟子同士の戦いとなり、それを知る者たちにとっては非常に興味深い一戦でもあった。
    「どっちが勝つと思う?」
    「そりゃ、格で言ったら朱明だろ」
    「いや、あの輿生が惨敗だったし、暎吉が勝つんじゃね?」
    「……うっせぇ」
     凹む鍋谷をよそに、門下生たちは予想し合う。
    「目立たないヤツだけどさ、朱明はふつーに強いし」
    「そうよね。ナベ、一度も朱くんに勝ったコトないし」
    「ほっとけ」
    「……ま、どっちにしても俺たちとしちゃ、朱明を応援したいよな」
    「だね」
     そうこうしているうちに試合が始まっていたが、両者はまだにらみ合っていた。
    「……」「……」
     先程とは打って変わり、どちらも慎重に間合いを詰めつつ、攻撃の機会を伺っている。
     見守っていた晴奈は、冷静に分析した。
    (先程の輿生と暎吉とでは、相性が悪過ぎたな。
     血気盛んで思い切りのいい性格は剣士として申し分ない素質だが、朱明や暎吉のような冷静沈着な者が相手では格好の的、餌食も同然だ。
     一転、この対決は両者とも似通った性質だ。うかつに飛び込んで返り討ちになるような展開にはなるまい。
     となると……、純粋に技量で競り合って倒すか、それとも搦手で油断を誘うか)
     じりじりと間合いを詰めていた朱明が、先に動いた。
    「はあッ!」
     朱明は一気に間合いを詰め、暎吉の面を狙って――いるように見せる。
    「……っ」
     一方、暎吉もこのフェイントが来ることは予想していたのだろう。詰められた間合いを後ろに跳んで広げ直し、朱明の射程から外れる。
    「ありゃ……」
     振り上げていた竹刀を正眼に構え直し、朱明はぽつりと残念そうな声を漏らした。
    「そう簡単には引っかかりません、僕」
     暎吉にそう返され、朱明はクスっと笑う。
    「それは残念です」
     そう言うと朱明は、ほとんど予備動作を見せず、まるで滑るかのようにもう一度、間合いを詰めた。
    (なに、無拍子……!?)
     高等技術を披露して見せた朱明に、観戦していた晴奈も相当面食らっていたが、もっと度肝を抜かれたのは、目の前でそれを見せられた暎吉の方だっただろう。
    「な……!?」
     先程のようなすんなりとした動きではなく、露骨に慌てた様子で横へ引く。
    「そこだッ!」
     無拍子で歩み寄った朱明が、くん、とほぼ直角に曲がる。
    「……!」
     すぱん、と音を立て、暎吉の面に朱明の竹刀が当てられた。
    「と、……取られましたね」
    「何とか上手く行きました」
     まだ目を白黒させる暎吉に、朱明はもう一度笑って返した。

     その後暎吉が何とか一勝したものの、さらにもう一勝朱明が奪い、暎吉は敗退した。
    「やるな、朱明」
     晴奈は汗を拭いていた朱明のところを訪ね、彼を労った。
    「20そこそこであの動きができるとは、恐れ入ったよ」
    「いえ、そんな……。拙い技でしたし、成功した方が奇跡ですよ」
    「謙遜するな、朱明。あれが拙いと言うことがあるか。誰にだってできることでは無い。
     お前は少しくらい自信を持った方がいい。こうして代表に選ばれたのも、実力あってのことなのだから、それで謙遜されたら、選ばれなかった者に失礼だぞ」
    「あ、……はい」
    「さ、間も無く次の試合だ。胸を張って行け」
    「はい」
     小さく頭を下げ、ふたたび壇上に上がる朱明を見送りながら、晴奈は一人、眉をひそめていた。
    (昔、当事者から一歩引いて眺めるとあいつから言われたが……、剣士としてあいつを見るに、その態度には不安がある。己に自信を持っていないことが、うっすらと透けて見えるようだ。
     今一つ自信を出せないあいつには、どうにも覇気が無い。自発性、積極性にも欠ける。技術は人一倍優れているが――自信の無さがここぞと言う時、その長所を抑え込むような気がしてならない)
    白猫夢・剣宴抄 4
    »»  2013.01.31.
    麒麟を巡る話、第174話。
    朱明、策を弄す。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     両陣とも先鋒が敗れ、三回戦は次鋒対次鋒、朱明と晶奈との戦いとなった。
    「よろしくお願いします」
     朱明と晶奈が、互いに礼をする。
     柔らかい印象を与える朱明に比べ、晶奈は凛とした空気を漂わせていた。
    (小雪や良蔵と比べて、晶奈が刀を振るうところはあまり目にしてはいないが……、一見したところ、16歳にしてはなかなか鍛錬を積んでいると見える。身のこなし、そして構えには堂に入った感がある。
     小雪も10年前は、あのように一片の曇りも迷いも無い、純粋に光るものを見せていたのにな)
     試合が始まり、二回戦と同様に、両者ともじりじりと間合いを詰めていく。
    「……」
     晶奈の方が若干、詰め方が強い。竹刀がぎりぎり交わるか交わらないかのところで、晶奈が仕掛けた。
    「りゃあッ!」
     晶奈は勢いよく竹刀を振り上げ、朱明の面を狙う。それをかわし、朱明は後ろに退く。
     しかしそれをさらに追い込み、晶奈が胴を払った。
    「えやああッ!」「……っ」
     ばし、と若干鈍めな音ではあったが、晶奈の竹刀はしっかりと朱明を捉えていた。
    「一本!」
    (ふむ……。ここは強気の攻めが功を奏したか。
     朱明の悪いところが足を引っ張った形だな。初手で『見』に回ったのが敗因だろう。
     ……うん? と考えると……?)
     両者とも開始位置に戻り、もう一度構える。
    「始め!」
     先程と同じく、晶奈の方から間合いを詰めていく。
    「どうした、朱明! 攻めて来い!」
     優勢と感じたらしく、晶奈が挑発してくる。
    「……」
     朱明は何も返さず、じっと構えている。
    (二回戦の時は、先に輿生と暎吉の戦いを見られたからな。ある程度、対策は取れていたのだろう。
     しかし晶奈の戦い方を見るのは、これが初めて。故に一本捨てる形で、どう動くのかを見定めていたのかも知れん)
     挑発に動じない朱明に、晶奈は痺れを切らしたらしい。
    「せやあッ!」
     一本目と同様、晶奈がぐいと踏み込み、面を狙いに行く。朱明はそれを、これもまた同様に退いてかわす。
     朱明のこの反応で、どうやら晶奈は朱明を侮ったらしい。先程と全く同じ形で、胴を狙いに来た。
    「はあッ!」「やッ」
     朱明は右に回り、晶奈の竹刀をかわす。
    「……!」
     晶奈が振り返るその直前に、朱明はすぱん、と彼女の籠手を弾いた。
    「一本!」
    (……巧者と言うべきか。相手の癖を即座に見抜き、攻めに組み込むその感性は素晴らしい。
     しかし……、私がそう言うことをしないからだろうか、何と言うか、小狡い気もしないではないな)
     朱明はこの試合の流れをつかんだらしく、その後もう一勝を挙げ、柊側の二連敗となった。



     交流戦は四回戦に移り、次鋒・朱明と中堅・関戸とが対峙した。
    「さーて、と」
     開始前、面を被る直前――関戸は朱明にこう声をかけた。
    「やるねぇ、お前さん」
    「え? あ、はい」
    「ま、よろしく」
     それだけ返して関戸は面を被る。
    試合が始まり、朱明は先程と同様に竹刀を構え、じりじりと間合いを詰める。関戸の方も同様に間合いを詰めていたが、やがてぐい、と一挙に間合いを詰め、攻撃を仕掛ける。
    「おりゃっ!」
     朱明は、今度は竹刀で相手の初太刀を受ける。が、受けられたところで関戸は退き、同時に胴を狙う。
     これも朱明はわざと打たせたらしく、ぼこ、と鈍い音が響く。有効打とはならず、審判から勝負ありとの声はかからなかった。
    「……」
     両者とも退き、互いに構え直す。
    「そらッ!」
     もう一度関戸が仕掛ける。それを朱明は受け、それを受けてもう二度、三度と関戸が打ち込む。
     これを何度か繰り返したところで、ようやく関戸が有効打を当て、長い一本目が終わった。
    「関戸先生が苦戦してる……?」
    「あんなに強かったっけ、朱明くんって」
    「すげーなぁ、先生相手に」
     門下生たちは朱明の健闘をほめていたが、晴奈は苦々しく思っていた。
    (……なんだろうな。やはり剣士として、いい姿勢では無い気がする。
     無暗やたらに飛び込むのが良いこととは言わないが、それでも目上、格上の人間を相手にし、罠に嵌めようとする朱明の姿勢・態度は、礼儀を欠いているように感じられる)
     二本目に移る直前、関戸がまた声をかけてきた。
    「ありがとよ、朱明くん」
    「いえ」
    「それじゃあこのまま、二本目も行かせてもらうか」
     二本目が始まり、これも関戸が先に仕掛けてきた。
    「だあッ!」
     ところが――朱明がそれを受けようと動いた瞬間、関戸は掛け声を出しただけでピタ、と止まる。
    「え」
     虚を突かれ、朱明は竹刀を上げた状態で止まってしまった。
     その一瞬の隙を、関戸が突く。
    「そらよッ」
     上がったままの右籠手を打ち、続いて胴を打って抜ける。
    「二本!」
     一瞬で二太刀食らい、朱明はまだ竹刀を上に構えたまま、茫然としている。
    「はっは、しつこいくらい面を狙ったからな。今のも面狙いだと思っただろ?
     あんまり人をはかるもんじゃねーぜ、朱明くん」
    「……う、……はい」
     背中から声をかけられ、朱明はようやく構えを解いた。
    白猫夢・剣宴抄 5
    »»  2013.02.01.
    麒麟を巡る話、第175話。
    シーソーゲーム。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     悔しそうな顔で壇上から戻ってきた朱明に、晴奈は声をかけた。
    「なかなか善戦したが、最後は逆に罠にかけられる形となったな」
    「そう……、ですね」
    「説教するようだが、朱明」
     晴奈は朱明を自分の横に座るよう促し、先程の戦い方をとがめる。
    「ここぞと言うところで策を弄する人間は、自信と実力が付かんぞ。ましてや目上を嵌めようなど、褒められたものでは無い」
    「……逆に嵌められましたからね。自分の不足、思い知りました」
    「小手先で凌ごうとする前に、実力を付けた方がいい」
    「と言って伯母さん、大体力技で解決するじゃないですか。それはそれで無粋と思いますけど」
    「口答えするな、まったく」
    「はは……」
     話しているうちに黄側の中堅、紀伊見の準備が整い、壇上に上がる。
    「よろしくお願いします」
     す、と頭を下げる紀伊見に対し、関戸も礼で返しながら、こう声をかけた。
    「よろしく、紀伊見さん。へへ、同じ『狐』同士だな」
    「そうですね」
    「色々気が合いそう……」「そう言う話でしたら私より兵治さん、……水越の方が合いますよ。あの人も軟派ですから」
     にべもなく返されたところで、試合開始となった。

     先程は朱明を嵌め返すために搦手を使った関戸だったが、今度は正攻法で仕掛けた。
    「うりゃっ!」
     正面から面を狙いに行った関戸の竹刀を、紀伊見はがっちりと己の竹刀で受け、退きざまに胴を打つ。しかし関戸も退き、その太刀をかわす。
     かわした直後にもう一度踏み込み、今度ももう一度、面を狙う。これを紀伊見は、今度は右にかわし、直後に胴を狙おうと構える。
    「はあッ!」
     しかし紀伊見が竹刀を払ったところで関戸が左斜め後ろに退いてそれをかわし、きっちり対峙する形に戻して、そのまま面を打って抜けて行った。
    「一本!」
    「……っ」
     まるで型稽古でもしていたかのような流れる展開に、会場は一瞬静まり返り、そして割れんばかりの声援が沸き起こった。
    「流石だな……」
     晴奈も拍手し、二人の戦いを賞賛した。

     この後も紀伊見の挙動を読み切り、彼女を圧倒する形で関戸が勝ち切り、黄派の二連敗となった。
    「ありがとうございました」
     互いに礼をした後、紀伊見が壇上から降りようとする。
     と、そこでまた関戸が声をかけた。
    「これでもただの軟派野郎かな、俺」
    「……元よりそうは思っていません。実力は認めていますし、結果もそれを示しています」
    「そっか。まあ、また機会があったら手合わせ願いたいね」
    「望むところです。今度は勝ちますから」
     紀伊見はもう一度会釈し、壇上から降りた。



     試合は六回戦に移り、黄派の副将、水越が壇上に上がった。
    「紀伊見さんから聞いたけど、あんた、俺と似てるらしいな」
    「かもな。ま、そんな話は終わってからしようや。
     乗っかりたい気持ちはあるが、こっちはいよいよ後二人になっちまったからな」
    「おう」
     思ったより馴れ合った空気は立たず、二人は淡々と開始位置に移動する。
    「始め!」
     そして試合が始まった途端、両者とも一気に間合いを詰め、鍔迫り合いになった。
    「せやッ!」「おりゃあッ!」
     一旦は離れたものの、すぐに攻撃を仕掛け直し、二、三合打ち合ったところでまた、鍔迫り合いになる。
    「はーっ、はーっ……」「ふう、はあ……」
     しかし、序盤は互角に思われたが、連戦した上、朱明といたずらに打ち合いをさせられ、既に相当疲労していたせいか、関戸の動きは次第に精彩を欠き始めた。
    「だああッ!」
     そして試合開始から両者とも有効打の無いまま時間が過ぎ、5分、6分と経った頃になって、ようやく水越の竹刀が関戸の面を打ち抜いた。
    「く、っそ」
     関戸はゼエゼエと肩で息をしつつ、開始位置に戻る。
     一方の水越も息は荒いものの、関戸ほどには疲れていないように見えた。
    「確かに、似たり寄ったりかもな。連戦が無かったら、きつかったよ」
     水越にそう声をかけられたが、関戸は「……ああ」としぼり出すような声を挙げるのが精一杯だった。

     二本目に移っても依然、関戸の動きには四戦目、五戦目での切れは見られず、水越に引っ張り回されるような形で決着が付いた。
    白猫夢・剣宴抄 6
    »»  2013.02.02.
    麒麟を巡る話、第176話。
    酣(たけなわ)。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    7.
     両陣とも中堅までの三人が敗れ、七回戦は副将同士の対決となった。
    「……」
     柊派の中堅、笠尾は礼以外に言葉を発さず、静かに構える。
    「始め!」
     そして一本目が始まっても笠尾は動かず、じっと正眼に構えていた。
    「りゃあッ!」
     当然、水越が先に仕掛ける形となる。
     しかしこれもほとんど最小限の動作で受け切り、それでもなお迫ってくる水越を、竹刀ごと弾く。
    「うおっ、……お、お」
     しかし弾かれたものの、笠尾はそれに乗じて打ち込んでくるような様子も見せず、再び正眼に構え直す。
    「……らああッ!」
     それを相手の傲慢と見たのか、水越の掛け声に、わずかながら怒りの色が差す。
     先程より勢いをつけ、水越は懸命に打ち込んでいく。しかしこれも受け切られ、攻めあぐねた水越の動きに、次第に淀みが現れ始めた。
     と、ここで笠尾が構えを正眼から上段に変える。
    「……行くぞ!」
     笠尾はそう言い放ち、ばん、と重く、そして荒々しい音を立てて踏み込んだ。
    「……っ」
     この一瞬――水越も、会場の最前列で観戦していた者も、ぞくりとした怖気を覚えた。
    「せいっ! でやっ! うりゃあああッ!」
     それまでまるで、銅像のようにじっと構えていた笠尾は竹刀をぶんぶんとうならせ、怒涛のごとく打ち込んでくる。
     水越はその一太刀目、二太刀目はなんとか受け切ったが、三太刀目を受けたところで体勢を崩し、胴ががら空きになる。
    「そこだあッ!」
     ばぢん、と重い音を響かせ、水越の胴が叩かれる。勢いを殺し切れず、水越は仰向けにひっくり返ってしまった。
    「い、一本!」
    「ぉ……、っう」
     何とか起き上がった水越から、半ば悲鳴じみたうめき声が漏れる。
     それを見た笠尾が、深々と頭を下げた。
    「すまん! 気合が入り過ぎた!」
    「……いえ、……大丈夫、……っス」
     額に脂汗を浮かべながらも水越はそう答えたが、胴越しでも相当響いたらしい。
     その後の二本目には先程までの軽快かつ胆力のある動きは見られず、そのまま笠尾の勝利が決まった。

     ここまで一進一退の攻防が続いてきたが、笠尾の登場により黄派の空気は、一気に重たくなってしまった。
    「無茶苦茶強ええ……」
    「ゾッとしたぜ、見てて」
    「水越先生がブッ飛ばされるのなんて、初めて見たわよ」
    「清滝先生、勝てるのかな……」
    「先生、確かに強いけどさ……。笠尾先生の方が修行積んでるし、あの動き見たら、自信無くなるよ」
     門下生たちのそんな不安を背に、黄派大将の清滝範士が壇に上がった。
    「よろしくお願いします」
     互いに、静かに礼を交わす。
    「始め!」
     一本目開始が告げられたが、両者とも動かない。
    「……」
     間合いを詰めることすらせず、正眼に構えたままである。
    「行け、行け、先生!」
    「このまま決めちゃえ!」
     柊派からも、黄派からも声援が飛び交う。
     しかし――それでも二人は動かない。
    「……」
     そして開始から1分以上が経過して、笠尾の方が動いた。
    「……いざ、参る!」
    「受けて立ちます」
     先程と同様、笠尾は銅像から一挙に、獅子へと勢いを変える。
    「うおりゃああッ!」
     猛然と竹刀を振るい、笠尾が攻め込んでくる。それに対し、清滝は必要最小限と言っていい程度の動作でさらりと受け流し、かわしていく。
     清滝の華麗な捌き方に、意気消沈しかかっていた黄派の者は色めき立つ。
    「すっげ……」
    「まさに柔と剛、って感じだ」
    「行ける、清滝先生なら行けるっ!」
     黄派の応援に圧されてか、それともあまりに受け流され、業を煮やしたか――笠尾の動きが、ほんの一瞬ではあるが止まる。
    「……~っ」
     そのわずかな隙を突き、清滝が仕掛けた。
    「はあッ!」
     まるで弓で射るかのように、清滝の竹刀の先が笠尾の喉を突く。
    「ぐっ……、う……」
     正確には突くと言うよりも多少強めに押す程度に留まったが、それでも急所である。
     笠尾は倒れたりうずくまったりはせず、そのまま仁王立ちでこらえたものの、顔は真っ青になっており、構えが取れるような状態ではなさそうだった。
    「いささか乱暴な技ではありましたが……、うちの水越を滅多打ちにしたお返しです」
    「む、う……」
     笠尾は竹刀を下ろして頭を下げ、降参の意思を示した。
    白猫夢・剣宴抄 7
    »»  2013.02.03.
    麒麟を巡る話、第177話。
    宴が終わって。

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    8.
     柊派も副将が敗れ、いよいよ大将戦、範士同士の大一番となった。
    「よろしくお願いします」
     どちらも大将に選ばれた者同士とは言え、霙子の方が年齢も経験量も、子弟の筋で言っても格上であり、黄派の不利は明らかだった。
    「やあッ!」
     清滝は先程の防戦姿勢とは逆に、果敢に間合いへ踏み込み、霙子に仕掛けていく。一方、霙子はそれをきっちりと受け、盤石の防御を見せる。
    「……」
     それでも連綿と続くかのような清滝の長い攻めに、次第に霙子が押され始めた。
    「先生、頑張れー!」
    「勝って、勝ってー!」
     それを心配してか、柊派から不安げな声援が聞こえ始めた。
    「……っと」
     と、霙子が清滝の面狙いを竹刀の鍔元でがっちりと受けて、鍔迫り合いに持ち込む。
    「む……」
     これを見た晴奈は――今回は敵方とは言え、妹弟子のことであるため――不安になった。
    「力量だけで見れば、あれは霙子に不利な形になる。鍛えているとは言え、女の腕力では同様に鍛えた男の力を押し返すのに不足だ」
    「え、伯母さんがそんなこと言うんですか?」
     傍らの朱明が、意外そうな声を出す。
    「私だから、だ。元々筋肉のあまり付かぬ猫獣人であるし、霙子以上に私は筋力に欠ける。こう言う経験は割と多い方だ。
     ……とは言え、筋力で勝る相手に勝つ方法は少なくない。恐らく霙子もそれを狙うだろう」
     晴奈の言う通り、鍔迫り合いに持ち込んだことで清滝に圧される形となり、霙子の体勢がみるみる反り返る。
     ところが――。
    「……りゃあッ!」
     霙子は突然、ぐりん、と身をひねり、清滝の左に踏み込んだ。目一杯に彼女を圧していた清滝は当然、前のめりになって大きく体勢を崩す。
    「う……っ」「たあッ!」
     ぐるりと転回し、霙子は清滝の面、そして左籠手を打って抜けた。
    「に、二本! 勝負あり!」
     一度に二回も有効打を決められ、清滝の敗北が決定した。
    「……参りました」
    「うふふ……」
     膝を着いた清滝を助け起こしながら、霙子はにこっと笑って見せた。

     大将同士の対戦にまでもつれにもつれ込んだ交流戦は、柊派の勝利で幕を閉じた。



     この交流戦により、柊派と黄派はより一層親しくなった。
    「やあ、朱明。今日も稽古、付き合ってもらうからな」
    「あ、はい」
     交流戦以来、晶奈は朱明を己の稽古相手に、よく誘うようになった。
     彼女曰く「わたしをあんなにあっさり負かしたのは、同輩では朱明だけだ。学ぶものがある」とのことだったが、傍目には別の、好意的な雰囲気も見て取れていた。
    「ちょ、ちょっと待てよぉ! たまにはさ、そのさ、俺とか……」
     晶奈のその様子を見て、鍋谷が慌てて口を挟んでくるが――。
    「君はいい。学べそうな点が無い。もっと強くならないとわたしも相手し辛いし」
    「うぐ……」
     晶奈に素っ気なくあしらわれ、鍋谷はその場に崩れる。
    「ま、まあまあ、輿生くん。……僕が相手しますよ」
     暎吉がそう申し出るが、鍋谷は猫耳をぺちゃりと伏せて首を横に振る。
    「男とやってもむさ苦しいだけなんだよぉ……。俺は晶ちゃんとやりてぇ」
     この様子に周りの門下生は呆れ返り、クスクス笑っていた。
    「……アホね」
    「うん、あいつアホだ」

     一方、この様子を眺めていた晴奈はまた、小声でブチブチと文句を垂れていた。
    (確かに双方の交流に一役買ったのは認めるが……、結局賭けていたではないか。いや、確かに金、『現金』は賭けていない。それは明奈の言う通りではあったさ。
     だが金の代わりに、柊学園に入学ないし勤務を予定している人間に対し、入学金の一部免除や給与増額などの権利を賭けていたと言うではないか。それでは結局金を賭けたのと一緒だ。
     我が妹ながら……、此度ばかりはやけに、癇に障ることばかりしてくれるな)
    白猫夢・剣宴抄 8
    »»  2013.02.04.
    麒麟を巡る話、第178話。
    妹たちの懸念。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    9.
     晴奈の怒りに対し、明奈はこう返した。
    「確かに賭けはしておりました。けれどお姉様、それが何か、いけない結果を生じさせましたか?」
    「市民はともかくとしてもだ、剣士や門下生に対してまで射幸心をあおるようなことを仕掛けるなど、剣士としての誇り、理念を惑わせるようなものだ」
     晴奈はそう反論したが、明奈はふるふると首を振った。
    「わたしにはそうは思えません。むしろ柊派と黄派、両者の結束を高める上でいい『つなぎ』の役割を果たしたと思っています。
     そもそも、わたしは常々思っていたのですけれど」
     明奈はキッと、晴奈をにらむ。
    「お姉様は堅いことが随分お好きのようですけれど、それを自分の中で守るだけならまだしも、他人にまでその生き方を押し付けたことが結局、月乃ちゃんを困らせ、黄海から離れさせる結果となったことに、まだお気付きにならないの?」
    「なに……っ」
     憤る晴奈に、明奈は珍しくきつい口調で対してくる。
    「お姉様はさぞ正しいことを実践されているかのように、ご自分の振る舞い方を考えているご様子ですけれど、わたしには自分勝手な正義の押し売りにしか感じられません。
     やれ正しい道を歩むべきだ、やれ真っ当に生きるべきだと、そう何べんも何べんも頭ごなしに言いつけられ、命じられて、はい分かりましたと素直に、愚直に応じる人間が当たり前のようにいると思ってらっしゃるの?
     何度も何度もわたし、言いましたけれど――お姉様自身、親からのああしろこうしろ、これがお前の行くべき道なのだ、お前にとって正しい人生なのだと、そう言う『真っ当な』命令に反発して出て行ったくせに、親になった今、全く同じことをしてらっしゃるのよ!
     その体たらくで『剣士としての誇り、理念』云々ですって? お姉様、一体あなた、何様になったおつもりなの!?」
    「ぐ……っ」
    「お姉様自身が30年以上も前にやったことを、今、他の誰もやってはいけないだなんて、烏滸がましいにも程があります!」
    「……」
     ぐうの音も出ない程に叱咤され、晴奈は黙るしか無かった。
    「……これ以上責めるのは心苦しいですけれど、もう一つだけ言わせてください」
     晴奈の様子を見た明奈は、一転、やんわりとした口調になった。
    「昔のお姉様の方がもっと、融通無碍な方でしたよ。長い旅を終えられて、様々な経験を積んで人間が磨かれたばかりの頃の方がよっぽど、気軽に話せる人でした」
    「……人は変わるさ。変わるものだ」
    「変わってほしくないところもあります。ありましたのに」
    「……」
     晴奈はうなだれたまま、明奈の部屋を後にした。



     姉が眠りに就いた後、明奈は己の執務室で密かに、ある剣士と会っていた。
    「……それは、本当に?」
    「ええ」
     晴奈の妹弟子、藤川霙子である。
     明奈は彼女から、「気になることがあるが現時点では確信が持てないため、晴奈の耳には入れたくない」と相談され、こうして密談することになったのだ。
    「しかし、それが本当なら、大変なことになります。でも確かに、今は姉に聞かせられるようなお話ではありませんね。
     まさか姉も、自分の身内にそんな者がいるとは夢にも思ってもいないでしょうし、何より今、姉は精神的に不安定です。そんなことを聞けば前後の見境を失うほどに激昂するか、卒倒するかしてしまうでしょう」
    「ええ、あたしもそう思うわ。姉(あね)さん、結構そう言うの弱そうだし」
    「『妹』ですものね、分かってしまいますよね」
    「そりゃ、ねぇ」
     二人でクスっと笑い、互いに真顔に戻す。
    「……コホン。ともかく一度、調べてみなくてはなりませんね。
     幸い調べものに関しては、うってつけの友人がいます。彼に頼めばすぐにでも、『その剣士』の生い立ちや素性を調べてくれるでしょう。
     そしてもし、霙子さんの懸念が本物であった場合――即座に手を打たなければいけません」
    「そうね。この差し迫りつつある状況下で、本当に『あいつ』がそうだった場合、この状況は『あいつ』にとってまたとない、復讐の機会だもの」
    「……ふむ」
     明奈は机から離れ、窓の外に目をやる。
    「むしろ、もしかしたら『その人』が今回の騒動の主犯、……なのかも知れませんよ」
    「え?」
    「狙い澄ましたように、時期が重なり過ぎていますもの。
     小雪さんの蹶起や月乃ちゃんの反発、……すべて『その人』にとって、あんまりにも都合がいい話ばかりですしね」
    「まさか……」
     顔を蒼くした霙子に、明奈は振り返ってこう続けた。
    「一人の怨念で歴史が動くこともあります。
     わたしたちは今まさに、岐路に立たされているのでしょうね――央南興亡の、岐路に」

    白猫夢・剣宴抄 終
    白猫夢・剣宴抄 9
    »»  2013.02.05.
    麒麟を巡る話、第179話。
    仁義と礼節なき乱暴者。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     柊派の離反以降、紅蓮塞における「本家」焔流――小雪派は、混乱と暴走の一途をたどっていた。

     まず、紅蓮塞の台所事情が既に火急の状況であったことが、冷静になる機会を失わせた。
     柊派離反以前の資金源の7割に上る、軍や商家からの謝礼や献金、援助金を差し止められた上に、軍をはじめとする武力組織からの強制的な解雇・排斥を受けた剣士たちが集まり、収入の無い浪人と化したために、離反から一ヶ月もしないうちに、早くも紅蓮塞の有する資産は半分近くまで削られていた。
    「これでは黄州に攻め入るどころの話ではございません、家元」
    「じゃあ、どうするのよ?」
     財政状況を報告してきた御経に対し、小雪は苛立った声で尋ねる。
    「その……、現状といたしましては資金の確保が、何より優先されるべきではないかと」
    「だから?」
    「軍からの献金は恐らく、送られてくることは最早無いでしょう。近年の銃武装計画推進がございますし、剣士を追い出したがっていた傾向もありましたから。
     とは言え商家らの方にはまだ、話を付ける余地はございます。これまで献金額の筆頭でございました黄家の方に交渉を行い、資金を融通していただくのがよろしいのではないかと……」「よろしいのではないかと、ですって?」
     御経の言葉を遮り、小雪はまくし立てる。
    「黄家と交渉!? 我が本家焔流を差し置いて売名行為にひた走ったあの駄猫に、このわたしが頭を下げろと言うの!? はっ、御免だわ! 誰があんな奴に!」
    「し、しかし黄家が金を出さねば、他の商家も出そうとはしないでしょう。となればここはうわべだけでも……」「御経おおッ」
     小雪は御経の胸倉をつかみ、その顔に拳骨を叩き付けた。
    「ぶげ……っ」
    「べちゃくちゃべちゃくちゃと、情けないことばかりさえずってんじゃないわよッ!
     いい? わたしが家元なのよ? わたしが、上なの! あいつは、その下! なのにわたしがあいつに頭を下げて、金をくれと頼めって言うの? ふざけてんじゃないわよ!」
     小雪は御経を蹴り倒し、他の者をにらむ。
    「他には? もっとましな案は無いの? とりあえず当座の資金を手に入れられる、手っ取り早い方法は無いの!?」
    「手っ取り早いかどうかは、断言しかねますが」
     そう前置きし、深見が手を挙げた。
    「紅州の各都市は観光地として、それなりに稼いでいます。これまでにも多少ながら、献金はありました。
     現在は先の件で他と同様、資金を止めてきていますが、しかしこちらは緊急事態であるわけで」
    「で?」
    「武力組織の最たるものである軍隊は、何かしら不足があれば支配下の地域において徴発を行い、それを補います。これは非常時においては至極当然に行われている措置です。
     我々も非常時。ならばそれに倣えばよろしいのではないかと」
    「つまり、……襲えと言うのね? その各都市を」
    「そうです」
     うなずいて見せた深見に対し、小雪は顔をしかめた。
    「いくらなんでも、それはできないわよ」
    「何故です?」
    「だって、それをやったら、いよいよ周囲はわたしたちを、ただの破落戸として……」「ちょっと借りるだけじゃないですか」
     弱気になる小雪を奮い立たせるように、月乃が口を挟んできた。
    「黄海を落とし、黄家の財産を没収してしまえば、そんな借金はいくらでも返せるはずです。確実に返す当てがあるんですし、多少の無理くらい聞いてもらっても、全然問題ないじゃないですか」
    「……」
    「それ以外に家元が誇りを失わずに済む道はありません。頭、下げたくないんでしょう?」
    「……ええ」
     小雪は結局、側近に誘導される形で、紅州各地の都市を襲撃することを承諾した。



     この荒唐無稽かつ粗暴な企みは、結果的にはあっさりと成功した。
     元より焔流の本拠地であるため、州軍そのものや央南連合軍の駐屯地などが無く、紅州における軍事勢力は紅蓮塞ただ一つだけだったためである。
     抗う術を持たない紅州各都市は、瞬く間に陥落。当初の目論見通り、紅蓮塞は大量の剣士たちを悠々と養えるだけの資金源を手に入れることができた。
     そして今後も徴収を継続させるため、陥落させた各都市には焔流剣士たちが詰め、統制・統治する形となり――事実上、紅州は紅蓮塞に支配されることとなった。
    白猫夢・暗計抄 1
    »»  2013.02.07.
    麒麟を巡る話、第180話。
    連合の不安。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     小雪派による紅州実効支配を受け、央南連合は戦々恐々としていた。
     央南連合は元々、各州間で起こる諸問題を、戦争と言う最終的・暴力的手段を使わず解決するために設立された機関である。
     そのため今回のように、一つの州が不当な暴力を以て占拠・征服され、近隣州にまで危害が及ぶことなど、あってはならない事態だったからである。

    「奴らの目的は黄州征服とまで聞いている。このまま看過していてはその周辺にも害が及ぶぞ」
    「事実、既に西辺州や白州との境に位置する都市へも侵攻しようとしているとか」
    「関係者筋からの情報だが、これはほとんど金目当ての行動らしい」
    「ええ、相当の資金難にあるとのことです」
    「地に落ちたな……、焔流も」
     玄州、天玄の央南連合本部に集まった、紅州を除く各州の代表たちは、揃って頭を抱えていた。
     この会議に、黄州の代表として出席していた明奈は、この騒動について対策を述べた。
    「黄州征服と仰っていましたが、正確には黄海に逗留する、昨年暮れに離反した柊派焔流剣士らの抹殺と、彼らが本拠地から持ち出した宝物の奪還が目的のようです。
     とは言え、確かに現在の彼らが金品目的に行動していることは明らかです。先程も申し上げたように、彼らは現在資金難であり、略奪しなければその体面を保てない状態に陥っているためです。
     となれば彼らの侵略を止める手段は、やはりその資金難の解消にあるのではないかと」
    「どうすると? まさか乱暴狼藉を繰り返す輩に、金を送れと言うのか?」
    「それは論外でしょう。わたしとしても、その手段は採りたくありません。
     問題をもう一段踏み込んで考えるに、その資金難は大量の剣士が失職し、浪人となって出戻ったことに一因があります。
     ならば逆に、この浪人たちが紅蓮塞からいなくなれば、紅蓮塞の資金難は解消。同時に機動力を失い、これ以上の侵攻を止めることができるのではないかと」
    「ふむ……」
     一方で、央南連合軍の司令官が手を挙げる。
    「しかし既に、我々のところで使役できるような部署は存在しない」
    「ええ、存じております。さぞやお気軽に厄介払いをなさったことでしょうね。こうなることも予想されずに」
    「……オホ、オホン」
     ばつの悪い顔をした司令から顔を背け、明奈はこう続けた。
    「私事ですけれど、我が黄州にも一時、浪人たちが多数詰めかけておりました。
     しかし現在ではその浪人たちを教員とした学校を設立し、彼らの雇用安定を確立しております。その他にもわたしの有する商会で様々な雇用策を講じ、浪人があぶれるような事態はどうにか収まっています。
     どうでしょう、他の州でも同じように学校など設立して、雇用口の拡大を試みては?」
    「なるほど……」
    「いや、しかしそれは金がかかる。よしんば設立したとして運営なり、維持ができるかどうか」
    「いやいや、このまま看過していてはいずれ黄州以外にも侵攻するのは明白。その被害額や州軍、連合軍を動員する経費、実際に交戦まで事態が発展した場合の戦費や損害を考えれば、そっちの方が金銭面でも、人的・物的被害の面でも圧倒的に安く上がるはずだ」
    「それも一理あるな」
    「では、どうやって紅蓮塞内の浪人たちを寝返らせる? まさか向こうまで足を運び、引っ張り出すわけにもいくまい?」
     これについては央南連合の現首席、三国が案を出した。
    「いえ、公式に出向き、これ以上の侵攻を行わないよう話し合う機会を設けること自体については、元より考えていました。このまま連合が何も言わず、遠巻きに見つめているだけでは、状況の打開は難しいでしょう。
     その合間に浪人ら、ないし彼らを説得できる人物と接触し、黄氏の案を遂行しましょう。ただ、出向いて正面から説得……、では効果は期待できないと思います。
     本営は元より、集まってきた浪人たちも既に悪事に手を染めた身であるでしょうし、『もう後戻りはできない』と考え、こちらの説得に耳を貸そうとしないことは、十分に考えられますから」
     三国の言葉を継ぐ形で、さらに明奈がこう述べた。
    「確かにその通りです。安易な説得や、ましてや強引に連れ戻すような対応は、却って事態を悪化させかねません。
     ここは彼ら自ら『本拠地を蹴ってでも話に乗りたい』と思わせるような話を持ち掛けないと」
    白猫夢・暗計抄 2
    »»  2013.02.08.
    麒麟を巡る話、第181話。
    馬脚を露した家元。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     央南連合は紅蓮塞に対し、これ以上の侵略行為を行わないことと、占拠した都市を解放することを要請した。
    「『なお、従わない場合には実力行使もやむを得ないものとする』、……ですって? 従う義理なんか無いわよ!」
     これを受けて、小雪はあからさまに不快感を示した。しかしそれを、御経が平伏してなだめる。
    「いや、ここは聞き分けていただかねばなりません」
    「なんでわたしが……」
    「家元だからです」
    「えっ?」
    「我が紅蓮塞は現時点で事実上、紅州を治めているも同然の状況です。そして紅州が央南連合に属する以上、彼らとの付き合いを確立しておかねば、最悪の場合、問答無用で攻め込まれてもおかしくはないのです。
     その紅蓮塞の長たる家元はもう既に、それだけのことをなさっていらっしゃるのですから」
    「は? え、ちょっと待ってよ? 攻めろって言ったのは、わたしじゃないわよ」
    「襲撃は家元の名において行われたこと。であればその責は、家元に帰属します」
    「な、なに、それ? 知らないわよ、何を勝手なこと……」「もし責任を負いたくないと言うことであれば」
     と、やり取りを眺めていた月乃がニヤ、と笑う。
    「家元の座を降りていただくしかありませんね」
    「なっ……」
     面食らう小雪に対し、月乃が嘲るようにこう続ける。
    「だってそうじゃないですか?
     我々焔流剣士すべてを指導・監督する立場にある、ひいては我々の合意、総意の上に起こした行動に対する全責任を負う。家元はそう言う立場にあるはずです。
     ところが『小雪さん』、あなたは責任なんか知らないと言う。じゃあ家元失格、その器じゃないってことですよ。
     もっとふさわしい人間に託してもらうしかありませんねぇ……?」
    「つ、きの……ッ!」
     この物言いに、小雪の頭に血が上りかける。
     だが――遠巻きに見つめる御経をはじめ、この場に集まった側近らの顔色を見て、小雪はぎくりとさせられた。
     側近らが皆一様に、半ば呆れたような、そして半ば失望したような顔を、自分に向けていたからである。
    (それが狙いか……、月乃!
     わたしに難癖をつけて家元の座から引きずり降ろし、籠絡した良蔵を傀儡にして、自分がその座に成り替わろうとしているのかッ!
     さ、させるものか……!)
     小雪はギリギリと歯ぎしりを立てながら、こう返した。
    「せ、責任はわたしが取るわよ! 取ればいいんでしょ!?
     分かったわよ、御経! 央南連合と話し合いをするわ! そう返事を送りなさい!」
    「御意」
     ほっとした顔をして、御経はうなずいた。

     それと同時に――御経は内心、これ以上無いくらいの落胆を感じていた。
    (資金源が一斉に消えた時、これは紅蓮塞にとって、焔流にとって、最悪の事態になったと嘆いていたが……! この逆境はさらにまだ、一段と深く底を打つと言うのか!
     今のやり取りで、拙者のみならず、皆が失望したであろう。我らが主君と仰いできたこの方が、ただの考えなしの、小心者の、そしてあの小娘の操り人形に過ぎぬ凡君、愚君であると、皆が悟ってしまったのだからな。
     もはやこの先、焔小雪を塞の主軸に据えては立ち行かぬだろう。あれはもう、本当に本当の、お神輿人間だ。この先一生、あの娘は黄月乃に操られることになろう。
     そんなものは――拙者の思い描いていた焔流の未来では、決して無い!)
     御経はこの時、小雪に対する忠誠心を失った。

     とは言え御経には範士としての、かつ、塞内の家宰役としての矜持もある。
     小雪に命じられたことを反故にはせず、律儀に央南連合との交渉の場を立て、小雪、深見と共にその場へ臨むことにした。



     この一件により、小雪と彼女率いる紅蓮塞は、さらに混迷の度合いを強めることになった。
     そしてこの後の交渉と、その裏で行われた「取引」とが、紅蓮塞の暴走をより一層激しくさせた。
    白猫夢・暗計抄 3
    »»  2013.02.09.
    麒麟を巡る話、第182話。
    紅蓮塞と連合の交渉。

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    4.
     連合と紅蓮塞との交渉は紅州と白州の境にある街、椛町で行われることとなった。

    「ではまず、現在起こっている問題の確認を行い、そしてそれについて対応策を検討したいと思います」
     連合主席、三国が連合側の代表となり、交渉が始められる。
    「現在、紅州は武力組織、紅蓮塞がその実力を行使し、不当に支配している状態である。これが我々の見解です。相違はございますか?」
    「あんた、もっと言い方ってもんが……」「家元、我々が話をしますので」
     いきなり声を荒げようとした小雪を抑え、御経が応答する。
    「その見解には若干の誤りがございます。
     確かに現在、紅蓮塞は紅州の主要都市に対し実効支配の形をとってはおりますが、これは我々への資金供与を不当な形で打ち切った商家らに対する報復行為であります。
    勿論その問題が解決し次第、即ちこれまで通り資金供給を行っていただきさえすれば、すぐにでも剣士らを撤退させ、従来通りの統治体制に戻すことを検討しております」
    「資金供給を行ってもらうと言うのは紅州下の商家の方に対して、でしょうか」
    「それもありますが、あなた方央南連合からの供給も考慮に入れていただきたく存じます。何しろ昨年まで、その供給額は我々の歳入の2割弱に相当しておりました故」
    「なるほど。しかし我々の方から資金を融通することはしていないはずです」
     こう返され、またも小雪が噛みつこうとする。
    「寝言言ってんじゃないわよ!? 金送ってたのは事実……」「家元、家元」
     再度それを抑え、御経が質問を返す。
    「家元からの指摘があったように、我々に多額の資金を送っていたのは事実のはずですが?」
    「無条件での融通はしていません。これまでの供給は央南連合軍に対する奉仕、協力の見返りとしての謝礼金であり、援助金や献金の類ではありません。有り体に言えば仕事をしていただいた分の報酬としてです。
     それを踏まえた上で再度、我々からの資金を受けたいと言うことであれば、それに見合う働きができるかどうか、と言うことになります。
     どんな形でももう一度軍に入り、我々の姿勢、体制の元に勤務していただく、と言う条件であれば、謝礼金の件は吝かではありませんが」
     これを受け、御経と深見は揃って眉をひそめた。
     一方、この言葉を今一つ理解できていない小雪は、応じようとする。
    「なにゴチャゴチャ言ってんのかワケ分かんないけど、うちの剣士もう一回引き取ってくれるんなら……」「家元、家元。お待ちください」「何よ?」
     深見がそれを止め、小雪に耳打ちする。
    (彼らの主張は、言わば『焔流の剣士として雇う気は無い。剣を握らせることは絶対無いが、それでもよろしいか』と言うことです)
    (どう言うこと?)
    (現在の連合軍は銃武装を推進しております。であれば、軍に入れば否応なく銃を装備させられることになります。
     軍に入れば剣士として扱われることはまず、ありませんでしょう。せいぜい最低格に毛の生えた程度の、事実上の一兵卒扱いの待遇。であれば、以前のように剣士の腕を見込んだ分を含めての豊富な謝礼金はまず、出ません。
     そうなるとその額は恐らく、昨年の3分の2、いえ、2分の1にも満たないものになるかと)
    (つまりわたしたちの門下をはした金で買い取ろうとしてる、ってこと?)
    (平たく言えばそうなります。
     こんな条件で剣士らを引き渡したことが公になれば、『紅蓮塞は身を寄せてきた剣士たちを二束三文で売り払った』とうわさを立てられるでしょう)
     こう説明され、悪評に耳ざとい小雪は当然、突っぱねた。
    「ふ、ふざけんじゃないわよ! そんな条件呑めるわけないじゃない!」
    「なるほど」
     三国は肩をすくめ、こう続けた。
    「我々にはそれ以上の条件での引き受けはいたしかねます。残念ですがそれ以外の打開策を見付けなければいけませんね」
     その後も何点かの提案はあったものの、互いに妥協点を見出すことができず、話し合いは一向にまとまらなかった。
    白猫夢・暗計抄 4
    »»  2013.02.10.
    麒麟を巡る話、第183話。
    おてがみ?

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    5.
     交渉に進展が見られないまま、3日が過ぎた。

    「侵略を行ったのは資金不足によるもの。それを央南連合が補うなら紅州解放を約束する」として金を要求する紅蓮塞と、「我々の提示した内容に従うなら、資金供給は吝かではない」として、紅蓮塞にとってひどく分の悪い条件を突きつけてくる央南連合との話し合いは平行線をたどるばかりであり、紅蓮塞側の交渉の主軸となっていた御経は疲れ果てていた。
     その上、相手とろくに対話もしようともせず、自分勝手に口を挟もうとする小雪を何とか抑え込むため、余計な気遣いまでさせられていたため、御経の心労は極限に達しつつあった。
    「はあ……」
     3日目の交渉も物別れに終わり、御経は定食屋で一人、黄昏ていた。
     一応、好物であるすき焼き風定食を注文したものの、胃の辺りがキリキリと痛み、膳が運ばれてから15分ほどが経っても、一向に箸を付けられない。
    (もっとあっさりしたものにした方が良かったか……)
     そんなことをぼんやり考えながら、御経はどんよりとした心持ちで座っていた。

     と――店に一人、客が入ってくる。
    「あら、あなたは……」
    「うん?」
     御経が振り返ると、そこには連合側の人間として交渉に参加していた、明奈の姿があった。
    「ああ、黄大人。本日はどうも」
    「どうも、御経範士。……相席、よろしいかしら」
    「え? ええ、構いません」
     自分の向かいに座った明奈を、御経は訝しむ。
    「拙者に何か御用が?」
    「いいえ? わたしもお腹空いちゃったので。それに、知った方がいらっしゃるのに相席もせず背を向けるなんて、無粋じゃありませんか?」
    「はあ……、まあ、そうですな」
     明奈はニコニコと笑いながら丼物を注文し、もう一度御経に向き直る。
    「大変ですね」
    「ええ、まあ」
    「わたしが何とかできるのなら、してあげたいのですけれどね。焔流の方とは、並々ならぬ付き合いがございますし」
    「ああ、そうでしたな。黄……、範士の妹御でいらっしゃいましたね」
    「ええ。姉も此度の一件、ひどく胸を痛めておりました」
    「でしょうな。まさか自分の娘御がこんな醜聞に関わって、……あ、いや」
    「ふふ、大丈夫です。ここにはわたしとあなたしかいませんから」
     明奈はいたずらっぽく笑い、片目を閉じて見せる。
    「ああ、そうそう。用が無いとは言いましたが、姉から『機会があれば御経に渡しておいてくれ』と、こんなものを渡されていました」
    「え?」
     御経は晴奈と同年代であり、面識も少なからずある。若い頃には共に修行したり、碁を囲んだ覚えもあって、決して疎遠な関係ではない。
     しかしここ数年は会っておらず、小雪の一件もあったため、そんな彼女が自分のことを気にかけているとは思ってもいなかった御経は、虚を突かれる。
    「黄が、拙者にですか?」
    「ええ」
     明奈は鞄から一通の手紙を取り、御経に渡した。



    「敬愛する我が同輩 御経周志へ

     此度の一件、家宰役を務めるお主にとっては誠に心痛め、頭悩ます事態であろうと察する。
     それは私にとっても同じことだ。
     だが一方で、なるべくしてなったことでもあろうと、割り切ってもいる。
     小雪も月乃も、その道を選んだが故の結果であろう。
     心痛むことであるが、そう考えるしかないと、今では諦めている。

     しかし一方で、望まずして巻き込まれた者たちの多さにも憂いている。
     そのような者たちをただ見過ごすのは、私にとってはなお心を苦しめることになる。
     然らばその者たちに手を差し伸べるべきではないかと思い立ち、こうして筆を取った。

     周志。お主の力で、左様な者たちを我が黄海に引き込むことは可能だろうか?
     無論、お主自身もこちらへ来てくれると言うのなら、これほど喜ばしいことは無い。
     もしこれが成れば、手厚く保護し、然るべき待遇を以て……」



     ここまで読んだところで、御経は手紙をぐしゃ、と握り潰した。
    「えっ」
    「黄大人。人をからかわないでいただきたい」
     御経は手紙をくしゃくしゃに丸め、机の上に捨てた。
    白猫夢・暗計抄 5
    »»  2013.02.11.
    麒麟を巡る話、第184話。
    定食屋での密談。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
    「共に修行した頃から数十年が経てども、拙者は黄の字を忘れてはおりませんし、奴の言いそうなこと、言わなさそうなことも見当が付きます。
     黄がこんな、人を利、不利で誘うようなことを言うはずが無い」
    「あら……、バレちゃいましたか」
     明奈はぺろ、と舌を出して見せた。
    「姉の字を真似るの、得意だと思っていたんですけどね」
    「ええ、字は割合似ておりましたな。ただ、内容は似ても似つかない」
    「……では正直に」
     運ばれてきた鯛まぶし丼に目もくれず、明奈は自分の狙いを打ち明けた。
    「その手紙の内容、ほとんどわたしがお願いしたいことなんです。
     御経範士、あなたのお力で浪人たちを紅蓮塞から逃がし、我が黄海に送ることは可能でしょうか?」
    「何故それを拙者に……、もとい、そんなことができるはずも無いでしょう」
    「あら」
     明奈はニコ、とまたもいたずらっぽい笑いを見せる。
    「何故ですか?」
    「拙者は紅蓮塞の家宰、即ち紅蓮塞を取りまとめる役目を先代の頃より仰せつかっております。そんな拙者が『紅蓮塞から出よ』などと言えるはずも……」
    「そのお言葉、本心ですか?」
    「……!」
     明奈は依然笑顔のまま、こう続ける。
    「失礼を承知で申し上げるのはわたしの悪い癖なんですが、それでも一つ、言わせてくださいな。
     今の紅蓮塞、あなたが家宰を務めたいと思うほど、格の高い組織ではなくなっているはずです。
     今の紅蓮塞はまるで野武士や山賊の隠れ家のごとく、滅多やたらに街を襲い、その金品を強奪して回っている、地に落ちた存在。
     さらに言えば、その上に立つ家元はそれ以下の所業を繰り返している。親を殺そうと画策し、街を襲うことを咎めようとせず、揚句に……」
     明奈は机に身を乗り出し、御経にひそ……、とつぶやく。
    「その責任から逃れようとされた」
    「なっ……! 何故それを、……う、う」
     慌てて口をつぐんだが、明奈は見透かしていたことを告げる。
    「この3日間の彼女の態度を見ていれば、そんなことは手に取るように分かります。
     まるで余所事のような応対でしたものね。自分が手を汚したと、心の奥ではまったく思ってらっしゃらないみたい」
    「……でしょう、……な。拙者もそれは、……ええ、少なからず感じておりました」
    「その誇りを失った紅蓮塞に」
     明奈は座り直し、こう尋ねる。
    「義理立てをする理由があるんですか?」
    「……紅蓮塞は、……代々、焔流剣士が守ってきた、伝統ある城です。その家宰役を命じられた以上、裏切ることなど」
    「それについても、あなたは疑問を抱いているはずです。
     今の焔流家元が、その伝統を受け継ぐに相応しい人間であると、あなたはそう思っていますか?」
    「……っ」
    「失礼が過ぎているのは、十分に弁えているつもりです。
     でも、あなたの本心もわたしには、見えていましたから」
    「……」
     黙り込んだ御経に、明奈は優しく、しかし凛とした声でこう続けた。
    「御経範士。あなたの悩み、迷いに対する最上の解答は、わたしたちに、密かに協力することです。
     あなたが『紅蓮塞を出よう』と声をかければ、大勢の方が付いてきてくれるはずです。そうして紅蓮塞の機動力を弱め、動けなくしたところで、わたしたちが逆に攻め落とすんです」
    「な……」
    「そして現家元を追い出し、今、黄海にいる焔家の血を持つ人間を改めて、家元として立てる。そうすれば……」
    「……なるほど。……なるほど、確かに」
     これを聞いた御経は、久々に心の晴れた気持ちになった。
    「少なくとも今、わたしのところにいる晶奈ちゃんは、今の小雪さんとは比べ物にならないほど出来た子ですよ。より相応しい人間だと思います。
     ……さて、と」
     明奈は箸を手に取り、御経に促した。
    「食べましょ、御経さん。わたしもういい加減、お腹が鳴っちゃいそうですもの」
    「え? ……そ、そうですな、うむ」
     先程までまったく手を付ける気にならなかったすき焼き風定食を、御経はこの時、すんなりと口に運ぶことができた。
    白猫夢・暗計抄 6
    »»  2013.02.12.
    麒麟を巡る話、第185話。
    剣士にあるまじき者。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    7.
     御経と明奈が密談を交わした翌日――これまで無理難題に近い提案をし続けてきた央南連合が突如、こんな案を出してきた。
    「これまでの3日、交渉を続けて参りましたが、どちらの意にも沿わない案ばかりが出ており、まったく進展が無いまま過ぎました。
     これでは互いに時間を浪費するばかりです。心苦しいですが、我々が多少、譲歩しようかと考えています」
    「え?」
    突然こんなことを言われ、面食らう御経らに対し、三国はこう続けた。
    「やはり今回の騒動の発端において、央南連合軍が過敏に反応したことが、ここまで騒動を広げた一因であるかと思います。
     軽率に措置を下し、これまで長らく関係を保ち続けてきたあなた方紅蓮塞と無理矢理に手を切ろうとし、このような結果になったこと。そのお詫びも兼ねまして」
     そこで三国が言葉を切り――何故か明奈がその後を継いだ。
    「央南連合軍に働きかけ、従来通りの待遇で軍に戻っていただけるよう説得しようと考えております。また、他の武力組織から戻られ、他の職に就けないでいる方につきましても、連合の方で新職を設置し、出来る限り雇用したいと考えております。
     簡単に申し上げれば、従来通りの状況に可能な限り戻せるよう、我々の方で最大限努力させていただく、と言うところです」
    「ふ、む……」
     この案を提示され、御経は考える。
    (確かに軍や新職とやらで、紅蓮塞に溢れていた浪人らを吸収してもらえるのであれば、資金難は解消される。特に軍の方は『従来通り』と言うことであれば、金も概ね元通り入ってくるようになる、……か?
     しかし何故だ? これまで散々、こちらの人材を元通りに採ることを避けてきた連合が何故、今になってこんな案を、……ぬっ?)
     その時、御経は確かに明奈が、自分に向かってにっこりと笑いかけて来るのを見た。
    (……そう言うことか。この案に乗り浪人らを集めさせ、そして拙者ごと紅蓮塞から抜けさせようとしているのだな?)
     御経はもう一度、明奈をチラ、と見る。
     それに応じるかのように――明奈は御経だけに見えるよう、指で「○」を作って見せた。
    (やはり、そうか……。
     元々、家元にはうんざりしていたのだ。……是非も無し。乗るが吉、か)
     御経は体面上、適当に質問や意見のすり合わせなどをし、その案を呑むと返答した。
     そして交渉の結果、連合側が提示した案が実現し次第、紅蓮塞による紅州支配を解くことが約束された。

     紅蓮塞に戻ったところで、小雪がはーっ、と疲れ切ったため息を吐いた。
    「4日もうだうだ、うだうだと……。ちゃっちゃとまとめなさい、っての!」
    「まあまあ、家元。これでどうにか問題は解決いたします」
    「そうね。これでようやく、黄州に攻め込めるわ」
    「……あの?」
     ぎょっとする御経に、小雪は馬鹿にしたような目つきで、こう返した。
    「振り出しに戻ったってだけじゃない。余計な問題がすっきりしたんでしょ? じゃあ元々考えてた通り、黄のところに押し入るだけじゃないの」
    「お、お待ちください、家元! それでは約束が反故になってしまいます!」
    「反故? 紅州解放だけでしょ? 黄州をこれからどうするかなんて、誰も話してないわよ」
    「攻めれば同じことです! 攻めればまた今回のように、連合が押しかけてきますぞ!?」
    「その時はその時じゃない。また今回みたいにあんたが話まとめて、黙らせりゃいいのよ」
    「はい?」
     御経は小雪の傍若無人な態度に怒りを覚えたが、小雪はそんな御経に目もくれず、こう言い捨てて自室に戻っていった。
    「何でわたしがあんなしみったれた下衆共なんかとの約束を、まともに守らなきゃならないのよ。馬鹿馬鹿しい」
    「……」
     一人残された御経は――それでも小雪に聞かれないように――こうつぶやいた。
    「約束も守れぬ、……と言うのか。左様な性根でよくも剣士だ、家元だなどと……ッ!
     もう沢山だ。拙者、貴様のような馬鹿殿には、これ以上付き合っていられん」



     4時間後――御経は浪人230名余を連れ、紅蓮塞を後にした。
    白猫夢・暗計抄 7
    »»  2013.02.13.
    麒麟を巡る話、第186話。
    仄見える、悲惨な結末。

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    8.
     明奈は、きっちりと約束を守った。

     御経をはじめ、紅蓮塞から黄海へ逐電した浪人たちに、明奈は柊学園での教職や用務員、黄商会関係の用心棒、黄州軍での指導教官など、様々な職をあてがった。
     そして御経自身にも柊学園における教頭職が打診され、御経はこれを快諾した。



    「黄、まさかお前とまた、こうして碁を囲むことができようとは」
    「全くだ」
     晴奈とも十数年ぶりに再会し、御経は久々に彼女と囲碁を打っていた。
    「となると、御経範士」
     それを眺めていた明奈が、御経に現在の状況を尋ねる。
    「現在の紅蓮塞に、浪人の方はほぼ残ってらっしゃらないと言うことでしょうか」
    「ええ、塞内にいた者はほぼ全員、拙者と共にここへ。
     ただ、紅州各都市の制圧要員として出た者は、まだ200名近くおります」
    「それについては……、今後の展開に絡んできそうには無いですね」
    「うん?」
     明奈は苦い顔をしつつ、それについて語った。
    「今回の『裏』の交渉が実ったことにより、紅蓮塞の力が著しく弱まったのは事実です。
     資金繰りをしてくれていた御経範士がいなくなり、経済面では最大級の混乱をきたすでしょう。
     そして多数の兵力を以て、これまで抑え付けてきた各都市も、本拠に人がいなくなったこの機に乗じて、反旗を翻すはず。隣州の州軍や駐屯している連合軍に働きかけ、街を解放しようとするでしょう。
     その2つの混乱に呑まれず、逆にこの黄海にまで押しかけられるような機略と度量が小雪さんやその側近にあるとは、非常に考えにくいですし」
    「然り。知恵者と言えば深見がまだ残ってはいるが、彼奴一人でどうにかできるとは思えん。ましてやあの馬鹿殿がいるとなれば、そのお守りで手一杯だろう」
    「恐らく小雪さんにできることは、紅州各都市を占拠させていた浪人たちを呼び戻し、紅蓮塞の守りを固めさせることくらいでしょう。それ以外に体面を保ち、小雪さんの社会的・肉体的生命を維持する手段はありません。
     ですが恐らく、それは実らないでしょう。今にも連合軍が攻めて来ようと言う時に、形勢の傾いた本拠地から遠く離れた浪人たちが、わざわざ小雪さんの言うことを聞くとは思えません。十中八九見捨て、連合軍に投降するでしょう。
     となれば――今回の騒動は、ほぼ終息したと言ってもいいでしょう」
    「うん……?」
     この結論に対し、御経が質問する。
    「黄大人、定食屋で言っていたあの件は、いつになるのです?」
    「あの件? ああ、新しい家元を、と言う話でしょうか」
    「ええ。黄大人の今の話だと、結局焔小雪が残っているではないですか」
    「それも風前の灯でしょう。わたしの話の通りに事が進み、紅蓮塞が連合軍に包囲されることになれば、間違いなく塞内で争いが起こります。
     それを収める方法は一つしかありません。即ち、争いを起こした張本人を引きずり出し、塞外に放逐するか、軍に引き渡すか、それとも内々で処刑するかです」
    「……なるほど。無残と言う他ないが、自業自得ですな」
    「……」
     と、ここで晴奈が席を立つ。
    「どうした、黄? まだ勝負は……」「お主の勝ちでいい。私は寝る」
     そう言い捨て、晴奈は部屋を出て行ってしまった。
    「どうしたと言うのだ……?」
    「無理もありません。わたしの言う通りになれば、処刑されるのは小雪さんだけでは済まないはずですから」
    「……黄月乃か。あの娘も同じ目に遭うでしょうな」
    「失礼なことを平然と言ってしまうのはわたしの悪い癖、と承知してはおりますが、それでも今のは失言でしたね。
     ……まあ、でも。丁度良く人払いができました」
    「え?」
     きょとんとする御経に構わず、明奈は辺りを見回した。
    「霙子さん、いらっしゃるんでしょう?」
    「ええ」
     窓が開き、霙子が音も無く、するりと入ってきた。
    「流石ですね。それで、エルスさんと小鈴さんは何と?」
    「あたしの言う通りだった、と。いえ、それ以上に悪いことになっていた、と言ってました」
    「それ以上に?」
    「ち、ちと待って下さい、黄大人。一体、何の話なのです?」
    「この騒動を裏で操っていた、ある男の話です」
     これを聞いて、御経は唖然とした。
    「操っていた……? この、央南西部全体を引っ掻き回すような大騒動を、操っていた男がいると言うのですか!?」
    「ええ。恐ろしく狡猾で、残忍で、その冷血振りは、他に類を見ないほど。
     そして黄家と焔流に対し、底知れぬ恨みを抱いている。両家の徹底的な、完膚無きまでの破滅を、何より願ってやまない。
     まさに悪魔と称するべき、そう言う男です」
     霙子の説明に、御経はぶる……、と身震いする。
    「何と言う奴ですか、それは……?」
    「御経範士、あなたも耳にしたことがあるはずです。
     篠原、と言う男のことを」

    白猫夢・暗計抄 終
    白猫夢・暗計抄 8
    »»  2013.02.14.
    麒麟を巡る話、第187話。
    側近らの本意。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     双月暦544年、夏間近の、しかし重苦しい天気が続く頃。
     昨年暮れから続いた資金難を解消し、塞内の人間と、抱えていた500名もの浪人たちを充実させたのも束の間、家宰であった御経の裏切りでその半分近くを失い、小雪は半狂乱と化していた。
    「なんで……なんでよ……なんでこんなことばっかり……」
    「……」
     残された側近、深見と月乃、そして九鬼はそんな家元を放置し、ひそひそと密談する。
    「家元がこの状態じゃ、外に出すのは無理ね」
    「確かに。幸い資金については余裕があるが、一方でその資金を吸い上げた各都市に、反旗を翻そうかと言う雰囲気もある」
    「その通り」
     ちなみに、御経と深見、月乃は家宰およびその補佐の任に就いていたため、小雪と共に行動していたが、九鬼は指揮官として各都市の襲撃と制圧に回っていたため、ここしばらくの間は塞を離れていた。
     そんな彼女が戻ってきたのは、単に御経離反を聞きつけたからだけではない。
    「既に紅州東端の街、雀台では一度、白州軍との衝突になるかと言う状況があった。これは事前に動きを察知することができた故、攻めさせる前に威嚇し、撤退させることができた。
     しかしこうしている間にも、いつ州軍や連合軍が大挙して押しかけて来るか。そう懸念し、増員を願いに来たが……」
    「ご覧の通りよ。家元は茫然自失、総勢600人以上いた兵隊は御経の裏切りに加え、紅蓮塞の形勢悪化に耐え切れず逃げ出した者もいて、今や200を割る状態。その要請は却下せざるを得ないわね。
     まあ、状況は刻一刻と悪くなってるって感じよ」
    「何を呑気な!」
     憤る九鬼に、月乃は肩をすくめて見せる。
    「あたしとしては、あのまま家元に全部責任被せて、生贄になってくれればと思ってるのよね」
    「なっ……!」
     あまりにも剣呑な台詞に、九鬼は面食らった。
     一方、小雪がまだぼんやりしているのを確認した深見が、そっと九鬼の背後に回る。
    「なんだ?」
    「九鬼彩錬士。まあ、良くも悪くも直情径行、とにかく主君のためであれば命をも賭して任に当たる、って姿勢は評価できる。
     だがな、事はそう単純じゃないんだよ。上の命令をただ聞いてりゃ自分の役目は終わるって話じゃ、もう無いんだ」
     深見は九鬼の虎耳に、そっとささやいた。
    「実を言うと、俺も、黄もな、始めっから家元をこうして貶め、その座から叩き落としてやろうって計画してたんだ」
    「な……!?」
    「分からんわけじゃあるまい? あの家元は器じゃない。ほっとけばいずれ、焔流の評判を落としていたはずさ。
     だが、腐っても家元だ。多少の悪事じゃ、揉み消されて終わりさ。だから消しようが無いくらいの悪事を働いてもらって、その責任を全部押し付けてしまおうって、そう計画したんだよ」
    「馬鹿な、……ぐえ、っ」
     九鬼が背後の深見に一瞬気を取られた隙に、月乃が鳩尾に拳を突き入れ、気絶させる。
    「……どうしたの?」
     ここでようやく騒ぎに気付いた小雪が、月乃たちに目をやる。
    「九鬼が気を失いました。恐らく心労によるものでしょう。休ませてきます」
    「心労……? 馬鹿言ってんじゃないわよ……わたしの方が百倍疲れてるわよ……気楽なもんね……」
    「まあ、まあ。家元ももうしばし、お休みください」
     やんわりとそう返し、月乃と深見は九鬼を運び出した。

    「……う……」
     暗い部屋の中で、九鬼は目を覚ました。
    「起きたか」
     しぼっ、と小さな音を立てて、深見が蝋燭に術で火を灯す。
     蝋燭の薄明かりに彼と月乃が照らされているのを確認し、九鬼は声を荒げた。
    「いきなり何をする!?」
    「なに、今回の騒動について、じっくり説明してやろうと思ってな。
     流石にあそこじゃできない話だったし、お前さんもそんな話をいきなり聞かされりゃ、騒ぐだろう?」
    「当たり前だ!
     何故だ!? 何故お前らは、家元を罠に嵌めた!? 何故こんな、央南を巻き込むような大騒動を起こしたんだ!?」
    「ま、いっこずつ説明してやるから、よ」
     深見は煙草をくわえ、蝋燭を使って火を点けた。
    白猫夢・背任抄 1
    »»  2013.02.15.
    麒麟を巡る話、第188話。
    壊れた正義。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     深見は煙草を一息吸い、ふーっと吐き出してから話し始めた。
    「俺も黄も、実はある男から命じられてるんだ。ここに残り、焔流を徹底的に混乱させろってな」
    「ある男……? 誰だ、そいつは?」
     九鬼が問うが、深見は肩をすくめて返す。
    「それは、ま、おいおい話す。とりあえず、『ある男』だ。
     そいつはな、焔流と、そこの黄のお袋さん、つまり『蒼天剣』黄晴奈に滅茶苦茶深い恨みを抱いてたんだ。
     なんでもそいつの両親が、焔流と黄範士のせいで路頭に迷い、そして死んだ。いや、黄範士に殺されたんだとさ」
    「なんと……!」
    「で、そいつはどうにかして恨みを晴らそうとしたわけだが、お前さんも知っての通り、黄範士は異様に強い。今年でもう51だってのに、そいつは一度も勝てたことが無いそうだ」
    「え……? 既に仇討ちをしたと言うのか?」
    「いいや、そうじゃない。順を追って説明するから、とりあえず黙って聞いてくれ。
     で、だ。黄範士も強いし、焔流なんてのはもっとだ。一個人じゃ太刀打ちなんてとてもできない、巨大な組織だからな。一筋縄じゃ、どっちも潰すことなんかできない。
     じゃあどうするか? そいつはまず両方の弱点を知るため、黄派焔流道場に入門した。さっき言ってた『勝てない』ってのはあくまで稽古での話だが、それでも強いってことに変わりはない。……と、話が逸れちまったな。
     で、修行してるうちに弱点は見付かった。焔流の方の弱点は知っての通り、あの馬鹿殿様だ。あいつに余計な重圧をかけさせ、ちょっと唆して暴れさせておいて、そこで梯子を外す。これでもう、後は勝手に自滅してくれる。
     焔流はそれまで培ってきた名声を焔小雪のせいですべて失い、墜落するってわけだ」
    「そ、そんなことが、許されると思っているのか!」
    「許すも許さないも無えよ。そいつにとっちゃ焔流は、かつて焔流剣士であった親を追い出して路頭に迷わせた、憎き仇なんだからよ」
    「う……ぬ」
     自分の顔から血が引いていくのを感じながらも、九鬼は深見の話に聞き入っていた。
    「で、では、黄先生の弱点と言うのは?」
    「それについては、黄。お前さんから話してやれよ」
    「ええ、そうね。その方が分かりやすいでしょうし。
     母の弱点って言うのは、それはずばりあたしなのよ。あたしや兄貴と言った、自分の家族。あいつは長年、母の下で修行を積んでいくうち、それに気が付いた。
     傍目に見れば、溺愛してると見えたんでしょうね。いえ、きっと母はそうなんでしょうね。……あたしからすれば、ウザいだけなんだけど」
    「お前、自分の親を……」
     とがめかけた九鬼を、月乃はにらみつける。
    「親だって限度はあるわよ! 顔を合わせる度に『お前は黄家の人間なのだから、他の規範となるべく生活するよう心がけろ』なんて、20年近くも言われ続けてみなさいよ? 自分としちゃ、これ以上ないってくらいに真面目にしてるのによ!?
     13歳くらいかしらね、もういい加減、そう言うお小言に耐え切れなくなって、家出しようとしたのよ。で、荷物まとめて家を出て、そしたら偶然、その人に会ってね。
     その人は本当に、あたしの気持ちを汲んでくれたわ……! そして聞いたのよ。あの母が実は、その人の親を殺した極悪人だってね。
     もうその瞬間よ――あの女に雁字搦めに縛られてた自分の13年間が、ガラガラに崩れ去ったわ! あんなに正義感面してやがったあの女が、自分自身でそれをこれっぽっちも守っていない、口先だけのクズだったんだから!
     ……だから、あたしは」
     月乃はにやぁ、と笑みを浮かべた。
    「あの人のためなら、何だってするの。してあげたいのよ。
     そのためにあたしは、焔良蔵を誘惑し、傀儡にした。焔小雪をあおり、滅茶苦茶なことをさせ続けた。
     もうすぐ、終わるのよ。母は討たれる。紅蓮塞は悪に堕し、瓦解する。もう少しであの人の、そしてあたしの悲願が達成できるのよ」
    「……ってわけだ」
    「……」
     月乃の凄絶な思いを打ち明けられ、九鬼は茫然とするしか無かった。
     が――一方であることに気付き、それを尋ねる。
    「お前は……?」
    「あ?」
    「豪一、お前は何のために加担している?」
    「ああ」
     深見は二本目の煙草に火を点けながら、こう答えた。
    「俺はもっと単純さ。金と名声と権力だよ。
     小雪が処刑されりゃ、塞に残ってる焔家の血筋は焔良蔵だけだ。新たに良蔵を家元に立てた後、いずれ黄と結婚し子供ができりゃ、……ま、良蔵もそこでお払い箱だ。
     そこに残るは、良蔵との子供を次々代家元と立て、その代理となった黄と、その新たな夫となるその男、そして新たに家宰を仰せつかる俺、……ってわけだ。
     しかも俺も黄も、それからお前も、その時にゃ『愚かな家元を討ち取った英雄』ってハクが付く。美味しいだろ?」
    「怖気が走る……! よくも貴様ら、そこまで邪悪に染まったな!」
    「ははは……」
     九鬼の怒りを、深見はげらげらと笑い飛ばした。
    白猫夢・背任抄 2
    »»  2013.02.16.
    麒麟を巡る話、第189話。
    詭弁で誇りを焚き付ける。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
    「何がおかしい!?」
     いきり立つ九鬼に、深見はニヤニヤしながらこう返す。
    「お前さんもなかなか、目先しか追えない奴だなと思ってな。
     この目論見を知って、今更塞を抜けるか? なるほど、仁義と礼節に篤いご立派な剣士だ。そりゃ、そうしてもいい。それはそれで、お前さんの矜持は一応なりには守られるだろうさ。
     だが得られるものはそれだけだ。暮れからこっち、ずーっと血と汗を流して頑張ってきたお前さんは、誇りだけしか得られないわけだ」
    「何を言うか! 侍、剣士たる者、それだけあれば十分だ!」
    「十分? お前さん、飯を食ってるよな? 食ってないわけないよな?」
    「ぬ……」
    「人間として生きる以上、飯は食べなきゃならないし、何かしらモノや寝床やらもいる。いや、剣士として清廉潔白に生きるにしてもだ、刀は持たなきゃならないし、いざって時には武装もしなきゃならん。
     生きる以上、金は稼がにゃならんのよ。誇りだけじゃ人間、生きられんぜ」
    「詭弁だ! それで誇りを失っていい、と言う話ではない!」
    「勿論、そこも考えてのことさ。
     考えてもみろ、ここまで事態が深刻化したら、小雪一人の頭を刎ねれば全部元通りって話じゃ無くなる。それで騒動が収まったとしてもだ、この先焔流は信用を回復させ、もう一度興隆させていかなきゃならんわけだ。
     その未来を見捨てるってことだぜ、今、塞から抜けるってことは」
    「……!」
    「今抜ければ、確かにこれ以上悪事に手を染めずに済む。それなりに誇りを保てるだろうさ。だが、その後はどうなる?
     塞からは本拠地を捨てた腰抜けとして蔑まれ、二度と敷居はまたげないだろうな。そうなると敵方の黄派や柊派を頼ることになるだろう。だがそうなりゃ適当に丸め込まれ、安い給料で先生だか用務員だかの職をあてがわれてぬくぬくと飼い馴らされ、それで人生終わりだ。
     だが今、ちょっとの悪事と苦境を堪え、最後まで俺たちと共に戦い、塞内の体制が一新されれば、お前さんはこの塞の重鎮になれる。『今回の騒動を収めた立役者の一人』として、堂々と胸を張って、生涯剣士でいられるわけだ。
     どっちがお前さんを、満足させられる?」
    「……ぐ」
     九鬼は目をつぶり、ギリギリと歯ぎしりを立て――やがて、折れた。
    「貴様らのような悪魔に与するなど、……確かに、……確かに心苦しい。
     だが貴様らの言うことも一理だ。今逃げれば、私は二度と剣士でいられない」
    「分かってくれて嬉しいぜ、彩。
     さて、と。それじゃあ早速、最後の作戦に打って出るとするか」
     立ち上がった深見に続きながら、九鬼はまた質問した。
    「最後の作戦? いったい何をするんだ?」
    「そろそろ家元も『あやしく』なって来てるからな。こんな時に発狂でもされちゃ、どうもこうも無い。
     その前に『最大の悪役』として散ってくれないとな」
    「散って……? 何をさせる気なんだ?」
    「特攻さ。もいっちょ唆して焚き付けて、黄海に突っ込ませる。
     で――突っ込んだところで俺たちが小雪を捕まえ、黄州軍なり連合軍なりに引き渡す。『今回の騒動の首謀者を騙し、ここまで引っ張ってきた』とでも適当に弁解してな。
     そうなりゃ悪者は小雪一人、それを引き渡した俺たちは悪者に追従してきた側近から一転、悪を討ち取った英雄ってわけさ」
    「卑怯者め……!」
    「じゃあお前さん、進んで首を刎ねられたいってのか? 俺は嫌だぜ。お前さんだって嫌だろう?
     最初っから、あいつが全部悪かった。そうしておけば、極刑を食らわずに済む。最悪、食らったとしても従犯扱いで1年、2年の懲役刑くらいだ。それだって残った資産で、いくらでも減刑できるしな」
    「……」
     それ以上何も言えず、九鬼は月乃たちの後に続いた。

    「家元、準備が整いました」
     月乃ら3人は小雪の自室の前に立ち、彼女を起こした。
    「……準備……?」
     部屋の中から、重たげな声が返ってくる。
    「黄海に攻め込む準備です」
    「……はぁ?」
     ずず……、と引きずるように戸が開き、小雪の目が覗く。
    「……今更……?」
    「確かに各地での緊張が高まり、紅蓮塞の形勢が不利であるのは事実です。
     しかし敵方の頭である黄家を制圧すれば、央南連合に対する最強とも言える交渉材料を手にすることができます。
     そうなればこの苦境など、いくらでも対処可能でございます。おまけに『証書』も戻りますし、金も入ります。
     攻めるべきは、今かと」
    「……どうやって攻め込むの?」
     深見の説得に揺れたのか、小雪の声に張りが戻ってきた。
    「九鬼に命じ、紅黄街道までの道を拓いておりました。既に塞が集められるだけの軍備および人員も、州境に配置しております。
     塞からそこまでは、2日ほどかかります。今にも連合軍が動くかと言う状況ですので、時は一刻を争います。さ、今すぐ出立の準備を」
    「……分かったわ。黄、着付けを手伝って頂戴」
    「承知」
     月乃は小雪の部屋に入る直前――嘲った笑みを、深見と九鬼に見せた。
    白猫夢・背任抄 3
    »»  2013.02.17.
    麒麟を巡る話、第190話。
    裏で手を引く者たち。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     紅蓮塞が妙な動きを見せたことは、黄州側でも早急に察知された。
    「紅州境に、浪人が結集……?」
     報告を受けた明奈は、直ちに動いた。
    「最後のあがきに出よう、と言うことかも知れません。至急州軍に連絡し、紅黄街道の警備体制を最大限強化するよう伝えてください。
     黄州に入られれば、州内の焔流道場は少なからず動じるでしょう。それらが敵に付くにせよ、味方に付くにせよ、被害が拡大するのは明らかです。それを防ぐため、何としてでも突破されないよう、徹底的な防衛をお願いします」
     落ち着いた調子で命令を送ったが、一方で強い不安も覚えていた。
    (ついに動いたわね……。『あの人』がここでどんな手を打ってくるか)
     その不安を見越したように、そこへ霙子と御経がやって来た。
    「黄大人、紅蓮塞が動いたと聞きましたが」
    「ええ、わたしも今、報告を受けました。直ちに州軍に動いてもらいます」
    「なるほど。報告する余裕はありそうですね」
    「また何か、分かったことが?」
     霙子は小さくうなずき、報告を始めた。
    「はい。エルスさんたちの追加調査の結果、彼奴は少なくとも3名、腹心を持っているだろうとのことでした」
    「それは誰です?」
    「一人は黄月乃。彼女が13か、14歳辺りから頻繁に接触を重ねており、それから彼女が黄海を離れるまでの3年間、篠原と共に街で見かけることが度々あったとのことでした。恐らく言葉巧みに誘惑して仲間に仕立て上げ、紅蓮塞に送り込んだものと思われます。
     二人目は小雪派の側近、深見豪一。篠原が免許皆伝試験を受けた辺りから親交があり、その後も度々『魔術頭巾』で話をしていたことが、彼の使用していた『頭巾』を密かに押収し分析した結果、判明しています。特に柊派離反から以降、その頻度は著しく多くなっており、通じていることは明白でしょう。
     そして三人目ですが……」
     霙子はそこで一旦言葉を切り、そして苦々しく言い捨てた。
    「あの笠尾松寿です。恐らく柊派離反に加担したのは、こうして何の疑いも持たせず黄海に入り込むため。……まったく、うまいくらいに騙されましたよ!」
    「でも紅蓮塞を離れる前に雪乃さんが月乃ちゃんと対峙したことを考えると、それでは辻褄が合わないのでは? 笠尾さんはわざわざ雪乃さんを塞内に向かわせ、仲間の月乃ちゃんを危険にさらしたことになります」
    「恐らく想定外の事情だったんでしょう。
     元々は笠尾が晶奈ちゃんを連れてくる予定、……いや、連れて来る振りをして『既に手遅れだった』とでもごまかして、奴一人で付いて来るつもりだったんでしょうが、師匠自ら『迎えに行く』と言われ、ましてや本当に連れて来られては、笠尾はどうにもできなかったでしょうし。
     それに関しては、もう一つ想定外の事態があったでしょうね」
    「霙子さんをはじめとして、お弟子さんがいっぱい付いてきちゃったことですね」
    「ええ。恐らく当初の計画としては、師匠と良太さんのご夫妻2人だけを監視する程度で済むはずだったんでしょう。ところが50名以上がなだれ込み、黄派と交流して稽古を始める始末。笠尾も参ったでしょうね」
    「敵方の門下生を指導することになるなんて、思ってもいなかったでしょうね」
    「ええ。……しかし状況の差し迫った今、笠尾の存在は危険です。彼奴の実力は確かですし、いざ小雪派が攻め込んできた時、中から手助けしたり、暴れたりされれば……」
    「勝てる戦いを落とす危険がありますね。では皆に知られないよう、密かに拘束することにしましょう。もし笠尾さんが敵の手先と知れれば、みんな驚きますし」
    「ええ。では直ちに……」
     明奈が立ち上がった、その時だった。

    「……うっ? う、……っ」
     明奈ががくん、と机に突っ伏した。
    「黄大人? ……!」
     御経と霙子は戦慄した。
     明奈の右肩から胸へと抜ける形で、矢が刺さっていたからだ。
    白猫夢・背任抄 4
    »»  2013.02.18.
    麒麟を巡る話、第191話。
    不安な指揮体制。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     突然の狙撃により、明奈は重傷を負った。
     心臓や頭と言った、当たれば即死するような箇所は奇跡的に外れたものの、それでも肺と肝臓を貫通する形で矢が刺さっており、病院に運ばれて即、面会謝絶となった。
    「先生、母は助かるのですか……!?」
     朱明は顔を真っ青にし、医師に尋ねる。
    「一応、峠は越しましたが、射られた場所が場所です。魔術と薬とで、数日中にはどうにか回復できるでしょうが、それでもその間は絶対安静にしなければなりません」
    「そう……ですか」
     助かると聞き、朱明はほっとした顔をしたものの、晴奈には別の不安があった。
    「その……、絶対安静と言うことであれば、黄家当主しての公務などは……」
    「できるわけないでしょう。もっての外です」
    「……でしょうな」

     明奈が復帰できるまでのその数日間、晴奈が代理を務めることになったが、晴奈に経営センスや交渉力などは無いし、黄商会代表および黄海市長としての業務は、事実上の休業となった。
    「とは言え数日業務を停止して傾くような街ではないからな。黄海防衛に努めれば、私の任は十分に果たせるだろう」
     まだ蒼い顔を見せながらも、晴奈はそううそぶく。
     しかし明奈の指示の下、密かに内偵調査を進めていた霙子たちは内心、不安を覚えていた。
    (困ったわ……。姉さんには秘密にしてたから、『笠尾が小雪派の手先であり、早急に身柄を拘束しなければ』なんて言うわけにいかないし――言ったらうろたえるの、目に見えてるし――かと言って、あたしの独断で動くわけにも行かない。うかつに手を出して逃げられたら、それこそ黄海防衛と笠尾探しとで人員を割く羽目になるし。
     どうしようかしら……)
     チラ、と横目で御経を見たが、御経と目が合ってしまう。
    (……御経さんも同じこと考えてたみたい)
     カチカチと強張った態度で執務机に座る晴奈に目をやり、それから霙子は御経と同時に、はあ……、とため息をついた。

     その頃、黄海郊外では――。
    「笠尾です」
    《ご苦労様です、笠尾錬士》
     明奈の狙撃に使った弩を焼き捨てていたところに、笠尾の元に「頭巾」による連絡が入った。
    《ただ、殺せなかったのは残念でしたね》
    「申し訳ございません」
    《いえ、まだ大丈夫です。警察部の動きも鈍いですし、実行犯は今のところ、特定できていないようです。差し当たり計画に支障は無いですし、不問としますよ。
     それより、早急に次の手を打っていただきたい》
    「承知いたしました。なに、後は火を点けるだけでございます。
     この時のために、準備は整えておりました故」
    《ありがとう、助かります》
     通信を切り、それから笠尾は郊外の森へと向かう。
     街を護る外壁に到達したところで、笠尾は辺りを伺う。
    「……よし」
     人がいないことを確認し、笠尾は地中から雑草に紛れて伸びていた導火線に火を点けた。
    「さて、沙汰があるまでこの辺りで潜むとするか」
     壁から離れて十数秒後、ドドド……、と言う炸裂音が立て続けに響き、外壁を粉々に打ち崩した。



     この異変は、すぐに晴奈の元に報告された。
    「黄代行、南西側の街壁が崩落しました!」
    「なに!? 既に小雪らが到達していたと言うのか!?」
     面食らう晴奈に、伝令は報告を続ける。
    「いえ、まだ敵の姿はありませんが、突然崩れたとのことです。
     しかし周囲に硝煙の匂いが強く残っていたこと、そして壁の街側に爆発痕があったことから、内部から爆発物によって破壊されたものと思われます」
    「なんと……! では、既に黄海に敵が侵入していると言うことか」
    「……姉さん」
     と、報告を聞いていた霙子が渋々、手を挙げた。
    「なんだ?」
    「実は明奈さんからの指示で、黄派と柊派の内偵調査を行ってたんです、あたし」
    「なに?」
    「姉さんが代表代行である今、その内容を伝えるべきであることは明白でしたが、姉さんにとってはあまりに衝撃的なことなので、……黙っていようかとも考えていました」
    「何かあったと言うのか?」
     霙子は意を決し、打ち明けた。
    「ええ。……まず、その爆破を行い、明奈さんを襲ったのは恐らく、笠尾です。密かにある男と通じていました」
    「なんと、笠尾が……!? い、いや。
     それより、『ある男』とは?」
    「その男こそが今回の騒動の、すべての元凶なんです」
    「誰なんだ、それは?」
    「本名を篠原朔明と言い、……姉さん、あなたの道場で20年余修行してきた男です」
    「……しの、はら、……だと!?」
     霙子の予想通り、この時晴奈はこれ以上無いくらいの、強い衝撃を受けた様子を見せた。

    白猫夢・背任抄 終
    白猫夢・背任抄 5
    »»  2013.02.19.
    麒麟を巡る話、第192話。
    30年越しの恨み。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     篠原朔明が生まれたのは、双月暦502年のことである。
     その1年前、彼の両親である篠原龍明と竹田朔美は、紅蓮塞において「新生焔流」を名乗り謀反を起こしたが、当時の家元である焔重蔵に阻止され、失敗。
     扇動し、味方に付けた門下生20余名を連れ、そのまま紅蓮塞から逃亡した。

     それから2年後、篠原らは隠密の職を得ることになるのだが、その間の生活は困窮を極めていた。
     新たに剣術流派を立ち上げはしたものの、本家焔流に楯突いた謀反人らである。まともな人間が集まるわけも無く、篠原龍明は貧困の最中にいた。
     そんな時に子供が生まれても、持て余すのは仕方の無いことと言えた。
     朔明は「そんな時」の子供だったのである。

     朔明を自分たちの手元に置いておくことができず、竹田朔美は自分の母親に我が子を預けることにした。
     その翌年に篠原一派は職を得て、生活は安定するのだが、何しろ職務内容が内容である。1歳にもならぬ幼子を呼び戻すわけにも行かず、そのまま預けることになった。

     そして両親に会えぬまま時は過ぎ、朔明14歳の時。
     既に己の主君を操る程にまで増長していた篠原一派は、央南転覆を狙った工作に失敗し、壊滅した。
     副統領であった竹田朔美は懲役230年の、事実上の終身刑を言い渡されて、後に獄死。統領であった篠原龍明も、あの剣豪――黄晴奈によって討たれた。

     それを知った朔明が、晴奈を恨まないはずがない。
     そもそも紅蓮塞が己の両親を追い出したりしなければ、自分は親と共に過ごせたかも知れないのだ。
     彼は並々ならぬ恨みを晴奈と焔流に抱き、そして復讐のため焔流に入門し、後に晴奈の道場へ転入したのである。



     話を聞き終えた晴奈の顔は、真っ青になっていた。
    「では……、あいつが此度の騒動を引き起こしたと言うのか」
    「はい」
    「小雪を惑わし、娘をもたぶらかして」
    「ええ」
    「……」
     晴奈は突然、机に突っ伏した。
     それがつい先程倒れた明奈の姿と重なり、霙子は戸惑う。
    「あ、姉さん!?」
    「……く、……くく、……くっ」
     突っ伏したまま、半ば泣くような、晴奈の笑い声が聞こえてくる。
    「何と言う半端者だ……! 己の手足さえ清められぬ半端者が、正義だの仁だのを説いていたわけか……!
     何のことは無い、私がすべての元凶だったのだ……!」
    「それは違います!」
     霙子は慌てて机に駆け寄り、晴奈の肩を抱く。
    「姉さんが篠原を討ったのは、職務上やむを得ずのことじゃないですか!
     いいえ、そもそも篠原こそが元凶だったんです! 奴が先代に刃向かったり、央南転覆を狙ったりしなければ、姉さんがそれを討つことは決してなかったんですから……!」
    「だが殺したのは事実だ。そしてその上で正義を、いい気になって説いてきたのもな。
     まったく、明奈の言う通りだったよ……! こんな体たらくで娘に『真っ当な生き方を』などと、よくも臆面も無く説教できたものだ……」
    「あねさ……」「……先生!」
     と――街壁の崩落を報告し、そのまま命令を待っていた伝令が、口を開いた。
    「え……?」
     晴奈が顔を挙げたところで、伝令は顔を真っ赤にしてこう叫んだ。
    「じ、自分は、自分は、先生に指導していただいた者ですが、その、先生に教わったことは、何の間違いも無いと、その、そう思っております!」
    「……そうか。見覚えがあると思った」
    「覚えていてくださり、ありがとうございます!
     ……か、重ねて申しますが、自分は先生が、……先生のお言葉が、正しいと、そう信じております! そして、その、それはきっと、他の同輩たちも同様であると思います!」
    「……っ」
     これを受けた晴奈は、ぼろぼろと涙を流す。そして霙子に、こう勇気づけられた。
    「……そうですよ、姉さん。この世にはじめから聖人君子たる人間なんか、いません。
     学び、経験することで、正しい人間に近付けるんです。姉さんが昔どんな人であったとしても、今の姉さんは、数多くの人間を正しく導いて来られた、尊敬すべき人です」
    「……ありがとう」
     晴奈はぐしぐしと、袖で涙を拭く。
    「さあ、先生! ご命令を!」
     びし、と敬礼した伝令に、晴奈はまだ目を真っ赤にしながらも、凛とした声で応じた。
    「……まず、優先すべきは街の防御だ。速やかに街壁を修復し、敵の襲撃に備えてくれ。
     もう一つすべきは、笠尾と『篠原』の捜索および拿捕だ。彼奴らをこのまま放っておけば、また何らかの妨害工作が行われるかも知れぬ。
     早急に動いてくれ」
    白猫夢・龍息抄 1
    »»  2013.02.21.
    麒麟を巡る話、第193話。
    黒幕の露呈。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     晴奈は霙子と信頼できる剣士――晴奈の直弟子である水越と紀伊見、柊派の関戸、そして御経を連れ、笠尾と「篠原」の捜索に乗り出した。
    「笠尾錬士については、朝から姿が見えません」
    「道場にも顔を出しておりませんし、他の錬士や門下生らも見ていないとのことです」
     水越らの報告に続き、御経が手を挙げた。
    「ただ、『篠原』に関してはいつも通り朝稽古に出ておりましたし、仕事先の事務所にも普通に出勤していたとか。もっとも我々が動いてからすぐ、姿を消したとのことです」
    「ふてぶてしい奴め……! ばれていないと思っていたらしい」
     苦々しく吐き捨てる水越に対し、関戸がつぶやく。
    「しかしまだ信じられないぜ……。まさかあの人が、悪名高き『魔剣』篠原の息子だったとはなぁ」
    「ええ、あたしも実際に刀を交えるまで気付かなかったもの」
     そう返した霙子に、水越が「ああ……」と納得したような声を出す。
    「そう言えば藤川範士は、あの交流戦で戦ってらっしゃったんですね」
    「ええ。その時にちょっとね、『あれっ?』と思うことがあったのよ」
    「と言うと?」
    「その前の、あいつが笠尾と戦ってた時は、見ていて惚れ惚れするくらいに最小動作での反撃一太刀で――それこそあの伝説通りの、『魔剣』と言ってもいいくらいの動きで――試合をすぱっと終わらせたくせに、あたしと戦った時はこれでもかってくらいに猛然と打ち込んできたわよね」
    「ええ」
    「その仕掛け方が、まるで『あたしの何らかの切り札を持っていると仮定し、それを警戒したような』打ち込み方だったのよ」
     婉曲的な言葉に、錬士らが首をかしげた。
    「と言うと?」
    「そいつの親とあたしの親は、かつて『三傑』とうたわれた剣豪同士なのよ。その評判を聞いてたんでしょうね。そしてその、切り札も」
    「……え、じゃあ藤川範士の親御さんって、……『霊剣』ですか!?」
    「あら、言ってなかったっけ?」
    「聞いてないっスよぉ」
    「まあ、そう言うことなのよ。
     ……『三傑』の子供同士であったが故の警戒。それが今回の事件の『裏』を露呈するきっかけになった、ってわけ。
     ちなみに残念ながら、あたしは父の『霊剣』を会得できなかったわ。あたしは、普通の剣士」
    「ふむ……。ところで黄」
     と、御経が晴奈を呼び止める。
    「どうした?」
    「闇雲に回っているように感じられるが、何か当てはあるのか?」
    「一応はな」
    「ほう。それは一体?」
     尋ねた御経に、晴奈は郊外の丘を指差した。
    「街壁が崩されたと言っていただろう? しかし小雪らが来るにはまだ、2日か3日は間があるはずだ。
     だと言うのに今日、早々と壁を崩した理由が分からぬ。来ると同時に崩せば機が合うだろうし、うかつに事を起こせば州軍がすぐ対応に回ることは明白。
     これくらいのことは、多少知恵が利く者ならすぐ想定できるはず。だが今日崩したのは、何故だ?」
    「ふむ……」
    「私の読みが正しければ、『篠原』は何かもう一つ仕掛けを施し、防御を徹底的に無力化させるつもりなのだろう。
     それを自分でやるか、笠尾に命じるかは分からぬが、どちらにしても自分から行かねば、仕掛けを施すことはできまい」
    「なるほど。策を実行するその時、二人のどちらかがいるはず、と言うことか」
     晴奈の予想に従い、一行は郊外の、壁が崩れた現場に向かった。

     そして晴奈の予想通り――いや、予想より悪い事態がそこにあった。
    「ぐ……あ……っ」
    「はぁ、はぁ、はっ……」
     壁の補修作業を行っていたらしい兵士たちが数名、血まみれになって倒れている。
     そしてその中心に笠尾と、清滝がいた。
    「まさか二人同時に、ここにいるとは思わなかったが……、ともかく、こちらがやることは変わらぬ」
     晴奈は二人の前に立ちはだかり、刀を抜いた。
    「観念してもらうぞ、笠尾松寿。……そして清滝、いや、篠原朔明ッ!」
     真の名を呼ばれ、清滝はにや……、と薄ら笑いを浮かべた。
    白猫夢・龍息抄 2
    »»  2013.02.22.
    麒麟を巡る話、第194話。
    壁際での攻防。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     清滝――いや、篠原朔明は晴奈と対峙し、こう尋ねた。
    「私の本名まで分かってらっしゃると言うことは……、我々の計画は、ほとんど発覚していると言う認識でよろしいでしょうか?」
    「無論だ。此度の騒動、貴様がすべて裏で手を引いていたこと、既に割れている」
    「なるほど、なるほど。では我々の目的もご存知でしょうね」
    「私と、焔流に対する復讐だな」
    「ええ、その通りです」
     朔明は刀を抜き、晴奈に向けて構える。
    「本名をご存じであるならば、私の恨みも分かっておいででしょうね。
     この時を待っておりましたよ、黄晴奈」
    「勝てると思うのか」
    「勝てますとも」
     朔明の言葉に、晴奈の後ろにいた一行も刀を構える。
    「この人数相手でもかッ!」
    「人数? ……くくく、なるほど、なるほど」
    「何がおかしいのよ?」
     苛立った声を立てる霙子に、朔明はこう返す。
    「恐らく2対6、とお思いなのでしょうな。ここには私と、笠尾しかいないと」
    「違うとでも?」
    「ええ」
     朔明がそう答えた次の瞬間――崩れた壁の向こうから、武装した者たちがぞろぞろと現れた。
    「……!?」
     それは紛れも無く、紅蓮塞に集まっていた浪人たちだった。
    「2対6ではないのですよ。ざっと……、50対6と言うところでしょうか」
    「な、……何故だ!? 小雪派が到着するまで、少なくとも後2日はかかるはず……!?」
    「簡単なことですよ」
     50人の味方を背にした朔明が、にやにやと笑う。
    「州境で目撃されたのは確かに焔小雪率いる本隊でしょうが、それより2日早く、別に動かしていたのですよ。『州境に敵の姿あり』と報せられ、そこを注視する者はいても、その目的地にわざわざ目を配るような者はいませんからね。
     完全に虚を突くことができたようですな、くくく……」
    「くっ……」
     いくら精鋭の剣士が揃っていたとしても、50対6では戦うどころではない。
    「……退くぞ! 体勢を立て直す!」
    「逃がすものですか! 笠尾ッ!」
     朔明は笠尾に命じ、背後の浪人たちを扇動させた。
    「殺せ! 相手はあの黄晴奈だ! 我が本家焔流を貶めた、憎き逆賊だぞッ!」
    「おうッ!」
     浪人たちは刀を振り上げ、晴奈たちに襲い掛かってきた。

     晴奈たちは逃げようと試みたが、50名を相手にそうそう逃げおおせるものではない。
     即座に囲まれ、窮地に陥った。
    「ぐ……!」
    「ふふふ……、黄範士、いや、黄晴奈!
     私はこの時を、四半世紀以上も待った! こうして貴様を、血祭りにあげるのをな……!」
     包囲の外から、朔明の勝ち誇った声が響いてくる。
    「今は浪人に身をやつしたとは言え、彼らは軍で鍛えた精鋭揃いだ! 手練れ5名といえど、突破などできるはずも無い! ここで全員、刀の錆にしてくれるわ!」
     笠尾の高笑いも聞こえてくる。
    「5人……?」
     尋ねた霙子に、またも顔を見せず、朔明が返す。
    「1人、役立たずがいるはずですよ。
     そう、剣士と名乗っておきながら、『人を斬ることなどとてもできない』などと臆病風に吹かれた老猫が一匹……」
    「私のことか?」
     晴奈が応じる。
    「他に『猫』が?」
    「少なくとも、無闇やたらに刀を振るう粗忽者ではないな」
    「私共の方ではそれを『臆病者』と呼んでいますがね。
     調べましたが……、あなたは日上戦争以降、あの『蒼天剣』を床の間に飾ったまま、一度も抜いていない。
     口では『刀を置かない』とか『生涯、剣士でいる』とか言っておいて、あなたはもう20年以上、まともに刀を握っていないはずだ。
     そんな臆病者が、我々の敵であるはずは無い。……とは言え」
     朔明は依然として奥に引っ込んだまま、こう付け加えた。
    「この一大計画の結果如何にかかわらず、黄晴奈、お前は殺すと決めていた!
     今が臆病者だろうが老いぼれだろうが、どんな形であろうとお前を殺さなければ、私の復讐は完成しない。
     さあ、袋叩きにしてしまえ!」
     朔明に続き、笠尾が浪人たちに命じる。
    「やれッ!」
     その号令に応じ、浪人らが刀を一斉に、晴奈たちに向けた。

     だが――晴奈たち6人は、笑っていた。
    白猫夢・龍息抄 3
    »»  2013.02.23.
    麒麟を巡る話、第195話。
    晴奈の一喝。

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    4.
    「……くく」
     晴奈のクスクスと笑う声が、その殺伐とした場に響く。
    「何がおかしいんです? 最早これまでと諦めましたか?」
    「はは……。いいや、馬鹿な奴らだ、と呆れたのだ」
    「何ですって?」
    「ええ、そうね。おかしくてたまらない」
     霙子が同意する。
    「左様。斯様な光景、滑稽この上なし」
     御経もうなずく。
    「何がおかしい! ……と聞いているんです」
     上ずった朔明の声に、関戸と水越が答える。
    「剣士云々を偉そうに高説しやがったが、肝心のお前はどこにいる?」
    「黄先生に関係ない奴らをわんさか集めてけしかけておいて、本気で恨んでるはずのお前が何故、前に出ようとしない?」
     それに、紀伊見が続く。
    「それで誇りある剣士のつもりだと言うの? ええ、おかしいことよ。笑わずにいられるものですか」
    「……」
     答えない朔明らに、そして自分たちを囲んでいる者たちに、晴奈が怒鳴った。
    「篠原! そして笠尾! 貴様らは剣士の風上にもおけぬ、ただの大馬鹿者だ!
     ことごとく他人を利用し、踏み台にし、そしてそのまま蹴落とそうとする、腐り切ったその性根! 人を導く立場にありながら、土壇場で他者をけしかけ、自分たちだけは安全な場所に避難するその卑怯振り!
     貴様ら二人、いい加減に恥と言う言葉を覚えたらどうだ!?」
     そして晴奈の叱咤は、浪人たちにも及ぶ。
    「そもそもだ! お前たちもいい加減、目を覚ましたらどうだッ! この期に及んでまだ、そんなろくでなしの口車に乗せられたまま、漫然と人を斬ろうと、ぼんやりとしたまま殺人を犯そうとするつもりかッ!?
     そんな体たらくでまだ、お前たちは剣士のつもりでいるのか!? 自分自身を省みろッ! 今のお前たちは自分が世間に誇れる剣士だと、胸を張ってそう言えるのかッ!
     どいつもこいつも――いい加減、目を覚ませーッ!」
     晴奈の怒りの声が、その場にこだました。

     晴奈の一喝が、相当に効いたらしい。
    「……っ」
     晴奈たちを囲んでいた浪人たちが、一人、また一人と刀を下ろす。
    「おい! 何をしている!?」
    「さっさと殺さんか!」
     騒ぐ朔明らに対し、浪人たちは何も言わず、目だけを向ける。
    「……」
    「な、何だ、その眼は? 何か文句があるのか?」
    「……」
     浪人たちは何も言わないまま、包囲を解いた。
    「お、おい!?」
    「……」
     完全にばらけた浪人たちを、朔明たちは慌てた様子でなじる。
    「ま、待て! 敵の口車に乗る奴があるか! そんな浮ついた性根だから……」「黙れ、篠原」
     晴奈が再び一喝し、そして立ち尽くした浪人たちに声をかける。
    「……お前たち、もう何もしなくていい。そこで立っているだけでいい。じっとしていて、いいからな。
     こいつを片付け次第、私が何とか職を世話してやる。だからこれ以上、罪を重ねるな」
     浪人たちが離れ、ようやく姿を現した朔明たちに、晴奈たちが近付く。
    「か、片付けるだと? できるはずが無い!」
    「何故だ?」
    「笠尾は紅蓮塞で指折りの剣豪! そして私も、伊達に範士と呼ばれていない!
     その反面、そちらはお荷物を一人抱えている状態だ! 負ける要素がどこにあると!?」
    「私を見誤っているようだがな、篠原」
     晴奈が刀を抜き、その切っ先で朔明を指す。
    「平和な世で刀を抜く必要が無かったからこそ、私は刀を置いていただけのこと。その平和を乱す狼藉者があれば、私には抜く覚悟がある。
     今がその時だ」
    「う……」
     朔明は絶句し、後ずさる。
     その前に笠尾が立ちはだかり、晴奈に刀を向ける。
    「さ、させんぞ!」
    「こっちの台詞だ、馬鹿野郎」
     その笠尾を、関戸と水越、紀伊見が囲む。
    「邪魔させるかよ。てめえは俺たちが相手してやる」
    「ぐぬ……っ」
    「任せた」
     晴奈は彼らを避け、改めて朔明と対峙した。
    「行くぞ、篠原」
    白猫夢・龍息抄 4
    »»  2013.02.24.
    麒麟を巡る話、第196話。
    傲慢な剣。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     関戸たちは三人がかりで笠尾に対峙する。
    「1対3が卑怯とは言うまいな? 50対6で袋叩きにしようとした貴様らが」
    「……ふん」
     笠尾は刀を一振り抜き――。
    「言うものか。……貴様らには俺一人で十分だからだ」
     さらに脇差を抜き、二刀流の構えを見せた。
    「二刀流……?」
    「焔流の流儀では無い……、型だな」
    「一刀流の焔流に、それぞれの手に刀を構えるような教えは無い。何のつもりだ、笠尾」
     そう問われ、笠尾は両方の刀に火を灯しながら答える。
    「これぞ俺が新たに編み出した流派、名付けて『笠尾派陰陽焔流』だ。以前の交流戦だかで披露したのは、まだ小手先の遊びよ。
     さあ……、参られよ、お三方!」
     挑発され、まず関戸が仕掛ける。
    「来いってんなら行ってやらぁ! おらよッ!」
     関戸も刀に火を灯し、勢い良く振り下ろす。
     それを笠尾は左の脇差で受け、右の刀で反撃する。
    「食らえ、『火閃』ッ!」
    「……!」
     関戸に迫り来る炎を、紀伊見が受け止めた。
    「させるかッ! えやああッ!」
     紀伊見の放った炎が笠尾のそれを巻き込み、彼方へと飛んで行く。
    「ほう……、やはり相当の腕前だな」
    「なめるなッ!」
     今度は紀伊見が、笠尾と刃を交える。
    「せやッ! りゃあッ! たあああッ!」
     相手に攻撃させまいと畳みかけるが、それを見た水越が叫ぶ。
    「駄目だ奈々! それは俺がはまった……」「もう遅いッ!」
     突如、紀伊見の攻撃が止まる。
    「う……っ」
     恐らく、笠尾がわずかに身を引いたのだろう。
     目一杯に踏み込み、打ち込んでいたため、紀伊見は手応えを失って体勢を崩す。
    「その細い目、こじ開けてやるわあッ!」
    「うあ……」
     よろけた紀伊見の顔目がけて、笠尾が刀と脇差とを突き込む。
     が――とっさに水越が紀伊見の襟を引き、体勢を立て直させる。その一方で、関戸が笠尾の頭めがけて蹴りを放っていた。
    「奈々さんの綺麗な顔に何しようとしてんだコラああッ!」
    「うぐ、お、っ、……ふぬうううッ!」
     側頭部から蹴りを受けた笠尾の首が、一瞬曲がりかける。
     だがその瞬間、笠尾の首の筋肉がぼこぼこと盛り上がってその衝撃を受け切り――。
    「効く、……かああああッ!」
    「うおおお!?」
     そのまま首の力だけで、関戸を弾き飛ばした。
    「……なんてぇ馬鹿力だ。一瞬、首回りが糸瓜みたいに膨らんだぞ」
    「あ、ありがとう、兵治」
     と、紀伊見が服の乱れを直しながら、水越に礼を言う。
    「ああ、いや、……危なかったな。危うく目がいっこになるところだった」
    「いててて……、大丈夫っスか、奈々さん」
     関戸の方も、肩を押さえながら二人の側に戻る。
    「あなたこそ……、大丈夫?」
    「着地し損ねて肩を打った、けど、まあ、大丈夫。
     ……ってか、流石に言うだけあるな、あいつ」
    「ああ。膂力(りょりょく:筋肉の力、強さ)だけじゃなく、確かに二刀流の捌き方も見事と言う他無い。手強いぜ……!」
    「まるでゴム製の人形が刀を持って、ぐにぐに縒れながら暴れてるみたい。真っ向から行っても、弾かれるだけだわ」
    「どうした、貴様ら」
     笠尾は仁王立ちになり、三人を牽制する。
    「俺を仕留めるのではなかったのか? うん?」
    「チッ……」
    「来ないのなら、こちらから行かせてもらうぞ」
     笠尾はそう宣言し、ふたたび刀に火を灯す。
    「先代家元が考案し、あの猫侍が小癪にも確立したとされる技があるな? 『炎剣舞』と言ったか……。
     俺はその技を、さらに昇華させた! 食らえ、『爆炎剣舞』!」
     笠尾は突如、回転し始めた。
    「爆炎だと?」
    「……って、まさか」
    「来る!」
     回転している間も刀の火は燃え上がったままであり、やがてその炎が大きくなる。
     炎は際限なく膨れ上がり、辺り一帯に飛び散った。
    「うわ……!」「わあッ!?」「きゃあっ!」
     三人の悲鳴も、爆轟によってかき消された。

     回転をやめたところで、笠尾の刀から火が消える。
    「ふうっ、ふうっ、はあ……。
     くくく、辺り一面焼け野原だ。見たか、木端共め! 我が『笠尾派陰陽焔流』こそ、後世に名を残す優れた剣術なのだ、うわははは……」「おい」
     勝ち誇り、大笑いしようとした笠尾の背後から、またも関戸が飛び蹴りを放った。
    「うごっ!?」
    「だっせぇんだよ、一々ガキみたいな名前付けやがって。
     だからこんな引っ掛けに騙されんだよ」
     虚を突かれたためか、今度は威力を受け止め切れず、笠尾は膝を着く。
    「全くだ。筋肉はあっても、感性がからきしだったな。
     まさか俺たちが、本気で貴様にてこずるとでも?」
     膝立ちになったところで、笠尾の顔面に水越の拳がめり込む。
    「ふごあ……っ!」
    「しかも勝ちを確信した瞬間に隙、丸出し。
     ……こんな愚か者に刀を振るのも馬鹿馬鹿しいですね」
    「ああ」「全く同感」
    「では、峰打ちで勘弁してあげましょうか」
     目と鼻から血を噴き出し、悶絶する笠尾に、紀伊見が頭から刀を振り下ろす。
     ごきん、と恐ろしく痛そうな音が、笠尾の脳天から響いた。
    「ふが、は、が、っ……、な、なへは、なへいひへひぅ……」
    「『何故生きている』、だと? 避けたからに決まってんじゃねえか」
    「あんな子供だまし、誰でも避けれます」
    「お前が黄先生の技を昇華? 劣化させた、の間違いだろ」
    「……ほひゅ……」
     何だかよく分からない音を鼻と口から漏らし、笠尾はその場に倒れた。
    白猫夢・龍息抄 5
    »»  2013.02.25.
    麒麟を巡る話、第197話。
    ×印。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     霙子と御経がじっと見守る中、晴奈と朔明は互いに刀を構えたまま、にらみ合っていた。
     いや――晴奈の方はまったくブレを見せず、凛と構えているが、一方の朔明はボタボタと汗を流し、刀の切っ先をカタカタと揺らしている。
    「……勝てると思っているんですか」
     それでもなお、朔明は強がった台詞を口にする。
    「20年まともに刀を握っていないあなたが、20年修行を欠かさなかった私に勝てると?」
    「思うさ」
    「持っている刀は『蒼天剣』ですらない。間に合わせの鈍(なまくら)ではないですか」
    「十分だ」
     淀みなく返され、朔明は目に見えて覇気を失っていく。
    「だ、……第一、あなたは何も気付いていない。
     娘の心情も察せられない。弟子の肚(はら)の内も見抜けない。そして何より、自分のしてきたことがまったく滑稽であることに、今なお気付いていないのだ!」
    「ほう? それは何だ?」
     尋ねた晴奈に、朔明は得意げな声色になる。
    「あなたは道場を構え、人に教える立場に立ってからずっと、『自分の教えが正義である』と言ってきたはずだ。
     だがその実、あなた自身はそんな潔癖な生き方をしたわけではない。血に塗れた、薄汚れた生き方を……」「ああ、そうだな」
     晴奈にうなずかれ――朔明は「え」と漏らし、絶句した。
    「確かに私の生き方は決して綺麗ではないし、誇れるものでも決して無いさ。
     だが私の生き方や所業はどうであれ、『教えてきたこと』に間違いは無い。この20年、正しいことを教えてきたと信じている。
     娘は……、私の教えてきたこととに反発し、聞き入れないかも知れない。いや、今はまだ、聞き入れてはくれていない。
     だがきっと、いつかは分かってくれる。私はそう信じている」
    「ひっ、……開き直るな! 開き直るんじゃないっ!」
     朔明が叫ぶ。
    「何故落ち込まない! 何故あんたはしょげかえっていないんだ! でなければっ……」
    「でなければ、勝てる見込みが無いとでも?」
    「うっ……」
     朔明の刀が、がくんと震えた。
    「……い、いや。できますとも。
     私も血筋ですから、あの『魔剣』を生まれつき会得しています。それに加え、あなた自身から剣術を学んでいます。
     あなたの手は全部分かっている。あなたが父と戦った頃より、『魔剣』には磨きをかけています。これだけあれば、負けることなど……!」
    「なるほど。篠原、お前の弱さが見えた」
    「は……!?」
     うろたえる朔明に、晴奈は静かに言い放った。
    「お前はどこまでも『守り』が欲しいのだ。自分に危険が及ぶことを殊更に避け、保険の上に保険を重ね、その上さらに保障に次ぐ保障を欲してやまない。そう言う奴だ。
     だから月乃を籠絡し、その月乃に小雪や良蔵を操らせるようなことをして、自分には徹底的に危害が及ばぬよう画策した。
     今もそうだ。笠尾を盾にし、その笠尾に命じさせて浪人を集め、自分には私の刃が絶対に届かないようにと策を弄した。
     徹頭徹尾、自分は手を汚したくないと言うわけだ! 焔流を傾けさせ、央南全土を騒がすような大それたことをしておいて、自分は無関係を装おうとしている!
     どこまでも卑怯で臆病な、薄汚い奴め。篠原、お前は到底許しておけぬ。よって、こうして決着させてやろう」
     次の瞬間――晴奈は消えた。

    「な!?」
     目の前からぽん、と消えた晴奈に、朔明は真っ青になった。
    「ま、ま、まさか……っ! せせ、せ、『星剣舞』っ……!」
     朔明はがば、と頭を抱え、しゃがみ込んだ。
     その姿は到底、剣士と呼べるような雄々しいものでも、堂々としたものでもない。
    「なんとまあ……」「ひどいわね」
     あまりにも哀れなその姿勢に、見守っていた霙子と御経は吹き出していた。
    「ひいい……っ」
     刀も放り出し、朔明は身を縮めている。
     と、その背中が突然裂ける。
    「ぎゃああっ!」
     立て続けにもう一筋、傷ができる。
    「うあああー……っ!」
     背中があらわになり、大きく真っ赤な×字が出来上がったところで、晴奈が再び姿を見せた。
    「ここ、こっ、殺さないでくれ、死にたくないぃ……!」
    「お前は殺す価値も無い」
     晴奈は朔明に背を向け、そしてこう続けた。
    「ことごとく他人を犠牲にし、己の保身のため逃げに逃げた、その腐った性根。
     敵を目の前にして戦おうとせず刀を捨て、あまつさえ身を屈めて助けを乞う情けなさ。
     お前を剣士と思うような者など、誰一人としているまい。
     お前は永遠に剣士を失格した。その背中の二太刀がその失効の証だ」
    「ひっ……、ひっ……、ひぃ……」
     晴奈はそこで刀を納め、周りに声をかける。
    「兵治と侍郎はそこで伸びている阿呆と、こいつを縛っておいてくれ。霙子、お前は州軍に連絡して改めて、壁の補修をするよう要請してくれ。ああ、それと斬られた者の手当てだな。皆、協力してくれ。
     二人と怪我人を州軍に任せた後は、そうだな……、とりあえず私の屋敷に来い。疲れているだろうし、腹も減っただろう?」
     問いかけた晴奈に霙子たちと――そして浪人たちが、一斉に頭を下げた。

    白猫夢・龍息抄 終
    白猫夢・龍息抄 6
    »»  2013.02.26.
    麒麟を巡る話、第198話。
    戦いの終わり。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     拘束された朔明と笠尾の両名は、翌日のうちに拘置所へ移送されることとなった。現時点での罪名は、公務執行妨害、傷害および殺人未遂、またその教唆となっている。
     笠尾に命じて州軍の兵士8名を襲わせ、うち2名は重体である。死者こそ出なかったものの、それでも軍相手に狼藉を働いた現行犯である。
     そして今後は当局から然るべき処置が下され、央南西部を揺るがした重政治犯として裁かれるだろうと思われた。

     ところが拘置所へ向かう、その道中――。
    「な、……なんだ!?」
    「焔流の……、小雪派か!?」
     二人を運んでいた分隊を、小雪たちが襲ったのだ。
     元々最後の賭けに打って出ようと集められた、150近い浪人である。一挙に押し寄せてきた彼らに、流石の兵士たちもうろたえた。
    「狙いはこの二人か! 渡しはせんぞ!」
     分隊が銃を構え、一斉に射撃する。浪人らのうち十数人が倒れたが、それを乗り越えて残りが次々と歩を進めて来る。
    「……くそ、退くぞ!」
     いくら撃ってもきりが無いと判断した分隊は、やむなく退却した。
    「……はあっ、……はあっ、はあ……」
     先陣を切って兵士たちを追い払った月乃は、そこで膝を着く。
    「大丈夫か、黄? どこか撃たれたのか?」
    「いいえ……、撃たれてない、けど」
     残された笠尾と、そして朔明を確認し、月乃はボタボタと涙を流した。
    「あなたが捕まったって聞いたから、こうして私……!」
    「……」
     が――朔明は何も言わない。
    「……朔明さん?」
    「……」
    「ねえ……? ちょっと、朔明さん?」
    「呼んでも無駄だ、黄」
     顔中に包帯を巻いた笠尾が、ふがふがとした声でそれを止めた。
    「どう言うことよ?」
    「貴様の母に散々おどかされたせいで、……頭のネジが飛んでしまったようでな。
     何の反応も示さなくなってしまった。いわゆる狂人と言うわけだ」
    「は?」
     言われて彼の顔を見てみると、確かにそれは、かつて自分が惚れた男の、自信あふれるそれでは無かった。
     言うなれば――その顔は木に洞が空いたも同然の、虚無の形相だった。
    「……ひっ」
    「最早自分がどんな恨みや野心を抱いていたのかさえ、覚えておらんだろうな。
     ……すべては潰えたのだ。参謀も家宰もいなくなった以上、紅蓮塞は、もう終わりだ」
    「な、何言ってんのよ? どう言うことよ? こいつ誰?」
     未だ事情を知らされていない小雪は、笠尾の絶望的な言葉が呑み込めないでいる。
     それに苛立ったのだろう――これまで恭しく小雪に付き従ってきた深見が、声を荒げた。
    「……るっせえなぁ、このバカ女がッ」
    「は、はぁ? なんですって? 今あんた、何て……」
    「うるせえって言ったのが分からねえのか、あ?」
    「あんた、家元に向かってそんな……」「は? 家元? い・え・も・とぉ?」
     深見は小雪の胸倉をぐい、とつかみ、その額に向かってコツコツとノックする。
    「もしもぉし、誰かいますかぁ? え、おい?
     まーだ、自分の立場が分かっちゃいねえようだな、あ?」
    「なっ、なに、すんのよっ」
    「お前はずーっと俺たちにとって、体のいいお神輿だったってことだよ! それこそ本気で奉られようが、壊れっちまおうが、一切構わねえやってくらいのな!」
    「な……ん……っ」
     小雪の顔に、瞬く間に怒りの色が満ちる。
    「この無礼者めッ! 叩っ斬ってやるッ!」
    「やってみろや、ボンクラぁ!」
     小雪と深見は、同時に抜刀する。
     が――それを九鬼と、月乃が止めた。
    「お収め下さい、殿!」「やってる場合じゃないでしょ!?」
     止められた二人は、同時ににらみつける。
    「邪魔をするな!」
    「いいえ、いたします! このままここで立ち止まっていては、黄州軍が大挙して押しかけて来るのは明白! 早急に紅州まで退かねば、進退を窮めます!」
    「九鬼の言う通りよ。ここでぎゃーぎゃーわめくなんて、マジでバカのやることよ」
    「……」
     諌められ、小雪は渋々刀を納める。一方の深見も「チッ」と毒づきつつ、小雪に背を向けた。
    「行くわよ!」
     月乃が先導し、皆を退却させる。
     と、それに乗る形で笠尾が、抜け殻となった朔明を引っ張りつつ付いてきた。
    「……何してるのよ」
    「いや、俺も……」
    「それはいい。私が聞いてるのは、『それ』をどうする気かってことよ」
    「『それ』だと?」
     尋ね返したが、間をおいて笠尾はうなずいた。
    「……いや、そうだな。連れて行く価値は無し、か」
    「そう言うことよ」
     笠尾はいまだ虚空を見つめたままの朔明から手を離し、そのまま月乃たちと共に、その場から去った。
    白猫夢・落紅抄 1
    »»  2013.02.28.
    麒麟を巡る話、第199話。
    月乃、去る。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     黄州軍がやって来る前に、どうにか月乃たちは紅州の州境を越えることができた。
    「……話してもらうわよ」
     ようやく安全圏に到着したところで、小雪が口を開いた。
    「一体あんたたちは、わたしに隠れて何をやっていたの?」
    「……言えば高慢なあんたは、間違いなく激昂する話よ。それでも聞きたいの?」
    「わたしに何にも聞かせなかったくせに、あんたたちはわたしを担ぎ出して好き勝手やってたんでしょ? 聞く権利はあるはずよ」
    「じゃあ、一から説明するけど。
     その前に刀から手、離しておいてよ」
    「……いいわよ」
     小雪は九鬼に刀を預け、近くの岩に座り込んだ。
    「これでいいかしら」
    「ええ。じゃ、まず『これ』を分かってもらおうかしら」
     そう返し――月乃はとん、と一足飛びに小雪に迫り、抜刀した。
    「なっ……、に、を」
     小雪は面食らったが、彼女が立ち上がるより前に、月乃は小雪に当たらない程度に刀をくるんと一回転させ、納めていた。
    「分かってもらえたかしら」
    「な、何を、よ?」
    「あんたが器じゃないってことをよ」
    「なっ……」
    「他人から『やれ』と言われれば、疑いもせず従う。その行為に関わる危険性なんか、考えもしない。いざ危険が及ぼうものなら、ただただわめいて怒鳴り散らして、責任逃れしようとする。
     自分の考えや矜持、誇りなんか、雀の涙ほどにも無い。そんな薄っぺらよ、あんた。人の上に立って皆を導くような、そんな器じゃないのよ。
     まずそれが、私から言いたいこと」
    「……」
     憮然とする小雪に、月乃は続けて打ち明けた。
    「だからここにいる、九鬼以外の側近はみんな、あんたをかなり早いうちから家元としてじゃなく、『お神輿』として扱ってた。適当におだてて祭り上げて、それでうまく行けばそのまま祭り続ける。うまく行かなきゃきっぱり捨てて、私たちの身代わりにする。
     そう言う姿勢でこの戦を続けてきたのよ。……で、やっぱり大方の予想通り、この戦は負けに終わりそうだと思った私たちの参謀は、あんたを黄州まで引きずり出して人身御供にしようとしてたのよ」
    「な、何ですって!?」
     顔を真っ青にした小雪に、月乃は肩をすくめて見せた。
    「でも、その参謀は私の母、黄晴奈との戦いに敗れた。そうよね、笠尾?」
    「ああ」
    「その結果、あのざまよ。もう使い物になんてなりゃしないわ。
     一方で、真面目に紅蓮塞の運営を考えてくれていた家宰の御経は、あんたを見限った。もうこれ以上面倒見きれない、ってね。
     残った側近で家宰役を務めてくれそうなのは深見だけど、あいつはあんたをバカにしてるし、結局自分のことしか考えてないし、あいつ自身も結局バカ。
     九鬼はクソ真面目だし腕も立つし、あんたに忠誠誓ってくれてるけど、この敗勢を覆せるような人材じゃない。無闇やたらに走り回って討ち取られるのが関の山よ。
     私たちの勝つ可能性を高めてくれる人材も、私たちの足元を固めてくれる人材も、もういない。紅蓮塞はこのまま央南連合軍に四方八方から攻め込まれて、それでおしまいよ」
    「……」
     これだけこき下ろしたにもかかわらず、誰一人として月乃を非難したり、責めたりしようとはしなかった。
    「……じゃあ、どうするのよ」
     その代わりに、小雪がこう尋ねた。
    「わたしたち、このまま全員死ねって言うの?」
    「そんなの嫌よ」
     月乃は大きく首を振り、それを否定した。
    「私は抜けるわ。もうこれ以上、紅蓮塞に未練は無いもの。故郷だってクソ食らえって感じだし。第一、良蔵に媚を売るのもいい加減、疲れたし」
    「お前、そんな勝手が……」「止める? 腕一本くらい覚悟することになるわよ」
     そう返し、刀に手をかけた月乃に、深見も刀に手をかけようとする。
     しかしそれを途中で止め、「けっ」とだけ言い捨てるだけに留まった。
    「ま、あんたはそう言う奴よね。結局、面倒事になるのも、腕を失うかもって危険を冒すのも、そう言うのから全部逃げる奴だもんね」
    「……るっせえな」
    「他に私を止める奴は、いる?」
    「……」
     誰も、何も言わない。
     誰一人として自分に刃を向けようとしないことを確認した月乃は、はあ、と嘲るようなため息を一つ吐き出し、それから踵を返した。
    「じゃ、ね」
    「待って」
     と、小雪が顔を挙げた。
    「やる気? あんたが?」
    「違うわ。……どこに行くつもりなの?」
     こう問われ、月乃は立ち止まって振り返る。
    「どこでもいいわ。央南じゃなきゃ、どこでも」
    「全部捨てるつもりなのね」
    「そうよ。もう未練は無いわ。もうあんたたちとも、二度と会うことは無いでしょうね」
     月乃は誰とも目を合わせず、その場から立ち去って行った。
    白猫夢・落紅抄 2
    »»  2013.03.01.
    麒麟を巡る話、第200話。
    「あいつ」に瓜二つ。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     月乃は一人、何処へと消え去ったが、残った者にそこまでの度胸は無い。
     他に行くところも無く、紅蓮塞へと戻ってきた。
    「……」
     門を潜り、本堂に着いても、口を開く者は誰一人としていない。
     誰もが悟っていたからである――自分たちに残された手段は、緩やかに侵攻されるのを待ち、そのまま討たれるか、それとも潔く自決するかの二択しか無く、話し合う内容が存在しないことを。

     と――コツ、コツと硬い革靴の音が、外から響いてくる。
    「……?」
     小雪はふらふらと立ち上がり、堂の外を見た。
     そこには央南連合の役人と思われる者が数名と、その護衛らしき連合軍の兵士が1分隊おり、そして北方風のスーツに身を包んだ猫獣人が一人、彼らの前に立っていた。
    「……は?」
     その猫獣人の顔を見た途端、小雪は声を荒げた。何故なら彼女にとって、その顔は二度と見たくない、鼻持ちならないものだったからだ。
    「何であんたが今更ここに来るのよ!?」
    「何でって、仕事だよ」
    「は? 仕事? 央南から逃げたあんたが、連合に就けるわけないじゃない!
     大体何よ、そのヘンテコな格好! 刀も持ってないじゃない! 剣士がどうのこうのって、わたしに向かってあれだけ偉そうに説教したくせに!」
    「刀? 剣士? ……あのさ、小雪さん」
     と、その白地に黒斑の、童顔の猫獣人は、困った顔を小雪に向けた。
    「弟と勘違いしてないかな」
    「え?」
    「僕、秋也じゃない」
    「……あれ?
     え、じゃあ、……えーと、春司くん?」
    「そう」
    「……なんでここに?」
     唖然とする小雪に、その猫獣人――黄晴奈の長男であり、秋也の双子の兄である黄春司は、肩をすくめて見せた。
    「だから仕事だってば。つまり、停戦交渉だよ。2回目の。
     央南連合から父さん……、あー、と、同盟総長に、『第三者として間を取り成してくれ』って要請があったんだけどさ、父さんはご存知の通り北方に行ったり央中に渡ったりで忙しいから、こうして代理として僕が任命されて、交渉に来たってわけ」
    「……あ、そう」

     央南連合は以前、紅蓮塞と取り決めた懐柔案を反故にされ、困り果てていた。
     裏の取引があの会議の本懐だったとは言え、紅蓮塞側がこの案を完全無視したために、裏のことなど何も知らない連合軍では、実力行使もやむなしと言う意見が非常に強まっていた。
     とは言え実際に連合軍を出動させ、それが戦争にまで発展してしまえば、戦費がかさむ上に国際社会における央南連合の評価も下がる。
     央南連合はどうにか戦争を回避しようと、事実上の最後通牒として、第三者を交えた再度の交渉を持ちかけてきたのだ。
     その第三者として選ばれたのが、央南と央中・北方を結ぶ地域共同体、「西大海洋同盟」の第2代総長、トマス・ナイジェル卿である。しかしナイジェル卿は多忙に次ぐ多忙のため、その息子であり秘書兼名代であった春司が、その役目を請け負うことになったのである。

    「そっか、月乃はどっか行っちゃったかぁ」
     場所を移し、小雪と深見、九鬼から経緯を聞いた春司は、残念そうな顔をした。
    「6年ぶりに会えるかなって思ってたんだけどな」
    「6年前ってあんた、16じゃない。そんな早くから、同盟の仕事してたの?」
    「いや、正式に秘書になったのは18歳からだよ。その修行みたいなことを、16からやってたから。
     ま、僕の話はどうでもいい。重要なのは、君たち紅蓮塞が死に体ってことだよ」
    「交渉の余地なんかないでしょうね。攻め込まれて終わりよ」
    「それはいけない」
     意外にも、春司はその悲劇的結末を迎えることを忌避した。
    「どうして?」
    「まあ、勿論君たちがしたことはほめられることじゃないよ。無法にも程があると嘆きたくなる。
     でも君たちがやったからって、連合軍が同じことしていいって理屈は無い。そんな野蛮を見過ごしたら、この紅州は焼け野原だ。どれほどの人的被害、経済的被害が出るか、考えてみたことはあるかい? 間違い無く、尋常じゃない額になる。それは回避したい。
     と言うわけでこの紅州を保全するため、僕がこうして来たわけだ」
    「で?」
     小雪は春司に、苛立った声で問いかける。
    「あんたが嫌だって言っても、どの道連合軍が来るんでしょ?」
    「それは今、僕が止めてる。こう見えてもそれくらいの権限はあるんだ。
     と言っても、この話し合いが決裂したら、そりゃ攻めて来るよ。そうなった場合、君の言う通り為す術も無く終わりさ。
     死ぬの、嫌だろ? だからまず、僕の案を聞いてほしい」
    「……いいわよ。言ってみなさいよ」
    「うん。……まあ、今回の騒動は、公には紅蓮塞の武装蜂起による紅州および黄州侵略として捉えられてる。家元の君がどんなつもりだったかは別にして。
     で、事実として紅州攻略は今現在、成功している。でも黄州まで攻められるような体力は残ってないし、これ以上の侵略も、ましてや連合軍と戦うなんてのも避けたいはずだ。
     そこで紅蓮塞はこの、公の認識を事実として認め、その上で連合と相互不可侵の約定を結んで、紅蓮塞が今後一切の侵略行為を行わない代わりに、連合も干渉しないよう取り決める。
     と言う体で連合と話を付けたい。いいかな?」
    「……深見。……説明して」
    「あぁ? ……しゃあねえな」
     深見は嫌々そうながらも、小雪に解説した。
    白猫夢・落紅抄 3
    »»  2013.03.02.
    麒麟を巡る話、第201話。
    紅州ゲットー化計画。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
    「つまりこのお坊ちゃんは、俺たちを侵略者に仕立て上げたいんだよ。その方が面倒な説明や根回ししなくて済むっつってな。
     で、『その鼻つまみ者がこれ以上余計なことをしないように訓告しときましたんで、もう心配ないですよ』って向こうに言って、恩を売っときたいんだ、こいつは」
     半ば喧嘩を売ったような深見の解説に、春司は何の反論もせず肯定した。
    「まあ、そうなるかな。それが僕の本意と言える。
     で、連合の方なんだけど、実際、君たちがもう疲労困憊でこれ以上侵攻なんかできないってことは連合の方にバレてるけど、それでも敵の本拠地に迂闊に攻め込んだら、被害は少なくないと予想されてる。
     連合首脳部としては、こんな意味も無いし利益も出ない出動なんか、させたくない。勝っても負けても損なわけだし。
     と言って何の行動もせずに静観してるって言うのも、央南内での連合の評判が悪くなる。紅州の各都市から度々救援要請が出てるのに、何もしないんじゃ体裁悪いし。
     じゃあ形だけでも交渉の体を取って、その結果として、この関係のまま状況を凍結させておきたい。……って言うのが連合の本意なわけさ」
    「……いまいち分かんないんだけど。つまり連合って何したいの?」
     困った顔を見せた小雪に、深見ははあ、とため息をつく。
    「どう言ったら分かるんだよ……」
    「あー、じゃあ、ぶっちゃけて言おう」
     春司はまた肩をすくめ、こう説明し直した。
    「連合は州ごと、君たちを厄介払いしたいってわけさ。
     君たちは紅州を好き勝手に弄れるし、州の中で暴れる分には連合も文句言わない。悪くない条件だろ?」
    「ん? おい、そりゃつまり……?」
     これを聞いて、深見は怪訝な顔になる。一方で、小雪はまた困った顔をしている。
    「え? え?」
    「ちょっと黙ってろ、小雪」
     深見は人差し指を彼女の唇に当て、小雪に黙るよう示す。
     深見自身もしばらく黙り込んだ後、春司に向き直ってこう尋ねた。
    「あれだ、浪人問題が片付かねえんだろ? つまり、連合の本意としてはこれ以上雇用創出政策なんかやってらんねー、全部丸投げしちまいてー、ってわけだ」
    「ご明察。黄州じゃ叔母さんが学校作ったり商会の用心棒として雇ったりして、何とか浪人を養えたみたいだけど、叔母さんみたいな人が一つの州に一人も二人もいるわけじゃないもの。
     他の州じゃ雇用政策に失敗したところもあって、もう既に揉めてる有様でね。『紅州に送り返したい』って言っちゃってる偉い人も、チラホラいるんだよ。
     連合はその集積地にしたいのさ、紅州をね」
    「……ふざけやがって。はぐれ者の掃き溜め扱いかよ」
     深見は小雪から手を離し、尋ねる。
    「だが連合軍に攻め込まれずに済むってだけでも美味しい話だ。しかも相互不可侵ってことは、支配した件については不問も同然ってわけだ。
     つまり俺たちは――相当貧乏ではあるが――国を一つ丸ごともらったも同然だ。
     小雪、こりゃ受けるべきだ。これを蹴って得られるものは何も無いぜ」
    「あんたが決めないでよ」
     そう言いつつも、小雪もこれが好条件であることは察したらしい。
    「……いいわ。まだ色々分かんないけど、戦わずに済むならそれでいいわ。
     話し合うことはこれだけ?」
    「とりあえずは。まあ、後何回かちょくちょく来させてもらうけど、基本的にさっき言った案で話を進めるよ。
     じゃ、僕はこれで」
     春司はそそくさと席を立ち、塞を後にした。



     3ヶ月後――春司の画策した通り、紅州は紅蓮塞の領地となり、央南連合の支配圏から離れることとなった。
     当然この流れに、紅州内に住む者の多くは驚愕し、嘆き、連合を非難した。しかし反発まで起こすような気概も風潮も無く、結局は黙々と従うに留まった。
    「まったく阿呆な肩書きだな。俺が『大臣』でお前が『王様』かよ。子供のお遊戯会かっつの」
    「るっさいわね」
     紅蓮塞は連合との協議の結果、紅州の統治権を正式に与えられ、政府として認められた。側近らは紅蓮塞における階級に準じて要職を与えられ、小雪もまた、女王として君臨することを認められ――と言うよりも、連合から暗に命じられた。
    「結局、浪人らの掃き溜め扱いなのにな。あの会議じゃ散々、いいように扱われたし」
    「あんたの交渉力不足でしょ」
    「お前もだろ。会議の間中、あれやこれや俺に聞いてばっかだったじゃねーか」
    「ふん」
     このやり取りを眺めていた九鬼は内心、クスクスと笑っていた。
    (喧嘩するほど仲が良いとはよく言ったものだな。……戦の時のようなギスギスした感じが、殿から抜けた。深見も口ではああだが、何だかんだと言って殿を助けているし。
     州内の執政、浪人らの受け入れと、これからが大変になるが――案外、何とでもなるかも知れんな)
    白猫夢・落紅抄 4
    »»  2013.03.03.
    麒麟を巡る話、第202話。
    墜落し往く央南。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     時間は明奈が狙撃を受けた、その1週間後に戻る。

    「最低です」
     肩に受けた傷もすっかり癒えた明奈は、連合主席の三国と甥の春司から、紅蓮塞に対する処置が決定されたことを聞かされ、それを非難した。
    「こんな終わり方があっていいものですか!」
    「そう言われても、これはもうどうしようもない。各州の意見を最大公約数的にまとめるに、これ以外の決着は無かった」
    「ええ、他に方法はありませんでした。それは分かってください、叔母さん」
    「『黄大人』と呼びなさい、黄書記官。
     三国主席も、何故わたしを頼ってくださらなかったんですか? わたしがいれば、こんな最低な結末は回避できたはずです」
    「いや、それは君が怪我を負って、伏せっていたからだよ。そんな状態で相談など、とても……」
    「さぞ好機とお考えになったでしょうね。わたしが出しゃばれなかったこの機に、そんな話をひっそり通すようなお二人ですもの」
     明奈はここですう、と息を吸い、二人を叱咤した。
    「央南各地の政策失敗のツケをまとめて全部紅州に押し付けるような、この杜撰で厚顔無恥な措置! それを横からのこのこと現れて、したり顔で取り決めた図々しさ!
     わたしは到底、あなたたち二人の暴挙を許す気はありませんからね!?」
    「そこまで怒らなくても……。元々黄大人も、紅州は孤立させようと言っていたではないですか」
    「それは過程であって、結末ではありません! わたしの考えではいずれ、紅州は元のように戻すつもりでした! 決してこんな、無責任の極みのようなことには……!
     まったく……! あなた方のやったことは、央南の将来に禍根を残しました! 多少の出費と手間を惜しんで、病巣を取り除こうとしなかったこと! わたしが怒るのはそこです!」
    「と、言うと?」
    「考えてもみなさい――今回の交渉で、散々乱暴狼藉をはたらいた紅蓮塞は、連合に認められたも同然ではないですか! それは即ち、今後別の州で同じような騒動が起こったとしても、連合はそれを見て見ぬ振りをしますよと宣言したようなもの!
     何より世間から見捨てられた者がどんどん押し寄せられると言うことは、その地が犯罪の温床、社会不安の坩堝になっていくと言うこと! わたしたち自ら、危険の種を作って育てるも同然です!
     この一事をきっかけに、央南連合はこの先どんどん、ならず者たちの影に怯えることになるでしょうね。あちこちで武力蜂起が起こり、治安もみるみる悪くなっていくでしょう。そしてそれはきっと、央南の平和を著しく乱し、発展を阻害することになります。
     あなたは首席失格です、三国さん。央南を導く立場にあるはずのあなたが、まさかこんな最低な策を採るなんて!」
    「そう言われてもねぇ……」
     薄ら笑いを浮かべる三国に、明奈はいよいよ激昂した。
    「……失望しました。あなたに央南の舵は、この先絶対に取らせてなるものですか。
     覚悟しておいてください」
     明奈はぷりぷりと怒ったまま、席を立った。
    「……やれやれ。口ばかりの正義漢には難儀するよ」
     そう毒づいた三国に、春司も愛想笑いで返した。

     数ヶ月後、明奈が弾劾決議を開き、三国を徹底的に糾弾した。三国は失脚し、連合から離れることとなった。
     一方の明奈も、後に主席の座を勝ち取り、3期に渡って紅州独立問題の解消に努めたが、連合首脳部にはこの問題で「厄介払い」ができた者が多かったために同意を得られず、結局は失敗した。

     そして明奈の予期していた通り、この騒動を境に州の、あるいは央南連合の政権奪取を狙った、大規模な事件が横行し始めた。
     それは明奈の危惧通りの結果――央南内の混乱を招くこととなり、央南に対する諸外国の評価を下げる結果となった。



     明奈が願っていた央南の飛躍的な進歩と発展は、この長い長い騒乱の時代が訪れたことによって、幻と消えた。

    白猫夢・落紅抄 終
    白猫夢・落紅抄 5
    »»  2013.03.04.
    麒麟を巡る話、第203話。
    設計者。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     焔流騒乱が一応の解決を見せ、央南の情勢が落ち着き始めた、双月暦544年の秋頃。
    「免許皆伝試験用の道場を作れないだろうか」
     黄海や、その近隣に住む焔流剣士たちから、そんな意見が出始めた。

     紅蓮塞と断絶して以降、「証書」は手元にあったものの、試験を行いそれに名前を連ねることができず、免許皆伝を得る者が1年近くもの間、輩出されないままでいたのである。
    「しかし作るとなるとなぁ……」「ですよねぇ」
     晴奈は紅蓮塞の試験会場、伏鬼心克堂の「構造」を実際に目にしたことがあるだけに、その再建が困難なことは十分に承知していた。
     そして晴奈と一緒にその「仕掛け」を見ていた良太も、一緒にうなる。
    「僕も姉さんと一緒にあれ見ましたけど、普通の大工さんとかじゃ、絶対作れないですよ」
    「そうだな。あれはよほど優れた魔術知識を持つ人間でなければ、建設は不可能だ。
     ……一応、心当たりはあるが」
    「え?」
    「しかしその人を呼ぶのは多少、心苦しいと言うか、顔を合わせ辛いと言うか」
    「どう言う人なんです? 昔の恋人とか?」
    「阿呆。黒炎教団の現人神と言えば分かるだろう?」
    「は? ……はぁ!?
     ちょ、ちょっと姉さん? 何言ってるんですか? そんな、まさか、呼べるわけないじゃ……」
     目を白黒させる良太に対し、晴奈は胸の前で腕を組みながら、はぁ、とため息を漏らした。
    「既に争う間柄でなくなって久しいし、呼んでも体面上、何の問題も無いだろう。呼ぶ手段も一応はある。ツテがあるからな。
     ただ――焔流の私がこんなことを言うのも何だが――畏れ多くてな。もう20年以上は会っていないが、会う度に身のすくむ思いをしていたからな。今思い出しても尻尾がざわっとする。
     とは言え生半可な魔術師では到底、あんなものは作れまい。もう一人、央中に辣腕の魔術師を知っているが、彼女は央中から離れられぬと言うし。
     頼むしかあるまい。……黒炎殿に」

     晴奈は魔術の心得がある明奈を通じて渾沌に連絡し、大火に会えないか相談した。
    《あんたの頼みなら師匠も動いてくれると思うわよ。
     ただ、うちの原則として『契約は公平にして対等の理』ってのがあるから、お願いするとしたら、何らかの見返りが無いと駄目でしょうね》
    「ふむ……」
    「お金であれば多少はありますが、黒炎様では動いてくれないでしょうね」
    「それは言える」
    《ま、それ抜きにしても師匠、あんたに会いたがってるでしょうから、話は通してみるわね。
     ……あ、そうそう》
    「魔術頭巾」で渾沌からの話を聞いていた明奈は、「まあ」と嬉しそうな声を上げた。
    「どうした?」
    「お姉様、秋くんがベルさんと来年、結婚するそうですよ。
     向こうで開いた道場が軌道に乗り、来年にはベルさんも20歳になるので、それを機に身を固めよう、……とのことです」
    「……そうか。……うん、そうか」
     これを聞いた晴奈も、顔をほころばせていた。



     それから2週間後。
    「久しぶりね、晴奈」
    「ああ。……お久しゅうございます、黒炎殿」
    「ああ」
     渾沌が大火を伴い、2年ぶりに黄海を訪れた。
     出迎えた雪乃夫妻と晴奈に、大火は会釈しつつこう返す。
    「晴奈。50歳を超えたそうだが、まだ若々しいな。今なお凛々しさが残っている」
     大火にそう褒められ、晴奈は気恥ずかしくなる。
    「はは……、恐縮です。
     それで黒炎殿、渾沌から伝えていた件ですが……」
    「ああ。伏鬼心克堂の建設だな」
     そう言って大火は、懐から金色に光る、手帳のようなものを取り出した。
    「それは?」
    「『黄金の目録』と言って……、まあ、平たく言えば俺の手帳だな。
     少々待て。確か設計図を書き留めていたはずだ」
    「書き留めて……?」
     おうむ返しに尋ねた晴奈に、大火は晴奈たち焔流剣士が仰天するような回答をした。
    「ああ。以前に設計した際、何かに転用できるかと考え、保存しておいた。全く同じものを造ってもいいが、現代風に設計し直しても構わん。そこは晴奈、お前の希望に任せるが、どうする?」
    「……お、お待ちください」
     晴奈はこほん、と小さく咳を立て、もう一度尋ねる。
    「その仰り様、まるで黒炎殿が伏鬼心克堂を設計したか、……のような?」
    「そう言ったつもりだが、そう聞こえなかったのか?」
    「……まさか」
     思いもよらない事実を聞かされ、晴奈も、側にいた雪乃も、互いに蒼い顔を向けた。
    白猫夢・蘇焔抄 1
    »»  2013.03.06.
    麒麟を巡る話、第204話。
    堂の試運転。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     晴奈たちの反応に、大火は細い目をわずかに開く。
    「知らなかったのか? てっきりその事実を知っていたからこそ、俺を呼んだものと思っていたが」
    「い、いえ。存じませんでした」
     晴奈と雪乃は目を白黒させ、大火の顔やお互いの顔を見比べている。
     一方、良太は動じていない。それどころか、納得したような顔をしていた。
    「なーるほど。合点が行きました」
    「え? どう言うこと、良さん?」
     妻に袖を引いて尋ねられ、良太はあっけらかんと答えた。
    「あのお堂、僕も何度か調べたことがあるんだ。起源を明らかにできないかなと思って。
     ところが調べれば調べるほど、これは黙っておいた方がいいなー、って点がぽろぽろ出てきちゃってさ。……ま、それはまだ、黒炎教団と対立してた時の話なんだけど、だから今まで内緒にしてたんだ。
     その気になった点って言うのがね。まず、堂の地下には魔法陣が描き巡らされてたんだけど、あれはいわゆる『ウィルソン型』、つまり黒炎教団が使ってる魔術っぽかったんだ。
     これだけでも、焔流にとってはそれこそ、足元が崩れるような話だよ」
    「黒炎教団には俺が魔術を指導したから、な。俺が設計したものと似ていても、不思議はあるまい」
    「ええ、克さんとの関係を示すものは、他にもありました。
     焔流初代家元の父親、焔流の太祖である焔玄蔵翁とあなたに交流があったことは、ちょっと古い歴史書を紐解けばあちこちに出てきますし、……あと、こんなことを焔血筋の僕が言ったら大事ですが、焔流剣術の魔術的な側面を見れば、あなたの使う魔術剣に似た点が多く見受けられます。
     だからもしかしたら、伏鬼心克堂はあなたが造ったものなんじゃないかとは、薄々思っていました。お堂の名前にも『克』が付いてますしね」
    「堂の名前を付けたのは俺では無い。玄蔵だ。
     あいつは妙に洒落っ気と言うか、茶目っ気を出すところがあったからな。その時もお前と同じようなことを言っていた。
     黒炎教団が誕生し、焔流と対立したのは、その数十年後のことだからな。建てた当時には、そんなしがらみはどこにも無かったのだ。元々、試験会場としての使用も想定していなかったから、な」
    「その辺りのお話も是非、拝聴したいところですが……。所期の目的は、お堂の建設ですからね。
     まずはその話を」
    「ああ」



     大火と相談した結果、新たな堂は黄海郊外に建立されることとなった。
     また、大火に打診されていた通り、外観や工法を現代の建築様式に合わせたり、管理のため地下では無く、近隣に小屋を造ったりと、元々のものとは多少変化を加えていた。
     そして、最も大きな特徴であったあの「仕掛け」にも、ある違いが付加された。

    「痛っ、……?」
     晴奈は頭部にちく、とした痛みを感じ、後ろを振り向く。
    「……? 黒炎殿?」
    「……」
    「何か……?」
     背後にいた大火に尋ねたが、大火は何も答えず去って行った。



     堂の完成数日前、秋も終わる頃。雪乃が大火に呼び出された。
    「黒炎さん、わたしに何か?」
    「ああ。試運転に付き合ってもらいたい」
    「試運転? ……と言うと?」
    「堂の魔法陣が正常に作動するか、その点検と言うところだ。
     この件は晴奈本人には頼めん。同等の実力ではさっくり終わらせられんから、な」
    「……?」
     はっきりとしない物言いに、雪乃は首をかしげる。
    「どう言うことでしょう?」
    「まずは、会ってみてくれ。
     試運転が成功したら、詳しく話してやろう」
     大火は堂の扉を開け、雪乃を中に入れた後、扉に鍵をかける。
    「仕掛けを動かす装置は一緒みたいですね」
    「ああ。起動から1分後、出現する」
    「分かりました。危険は?」
    「本来の堂と変わらん。ただし」
     大火は扉越しに、こう告げた。
    「出現するものはお前にとって、『刃を向けたくない』と言う相手に限りなく似ている」
    「……黒炎さん」
     雪乃は多少苛立った声で、大火に尋ねる。
    「はっきりと話していただけませんか? 抽象的なお言葉ばかりで、わたしちょっと、イライラしてきてるんですが」
    「終わったら、いくらでも具体的に話そう」
    「……分かりました。試運転はどれくらいかかります?」
    「10分に設定している。終わり次第、鍵を開ける」
    「はい」
     雪乃ははあ、とため息をつき、刀を抜いた。
    白猫夢・蘇焔抄 2
    »»  2013.03.07.
    麒麟を巡る話、第205話。
    隠れた剣聖。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     堂の中央に立ち、雪乃は思案する。
    (なるほど、うわさに聞く剣呑っぷりね。賢者ってみんな、あんな感じなのかしら。……と言ってもわたし、黒炎さんを含めて2人しか知らないけれど。
     ……元気してるのかしら、モールさん。ずっと姿、見てないけれど。……元気にしてるわよね。あんな人だもの。
     さて、と。黒炎さんの言い方だと、わたしが知ってる人を具現化させて出すみたいだけれど、誰かしらね。……いいえ、大体思い当たるわ。
     あの人が出会った数多くの人の中で、わたしとあの人に接点があり、かつ、わたしが戦いたくないと思うような人なんて、……そんなの、一人だけよ)

     雪乃の読み通り、やがて彼女の目の前に「それ」は現れた。
    「やっぱりね」
    「……」
     凛とした目つき、自分より高い背丈、後ろに高くまとめた黒髪、そして三毛の猫耳と尻尾――「それ」は晴奈そっくりの姿をしていた。
    「でも四半世紀も前の姿だとは思わなかったわね。黒炎さんも案外、思い出を引きずる方なのかしら」
    「……」
     やがて「彼女」は刀を抜き、雪乃に向けて構える。雪乃も応じる形で刀を構え、対峙した。
    「じゃ、行きますか。
     ……こう言う時『偽者』って分かるのは、いいわね」
     雪乃は一歩踏み込み、「彼女」にこう告げた。
    「本物の晴奈だと、どうしても本気で打ち込めないもの。愛弟子だし、何より妹のようにも思っているから。
     でもあなたは『偽者』だもの。本気で行けるわ」
     雪乃は刀に火を灯し――堂全体が一瞬、ビリビリと震えるほどの、気合に満ち満ちた声を放った。
    「覚悟ッ!」
    「……っ」
     幻影、現ならざる存在の「彼女」ですら、その迫力に気圧される。
     ほんのわずか、「彼女」がたじろいだ瞬間――雪乃の刀が、「彼女」を袈裟斬りにしていた。
    「……あら。10分も持たなかったわね」
    「彼女」は堂の端に叩きつけられ、そのまま掻き消えた。

     同時に、堂の扉が開かれる。
    「あら?」
    「お前の一撃で、制御系統の魔法陣が焼き切れたぞ。また調整し直さねばならん。余計な手間を増やしてくれたな。
     ……予想をはるかに上回る、すさまじい魔力だ。一体何者だ、お前は?」
     憮然とした顔で、大火が入ってきた。
    「確か、柊雪乃と言ったな。……ふざけた奴め」
    「どこが、かしら」
    「その実力があったなら、この近代化され、銃火器が発達、躍進した時代においてすら、天下を獲れたはずだ。
     俺の見立てでは、お前は晴奈の――最盛期のあいつをも凌ぐ強さを持っている。20年、いや、10年前にでもその気になっていれば、今日『蒼天剣』と呼ばれたのは晴奈ではなく、お前であった可能性もある。
     なのに何故だ? 何故、実力を隠していた? 何故お前は、身を引いていたのだ?」
    「……」
     雪乃は刀を納め、肩をすくめて見せた。
    「獅子と言う獅子がみんな、百獣の王になりたいと思う? のんびり伴侶と寝転んでいたいと思う獅子も、いていいんじゃないかしら」
    「……ククク」
     大火は笑いながら、雪乃の前に立つ。
    「勿体無いことだ。晴奈が知ればさぞ、悔しがる」
    「それもあるわね。だからあの子が免許皆伝を獲得し、錬士になって以降は、あの子より目立たないように努めてきたわ。もっと高みを目指そうと躍起になっていたあの子に、影を落とさないように、……ってね。
     ま、その後に結婚もしたし。さっき言った通り、愛する夫と一緒にのんびり過ごしたいって気持ちの方が、わたし、強かったのよ」
    「なるほど」
     大火はもう一度ニヤ、と笑って刀を抜き、雪乃に向ける。
    「どうだ? 一戦、交えてみないか? ここにいるのは古今無双の奸雄だぞ。
     普通の剣士ならば武者震いのしてくる展開だが、……どうする?」
     だが、雪乃は首を横に振り、刀を納めてしまった。
    「拒否は?」
    「できる」
    「じゃ、拒否するわ。理由は、さっき言った通りよ」
    「そうか」
     大火はそれ以上誘うことなく、刀を納めた。
    「試運転は失敗だ。『想定外の』多大な負荷の発生により装置は破損。修復のためにもう数日を要する。
     ……と伝えておこう」
    「ごめんなさいね、黒炎さん」



     竣工予定日から2日遅れで、堂は完成した。この堂は晴奈と雪乃の姓を取り、「柊黄伏鬼堂」と名付けられた。
     これにより、黄派と柊派、そしてこれに追従した他の焔流派はおよそ2年ぶりに、免許皆伝試験を受けられるようになった。



     ちなみに、後日――。
     伏鬼堂建設の代金を何にするか、大火と商談に臨もうとした明奈は、当惑していた。
    「え、……ええ?」
    「契約の悪魔」とまで称された、等価交換を普遍の理念に置いていたはずの大火から、「代金はいらない」と言われたからである。
    「この地で非常に面白いものに出会った。それで十分だ」
    「は、はあ? え、っと、……分かり、ました。えっと、黒炎様、ありがとうございます、はい」
     何があったのか分からず、明奈は混乱していた。
    白猫夢・蘇焔抄 3
    »»  2013.03.08.
    麒麟を巡る話、第206話。
    焔流の蘇生。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     時は進み――双月暦545年の、春の夜。
     雪乃は晴奈を招き、共に茶を飲んでいた。
    「明日からね」
     雪乃がぽつりとつぶやいたその言葉に、晴奈はうなずいた。
    「そうですね。明日から、開校です」
    「……あー」
     雪乃は椅子にもたれかかり、こう続ける。
    「不安なのよね。入学式、ちゃんと訓辞できるかしら」
    「大丈夫でしょう。設立表明の時も立派な演説をされていらっしゃいましたし、今回もそれと同じように臨めば、うまく行きますよ」
    「そうかしら。……あの頃とはちょっと、気持ちが違うのよね」
     そう言って、雪乃はうつむいた。
    「幸いと言っていいのか分からないけれど、結局、小雪と対決するようなことは無かったのよね。でもそれは、ちゃんとした決着じゃない。……と言って、決着させる気にもならない。
     今は何て言うか、中途半端な気持ちなのよね。いざ刃を交えようと向き合った瞬間、そのまま相手が目の前から消えてしまったような、そんな感じ」
    「ふむ……」
    「あの時みたいに、切羽詰まった気持ちで話すようなことにはならないわね。……もやもやしてはいるけれど、楽にはなったし」
    「……それならそれで、師匠のいい面を押し出した訓辞ができるでしょう」
    「わたしの、いい面?」
     尋ねた雪乃に、晴奈はにっこりと笑って見せた。
    「お優しいところです。師匠は深い優しさをお持ちです。
     あれだけ親不孝を重ねた小雪に対して、師匠は今なお冷淡な感情を抱かれない。今も身を案じ、傷つけることを恐れていらっしゃいます。
     その優しさを、剣士として優柔不断だと断じるような者もいるでしょうが、それは紛うことなく、師匠の持つ最も美しい長所です」
    「……ありがとね、晴奈」
     微笑んだ雪乃に、今度は晴奈の方が身をすくませる。
    「私はなかなか至りません。此度の騒動の片棒を担いでいた月乃を、今なお許せないでいるのです」
    「そう……」
    「聞けば紅蓮塞からも離れ、どこぞへと消えたと。恐らく二度と会うことは無いだろうと覚悟しています。
     明奈に言われてずきりと来たことですが……、私はあいつを立派な剣士にしようと、厳しく接し過ぎてしまいました。
     もっと優しくすれば良かったと、後悔しています」
    「……でも、同じ教えを受けた秋也くんは、ちゃんと立派に成長したわ。それは確かよ」
    「ええ、それだけが救いです。
     そう、……春司もどこかおかしくなっていると、明奈から聞いています。紅蓮塞を浪人やはぐれ者の溜まり場にすべく、画策したと。
     私の子供たち3人は、それぞれ別方向に飛び去ってしまいました。秋也は遠い地へ住み、春司は故郷を切り売りして平然としていられるような冷血漢に。そして月乃は……」「いいの、もういいのよ、晴奈」
     雪乃が晴奈の手を取り、ゆっくりと首を振る。
    「あなたが悪いことなんて、何も無いわ。正しいことを教えていた。それは秋也くんが証明している。
     月乃ちゃんに対しては、ちょっと、歯車がずれただけなのよ」
    「……そうですね。……ええ」
     重い空気が漂い、二人は黙り込んだ。

     と――部屋の扉が叩かれる。
    「あら、誰かしら? どうぞ」
     扉を開け、晶奈と朱明が入ってきた。
    「うん? どうした、二人揃って」
     どちらも顔を真っ赤にしながら、横に並ぶ。
    「……ははあ」
     晴奈がニヤっとしたところで、晶奈が口を開いた。
    「母様、晴奈さん。えーと、その、わたしと朱くん、……その、気が合うと言うか、通じたと言うか、えーと」
    「あら、まあ」
     口をもごもごさせる晶奈に代わり、朱明が説明した。
    「付き合うことになりました。それで、挨拶しようと思って」
    「……く、ふふ、ははは」
     晴奈はクスクスと笑い、こう返した。
    「真面目だな、二人とも。結婚ならともかく、付き合うことから報告しに来るとは」
    「そ、それも、あの、……ちょっと考えてたり」
    「ほほう」
     これを聞いて、晴奈は雪乃に笑いかけた。
    「これは久々の吉事ですね、師匠」
    「ええ、本当。……うふふっ」
     晴奈と雪乃はにこにこと笑いながら、二人を抱きしめた。



     この数年後――。

     朱明と晶奈はおぼろげな宣言通り、結婚した。
     そしてそれを機に、朱明は母、明奈の後を継ぐべく、黄商会に積極的に参与するようになる。
     そのため、当初晴奈が目論んでいた、「朱明を道場の跡継ぎに」と言う計画は頓挫したものの、黄家と親戚関係となった晶奈が、代わりに継ぐこととなった。



     焔流は再び、仁義と礼節を重んじる誇り高き剣術一派として、黄海に蘇った。

    白猫夢・蘇焔抄 終
    白猫夢・蘇焔抄 4
    »»  2013.03.09.

    麒麟の話、第4話。
    秒速1センチの奇跡。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     もしもセイナが。あの英雄、セイナ・コウが。
     もしも、秒速1センチでも歩くのが早かったら。
     あるいはもしも、秒速1センチでも歩くのが遅かったら。
     さて、世界はどうなっただろう?

     もしも秒速1センチ早かったら、彼女は剣士にはならなかった。
     だってそうだろ? 彼女が13歳の時、後に自分の師匠となる人間が酔っ払いに絡まれてるのを何とかしようとして騒ぎに割り込んだのが、出会いのきっかけだった。
     もし秒速1センチ早かったら、彼女はその場に偶然居合わせるコトは無く、そして剣豪セイナが誕生するコトは無かったのさ。

     じゃあ逆に、秒速1センチ遅かったらどうなっていたか?
     そしたらセイナは、あの無双の奥義「星剣舞」を得ることはできず、死んでいただろう。
     その技を会得するコトができたのは、死の淵で友人と最期の邂逅があったから。だけどソイツと友人になれたきっかけは、ゴールドコーストで、とってもいい形で再会できたからだ。
     そのいい形に持ってこれたのは、万全のサポートで闘技場に臨めたからこそ。それより前にゴールドコーストを訪れた時に出会った狐のお姫様や狼のお嬢ちゃんと偶然、出会うコトができたからだ。
     狼ちゃんは後にセイナが闘技場に参加するきっかけをくれたし、その両親はセイナを十二分にサポートしてくれた。狐ちゃんはその友人と仲良くできるきっかけをくれたし、「妹」としてずっと、セイナを支えてくれていた。
     その二人との出会いが無かったら、セイナはきっと不完全な形で闘技場に臨み、そして「友人」と仲良くする機会になんか、絶対に巡り合えなかったはずさ。
     その結果「星剣舞」は永遠に手にできず、そしてあの闇の奥底で半人半人形の女に返り討ちにされて、死んでいただろう。

     だからもし、秒速1センチでも彼女の歩みが早く、あるいは遅ければ。
     たったソレだけで、世界はまるで違うものになっていたんだよ。



     ボクの持論になるけど、世界は言わば、無数の歯車の集合体だと思っている。

     無数の人間が、無数の出会いをし、無数の行動を重ねた末に、無数の結果を生んでいる。
     ソコに人ひとりいないだけで、あるいは人ひとり増えただけで、結末は大きく変わっていくんだ。
     でも、いるコトでその影響が大きい人と、少ない人って言う違い、差異は確かにある。

     コレは、ボクにとっては一つの実験だ。
     その、影響の大きい人間を、故意に作り出せるか? 元々影響の少ない、演劇で言うところの「端役」「脇役」がボクの操作によって、果たして「主役」を食える働きをしてくれるか? そう言う実験だ。
     そしてその結果が、ボクの計画の練り直しを行うにあたって、重要な要素になってくる。



     繰り返すよ。コレはただの、人体実験。
     いや、「人生実験」とでも言うのかな?

    白猫夢・麒麟抄 4

    2013.01.13.[Edit]
    麒麟の話、第4話。秒速1センチの奇跡。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. もしもセイナが。あの英雄、セイナ・コウが。 もしも、秒速1センチでも歩くのが早かったら。 あるいはもしも、秒速1センチでも歩くのが遅かったら。 さて、世界はどうなっただろう? もしも秒速1センチ早かったら、彼女は剣士にはならなかった。 だってそうだろ? 彼女が13歳の時、後に自分の師匠となる人間が酔っ払いに絡まれてる...

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    麒麟を巡る話、第158話。
    道を誤る者。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     央南の大都市、黄海の街はずれ。
     黄派焔流剣術の門下生が5人、隠れるように集まっていた。
    「秋也のヤツ、本当に持って来てくれるのかな……?」
    「どーだろーなー」
    「先生の息子ったって、流石に『アレ』持って来るなんて……」
     こそこそとそんな話をしていたところに、その本人――「黄先生」の息子、黄秋也がやって来た。
    「いやー、苦労したぜ」
    「お、もしかして本当に?」
    「おう」
     秋也は抱えていた風呂敷包みからごそ、と刀を取り出した。
    「これが、『御神体』か?」
    「おう。いっつも床の間に飾ってあった、アレだよ」
     秋也はニヤニヤ笑いながら、その刀を自分の腰に佩く。
    「どーだ」
    「どーだっつってもなぁ」
     門下生たちは苦笑いを返す。
    「やっぱ抜いてみなきゃなぁ」
    「……だな」
     秋也の方も苦笑いを返しつつ、柄に手をかけた。
     と――。
    「あ、あのっ」
     それを止める者が出た。
    「ん? どした、朱明(しゅめい)?」
    「なんか、嫌な予感がするんです」
    「つってもなぁ」
     止めた朱明に対し、他の門下生たちは肩をすくめる。
    「やっぱ見たいじゃん?」
    「なぁ。ここまで来といて抜かないってのは、味気無いぜ」
    「抜いちゃえよ、秋也」
    「ん、ああ」
     その場の流れに逆らえず、朱明は黙って見守ることしかできない。
    (なんか……なんか、怖い)
     朱明はいつの間にか、自分の袴の裾を堅く握りしめていた。

     その間に、秋也は散々もったいぶった後、すらりと刀を抜いていた。
    「……」
     その刀身を目にした途端、門下生たちは絶句する。
    「な、……んだ?」
    「……」
    「き、気味、悪りっ……」
     刀からにじむ青い光が、その場にいた全員の心をさくりと刺す。
    「……うえ、げっ、げろっ」
     不意に、一人が吐く。
    「お、おい、どうし、……うげえええっ」
     もう一人、顔を紫色にし、嘔吐しながら倒れる。
     他の二人も、袴をびしょびしょに濡らして崩れ落ちる。
    「しゅ、しゅ、秋也さん、か、か、かたっ、刀、早く、しまって……」
     朱明も吐き気と虚脱感をこらえながら、刀を抜いたままの秋也に、どうにか声をかける。
    「……」
     しかし、秋也は答えない。
     彼は立ったまま、気を失っているようだった。
     そして朱明の意識も、そこで途切れた。

     朱明が目を覚ましたのは、3日ほど後だった。
     その時には既に、秋也が道場から刀を盗んだことは発覚しており、秋也は師匠であり母である黄晴奈から、相当の叱咤と折檻を受けたと聞かされた。
     朱明を含めた門下生5名は揃って丸坊主にされた後、一ヶ月の謹慎を言い渡された。



     この事件以来――黄晴奈の甥、黄朱明は、目に見えて物静かな性格になったと言う。
     元々から温和で大人しい少年だったのだが、この事件を境に、常に「一歩引いた」態度を執るようになった。
     それを一度、師匠の晴奈から「剣士にしてはいささか消極的ではないか」と、やんわりと咎められたことがあったが――。
    「時には勇気、勇者がただの蛮勇、荒くれ者になることもあります。
     いえ、その人物が元より悪いと言うわけでは無いのです。どれほど高潔で素晴らしい人格者であっても、周りの空気に流されて、あるいは親しき人間にそれとなく唆されて、やむなく道を外すこともある、……と僕は考えているのです。
     それは伯母さん、……あ、いえ、師匠が何度も仰っていた、篠原龍明と言う剣士のそれに近いものでは無いでしょうか? 彼も優れた剣士であったのに、ちょっとした誘惑で自分の道を踏み外してしまったと仰っていたでしょう?
     師匠がいつになく激怒し、僕たちを叱り飛ばしたあの事件も、成り行きは同じでした。秋也さんは確かに優れた剣士だと思いますし、僕も少なからず目標に、そして誇りにしている人です。しかしあの時、秋也さんは仲間のちょっとした冗談に付き合い、そしてあの愚行を犯してしまった。
     それを僕は、危惧しているのです。ですから周りの空気に流されないよう、僕は常に一歩後ろから、状況を見定めようと心得ている。そのつもりなのです」
     毅然とこう返され、晴奈も「あ、うむ」とうなずくしかなかった。



     10代の頃からこれだけ達観した性格を有していたこと、また、己の息子や娘たちと疎遠にになってしまったこともあって、晴奈はまだぼんやりとではあるが、朱明を己の後継者にしようかと考え始めていた。

    白猫夢・逐雪抄 1

    2013.01.14.[Edit]
    麒麟を巡る話、第158話。道を誤る者。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 央南の大都市、黄海の街はずれ。 黄派焔流剣術の門下生が5人、隠れるように集まっていた。「秋也のヤツ、本当に持って来てくれるのかな……?」「どーだろーなー」「先生の息子ったって、流石に『アレ』持って来るなんて……」 こそこそとそんな話をしていたところに、その本人――「黄先生」の息子、黄秋也がやって来た。「いやー、苦労したぜ」「...

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    麒麟を巡る話、第159話。
    黄家の談義、焔流の謀議。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     晴奈は甥の朱明を後継者にしてもよいかと、まずは彼の母、即ち己の妹である当代黄家宗主、黄明奈に打診した。
    「どうだろう? いや、明奈が自分の後継者にと考えているなら、そちらを優先するが」
    「お姉様」
     これを受けた明奈は眉をひそめ、あからさまに嫌そうな顔を見せた。
    「昔、ご自分にされたこと、忘れてらっしゃるのね」
    「うん?」
    「赤ん坊の頃からお父様に『婿を取り、黄家を継いでもらう』と決められて幼い頃から花嫁修業させられて、それに反発して黄海を出て行ったのは、一体どなたでしたかしら?」
    「う」
     古い記憶を突かれ、晴奈は閉口する。
    「人間、歳をとると親と似たようなことをすると言いますが、まさかお姉様ともあろう方がそれをなさるとは思いませんでしたわ。
     朱くんにも朱くんの考えがあるはずです。それを無視してまず自分の展望を押し付けようだなんて、あの頃のお姉様が今のお姉様を見たら、どんな顔をなさるでしょうね?」
    「す、すまない」
    「……とは言え、確かに朱くんももう20歳を迎えましたし、そろそろ自分の生きる道を定めないといけない頃ではありますね。
     それとなく聞いてみても、いいかも知れません。ただ、今も言ったように朱くんの考えは尊重してくださいね」
    「む、無論だ」
     晴奈はばつの悪い思いをしながらも、小さくうなずいた。



     一方、その頃――。

    「では、いよいよ計画を実行するのですね?」
     晴奈の娘、黄月乃と他数名が、本家焔流家元である焔小雪の前に跪き、紅蓮塞のどこか、暗く締め切った堂の中でこそこそと話し合っていた。
    「ええ。これで我が焔流の屈辱を、余すところなく雪(そそ)ぐことができるはずよ。
     黄。笠尾。深見。御経。九鬼。やって、くれるわね?」
    「勿論です」
     小雪と最も近い位置に並ぶ五名が、揃ってうなずく。
    「よろしい。……まずは、そうね」
     小雪は立ち上がり、そっと小窓を開ける。
    「まずは塞内の体制一新、統一からよ。今のように、わたしがただのお飾りにさせられているこの状況を打破しなければ、何も動きはしないわ。
     そのために、何をすべきか。黄、あなたはどう思う?」
     問われた月乃は、こう答えた。
    「そもそも、この塞内の長たる家元を差し置き、そのさらに上に立つ人間がのうのうと存在していることが、諸悪の根源かと存じます」
    「そうね」
     小雪は窓を閉め、続いて月乃の右隣にいる短耳の男性に尋ねる。
    「笠尾。その諸悪の根源たる者とは、誰のことか分かる?」
    「大先生夫妻……、もとい、焔雪乃と焔良太、両名であるかと」
    「そうね。では深見」
    「はっ」
     笠尾からさらに右隣にいた、これも短耳の男性が応じる。
    「その、諸悪の根源。どうすべきかしら?」
    「論じるまでも無く。亡き者にすべきかと」
    「いや、それは駄目だ」
     と、その意見に、月乃の左隣にいた長耳の男性がが反論した。
    「確かに家元の地位をぼかしている原因ではあることは否めぬが、その前にお二人は、家元の御両親だ。子が親を殺めるなど、どんな道理を用いたとしても正当化されるわけが無い」
    「御経の言うことも一理かと」
     笠尾が続く。
    「我々はあくまで家元を唯一無二、絶対の存在にするのが目的であり、それを貶めては何の意味も成さぬ」
    「ぬう……」
    「……では、御経。次善の策としては、どうすべきかしら」
    「平和的にその存在を封じるとあれば、どこかに幽閉した後、『夫妻は病に伏せり面会できぬ状態である』、とでも広めれば良いかと」
    「そうね。それがいいわ」
    「場所には心当たりがあります」
     五人の中で最も左に座っていた虎獣人の女性が、手を挙げた。
    「それはどこかしら、九鬼?」
    「偶然見付けたのですが、疎星堂に地下があります。恐らく大多数の門下生も、あるいは錬士(れんし:作中においては免許皆伝者)や範士(はんし:作中においては錬士の中でも特に秀でた者)でも、その存在を知らぬ者も多いのではないかと」
    「ふむ。そうね、わたしも初めて聞いたわ。
     ではそこに、焔夫妻を幽閉することにしましょう」
     冷たくそう言い放ち、小雪はにやぁ、と悪辣に笑って見せた。

    白猫夢・逐雪抄 2

    2013.01.15.[Edit]
    麒麟を巡る話、第159話。黄家の談義、焔流の謀議。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 晴奈は甥の朱明を後継者にしてもよいかと、まずは彼の母、即ち己の妹である当代黄家宗主、黄明奈に打診した。「どうだろう? いや、明奈が自分の後継者にと考えているなら、そちらを優先するが」「お姉様」 これを受けた明奈は眉をひそめ、あからさまに嫌そうな顔を見せた。「昔、ご自分にされたこと、忘れてらっしゃるのね」「う...

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    麒麟を巡る話、第160話。
    大先生、雪乃の逐電。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     謀議を終え、小雪に追従していた者たちはバラバラと離れ、明日の計画実行の準備へと向かっていた。
     と――その一人であった笠尾が、辺りを伺いつつ紅蓮塞の本堂裏手、焔雪乃・良太夫妻の住む離れを訪れた。
    「もし、大先生……」
     辺りに漏れないよう、そっと声をかける。
    「起きていらっしゃいますか」
    「ええ。今開けるわ」
     少し間を置いて、雪乃が顔を出す。
    「あら、松くん?」
    「はい、笠尾松寿にございます。……失敬」
     笠尾はもう一度辺りを伺い、小雪派の者がいないことを確認してから、ひょいと中へ入った。
    「どうしたの、こんな夜中に?」
     既に真夜中近くであり、奥では雪乃の夫、良太がすやすやと眠っている。
    「その……」
    「ん?」
    「……た、単刀直入に、申し上げます。
     大先生ご夫妻は、お命を狙われております」
     笠尾の話を聞くなり、雪乃はため息をついた。
    「……小雪ね?」
    「左様でございます」
    「でも、あなたは何故それをわたしに?」
     己の立場を暗に問われ、笠尾は額に浮き出た汗を拭う。
    「……確かに小生は、現家元の立身を願っている者の一人ではございます。しかし同時に大先生にも、並々ならぬ大恩がございます。
     いや、……何より、家元ともあろう方が、こんな孝も忠も無い所業をするのか、と考えるに……、あ、いや、その。決して家元のことを悪く言うわけでは無いのですが、しかし……」
    「いいわ、それ以上言わなくて。気持ちは、分かってるつもりだから」
     そう言って雪乃は、笠尾の両手をふんわりと握る。
    「あっ、え、あの……」
    「ありがとね、松くん」
     雪乃はにっこりと微笑み、それから奥に戻りつつ、話を続ける。
    「すぐ発つわ。伝えてくれてありがとう」
    「た、発つ? そんな、急に……」
    「いいえ、急な話では無かったはずよ。
     去年、いえ、一昨年くらいから、我が焔流の風潮は悪い方へ、悪い方へと流れていた。いつか小雪は重圧と我欲に耐えかねて、こんなことをするんじゃないか、とは思っていたのよ。
     だから準備は万全よ。ね、良さん」
    「ふあ……、うん、ばっちりだ」
     眠っていたはずの良太が、雪乃と共に玄関へとやって来る。
    「でも、……まだ一つ、いや、二つ、……じゃないや、ふああ……、二人だ、残してる」
    「良蔵様と、晶奈様ですね」
    「ええ。ここに残したら、きっと小雪はただでは置いておかないでしょうね。
     ねえ、松くん。二人を呼んで来てもらっても、いいかしら?」
     良蔵と晶菜とは、雪乃たちの第二子と第三子、つまり小雪の弟妹である。
     小雪と同様、幼い頃から紅蓮塞で修行を積ませていたが、この数年は二人とも門下生用の寮に住んでおり、この離れからは遠い。
    「承知しました。しかし……」
    「そうね、恐らく見つかったら危険でしょうね。
     ……あ、逆にすればいいかしら」
    「と、言うと?」
    「わたしが迎えに行けばいいのよ。
     いくらなんでも、明日襲う予定の人間を今夜、独断で、しかも単騎で襲うなんて度胸と無鉄砲さは、小雪にも、お付きたちにも無いでしょう?」
    「そ、れは……、そう、かも」
    「それにわたし、こう言う時にうってつけの、『とっておき』の術があるから」
    「とっておき、……ですか?」
     面食らう笠尾を尻目に、雪乃は羽織と刀を身に付ける。
    「松くん。夫を塞外の、安全なところまで運んでくれるかしら?」
    「いや、しかし……」
    「お願い」
     雪乃はそう言って、笠尾に頭を下げて見せた。
     笠尾は当然、狼狽する。
    「せっ、先生! そんな、頭をお上げください!
     ……わ、分かりました。この笠尾、責任持って塞外までお送りいたします」
    「ありがとね」
     雪乃は頭を上げ、再度にっこりと微笑んだ。
    「……ところで」
     と、雪乃は表情を変える。
    「松くん、あなたはその後、どうするの?」
    「その後、……と言うと?」
    「わたしたちを逃がしてくれるのは、本当に助かるわ。でもこれが発覚すれば、あなたはきっとただでは済まないはずよね?
     あなたさえ良ければ、一緒に来てくれると、もっと助かるんだけど」
    「……考えさせてください」
    「いいわ。塞を出たところで、答えを聞きましょ」
     雪乃はもう一度微笑み、それからそっと、離れを出た。

    白猫夢・逐雪抄 3

    2013.01.16.[Edit]
    麒麟を巡る話、第160話。大先生、雪乃の逐電。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 謀議を終え、小雪に追従していた者たちはバラバラと離れ、明日の計画実行の準備へと向かっていた。 と――その一人であった笠尾が、辺りを伺いつつ紅蓮塞の本堂裏手、焔雪乃・良太夫妻の住む離れを訪れた。「もし、大先生……」 辺りに漏れないよう、そっと声をかける。「起きていらっしゃいますか」「ええ。今開けるわ」 少し間を置いて...

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    麒麟を巡る話、第161話。
    雪乃の子供たち。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     修行場まで近付いたところで、雪乃は魔術を唱えた。
    「『インビジブル』」
     かつて親友、橘小鈴から又聞きした、「旅の賢者」の秘術である。
     唱えると同時に雪乃の姿が消え、誰にも視認できなくなる。
    (これ教わった時、小鈴、むくれてたわね。治療術だけじゃなく、これもわたしの方がうまく使えたから)
     雪乃が使う魔術はほとんど小鈴から伝授されたものだったが、その大半が彼女より、自分の方が得意になってしまった。
    (もし、わたしが本気で剣じゃなく、魔術を学んでいたら。そしたら、大魔術師になっちゃってたのかしら?
     ……なんて、ね。剣士じゃないわたしなんて、わたしじゃないわ)
     透明になった雪乃のすぐ側を、門下生らを連れた範士が仰々しく歩いていく。その手には恐らく明日使う予定であろう刀や槍、刺又が握られていた。
    (小雪派の子たちね。……はぁ)
     彼らとすれ違う度、雪乃の気分は重くなる。
    (どうしてこうなっちゃったのかな。小雪も、昔はいい子だったのに)
     そう思うと同時に、門下生たちの顔を見て、雪乃はこうも思う。
    (いい子、って言えば、……多分、この子たちもそうなんでしょうね。上からの言葉を純粋に信じる、根のまっすぐな子たちなんでしょう。
     でも、……それがいつもいいことだとは、限らないのよ)
     恐らく、普段から小雪派によって黄派焔流や、雪乃らに対する誹謗中傷を聞かされ、それが真実だと信じ切っているのだろう――彼らの目にはこれから行われようとする悪事に対する戸惑いや迷い、良心の呵責などの感情は、ほとんど感じることができなかった。
    (……やはり、わたしが10年、いえ、5年だけでも、家元代理として治めるべきだったのかしら。
     体つきを見れば、ちゃんと剣の修行を積んだのは分かる。でも心の修行は、果たしてどうだったのか?
     どの子も、『先生からこれが正しいと教わったから間違いなく正しいんだ』と言いたげな顔つき。自分がこれから人を殺すかも知れないと言う恐ろしい行為に対してすら、『家元が正しいことだと言ったから』で通そうとしているように見える。
     みんな、ちゃんと心が鍛えられていないんじゃないかしら。自分で『正しい』とは何かって考えること、してないんじゃ無いかしら)



     修行場を抜けて寮に入り、雪乃はようやく、次女の晶奈がいる部屋までたどり着いた。
    「晶奈、まだ起きてる?」
     トントンと戸を叩き、雪乃は反応を伺う。
     しばらくして、眠たげな声が帰って来た。
    「母上……?」
    「ええ、そう。開けてもらって、いい?」
    「はい、ただいま」
     す……、と戸を開け、自分に似た濃い緑髪の、長耳の少女が顔を見せた。
    「ちょっと、入るわね」
    「はい」
     中に入ったところで、雪乃はそっと、晶奈に耳打ちする。
    「お母さんね、今、小雪から狙われてるの」
    「え?」「しー」
     晶奈の口にとん、と人差し指を当て、雪乃は話を続ける。
    「それでね、襲われる前に逃げようってことになったんだけど、晶ちゃん、一緒に来る?」
    「そ、それは、ええ、勿論です」
     晶奈の反応を見て、雪乃はほっとした。
    (良かった……。この子はどうやら、小雪派に取り込まれてはいないみたいね)

     雪乃は晶奈を連れ、今度は良蔵の部屋を訪れた。
    「良蔵、まだ……」
     呼びかけようとしたところで、雪乃は部屋の中からある気配を感じ取った。
    「……」
    「どうされたのですか、母上?」
    「……ねえ、晶ちゃん」
     雪乃は晶奈の手を引き、良蔵の部屋の戸から二歩離れる。
    「お母さんね、今、……ここを開けると、すごくびっくりしそうな気がするの」
    「は、はい?」
    「多分、晶ちゃんもびっくりするんじゃないかな、って」
    「どう言う……、ことですか?」
     さらに二歩離れ、雪乃は小声でぼそ、と応じる。
    「良ちゃん、もう19歳だから、誰かを好きになるとか、女の子と一緒に遊びに行ったりとか、するかも知れないなーって、まあ、それは分かるんだけど。
     ……でも、でもね。女の子と一緒の部屋で生活するって、まだ、ちょっと、良ちゃんには早いんじゃないかなって思うの。晶ちゃんは、どう思う?」
    「そ、そ、それは、……まさか、良お兄様が?」
    「晶ちゃん」
     と、雪乃の顔が強張る。
    「ちょっと、口を閉じていて。今からお母さん、しゃべっちゃいけない術を使うから」
    「……」
     娘が両手を口に当てたのを確認したところで、雪乃は「インビジブル」を発動する。
     それとほぼ同時に――良蔵の部屋から、顔を真っ赤にした寝間着姿の月乃が、刀を持って飛び出してきた。
    「だ、誰だっ!? 誰が覗いていたッ!?」
    「……!」
     自分の背後で、晶奈が息を呑む気配が伝わるが、彼女はちゃんと黙っている。雪乃自身も、パニックを起こしそうな頭を冷静にさせようと努める。
    「……気のせい、……かしら?」
     そのうちに、月乃は誰もいないと判断したらしく、辺りを見回しつつ、良蔵の部屋に戻って行った。
    (……遅かったみたい、ね。良ちゃんはもう、小雪側にいるわ)
     雪乃は晶奈の袖を引いて、その場を後にした。

    白猫夢・逐雪抄 4

    2013.01.17.[Edit]
    麒麟を巡る話、第161話。雪乃の子供たち。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 修行場まで近付いたところで、雪乃は魔術を唱えた。「『インビジブル』」 かつて親友、橘小鈴から又聞きした、「旅の賢者」の秘術である。 唱えると同時に雪乃の姿が消え、誰にも視認できなくなる。(これ教わった時、小鈴、むくれてたわね。治療術だけじゃなく、これもわたしの方がうまく使えたから) 雪乃が使う魔術はほとんど小鈴から...

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    麒麟を巡る話、第162話。
    獣道に迷い込んだ「猫」。

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    5.
     そのまま寮を後にし、二人は紅蓮塞の門前に向かう。
    「……あのっ、母上」
     と、晶奈が思いつめたような声色で、雪乃に話しかけてきた。
    「ん? どうしたの、晶ちゃん」
    「母上は良お兄様が、……あのような、自堕落な生活を送っていたことに、……その、どうお考えでしょうか?」
    「……」
     雪乃は立ち止まり、そして笑って見せた。
    「そうね、びっくりしたわ。『いつの間にか大人になっちゃったのね』、……なんて、軽く笑ってやりたいけれど。
     でも、……正直に言えば、小雪が謀反を起こそうとしていると聞いた時より、心が痛んだわね」
    「そうですか……」
    「もしも、今が内輪揉めしてる時じゃなくて、それに、5年くらい後になって、そう言うことになったのであれば、確かに笑い話、おめでたい話にできたかも知れないけれど、今は、……落ち込んじゃいそうよ」
    「母上……」
     沈痛な面持ちになる娘を見て、雪乃はもう一度笑う。
    「仕方の無いこと、……と諦めるしか無いわ。良くんも、雪ちゃんも、もうわたしとは違う道を選んでしまったようだから」
    「……私には、踏み外したとしか思えません」
    「そんな風に……」
     雪乃が思わず否定しようとした、その時だった。
    「外れて結構。あなたの道は、苔むした古道よ。歩きたくも無いわ」
     じゃり、と足音を立て、二人の前に月乃が現れた。
    「あなた……」
    「やっぱり先程の闖入者は、大先生でしたか。大方、我々の計画を察知し、ご自身の子供たち共々ここから逃げようとしていたのでしょうが、……残念でしたね」
     月乃はにやぁ、と笑い、自分の唇を指差した。
    「あたしと良は、もう1年半以上も前から、ああ言う関係だったんですけどね。大先生も晶奈も、まったく知らなかったんですね。
     自分の子供のことも把握できない奴が、大先生だなんて!」
    「月乃……ッ!」
     母を嘲られ、晶奈が憤る。
    「いいの晶ちゃん、下がっていて」
     と、それを雪乃が制した。
    「あら、反論もされないんで……」「月ちゃん」
     雪乃は凍りつくような冷たい声で、月乃の話を遮った。
    「あなたも道を踏み外した一人よ。
     あなたの道には仁も礼儀も、貞節も無い。徳も無い。孝も悌も無い。あなたの道は、おおよそ人の歩むような、正しき道では無いわ。
     あなたの歩んでいるそれは、獣道よ!」
    「だから言ってるじゃないですか」
     月乃は刀を抜き、それに火を灯す。
    「あたしはあなたみたいな、時代遅れの道なんか歩いてられないんですよ!」
     襲いかかってきた月乃に、雪乃も刀を抜いて応戦する。
    「道を外した者は皆、そう言うわ。
     古くより大切にされてきた、人の信念と美徳で築かれてきた道を否定し、自分たちの浅ましい、身勝手で利己的な思想で塗り固めた道が真理だと言う。
     それがどれほど愚かで、浅ましいことか!」
     雪乃の刀をすい、すいと避けながら、月乃はこう応じる。
    「あなたは分かってない! あなたたちがそううそぶいて八方美人的に導いてきたせいで、あたしも、家元も、どれほど窮屈な思いをしてきたか!
     上の者にこびへつらい、下の者の顔色を窺ってばかりいた! 同輩にも馬鹿にされないよう、手本であろうと無理な努力ばかりさせられて!
     その結果を見た!? 家元は、名ばかりのお飾りにさせられた! 何か成そうとする度に陰口を叩かれ、成さなければ嘲られ、成功すれば妬まれて、失敗すれば貶められて! いつもいつも、『先代は立派な方だったのに』とか、『当代は器では無かった』とか、何をやっても、やらなくても、家元は傷付けられてばかりいたのよ!
     そしてそれは、あたしも同じだった……! キレイゴトばかり言う母のせいで、バカなことばかりする兄のせいで、あたしはどれだけ嫌な思いをしてきたか、あなたに分かる!? 分からないでしょう!? それを分かってくれたのは、家元たちだけよ!
     だからあたしたちは決別するのよ――あんたたちみたいな上っ面の安い道徳授業ばっかり吹聴する、似非人格者の道とはね!」
     月乃の激情に任せた攻撃を三太刀、四太刀とかわし、雪乃はさらにこう返した。
    「似非と言うなら、あなたたちこそが似非よ。自分の言いたいことばかり言って、それがさも正しいことのように主張している。
     その行為は、あなたたちのことを貶して、それで自分たちが上等な人間になれたと勘違いするような小人たちのそれと、何が違うと言うの?」
    「違う! 違う、違うッ! そんなクズ共と一緒にするなああッ!」
     月乃の刀が、雪乃の左肩をわずかにかすめる。ぢりっ、と羽織の焦げる音と共に、雪乃の左肩から血が飛び散った。
    「うっ……!」
    「これが答えよ! 何十年もキレイゴト抜かしたあんたの剣術より、新しい道を行くあたしの剣術の方、が、……っ」
     勝ち誇りかけた月乃の声が、そこで止まる。
    「これが答え、よ」
     それを継ぐように、雪乃がそう返した。
     ほんの数瞬前まで勝利を確信していたであろう月乃は、今は白目をむいて倒れている。月乃が勝ち誇ったその一瞬の隙を突き、雪乃が急所へ居合を放ったのだ。
    「他人を見下す生き方が正しい、と答えるような人はいないわ。
     前を向かず、下ばかり眺めている人間が、前へ進めるわけが無いでしょう――前から何が来るか、分からなくなるのだから。
     あなたが入り込んでしまったその道が、あなたの剣術を歪めたのよ」
     雪乃は静かに刀を収め、月乃に背を向けた。

    白猫夢・逐雪抄 5

    2013.01.18.[Edit]
    麒麟を巡る話、第162話。獣道に迷い込んだ「猫」。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. そのまま寮を後にし、二人は紅蓮塞の門前に向かう。「……あのっ、母上」 と、晶奈が思いつめたような声色で、雪乃に話しかけてきた。「ん? どうしたの、晶ちゃん」「母上は良お兄様が、……あのような、自堕落な生活を送っていたことに、……その、どうお考えでしょうか?」「……」 雪乃は立ち止まり、そして笑って見せた。「そうね、...

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    麒麟を巡る話、第163話。
    人望と指導の賜物。

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    6.
     月乃と戦っている間に、どうやら相手方も雪乃たちの動きに気付き始めたらしい。
    (塞の上の方に、どんどん灯りが点ってるわね。のんびりしてたら、ここまで来ちゃうかも)
     雪乃は晶奈へ振り返り、声をかける。
    「晶ちゃん、そろそろ行こっか」
    「あ、は、はい」
     晶奈は目を白黒させ、雪乃の後に付く。
    「大丈夫? どこか怪我したの?」
    「い、いえ。……その、母上があれほど怒りをあらわにされるとは思わず」
    「うーん……、怒りって言えば怒りだけど、晶ちゃんが思ってるのとはちょっと違うかしら」
    「と言いますと?」
     きょとんとする娘に、雪乃はこう続ける。
    「あれはちょっと『きつめの』お説教よ。と言っても相手は多分、聞く耳を持ってはくれないでしょうけどね」
    「な、るほど」
    「さ、もう行きましょ」
     雪乃は晶奈の手を引き、門前へと急いだ。

     雪乃にとってこの騒動は、非常に心を痛めるものとなった。
     よりによって現家元であり、己の血を分けた娘でもある小雪が、親である、そして師匠でもある自分に刃を向けたのである。
    「……ねえ、晶ちゃん」
    「はい」
    「お母さん、どこを失敗しちゃったのかしらね」
    「え?」
    「……ううん、何でもないわ」
     そう返したが――横から唐突に、返事が返って来た。
    「師匠は何も間違ってなどいない。あたしはそう信じてますよ」
    「え? ……もしかして、霙ちゃん?」
    「はい、藤川霙子にございます」
     そう言ってひょいと、霙子が姿を現す。
    「微力ながらお助けに参りました。ちなみに」
     そして霙子の背後から、6、7人ほどの人間が続く。
    「我らが焔雪乃門下は全員、師匠の味方ですよ」
    「……ありがとね、霙ちゃん、それからみんな」
     礼を言った雪乃に、愛弟子たちは笑って答える。
    「水臭いっスよ、師匠」
    「そうですよ、礼なんかこっちが言うべきです」
    「俺たちはみんな、先生を剣士の鑑として、ずっと鍛錬積んできたんですから」
    「……うん」
     雪乃は小さくうなずき、そしてきりっと表情を正した。
    「じゃあみんな、これからもわたしに付いてきてくれるかしら?」
    「勿論です」
     弟子たちは異口同音に同意し、雪乃の周りを囲んだ。
    「先生には指一本触れさせやしませんよ!」
    「来るなら来てみろってんだ!」
    「さあ、急ぎましょう先生!」
     雪乃母娘は弟子たちに護られる形で、門までの道を進んだ。
     そしてこれが、騒動に揺れる塞内に強い抑止力と、小雪への反発を生んだらしい――雪乃たちの周りに、続々と門下生や師範格の者たちが集まり始めた。
    「大先生、私もお供します!」
    「あれほど孝の無い者を手本、家元と仰ぐことは、最早できません!」
    「どうか俺たちが付いていくことを、お許しください!」
     集まってくる者たちに、雪乃はしずかにうなずき返す。それを受け、彼らも静かに同行していく。
     そして門に到着する頃には、それは50人、60人を優に超える大所帯になっていた。

     小雪とその取り巻きは、その騒ぎを塞の最上部から眺めていた。
     いや、眺めることしかできなかったのだ。
    「家元、早く騒ぎを収めねば……!」
     そう進言する深見に、小雪は苦々しい顔でこう返した。
    「そんなことしてみなさいよ――わたしは親殺しの上に、同門殺し、大量虐殺者の汚名まで着せられるのよ!? もうあんな人だかりになってしまったら、打つ手は無いわよ!
     一体あんたたち、こんなになるまで何してたのよ……ッ!?」
     怒りに満ちた顔で怒鳴られ、一同は口ごもる。
    「い、いや、明日の準備をと」
    「明日!? 今日起こってることをほっといて、明日の準備をしてたって言うの!?」
    「いや、ですから我々が騒ぎに気付いた時はもう、あのような状態で……」
    「そ、それにそんなことを仰るなら、家元だって」
    「は!? わたしに単身、あの集団の中に飛び込めって言うの!?」
    「いや、その……」
     と、怒鳴り散らしていた小雪は一転、黙り込む。
    「……」
    「……家元?」
    「ま、いいわ」
     けろっとした声でそう返され、一同はきょとんとする。
    「いい、とは?」
    「あっちの方から勝手に出て行ってくれるって言うなら、それでいいわ。ごめんね、ちょっとイラっと来ちゃったから、ひどいこと言っちゃったわ」
    「は、はあ」
    「いえ、我々はそんな、気になどしていないので」
    「そ」
     今度は素っ気なく応じ、それからにやっと笑う。
    「そもそも、あいつらが出て行ったところで、わたしたちには何の被害も無いのよ。何人出て行こうが、本家はうちなんだから。
     あいつらはいずれ、わたしたちのところに頭を下げに来るしか無いのよ。だってそうじゃない? 入門試験と免許皆伝試験を受けさせる場所はここにしか無いし、そしてその免許皆伝者を登録し、認可するのも、この紅蓮塞だけなのよ。
     伏鬼心克堂と、この……」
     小雪は書架から取り出した巻物を、自慢げに振った。
    「『焔流免許皆伝者証書』があれば、あいつらなんてただの、刀を持った難民よ」

    白猫夢・逐雪抄 6

    2013.01.19.[Edit]
    麒麟を巡る話、第163話。人望と指導の賜物。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -6. 月乃と戦っている間に、どうやら相手方も雪乃たちの動きに気付き始めたらしい。(塞の上の方に、どんどん灯りが点ってるわね。のんびりしてたら、ここまで来ちゃうかも) 雪乃は晶奈へ振り返り、声をかける。「晶ちゃん、そろそろ行こっか」「あ、は、はい」 晶奈は目を白黒させ、雪乃の後に付く。「大丈夫? どこか怪我したの?」「い...

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    麒麟を巡る話、第164話。
    焔流の分裂。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    7.
     門を抜け、街道を進んでしばらくしたところで、雪乃たちは良太と笠尾の二人と合流した。
    「無事で良かった、雪さん。そうそう、松さんもやっぱり、僕たちと一緒に来るってさ」
    「良かったわ。でも……」
     雪乃は良蔵が既に小雪派に付いていたこと、そして月乃が襲いかかって来たことを話した。
    「そうか……、なんか、悲しいな」
     良太はそうつぶやき、雪乃に背を向ける。
    「小雪も良蔵も、僕たちを『親』じゃなく、『敵』だと見なしてしまったんだね。そっか……」
    「良さん……」
     がっくりと肩を落とす夫を見て、雪乃の心にはまた、悲しみがぶり返しかける。
     ところが――その良太の袖口から、にゅっと何かが出て来た。
    「……じゃあ、……残念だけど、これはもう、あの子たちの元には置いておけないんだね」
    「それって、……まさか?」
     良太は振り返り、袖口から巻物を取り出して見せた。
    「うん。最早紅蓮塞にいる焔流は、『本家』とは呼べないよ。
     いや、呼ばせたくない。おじい様の代まで厳格に守ってきた規律・規範を穢されたとあっちゃ、少なくとも『これ』は死守しておかないとね」
     良太が見せた巻物を見て、霙子が「えっ?」と声を挙げる。
    「まさか……、証書ですか?」
    「うん。こんなこともいつかあるんじゃないかと思って、こっそり偽物を作っておいてたんだ。
     これがこっちにある限り、『小雪派焔流』は絶対に、本家を名乗れない」

    「……?」
     雪乃らを追い出し、小雪が有頂天になっていたところで、御経が首を傾げた。
    「家元。ちょっと……、失礼いたします」
    「え、なに?」
     小雪がひらひらと振っていた証書を取り、御経がぱら、とそれを開く。
    「……大変、まずいです、家元」
    「なにが?」
    「これは、偽物です」
    「……なにが?」
    「証書が偽物なのです!」
    「……うそ」
     げらげらと笑っていた小雪の顔が一転、蒼ざめる。
    「み、見せなさいっ!」
     御経から手渡された「証書」を乱暴に広げ、小雪は中に一筆だけ、こう書かれていることを確認した。

    「此を揚々と広げ威張り散らし者 贋(にせ)を贋と見抜けぬ未熟者なり
    紅蓮塞書庫番 焔良太」

    「……ぐ、……っ、あ、のッ」
     小雪は巻物を壁に叩き付け、窓の外に向かって怒鳴りつけた。
    「青瓢箪のクソ親父めえええッ! よくもわたしを、このわたしをッ……、騙したなああああーッ!」



     焔流分裂のニュースは、瞬く間に央南中を駆け巡った。
     央南有数の武力組織であり、伝統ある剣術一派である。その本拠地で騒動が起こり、二分されたとあって、央南中に散っている焔流剣士たち、そして焔流に献金してきた者たちは騒然としていた。
    「御免ね、晴奈」
     師匠にぺこりと頭を下げて謝られ、晴奈は目を白黒させている。
    「いえ、そんな。師匠が困っていると言うのに、何もせぬ弟子などおりません」
     雪乃たちはひとまず同輩の中で最も富と名声、政治的権力を持っている晴奈のところへと身を寄せた。
     勿論晴奈の生家であり、焔流に対して多額の献金および援助を行っていた黄家も、今回の騒動にも敏感に反応していた。
    「とりあえず、わたしのところの対応としては、紅蓮塞への援助は全面的に止めております。他の主だった焔流道場への援助についても、現在は見合わせている状態です」
     黄家当主である明奈は雪乃らにそう説明し、そしてこう続けた。
    「とは言え恐らく紅蓮塞以外の、ほとんどの焔流道場には、元通りお金を出すのでは無いかと思いますが」
    「ふむ?」
    「今回の騒動、橘喜新聞社をはじめとして、あちこちで内情が暴露されておりますし、そうなると紅蓮塞側に付くような道場は、そうそう無いでしょう。
     恐らく大部分、ほとんどの道場が雪乃さんたちの側に付くと思います。となれば援助の流れに関しては実質上、元通りになるかと」
    「だろうな。まさか親殺しを仕掛けようと言うような輩に、……っと、失礼いたしました」
     晴奈は雪乃をチラ、と見て、言葉を切った。
     しかしその後を、雪乃本人が継ぐ。
    「構わないわ。本当のことだもの。
     小雪はやってはならないことを、ついに犯してしまった。その報いはこれから、受けることになる。
     今回の件で、間違いなく紅蓮塞は孤立するわ」
    「経済的にも、政治的にも、あらゆる面において、……ですね」
     そう返した明奈に、晴奈が首を傾げた。
    「どう言うことだ?」

    白猫夢・逐雪抄 7

    2013.01.20.[Edit]
    麒麟を巡る話、第164話。焔流の分裂。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -7. 門を抜け、街道を進んでしばらくしたところで、雪乃たちは良太と笠尾の二人と合流した。「無事で良かった、雪さん。そうそう、松さんもやっぱり、僕たちと一緒に来るってさ」「良かったわ。でも……」 雪乃は良蔵が既に小雪派に付いていたこと、そして月乃が襲いかかって来たことを話した。「そうか……、なんか、悲しいな」 良太はそうつぶやき、...

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    麒麟を巡る話、第165話。
    アナリスト、明奈。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    8.
    「まず、経済面ですけれど」
     明奈は自分を指差し、こう説明した。
    「焔流の収入・運営資金は、本拠の紅蓮塞周辺における温泉街からの献金が3割。央南連合軍をはじめとする、武力を必要とする各組織からの報酬と謝礼金が5割。そして残りの2割ですけれど、わたしみたいな央南各都市の有力商人、商家からの献金・援助金です。
     今回の件で、3つ目に関してはほぼ全滅するでしょう。最も多く出資している黄家が止めるのですから、他も追従するでしょうし」
    「確かに。うちがやめれば、他も出し渋るだろうな」
     晴奈がうなずいたところで、明奈もうなずきつつ、こう続ける。
    「軍などからの報酬および謝礼も同様です。
     央南連合軍は年々、剣士の採用および運用の枠を狭めています。近年推し進められてきた軍備近代化に当たり――お姉さまや雪乃さんにこう言っては大変失礼とは思いますが――旧態依然とした白兵戦重視の戦術によって運用されてきた剣士をこのまま置くことは、その目的にそぐわないからです」
    「確かに時節の面、時代の流れから言えば、不本意ではあるが当然だな」
     晴奈は憮然としつつ、妹の意見に同意する。
    「とは言えこれまでのしがらみなり、縁故なりがありますから、何か突飛なことでも起こらない限り、ばっさり手を切るようなこともなかなかできない。軍本営も頭を悩ませていた問題のはずです。
     そこに、今回の一件です。軍本営にしてみれば、これは剣士の大量解雇を行う、格好の口実となります。ついでに剣士たちの総本山、焔流とも手を切り、彼らとの古い慣習・約定を一掃する機会でもあります。
     恐らく今回の件を楯に、央南連合軍は焔流との交流を、完全に絶とうとするでしょうね」
    「なんと利己的な、……とも言い切れぬか。軍には軍の事情もあることであるし。
     ふむ……、となると政治面においても孤立する、とは」
    「ええ。これまで最大の需要を持っていた、言い換えれば『剣士をどこよりも必要としていた』組織、央南連合軍から『もういらない』と手を切られれば、州軍などの他の武力組織も挙って、『剣士切り』に走るでしょう。
     これは言ってみれば、商人と商売の関係に似ています――どこにも自分の作った商品を卸せなくなり、商売の場が立てられなくなった商人は、やがて破産の憂き目を見ることになるでしょう」
    「それが政治的孤立となるわけか」
    「ええ、その通りです。
     資金源を大幅に失い、育ててきた剣士たちを主要武力組織から一挙に追い払われれば、紅蓮塞は資金難と職にあぶれた大勢の剣士たちを抱えることになり、いずれ破産・破滅するでしょうね」



     雪乃らを追い出し、晴れて名実ともに紅蓮塞の主となったものの、小雪は頭を抱えていた。
    「出戻りなんかされたって困るわよ……」
     明奈の読み通り、今回の事件を口実に、央南連合軍や各州の州軍から一斉に、焔流剣士の排斥・解雇が行われ、路頭に迷った剣士たちの半分近くが紅蓮塞へと戻ってきてしまったのだ。
     商人たちからの援助も切られたこともあり、紅蓮塞の経済事情は早くも逼迫しつつあった。
    「出納係に試算を行わせたところ、既に収入の15倍以上の支出が発生しているとのことです。
     このままの財政状況が続けば、紅蓮塞の持つ資金・資産は、来年末には空になってしまいます」
     御経からの報告を、小雪は終始顔をしかめて聞いていた。
    「じゃあ仮に、戻ってきた剣士たちを追い出した場合は?」
    「支出額が多少抑えられるだけで、収入面の激減に変化はありませんから、結果は同じです」
    「収入で賄えるのは、何人くらいになるの?」
    「月当たり60、70名が限界かと。しかし現在の収入は温泉街にしかなく、それもこの一件で客足が遠のいているとのことで……」
    「ジリ貧ってこと、……ね」
     小雪は顔をしかめたまま、取り巻きたちを一瞥する。
    「……どうすべきかしら。策は誰か、無い?」
    「畏れながら」
     と、月乃が手を挙げた。
    「金が無いのなら、あるところへ取りに行けば良いかと」
     その言葉に、小雪の顔が一層強張った。
    「まさか、あなた」
    「ええ。今回の一件に至った原因の一つは、我が母である黄晴奈にもあるはず。彼女に鉄槌を下すと共に、本来我々が受け取るはずだった金を、受け取りに行けば良いのです」
     そう言ってのけた月乃に、取り巻きたちも苦い顔を見せる。
    「黄、その理屈はいくらなんでも無理矢理すぎる」
    「此度の件に加え、さらに黄先生にまで刃を向けるとあっては……」
    「いよいよ我々の立場を危うくするぞ」
     だが――。
    「……乗るしかないわね、その策に」
    「い、家元!?」
     青ざめる御経らに対し、小雪はこう言い放った。
    「どの道『証書』がここに無ければ、わたしたちは本家を名乗れないわ。その『証書』は黄海にある。黄の言う因縁と金も、そこにある。
     すべての絡み、関係がそこにあるのなら、わたしたちは万難を排してでもそこへ押し入らなきゃならないのよ」
    「……」
     確実に、かつ、恐るべき速さで歪みゆく自分たちの道、そして歪めていく張本人を前に、誰も諌めることはできなかった。

    白猫夢・逐雪抄 終

    白猫夢・逐雪抄 8

    2013.01.21.[Edit]
    麒麟を巡る話、第165話。アナリスト、明奈。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -8.「まず、経済面ですけれど」 明奈は自分を指差し、こう説明した。「焔流の収入・運営資金は、本拠の紅蓮塞周辺における温泉街からの献金が3割。央南連合軍をはじめとする、武力を必要とする各組織からの報酬と謝礼金が5割。そして残りの2割ですけれど、わたしみたいな央南各都市の有力商人、商家からの献金・援助金です。 今回の件で、...

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    麒麟を巡る話、第166話。
    神器の書、信念の書、矜持の書。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     焔流分裂から1週間が経った、双月節も間近のある夜。
    「すみません、質問させていただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
     そう挨拶して朱明が、黄屋敷内の雪乃一家が仮住まいしている部屋へと訪ねてきた。
    「あら、朱明くん。質問って、わたしに?」
    「ええ。あ、もしかしたらこの話は、良太先生の方が詳しいかも知れませんが」
    「僕?」
     娘の晶奈と囲碁に興じていた良太が、顔を挙げる。
    「はい。腑に落ちないことが一点あったので、確認したいのですが」
    「って言うと?」
    「『証書』のことです。
     試験会場が特殊であることは、僕も『向こう』で入門試験を受けた身なので分かっています。確かにあのお堂は二つとない施設であり、本家焔流の証となるでしょう。
     でも証書もまた、本家本元の焔流であることの証明であると言うのが、どうも腑に落ちないのです」
     質問を受け、良太はコクリとうなずく。
    「なるほど。普通の書であれば確かに、複製もできる。そうしてしまえば済む話なのに、どうしてこれに固執するのか、と」
    「ええ」
     これを受け、良太は金庫から証書を取り出し、雪乃に声をかける。
    「雪さん。ちょっとこれを『火刃』で斬ってみて」
    「えっ!?」
     面食らう朱明に構わず、雪乃が応じる。
    「ええ。……はあッ!」
     雪乃が用いたのは刀ではなく、玄関に立てかけていた番傘だったが、それでも相手は「紙」である。
     良太がぽんと投げた証書が一瞬のうちに炎に包まれたのを見て、朱明は珍しく声を荒げた。
    「な、何をするんですか!?」
    「でも、ほら」
     良太が指差した先には、何事も無かったかのように証書が転がっていた。
    「……あ、あれ? 燃えて、……ないですね?」
    「と言うわけなんだ。つまり、これはいわゆる『神器』の一種で、複製のしようが無い、つまりこれもこれで、元祖の焔流だって言う証明になるんだよ。
     もっとも、それを差し引いても」
     良太は証書を広げ、そこに連ねられた名前を朱明に見せる。
    「これだけの人数が焔流の名前を背負ってくれてきたんだ。
     焔流と言うのは『焔玄蔵からの血筋が代々受け継いできた剣術一派』じゃない。これら数百、いや、千にも届こうかと言う数の人間が仁義と礼節の元に紡いできた、真に世界に誇れる『生き方』なんだ。
     これを複製してごまかそうなんて言う輩は、それこそ本家焔流の人間じゃない。その歴史を顧みず、嘘をついてその誇りを貶めるような者が、焔流と名乗ってはいけない」
    「なるほど……。ありがとうございます、良太先生」
    「いやいや」
     良太は肩をすくめ、こう返した。
    「僕は先生じゃないよ。ただの書庫番のおじさんさ」
     と、ここまで会話を傍で聞いていた晶奈が、ぽつりとこうつぶやく。
    「父上の人柄と知性であれば、とてもいい先生になれると思います。と言っても剣の、ではなく、学問の方のですが」
    「はは、それもいいね」
     良太は笑って返すが、雪乃がこれを聞いて、意外なことに顔を曇らせていた。
    「……」
    「どうされました、大先生?」
    「……ねえ?」
     雪乃は神妙な顔をし、良太と晶奈にこう尋ねた。
    「二人とも、まさか盗み聞きなんてしてない、……わよね?」
    「え?」「何を?」
     きょとんとする二人を見て、雪乃は一転、顔を赤らめさせた。
    「あっ、……ううん、なんでも。わたしの勘違いだったみたい。ゴメンね」
    「ん……?」
     怪訝な顔をする皆に、雪乃はいたたまれなくなったらしい。
    「……あ、あのね。実はまだ話がまとまってないから、まだもしかしたら、仮にって、そんなくらいの話なんだけどね。
     晴奈と明奈さんから、こんな話を打診されたの」

    白猫夢・明察抄 1

    2013.01.23.[Edit]
    麒麟を巡る話、第166話。神器の書、信念の書、矜持の書。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 焔流分裂から1週間が経った、双月節も間近のある夜。「すみません、質問させていただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」 そう挨拶して朱明が、黄屋敷内の雪乃一家が仮住まいしている部屋へと訪ねてきた。「あら、朱明くん。質問って、わたしに?」「ええ。あ、もしかしたらこの話は、良太先生の方が詳しいか...

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    麒麟を巡る話、第167話。
    テイク・オフを目の前にして。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     職にあぶれた焔流剣士たちが紅蓮塞に流れてきたのと同様に、黄海にも剣士たちの姿がちらほらと、目に付くようになった。
    「師匠。昔、青江へ旅をした際に楢崎派道場で会った虎獣人のことを、覚えておいででしょうか?」
     明奈を交えて三人で茶を飲んでいたところで晴奈にそう尋ねられ、雪乃はコクリとうなずく。
    「ええ、柏木くんね」
    「彼の息子だと言う子と、つい昨日くらいに話をしまして」
    「へぇ? じゃあ、その子も……」
    「ええ、焔流の免許皆伝を得た後、央南連合軍に就いたそうなのですが、就いて1年も経たぬうちに唐突に除隊されて路頭に迷い、こちらを訪れたとのことでした。
    『このままでは親に合わせる顔がない、どうにか仕事の口を与えてくれないだろうか』、と懇願されたものの……」
     晴奈は表情を曇らせ、こう続ける。
    「既に同様の話が、十件以上にも上っている状態でして。ともかく探してみよう、とはそれぞれに答えておいたものの、私の人脈ではなかなか……」
    「小雪派のせいで、今、焔流の評判は悪くなっていますものね」
     明奈は茶をすすりながら、それに応じる。
    「既存の需要では、対応はできないでしょうね。何か新しい雇用口を考えないと、折角の剣士たちが立ち枯れてしまいます」
    「新しい雇用口……、ねぇ」
     雪乃がそう返したが、いい案は無いらしく、言葉は続かない。
     代わりに明奈が、こう続けた。
    「一応、案は考えています。
     考えてみれば、焔流の剣士さんってみんな、囲碁も打てますし写本や写経もよくされてますし、武芸だけではなく、教養も高いですよね。
     人を『ちゃんと』育てる、と言うことに着目すれば、非常に優れた人材ではないかと思うんです」
    「ふーむ……?」
    「わたし、常々からこう考えているんです」
     そう前置きし、明奈は自分の考えを話す。
    「ここ数年、世界は急に成長した気がします。いえ、今後さらに、もっと成長していくでしょうね。
     この十数年、央南連合や西大海洋同盟は積極的に学校を作ったり、道を整備したりと、様々な社会整備を行ってきました。それは言わば、『下準備』であったと思います」
    「下準備? 何の?」
    「うまく説明はしにくいのですが……、言うなれば、社会をこれまでよりもう一段、優れたものにする、と言う感じでしょうか。
     実際、人の行き来は昔、父が当主であった頃よりもずっと多くなっていますし、輸入品も今まで見たことの無い、目新しいものが次々と現れています。
     今後さらにその勢いは増していくでしょう。そして我々央南の人間は、その勢いに付いていけるのだろうかと、不安にならずにはいられません。
     そう考えると今回の騒動は、単に一つの巨大組織が一地方で混乱をきたした、と言うものに留まらないような、そんな危機感を覚えるんです」
    「十分に大事だと思うんだけど……」
     頬を膨らませる雪乃に、明奈は深々とうなずいて見せる。
    「ええ、それは勿論。その重要性は十分に承知しています。
     でも、このまま放っておけば、今認識しているより一層の、悪い事態に発展しかねない。今後の対応で下手を打てば、央南の世界的地位は一挙に墜落することになる、……と言う意味です」
    「そこまで……?」
     一転、雪乃は怪訝な顔になる。
    「確かに央南随一の剣術一派だけど、この騒動はそこまで波及するものかしら」
    「問題なのは分裂したことではなく、分裂させた小雪派が今後、どう動くかです。
     恐らく資金難と『証書』を取り返そうと言う欲求から、彼らはここ、黄海に攻めて来るでしょう」
    「なに……!?」
    「まあ、無理な話では無いわね。今の小雪は、何をしでかすか分からないくらいに暴走してしまっているもの。金と権威のためであれば、多少の道理は踏み外すでしょうね」
    「それをそのまま看過していれば、焔流に対する世間の評判は、より一層悪い方へ傾くでしょう。
     もし戦いが起こり、小雪派とわたしたち、どちらが勝ったとしても、『焔流は地に堕ちた』と言う悪評の後押しをするだけです。
     絶対に、事態を戦う方向へ持って行ってはいけません。黄海やその周辺、衆人環視の状況で無暗に争うような姿勢を見せれば、それこそ悪評通りの破落戸と見られてしまいます」
    「ふむ……」
    「それよりも元々の評判通りの姿勢を見せ、『焔流はやはり優れた集団なのだ』と広く認識してもらう。これが今後の、あらゆることに関して、最も良い結果につながるものだと考えています。
     そこで考えた案が、『学校』なんです」

    白猫夢・明察抄 2

    2013.01.24.[Edit]
    麒麟を巡る話、第167話。テイク・オフを目の前にして。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 職にあぶれた焔流剣士たちが紅蓮塞に流れてきたのと同様に、黄海にも剣士たちの姿がちらほらと、目に付くようになった。「師匠。昔、青江へ旅をした際に楢崎派道場で会った虎獣人のことを、覚えておいででしょうか?」 明奈を交えて三人で茶を飲んでいたところで晴奈にそう尋ねられ、雪乃はコクリとうなずく。「ええ、柏木くん...

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    麒麟を巡る話、第168話。
    方向転換。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
    「学校?」
     思ってもみない提案に、晴奈も雪乃も面食らう。
    「学校って、つまり、わたしたちが勉強を教えるってこと?」
    「ちょっと違います。確かにそれも多少はやってもらおうとは考えていますが、基本的には元々、紅蓮塞でされていた指導・鍛錬とほぼ変わりません。
     ただ、主旨を少し変えるつもりですが」
    「主旨、……と言うと?」
    「指導の重点を剣術中心のものから、心身育成を重視したものに変えてはどうか、と。
     本当に失礼を承知で言えば、剣術に関する需要は底を打ってしまっている状態です。そんな時勢に、なお『剣術集団』として名を売ろうとしても、評判が上がることはまず、無いでしょう」
    「本当に失礼だな」
     苦い顔をする姉に構わず、明奈は話を続ける。
    「それに今現在の、小雪派が暴走しかねないような状況で、剣術を主体とした指導を行ったとして、それがいい方向に転じるでしょうか?」
    「そうね……、戦争準備とか思われそう」
    「それもありますし、非常に若い方であれば、腕試しなどされたくなるかも知れません。その傾向が強まってしまうと、いくら『上』で戦争を回避しようとしても、『下』が無理やり開戦しようとするでしょう。
     今後の平和と焔流の存続・繁栄を考えれば、思い切った方向転換を考えなければならない。わたしはそう考えています」



    「……と言うのが、打診された話なんだけどね」
    「学校かー」
     話を聞き終えた良太と晶奈は、揃ってうなずいた。
    「いいんじゃない?」「私もそう思います」
    「えっ」
     すんなり賛成されるとは思わず、雪乃は面食らう。
    「え、でも……」
    「元々からおじい様も、武術偏重的な指導・鍛錬は望んでなかったからね。
     それよりも明奈大人の言う、心身育成を重要視してたと思うよ。雪さんも思い当たるところ、あるんじゃないかな」
    「そう、ね。確かにわたし自身も、小手先の技術・技量にはこだわらず、まず心身を鍛えることを第一として指導してたつもりだし。
     でも、他の焔流剣士たちがこれを聞いて、同意して教師になってくれるかどうか」
    「案外、納得するんじゃないかな。
     だって心身育成を第一義として長年指導を続けてきた君を慕って、ここまで一緒にやって来たくらいだもの。
     むしろ今更になって、武術主体に方向転換すると言っちゃったら、みんながっかりしちゃうんじゃないかなぁ」
    「……そうかしら?」
     夫の言葉に勇気づけられたのか、雪乃のその返事は、話し始めた当初より幾分軽い雰囲気となっていた。



     数日後、晴奈と明奈、そして雪乃夫妻は黄海に流れてきた剣士たちを集め、学校設立の旨を打診した。
     雪乃が不安視していた反発は確かにあったものの、半数以上は同意してくれた。
    「先代も『無暗な争いは避けるべし』と仰っていましたし」
    「それに我々だって、何も人を殺す術を指導していたつもりは無い」
    「うむ。人殺し云々が焔流の第一義であったなら、あの免許皆伝試験は何だったのかと言う話になる」
    「学問を教えると言うことには多少の不安はありますが、心身育成ならば喜んで引き受けましょうぞ」
     剣士たちの快い反応を受け、晴奈がこう応える。
    「皆の心意気、そして気概、誠にありがたい限りだ。
     ではこれより学校設立のため、まずはその首長、即ち学校長を選出したいと思うのだが」
     この問いに、剣士たちはしばらく沈黙した後、二者を指し示した。
    「私は黄晴奈範士を推します」
    「いや、俺は焔雪乃大先生が適任ではないかと思っている」
     ほぼ半分に意見が分かれ、雪乃の方も面食らっている様子を見せる。
    「え、いや、わたしはそんな……」「いえ」
     と、晴奈が頭を下げ、雪乃を推した。
    「私などより、師匠の方がその任にふさわしい方であることは、自明のことと思います。
     私も『先生』などと称されて久しくありますが、そもそも私がそう呼ばれるだけの実績、勲功を挙げることができたのは、ひとえに師匠の篤く細微にわたるご指導、ご鞭撻の賜物です。
     それを差し置いて私が皆の長と名乗るなど誠に烏滸がましいことであり、何より師匠の方が、私などよりもっと、大勢の者を正しく導くお力を持っていらっしゃいます。
     どうか師匠、皆を導く大役、今一度引き受けてはいただけないでしょうか」
    「……」
     雪乃は困った顔を浮かべていたが、やがて剣士たちに顔を向け、こう述べた。
    「『焔』の名を授かってから30余年、わたしはこの名を穢さぬよう努めてきました。
     しかし此度の一件で、あろうことかわたしの不肖の娘がこの名に大きな瑕(きず)を付けることとなり、誠に申し訳なく思っていました。
     それでもなお、わたしを推挙してくれること。本当にありがたく、そして、光栄なことと受け止めています。
     その任、謹んでお受けします」
     雪乃は皆に向かって、深々と頭を下げた。

    白猫夢・明察抄 3

    2013.01.25.[Edit]
    麒麟を巡る話、第168話。方向転換。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3.「学校?」 思ってもみない提案に、晴奈も雪乃も面食らう。「学校って、つまり、わたしたちが勉強を教えるってこと?」「ちょっと違います。確かにそれも多少はやってもらおうとは考えていますが、基本的には元々、紅蓮塞でされていた指導・鍛錬とほぼ変わりません。 ただ、主旨を少し変えるつもりですが」「主旨、……と言うと?」「指導の重点を剣...

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    麒麟を巡る話、第169話。
    昔に戻って、昔に戻れなくて。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     雪乃が学校長に選ばれてから数日後、雪乃および経営陣(勿論、明奈率いる黄商会のことである)は次のことを発表した。
     まず、開校の予定日。教員や事務員の募集、校舎建設などの準備があるため、開校は翌545年の4月からとなった。
     その他建設地や募集要項などを黄州全体に発表するとともに、雪乃から己自身の身の振りについての公表があった。



    「このような――焔流分裂と言う一大騒動の――事態を引き起こした原因の一つは、当代家元の母親であり、かつ、後見人でもあるわたしにあります。
     そのような身で焔流の宗家たる名、『焔』を名乗ることは、先代ならびに代々の焔流家元の皆様に大変なご迷惑をかける。……今回の騒動で逐電して以降、強く、そう感じていました。
     付きましては、これを機会として『焔』の名を返上することにし、以後はわたしの旧姓、『柊』を名乗ることにいたします」



     この発表に関しても、明奈からの一声が事前にあった。
     雪乃が発言した内容に加え、明奈は徹底的に小雪派焔流との差別化を図っていたのである。どこまでも「武力主義に傾倒した小雪派とは違う」「あくまで心身育成を第一義とした教育を目指す」と言う姿勢を見せるための、一種のパフォーマンスでもあった。

    「……私はまだ納得行かない気分です。姓まで変える必要があったのか、と」
     一人、晴奈は雪乃にそう告げたが、雪乃はそれに対し、首を横に振った。
    「いいのよ。わたしの気持ちに嘘は無いわ。
     娘がしたこととは言え、それを防げなかったのは親のわたしの責任だもの。これは当然すべきことだったと、わたしはそう思っているわ。
     ただ、これで責任をすべて取ったとは思ってないわ」
    「いや、そんな……ことは……」
     否定しようと口を動かそうとするが、晴奈には二の句が継げなかった。
    「……晴奈」
     雪乃はぎゅっと、晴奈の手を握ってきた。
    「師匠?」
    「……これからわたしは、許されざることをするかも知れない。娘と決定的に、もう後戻りできないくらいの対立を、別離をすることになるかも知れないわ。
     その結末にはもう、仁義も礼節も無いでしょうね。この戦いが終わる時、わたしは焔流剣士として、真っ当な人間として、落第・失格することになるかも、……知れない。
     それでも、……それでも晴奈、あなたはわたしの側にいてくれる?」
     雪乃の震える手を握り返し、晴奈は応える。
    「……無論です。私は終生、師匠の弟子であり、そして」
     そこで晴奈はうつむき、小さな声でこう続けた。
    「唯一私が姉と思い、慕ったのは、師匠のみでございます故」
    「……ありがとう、晴奈」



     明奈の講じた数々の試みは、結果から見れば一応以上の成功を見た。
     新たに設立された学校――「柊学園」にはほぼ予定通りの数の入学希望者が集まり、一方で、黄州内にあぶれていた焔流剣士たちを一括雇用することもできた。
    「これで長期的には成功した、……と考えられますね。
     ただ、短期的な面を考えた場合、大きな問題が一つ残ってはいますが」
    「小雪派がいつ攻めてくるか、だな」
    「ええ」
     明奈はうなずき、卓上に地図を広げる。
    「情報によれば、やはり小雪派は孤立の一途をたどっているようです。
     当座の資金確保と今後の戦線拡大をにらんでか、小雪派は既に武力蜂起し、紅州内の主要都市を制圧したと聞いています。
     しかしその乱暴な行動のため、隣接する西辺州および玄州、白州、そしてわたしたちの統べる黄州との緊張が高まっています。
     わたしとしては、このままその4州が紅州と急速に対立を深め、いっそ断絶・孤立してくれればと考えています」
    「どう言うことだ?」
    「もし万が一、紅州と結託するような州が出た場合、これは央南連合結成以来の、央南分裂の危機につながります。
     そうなれば良くて央南域内の交流停滞、悪くて内戦となり、それはわたしの願う央南の環境向上と、正反対の流れになります。
     だから紅州はこのまま孤立させ、央南連合から弾き出してしまった方がいいのでは、とさえ考えています」
    「明奈、お前は……、徹底的に小雪を悪者にしたいのか?」
     そう尋ねた晴奈に、明奈は暗い顔でこう返した。
    「したい、……ではもうありません。もう、小雪さんは完全な悪者です。
     私利私欲のためいたずらに街を襲い、不法に占拠しているのですから。そのせいで、既に央南連合でも小雪派討伐が検討されています。
     わたしだって、昔の小雪さんの顔を思えば、心が痛まないわけではありません。でも、彼女はもう既に、わたしやお姉様の知る童女の頃の小雪さんではないのですよ」
    「……ああ。……ああ、分かって、……いるさ」
     晴奈は苦々しくそう言って、それきり口をつぐんだ。

    白猫夢・明察抄 終

    白猫夢・明察抄 4

    2013.01.26.[Edit]
    麒麟を巡る話、第169話。昔に戻って、昔に戻れなくて。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 雪乃が学校長に選ばれてから数日後、雪乃および経営陣(勿論、明奈率いる黄商会のことである)は次のことを発表した。 まず、開校の予定日。教員や事務員の募集、校舎建設などの準備があるため、開校は翌545年の4月からとなった。 その他建設地や募集要項などを黄州全体に発表するとともに、雪乃から己自身の身の振りにつ...

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    麒麟を巡る話、第170話。
    交流戦。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     柊学園の設立も決まり、その準備も順調に進んでいた、双月暦544年の春間近の頃。
     この頃には、元々から黄派焔流道場に在籍していた者と、紅蓮塞から移ってきた者との境目も薄くなってきており、その両門下生らが稽古終わりに入り混じって歓談することも、まったく珍しい光景ではなくなっていた。
    「大分空気がしっとりしてきたよなー」
    「だなぁ。先週だったらあんだけ打ち込んでも、汗が垂れたりしなかったもんなぁ」
    「汗かく端から乾いてましたもんね」
    「『狐』とか『猫』にとっちゃ、段々うっとうしい季節になってきたな」
    「そんなコト言ってアンタ、冬は冬で静電気やだって言ってなかった?」
    「言ってた言ってた、あはは……」
     汗でぺったりとした髪と狐耳を拭く同輩を囲み、皆で笑い合う。

     と――その「狐」がこう反論したのが、その後の「お祭り騒ぎ」の発端となった。
    「うっせ。狐獣人はみんなそーなんだよ。『うち』の紀伊見さんだって俺と同じこと言ってたぜ。きっと『そっち』の関戸さんだって、梅雨の時とか『尻尾の付け根が蒸れるっスわぁ』とか言ったりするんじゃね?」
    「言うワケないでしょ」
    「……いや、紅蓮塞の時に結構近いこと言ってた気がする」
    「えー……」
     口を尖らせた同輩に、またも皆が笑う。
     そこへ、今まさに噂に上った張本人――「柊派」の錬士、狐獣人の関戸が現れた。
    「うんうん言ってた言ってた、俺も『狐』だからねぇ」
    「あ、先生」
    「お疲れ様です!」
     門下生たちに並んでぺこ、と頭を下げられ、関戸もぺこりと返す。
    「お疲れー。ってか紀伊見さんもやっぱりそんなこと言ってたんだねぇ。稽古中はツンっとしてちょっと取っ付きにくい感じだったけど、それを聞いたら親近感湧くなー」
    「え、もしかして先生……」
     邪推され、関戸はぱたぱたと手を振って否定する。
    「いやいや、何言ってんの。そんなんじゃないよ。単にさ、『向こう』の人とも仲良くしたいなって、そーゆー話だから」
     そう返した関戸に、門下生の一人がこう尋ねた。
    「仲良くできてないんですか?」
    「ん? あ、いや、仲良くはしてるよ?
     たださ、暮れに押しかけてからずっとバタバタしっぱなしだし、何て言うか、交流を深められるような機会がなかなか作れないなー、って」
    「あー」
     門下生たちは揃ってうなずき、それから間をおいて、一人が手を挙げた。
    「あ、じゃあ……」

    「交流戦?」
     十分後、道場主の晴奈は門下生から、こんな提案を受けた。
    「はい! 柊派の方が来られてからずっと、黙々と稽古を続けておりましたが、よくよく考えてみれば歓迎も何もしてないじゃないですか」
    「成り行きとは言え、折角遠路はるばるお越しいただいたと言うのに、何のお持て成しもしないまま3ヶ月、4ヶ月も経ってしまってますし」
    「ふむ。確かに言う通りだ。このまま何もせずと言うのは、礼儀に欠ける。
     その点は納得できる。だがそれで交流戦を催すと言うのは、相手を差し図るようで失礼ではないだろうか?」
    「いえ、柊派の同輩たちや先生とも話をしてみたんですけども、『単に酒を酌み交わしたりするだけでは面白くない。やはりそれぞれが名にし負う剣術一派で腕を磨いてきた身なのだから、多少は腕比べもしてみたい気持ちはある』と仰っていました」
    「ふーむ……、まあ、多少不純な風も無くはないが……、皆がそう言うのであれば、取り計らってみようか」
    「本当ですか!」
    「やったー!」
     晴奈の返答に、門下生たちは一様に満面の笑みを浮かべ、小躍りした。

    白猫夢・剣宴抄 1

    2013.01.28.[Edit]
    麒麟を巡る話、第170話。交流戦。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 柊学園の設立も決まり、その準備も順調に進んでいた、双月暦544年の春間近の頃。 この頃には、元々から黄派焔流道場に在籍していた者と、紅蓮塞から移ってきた者との境目も薄くなってきており、その両門下生らが稽古終わりに入り混じって歓談することも、まったく珍しい光景ではなくなっていた。「大分空気がしっとりしてきたよなー」「だなぁ。...

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    麒麟を巡る話、第171話。
    お祭り騒ぎ。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     昔から、黄晴奈と言う人物は一つの「悪い癖」を持っていた。
     自分の考えと違うこと、意に沿わないことが起こると、それについて小声でブチブチと文句をこぼす点である。
    「……確かに交流戦を承知しはしたが、こんなお祭り騒ぎにするとは聞いておらぬ。内輪で催すのならまだしも、街中巻き込んでの宴会にするなどとは」「まあまあ」
     そして姉のそう言う性分を、周囲に不快感を与える前にやんわり鎮静させるのが、昔からの明奈の役割である。
    「街の人たちにとっても、柊派の人たちを歓迎したい気持ちは一緒ですよ。ちょうどいい機会ではありませんか。
     それに門下生の方に、こうして街の人たちにも知らせてはどうか、と入れ知恵したのは、実はわたしですし」
    「なに?」
    「内輪で楽しんで終わり、じゃ勿体無いですよ。街にとっても、焔流の剣士さんたちがこんなに大勢いらっしゃることは、誇りでもありますし。
     その敬意をないがしろにして、いつの間にか内輪で集まっていつの間にか終わりだなんて、そっちの方が無礼じゃありません?」
    「……うまく言いくるめられている気がする。……が、まあ、そうだな。折角慕って集まってくれた皆を今更追い返すなど」
    「でしょう?
     さ、お姉様。いつまでも腐ってないで、一緒に楽しみましょう」
     明奈は姉の手を引き、祭りの中へと連れて行った。

     前述の通り、最初は焔流剣士だけで集まり、簡単に技量を競い合って終わり、と言うくらいの規模を予定していたのだが、そこにこの話を聞きつけた明奈が介入。
     黄海全体を巻き込んだ、一大イベントに変えてしまったのである。しかも――。
    「……明奈?」
    「なんでしょう?」
    「あの黒髪に茶白の毛並みの狼獣人、見覚えがあるのだが」
    「ええ。央中からお呼びしました」
    「何のためにだ?」
    「交流戦を盛り上げてくださるとのことで」
    「……賭けなど図ってはいないだろうな?」
    「流石にそこまでできませんよ」
     小声で話しているうちに、その狼獣人――央中の興行家(プロモーター)、プレア・チェイサー女史が晴奈たちに気付き、手を振って近付いてきた。
    「お久しぶりです、セイナさん、メイナさん!」
    「ああ、久しぶりだなプレア」
     握手を交わしたところで、プレアはニコニコと笑みを浮かべながら説明し始めた。
    「今回ですね、メイナさんから『街の人々にも交流戦を楽しんでもらうには、どのように進めればいいか』とご相談をいただきまして。
     それでですね、やっぱり単純に試合をして、その勝敗を予想……」「お、おいおい」
     それを遮り、晴奈は慌てて確認する。
    「賭けは困る。これはあくまで焔流剣士同士の腕を競う試合であって、市国の闘技場ではないのだから」
    「ええ、ええ。勿論承知してます。ただですね、漫然と打ち合いを見てるだけじゃやっぱり飽きてしまうと思いますし、それじゃ場が冷えちゃってつまらないですよ。
     そこでですね、まず第一に試合の密度を濃くしようと思います」
    「密度を濃く?」
    「はい。黄派の方と柊派の方とで5名ずつ代表を選んでいただいて、5対5の団体戦の形式を採ります。
     で、賭けって程ではないんですが、街の皆さんがより盛り上がるように、色々、付け足そうかなーなんて。
    勿論、お金は賭けてません。安心してください」
    「……まあ、金が絡まぬのであれば、許容範囲だな」
     晴奈の許しを受け、プレアはにっこり笑う。
    「ありがとうございます、セイナさん!
     それじゃそろそろ、出場する方に連絡してきますねっ」
     その場を後にするプレアを見送ったところで、晴奈は再度、明奈に耳打ちする。
    「本当に金は、賭けてないんだな?」
    「あら、わたしをお疑いに?」
    「……いや。そうではない。
     だが明奈、お前は存外したたかで、抜け目のない性格をしているからな。金でなくとも、何か賭けているのではないかと思ってな」
    「うふふ」
     晴奈の問いに対し、明奈は笑ってごまかした。

    白猫夢・剣宴抄 2

    2013.01.29.[Edit]
    麒麟を巡る話、第171話。お祭り騒ぎ。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 昔から、黄晴奈と言う人物は一つの「悪い癖」を持っていた。 自分の考えと違うこと、意に沿わないことが起こると、それについて小声でブチブチと文句をこぼす点である。「……確かに交流戦を承知しはしたが、こんなお祭り騒ぎにするとは聞いておらぬ。内輪で催すのならまだしも、街中巻き込んでの宴会にするなどとは」「まあまあ」 そして姉のそ...

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    麒麟を巡る話、第172話。
    剣士たちの宴、始まる。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     事前に明奈とプレアは試合形式と出場者の選出方法を、両陣営に伝えていた。
     まず前述の通り、試合形式は5対5の勝ち抜き団体戦。先鋒対先鋒から進め、三本勝負の二本先取で勝利。負けた先鋒は次鋒に交代し、同様に負けた側が中堅、副将、大将と交代していき、先に相手側の大将を倒した方が勝利となる。
     そして選出される者については、門下生2名(先鋒・次鋒)と錬士を2名(中堅・副将)、そして範士を1名(大将)ずつとした。これは先鋒や次鋒が大将を倒してしまうような、一方的な試合になってしまうのを避けるためである。
     そして事前に剣士内で集計した人気投票により、出場者が決定された。

     黄派焔流からは、以下の5名。
      先鋒:鍋谷輿生(猫獣人、男性)
      次鋒:黄朱明(猫獣人、男性)
      中堅:紀伊見奈々子(狐獣人、女性)
      副将:水越兵治(長耳、男性)
      大将:清滝敬史(短耳、男性)

     そして柊派からは、以下の5名が選出された。
      先鋒:楠瑛吉(狐獣人、男性)
      次鋒:柊晶奈(長耳、女性)
      中堅:関戸侍郎(狐獣人、男性)
      副将:笠尾松寿(短耳、男性)
      大将:藤川霙子(短耳、女性)

    (ちなみに人気投票において、晴奈と雪乃は対象外となっていた。『選出してしまうと、後でお姉様からものすごく文句を言われそうだから』、……と明奈が判断したためである)



     黄海の広場に作られた特設会場に、この10名が揃う。
     そして司会役を買って出た明奈が彼らの前に立ち、マイクを片手に開会宣言した。
    「黄海市民の紳士、淑女の皆様。そして誇り高き焔流剣士の皆様。本日はこの催しにご参加いただき、誠にありがとうございます!
     さてさて、本日のこの交流戦、市民の皆様方にとってはその焔流の技と精神との結実、その鍛錬の成果を実際に目にするまたと無い機会であり、また、剣士の皆様方にとっては、それを発揮する絶好の機会でもあります!
     どうぞ、市民の皆様方はご声援を! どうぞ、剣士の皆様方はご奮戦を!」
     明奈にあおられる形で、街の者たちは盛り上がりを見せる。そして剣士たちも、多少の差はあるが、一様にワクワクとした様子を見せていた。
    「それでは両陣、先鋒のみ残してひとまずご退場ください! 早速第一回戦、始めさせていただきます!」
     明奈のアナウンスに従い、壇上に鍋谷と楠が残って、竹刀を提げて向かい合う。
    「両者、礼!」
     互いに礼をし、そこで互いに竹刀を構える。
    「……始めっ!」

     先に初太刀を放ったのは、鍋谷の方だった。
    「うりゃああッ!」
     ブン、と竹刀をうならせ、楠の頭を狙う。
     しかし楠はそれをくい、と身をひねってかわし、鍋谷の左に回り込む。
    「やあッ」
     パン、と乾いた小気味の良い音が響き、楠の竹刀が鍋谷の籠手を打った。
    「う……っ」
    「一本!」
     開始からたったの5秒足らずで勝ちを奪われ、鍋谷は絶句した。
    「強え……」
     ぽろ、とそんな弱気の言葉が漏れる。
     それ自体は聞こえはしなかったが、鍋谷の動揺を察した晴奈が、観客席から叱咤する。
    「うろたえるな、輿生! 冷静に構えて行け!」
    「はっ、はい!」
     一方、柊派では雪乃の二番弟子であり、大将でもある霙子が、楠をほめている。
    「やるじゃない、瑛くん! このまま勝っちゃいなさいよ!」
    「はい!」
     再び鍋谷と楠が構え、二戦目が始まる。
    「……ッ、これならどうだーッ!」
     鍋谷は全力で踏み込み、突きを放つ。
     しかしこれも楠はひょいとかわし、鍋谷の背後に回り込む。
    (あ、馬鹿……)
     無防備になった鍋谷を見て、晴奈も、黄派陣営も頭を抱える。
     鍋谷がきょろきょろと辺りを見回した次の瞬間、すぱん、とまたも鋭い音を立てて、その面が叩かれた。
    「勝負あり! 勝者、楠暎吉!」
    「うそだろ……」
     二度も瞬殺され、鍋谷はがくりと膝を着いた。
    「やったー! 万歳、暎くん!」
    「へへ……、ちょっと恥ずかしいです、母上。落ち着いて下さい」
     そして楠の勝利を一番喜んだのは――実は彼の母でもある、霙子だった。

    白猫夢・剣宴抄 3

    2013.01.30.[Edit]
    麒麟を巡る話、第172話。剣士たちの宴、始まる。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 事前に明奈とプレアは試合形式と出場者の選出方法を、両陣営に伝えていた。 まず前述の通り、試合形式は5対5の勝ち抜き団体戦。先鋒対先鋒から進め、三本勝負の二本先取で勝利。負けた先鋒は次鋒に交代し、同様に負けた側が中堅、副将、大将と交代していき、先に相手側の大将を倒した方が勝利となる。 そして選出される者について...

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    麒麟を巡る話、第173話。
    冷静対冷静。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     霙子の息子、暎吉(あきよし)が勝利し、第二回戦は黄派の次鋒、朱明との対決となった。
    「よろしくお願いします」
     そろってぺこ、と頭を下げ、竹刀を構える。
     この対戦は知る人ぞ知る、面白い組み合わせだった。片や雪乃の一番弟子、晴奈の甥であり、片や雪乃の二番弟子、霙子の息子である。
     雪乃の一番弟子と二番弟子の、それぞれの孫弟子同士の戦いとなり、それを知る者たちにとっては非常に興味深い一戦でもあった。
    「どっちが勝つと思う?」
    「そりゃ、格で言ったら朱明だろ」
    「いや、あの輿生が惨敗だったし、暎吉が勝つんじゃね?」
    「……うっせぇ」
     凹む鍋谷をよそに、門下生たちは予想し合う。
    「目立たないヤツだけどさ、朱明はふつーに強いし」
    「そうよね。ナベ、一度も朱くんに勝ったコトないし」
    「ほっとけ」
    「……ま、どっちにしても俺たちとしちゃ、朱明を応援したいよな」
    「だね」
     そうこうしているうちに試合が始まっていたが、両者はまだにらみ合っていた。
    「……」「……」
     先程とは打って変わり、どちらも慎重に間合いを詰めつつ、攻撃の機会を伺っている。
     見守っていた晴奈は、冷静に分析した。
    (先程の輿生と暎吉とでは、相性が悪過ぎたな。
     血気盛んで思い切りのいい性格は剣士として申し分ない素質だが、朱明や暎吉のような冷静沈着な者が相手では格好の的、餌食も同然だ。
     一転、この対決は両者とも似通った性質だ。うかつに飛び込んで返り討ちになるような展開にはなるまい。
     となると……、純粋に技量で競り合って倒すか、それとも搦手で油断を誘うか)
     じりじりと間合いを詰めていた朱明が、先に動いた。
    「はあッ!」
     朱明は一気に間合いを詰め、暎吉の面を狙って――いるように見せる。
    「……っ」
     一方、暎吉もこのフェイントが来ることは予想していたのだろう。詰められた間合いを後ろに跳んで広げ直し、朱明の射程から外れる。
    「ありゃ……」
     振り上げていた竹刀を正眼に構え直し、朱明はぽつりと残念そうな声を漏らした。
    「そう簡単には引っかかりません、僕」
     暎吉にそう返され、朱明はクスっと笑う。
    「それは残念です」
     そう言うと朱明は、ほとんど予備動作を見せず、まるで滑るかのようにもう一度、間合いを詰めた。
    (なに、無拍子……!?)
     高等技術を披露して見せた朱明に、観戦していた晴奈も相当面食らっていたが、もっと度肝を抜かれたのは、目の前でそれを見せられた暎吉の方だっただろう。
    「な……!?」
     先程のようなすんなりとした動きではなく、露骨に慌てた様子で横へ引く。
    「そこだッ!」
     無拍子で歩み寄った朱明が、くん、とほぼ直角に曲がる。
    「……!」
     すぱん、と音を立て、暎吉の面に朱明の竹刀が当てられた。
    「と、……取られましたね」
    「何とか上手く行きました」
     まだ目を白黒させる暎吉に、朱明はもう一度笑って返した。

     その後暎吉が何とか一勝したものの、さらにもう一勝朱明が奪い、暎吉は敗退した。
    「やるな、朱明」
     晴奈は汗を拭いていた朱明のところを訪ね、彼を労った。
    「20そこそこであの動きができるとは、恐れ入ったよ」
    「いえ、そんな……。拙い技でしたし、成功した方が奇跡ですよ」
    「謙遜するな、朱明。あれが拙いと言うことがあるか。誰にだってできることでは無い。
     お前は少しくらい自信を持った方がいい。こうして代表に選ばれたのも、実力あってのことなのだから、それで謙遜されたら、選ばれなかった者に失礼だぞ」
    「あ、……はい」
    「さ、間も無く次の試合だ。胸を張って行け」
    「はい」
     小さく頭を下げ、ふたたび壇上に上がる朱明を見送りながら、晴奈は一人、眉をひそめていた。
    (昔、当事者から一歩引いて眺めるとあいつから言われたが……、剣士としてあいつを見るに、その態度には不安がある。己に自信を持っていないことが、うっすらと透けて見えるようだ。
     今一つ自信を出せないあいつには、どうにも覇気が無い。自発性、積極性にも欠ける。技術は人一倍優れているが――自信の無さがここぞと言う時、その長所を抑え込むような気がしてならない)

    白猫夢・剣宴抄 4

    2013.01.31.[Edit]
    麒麟を巡る話、第173話。冷静対冷静。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 霙子の息子、暎吉(あきよし)が勝利し、第二回戦は黄派の次鋒、朱明との対決となった。「よろしくお願いします」 そろってぺこ、と頭を下げ、竹刀を構える。 この対戦は知る人ぞ知る、面白い組み合わせだった。片や雪乃の一番弟子、晴奈の甥であり、片や雪乃の二番弟子、霙子の息子である。 雪乃の一番弟子と二番弟子の、それぞれの孫弟子同...

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    麒麟を巡る話、第174話。
    朱明、策を弄す。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     両陣とも先鋒が敗れ、三回戦は次鋒対次鋒、朱明と晶奈との戦いとなった。
    「よろしくお願いします」
     朱明と晶奈が、互いに礼をする。
     柔らかい印象を与える朱明に比べ、晶奈は凛とした空気を漂わせていた。
    (小雪や良蔵と比べて、晶奈が刀を振るうところはあまり目にしてはいないが……、一見したところ、16歳にしてはなかなか鍛錬を積んでいると見える。身のこなし、そして構えには堂に入った感がある。
     小雪も10年前は、あのように一片の曇りも迷いも無い、純粋に光るものを見せていたのにな)
     試合が始まり、二回戦と同様に、両者ともじりじりと間合いを詰めていく。
    「……」
     晶奈の方が若干、詰め方が強い。竹刀がぎりぎり交わるか交わらないかのところで、晶奈が仕掛けた。
    「りゃあッ!」
     晶奈は勢いよく竹刀を振り上げ、朱明の面を狙う。それをかわし、朱明は後ろに退く。
     しかしそれをさらに追い込み、晶奈が胴を払った。
    「えやああッ!」「……っ」
     ばし、と若干鈍めな音ではあったが、晶奈の竹刀はしっかりと朱明を捉えていた。
    「一本!」
    (ふむ……。ここは強気の攻めが功を奏したか。
     朱明の悪いところが足を引っ張った形だな。初手で『見』に回ったのが敗因だろう。
     ……うん? と考えると……?)
     両者とも開始位置に戻り、もう一度構える。
    「始め!」
     先程と同じく、晶奈の方から間合いを詰めていく。
    「どうした、朱明! 攻めて来い!」
     優勢と感じたらしく、晶奈が挑発してくる。
    「……」
     朱明は何も返さず、じっと構えている。
    (二回戦の時は、先に輿生と暎吉の戦いを見られたからな。ある程度、対策は取れていたのだろう。
     しかし晶奈の戦い方を見るのは、これが初めて。故に一本捨てる形で、どう動くのかを見定めていたのかも知れん)
     挑発に動じない朱明に、晶奈は痺れを切らしたらしい。
    「せやあッ!」
     一本目と同様、晶奈がぐいと踏み込み、面を狙いに行く。朱明はそれを、これもまた同様に退いてかわす。
     朱明のこの反応で、どうやら晶奈は朱明を侮ったらしい。先程と全く同じ形で、胴を狙いに来た。
    「はあッ!」「やッ」
     朱明は右に回り、晶奈の竹刀をかわす。
    「……!」
     晶奈が振り返るその直前に、朱明はすぱん、と彼女の籠手を弾いた。
    「一本!」
    (……巧者と言うべきか。相手の癖を即座に見抜き、攻めに組み込むその感性は素晴らしい。
     しかし……、私がそう言うことをしないからだろうか、何と言うか、小狡い気もしないではないな)
     朱明はこの試合の流れをつかんだらしく、その後もう一勝を挙げ、柊側の二連敗となった。



     交流戦は四回戦に移り、次鋒・朱明と中堅・関戸とが対峙した。
    「さーて、と」
     開始前、面を被る直前――関戸は朱明にこう声をかけた。
    「やるねぇ、お前さん」
    「え? あ、はい」
    「ま、よろしく」
     それだけ返して関戸は面を被る。
    試合が始まり、朱明は先程と同様に竹刀を構え、じりじりと間合いを詰める。関戸の方も同様に間合いを詰めていたが、やがてぐい、と一挙に間合いを詰め、攻撃を仕掛ける。
    「おりゃっ!」
     朱明は、今度は竹刀で相手の初太刀を受ける。が、受けられたところで関戸は退き、同時に胴を狙う。
     これも朱明はわざと打たせたらしく、ぼこ、と鈍い音が響く。有効打とはならず、審判から勝負ありとの声はかからなかった。
    「……」
     両者とも退き、互いに構え直す。
    「そらッ!」
     もう一度関戸が仕掛ける。それを朱明は受け、それを受けてもう二度、三度と関戸が打ち込む。
     これを何度か繰り返したところで、ようやく関戸が有効打を当て、長い一本目が終わった。
    「関戸先生が苦戦してる……?」
    「あんなに強かったっけ、朱明くんって」
    「すげーなぁ、先生相手に」
     門下生たちは朱明の健闘をほめていたが、晴奈は苦々しく思っていた。
    (……なんだろうな。やはり剣士として、いい姿勢では無い気がする。
     無暗やたらに飛び込むのが良いこととは言わないが、それでも目上、格上の人間を相手にし、罠に嵌めようとする朱明の姿勢・態度は、礼儀を欠いているように感じられる)
     二本目に移る直前、関戸がまた声をかけてきた。
    「ありがとよ、朱明くん」
    「いえ」
    「それじゃあこのまま、二本目も行かせてもらうか」
     二本目が始まり、これも関戸が先に仕掛けてきた。
    「だあッ!」
     ところが――朱明がそれを受けようと動いた瞬間、関戸は掛け声を出しただけでピタ、と止まる。
    「え」
     虚を突かれ、朱明は竹刀を上げた状態で止まってしまった。
     その一瞬の隙を、関戸が突く。
    「そらよッ」
     上がったままの右籠手を打ち、続いて胴を打って抜ける。
    「二本!」
     一瞬で二太刀食らい、朱明はまだ竹刀を上に構えたまま、茫然としている。
    「はっは、しつこいくらい面を狙ったからな。今のも面狙いだと思っただろ?
     あんまり人をはかるもんじゃねーぜ、朱明くん」
    「……う、……はい」
     背中から声をかけられ、朱明はようやく構えを解いた。

    白猫夢・剣宴抄 5

    2013.02.01.[Edit]
    麒麟を巡る話、第174話。朱明、策を弄す。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 両陣とも先鋒が敗れ、三回戦は次鋒対次鋒、朱明と晶奈との戦いとなった。「よろしくお願いします」 朱明と晶奈が、互いに礼をする。 柔らかい印象を与える朱明に比べ、晶奈は凛とした空気を漂わせていた。(小雪や良蔵と比べて、晶奈が刀を振るうところはあまり目にしてはいないが……、一見したところ、16歳にしてはなかなか鍛錬を積んで...

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    麒麟を巡る話、第175話。
    シーソーゲーム。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     悔しそうな顔で壇上から戻ってきた朱明に、晴奈は声をかけた。
    「なかなか善戦したが、最後は逆に罠にかけられる形となったな」
    「そう……、ですね」
    「説教するようだが、朱明」
     晴奈は朱明を自分の横に座るよう促し、先程の戦い方をとがめる。
    「ここぞと言うところで策を弄する人間は、自信と実力が付かんぞ。ましてや目上を嵌めようなど、褒められたものでは無い」
    「……逆に嵌められましたからね。自分の不足、思い知りました」
    「小手先で凌ごうとする前に、実力を付けた方がいい」
    「と言って伯母さん、大体力技で解決するじゃないですか。それはそれで無粋と思いますけど」
    「口答えするな、まったく」
    「はは……」
     話しているうちに黄側の中堅、紀伊見の準備が整い、壇上に上がる。
    「よろしくお願いします」
     す、と頭を下げる紀伊見に対し、関戸も礼で返しながら、こう声をかけた。
    「よろしく、紀伊見さん。へへ、同じ『狐』同士だな」
    「そうですね」
    「色々気が合いそう……」「そう言う話でしたら私より兵治さん、……水越の方が合いますよ。あの人も軟派ですから」
     にべもなく返されたところで、試合開始となった。

     先程は朱明を嵌め返すために搦手を使った関戸だったが、今度は正攻法で仕掛けた。
    「うりゃっ!」
     正面から面を狙いに行った関戸の竹刀を、紀伊見はがっちりと己の竹刀で受け、退きざまに胴を打つ。しかし関戸も退き、その太刀をかわす。
     かわした直後にもう一度踏み込み、今度ももう一度、面を狙う。これを紀伊見は、今度は右にかわし、直後に胴を狙おうと構える。
    「はあッ!」
     しかし紀伊見が竹刀を払ったところで関戸が左斜め後ろに退いてそれをかわし、きっちり対峙する形に戻して、そのまま面を打って抜けて行った。
    「一本!」
    「……っ」
     まるで型稽古でもしていたかのような流れる展開に、会場は一瞬静まり返り、そして割れんばかりの声援が沸き起こった。
    「流石だな……」
     晴奈も拍手し、二人の戦いを賞賛した。

     この後も紀伊見の挙動を読み切り、彼女を圧倒する形で関戸が勝ち切り、黄派の二連敗となった。
    「ありがとうございました」
     互いに礼をした後、紀伊見が壇上から降りようとする。
     と、そこでまた関戸が声をかけた。
    「これでもただの軟派野郎かな、俺」
    「……元よりそうは思っていません。実力は認めていますし、結果もそれを示しています」
    「そっか。まあ、また機会があったら手合わせ願いたいね」
    「望むところです。今度は勝ちますから」
     紀伊見はもう一度会釈し、壇上から降りた。



     試合は六回戦に移り、黄派の副将、水越が壇上に上がった。
    「紀伊見さんから聞いたけど、あんた、俺と似てるらしいな」
    「かもな。ま、そんな話は終わってからしようや。
     乗っかりたい気持ちはあるが、こっちはいよいよ後二人になっちまったからな」
    「おう」
     思ったより馴れ合った空気は立たず、二人は淡々と開始位置に移動する。
    「始め!」
     そして試合が始まった途端、両者とも一気に間合いを詰め、鍔迫り合いになった。
    「せやッ!」「おりゃあッ!」
     一旦は離れたものの、すぐに攻撃を仕掛け直し、二、三合打ち合ったところでまた、鍔迫り合いになる。
    「はーっ、はーっ……」「ふう、はあ……」
     しかし、序盤は互角に思われたが、連戦した上、朱明といたずらに打ち合いをさせられ、既に相当疲労していたせいか、関戸の動きは次第に精彩を欠き始めた。
    「だああッ!」
     そして試合開始から両者とも有効打の無いまま時間が過ぎ、5分、6分と経った頃になって、ようやく水越の竹刀が関戸の面を打ち抜いた。
    「く、っそ」
     関戸はゼエゼエと肩で息をしつつ、開始位置に戻る。
     一方の水越も息は荒いものの、関戸ほどには疲れていないように見えた。
    「確かに、似たり寄ったりかもな。連戦が無かったら、きつかったよ」
     水越にそう声をかけられたが、関戸は「……ああ」としぼり出すような声を挙げるのが精一杯だった。

     二本目に移っても依然、関戸の動きには四戦目、五戦目での切れは見られず、水越に引っ張り回されるような形で決着が付いた。

    白猫夢・剣宴抄 6

    2013.02.02.[Edit]
    麒麟を巡る話、第175話。シーソーゲーム。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -6. 悔しそうな顔で壇上から戻ってきた朱明に、晴奈は声をかけた。「なかなか善戦したが、最後は逆に罠にかけられる形となったな」「そう……、ですね」「説教するようだが、朱明」 晴奈は朱明を自分の横に座るよう促し、先程の戦い方をとがめる。「ここぞと言うところで策を弄する人間は、自信と実力が付かんぞ。ましてや目上を嵌めようなど、褒...

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    麒麟を巡る話、第176話。
    酣(たけなわ)。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    7.
     両陣とも中堅までの三人が敗れ、七回戦は副将同士の対決となった。
    「……」
     柊派の中堅、笠尾は礼以外に言葉を発さず、静かに構える。
    「始め!」
     そして一本目が始まっても笠尾は動かず、じっと正眼に構えていた。
    「りゃあッ!」
     当然、水越が先に仕掛ける形となる。
     しかしこれもほとんど最小限の動作で受け切り、それでもなお迫ってくる水越を、竹刀ごと弾く。
    「うおっ、……お、お」
     しかし弾かれたものの、笠尾はそれに乗じて打ち込んでくるような様子も見せず、再び正眼に構え直す。
    「……らああッ!」
     それを相手の傲慢と見たのか、水越の掛け声に、わずかながら怒りの色が差す。
     先程より勢いをつけ、水越は懸命に打ち込んでいく。しかしこれも受け切られ、攻めあぐねた水越の動きに、次第に淀みが現れ始めた。
     と、ここで笠尾が構えを正眼から上段に変える。
    「……行くぞ!」
     笠尾はそう言い放ち、ばん、と重く、そして荒々しい音を立てて踏み込んだ。
    「……っ」
     この一瞬――水越も、会場の最前列で観戦していた者も、ぞくりとした怖気を覚えた。
    「せいっ! でやっ! うりゃあああッ!」
     それまでまるで、銅像のようにじっと構えていた笠尾は竹刀をぶんぶんとうならせ、怒涛のごとく打ち込んでくる。
     水越はその一太刀目、二太刀目はなんとか受け切ったが、三太刀目を受けたところで体勢を崩し、胴ががら空きになる。
    「そこだあッ!」
     ばぢん、と重い音を響かせ、水越の胴が叩かれる。勢いを殺し切れず、水越は仰向けにひっくり返ってしまった。
    「い、一本!」
    「ぉ……、っう」
     何とか起き上がった水越から、半ば悲鳴じみたうめき声が漏れる。
     それを見た笠尾が、深々と頭を下げた。
    「すまん! 気合が入り過ぎた!」
    「……いえ、……大丈夫、……っス」
     額に脂汗を浮かべながらも水越はそう答えたが、胴越しでも相当響いたらしい。
     その後の二本目には先程までの軽快かつ胆力のある動きは見られず、そのまま笠尾の勝利が決まった。

     ここまで一進一退の攻防が続いてきたが、笠尾の登場により黄派の空気は、一気に重たくなってしまった。
    「無茶苦茶強ええ……」
    「ゾッとしたぜ、見てて」
    「水越先生がブッ飛ばされるのなんて、初めて見たわよ」
    「清滝先生、勝てるのかな……」
    「先生、確かに強いけどさ……。笠尾先生の方が修行積んでるし、あの動き見たら、自信無くなるよ」
     門下生たちのそんな不安を背に、黄派大将の清滝範士が壇に上がった。
    「よろしくお願いします」
     互いに、静かに礼を交わす。
    「始め!」
     一本目開始が告げられたが、両者とも動かない。
    「……」
     間合いを詰めることすらせず、正眼に構えたままである。
    「行け、行け、先生!」
    「このまま決めちゃえ!」
     柊派からも、黄派からも声援が飛び交う。
     しかし――それでも二人は動かない。
    「……」
     そして開始から1分以上が経過して、笠尾の方が動いた。
    「……いざ、参る!」
    「受けて立ちます」
     先程と同様、笠尾は銅像から一挙に、獅子へと勢いを変える。
    「うおりゃああッ!」
     猛然と竹刀を振るい、笠尾が攻め込んでくる。それに対し、清滝は必要最小限と言っていい程度の動作でさらりと受け流し、かわしていく。
     清滝の華麗な捌き方に、意気消沈しかかっていた黄派の者は色めき立つ。
    「すっげ……」
    「まさに柔と剛、って感じだ」
    「行ける、清滝先生なら行けるっ!」
     黄派の応援に圧されてか、それともあまりに受け流され、業を煮やしたか――笠尾の動きが、ほんの一瞬ではあるが止まる。
    「……~っ」
     そのわずかな隙を突き、清滝が仕掛けた。
    「はあッ!」
     まるで弓で射るかのように、清滝の竹刀の先が笠尾の喉を突く。
    「ぐっ……、う……」
     正確には突くと言うよりも多少強めに押す程度に留まったが、それでも急所である。
     笠尾は倒れたりうずくまったりはせず、そのまま仁王立ちでこらえたものの、顔は真っ青になっており、構えが取れるような状態ではなさそうだった。
    「いささか乱暴な技ではありましたが……、うちの水越を滅多打ちにしたお返しです」
    「む、う……」
     笠尾は竹刀を下ろして頭を下げ、降参の意思を示した。

    白猫夢・剣宴抄 7

    2013.02.03.[Edit]
    麒麟を巡る話、第176話。酣(たけなわ)。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -7. 両陣とも中堅までの三人が敗れ、七回戦は副将同士の対決となった。「……」 柊派の中堅、笠尾は礼以外に言葉を発さず、静かに構える。「始め!」 そして一本目が始まっても笠尾は動かず、じっと正眼に構えていた。「りゃあッ!」 当然、水越が先に仕掛ける形となる。 しかしこれもほとんど最小限の動作で受け切り、それでもなお迫ってくる...

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    麒麟を巡る話、第177話。
    宴が終わって。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    8.
     柊派も副将が敗れ、いよいよ大将戦、範士同士の大一番となった。
    「よろしくお願いします」
     どちらも大将に選ばれた者同士とは言え、霙子の方が年齢も経験量も、子弟の筋で言っても格上であり、黄派の不利は明らかだった。
    「やあッ!」
     清滝は先程の防戦姿勢とは逆に、果敢に間合いへ踏み込み、霙子に仕掛けていく。一方、霙子はそれをきっちりと受け、盤石の防御を見せる。
    「……」
     それでも連綿と続くかのような清滝の長い攻めに、次第に霙子が押され始めた。
    「先生、頑張れー!」
    「勝って、勝ってー!」
     それを心配してか、柊派から不安げな声援が聞こえ始めた。
    「……っと」
     と、霙子が清滝の面狙いを竹刀の鍔元でがっちりと受けて、鍔迫り合いに持ち込む。
    「む……」
     これを見た晴奈は――今回は敵方とは言え、妹弟子のことであるため――不安になった。
    「力量だけで見れば、あれは霙子に不利な形になる。鍛えているとは言え、女の腕力では同様に鍛えた男の力を押し返すのに不足だ」
    「え、伯母さんがそんなこと言うんですか?」
     傍らの朱明が、意外そうな声を出す。
    「私だから、だ。元々筋肉のあまり付かぬ猫獣人であるし、霙子以上に私は筋力に欠ける。こう言う経験は割と多い方だ。
     ……とは言え、筋力で勝る相手に勝つ方法は少なくない。恐らく霙子もそれを狙うだろう」
     晴奈の言う通り、鍔迫り合いに持ち込んだことで清滝に圧される形となり、霙子の体勢がみるみる反り返る。
     ところが――。
    「……りゃあッ!」
     霙子は突然、ぐりん、と身をひねり、清滝の左に踏み込んだ。目一杯に彼女を圧していた清滝は当然、前のめりになって大きく体勢を崩す。
    「う……っ」「たあッ!」
     ぐるりと転回し、霙子は清滝の面、そして左籠手を打って抜けた。
    「に、二本! 勝負あり!」
     一度に二回も有効打を決められ、清滝の敗北が決定した。
    「……参りました」
    「うふふ……」
     膝を着いた清滝を助け起こしながら、霙子はにこっと笑って見せた。

     大将同士の対戦にまでもつれにもつれ込んだ交流戦は、柊派の勝利で幕を閉じた。



     この交流戦により、柊派と黄派はより一層親しくなった。
    「やあ、朱明。今日も稽古、付き合ってもらうからな」
    「あ、はい」
     交流戦以来、晶奈は朱明を己の稽古相手に、よく誘うようになった。
     彼女曰く「わたしをあんなにあっさり負かしたのは、同輩では朱明だけだ。学ぶものがある」とのことだったが、傍目には別の、好意的な雰囲気も見て取れていた。
    「ちょ、ちょっと待てよぉ! たまにはさ、そのさ、俺とか……」
     晶奈のその様子を見て、鍋谷が慌てて口を挟んでくるが――。
    「君はいい。学べそうな点が無い。もっと強くならないとわたしも相手し辛いし」
    「うぐ……」
     晶奈に素っ気なくあしらわれ、鍋谷はその場に崩れる。
    「ま、まあまあ、輿生くん。……僕が相手しますよ」
     暎吉がそう申し出るが、鍋谷は猫耳をぺちゃりと伏せて首を横に振る。
    「男とやってもむさ苦しいだけなんだよぉ……。俺は晶ちゃんとやりてぇ」
     この様子に周りの門下生は呆れ返り、クスクス笑っていた。
    「……アホね」
    「うん、あいつアホだ」

     一方、この様子を眺めていた晴奈はまた、小声でブチブチと文句を垂れていた。
    (確かに双方の交流に一役買ったのは認めるが……、結局賭けていたではないか。いや、確かに金、『現金』は賭けていない。それは明奈の言う通りではあったさ。
     だが金の代わりに、柊学園に入学ないし勤務を予定している人間に対し、入学金の一部免除や給与増額などの権利を賭けていたと言うではないか。それでは結局金を賭けたのと一緒だ。
     我が妹ながら……、此度ばかりはやけに、癇に障ることばかりしてくれるな)

    白猫夢・剣宴抄 8

    2013.02.04.[Edit]
    麒麟を巡る話、第177話。宴が終わって。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -8. 柊派も副将が敗れ、いよいよ大将戦、範士同士の大一番となった。「よろしくお願いします」 どちらも大将に選ばれた者同士とは言え、霙子の方が年齢も経験量も、子弟の筋で言っても格上であり、黄派の不利は明らかだった。「やあッ!」 清滝は先程の防戦姿勢とは逆に、果敢に間合いへ踏み込み、霙子に仕掛けていく。一方、霙子はそれをきっち...

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    麒麟を巡る話、第178話。
    妹たちの懸念。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    9.
     晴奈の怒りに対し、明奈はこう返した。
    「確かに賭けはしておりました。けれどお姉様、それが何か、いけない結果を生じさせましたか?」
    「市民はともかくとしてもだ、剣士や門下生に対してまで射幸心をあおるようなことを仕掛けるなど、剣士としての誇り、理念を惑わせるようなものだ」
     晴奈はそう反論したが、明奈はふるふると首を振った。
    「わたしにはそうは思えません。むしろ柊派と黄派、両者の結束を高める上でいい『つなぎ』の役割を果たしたと思っています。
     そもそも、わたしは常々思っていたのですけれど」
     明奈はキッと、晴奈をにらむ。
    「お姉様は堅いことが随分お好きのようですけれど、それを自分の中で守るだけならまだしも、他人にまでその生き方を押し付けたことが結局、月乃ちゃんを困らせ、黄海から離れさせる結果となったことに、まだお気付きにならないの?」
    「なに……っ」
     憤る晴奈に、明奈は珍しくきつい口調で対してくる。
    「お姉様はさぞ正しいことを実践されているかのように、ご自分の振る舞い方を考えているご様子ですけれど、わたしには自分勝手な正義の押し売りにしか感じられません。
     やれ正しい道を歩むべきだ、やれ真っ当に生きるべきだと、そう何べんも何べんも頭ごなしに言いつけられ、命じられて、はい分かりましたと素直に、愚直に応じる人間が当たり前のようにいると思ってらっしゃるの?
     何度も何度もわたし、言いましたけれど――お姉様自身、親からのああしろこうしろ、これがお前の行くべき道なのだ、お前にとって正しい人生なのだと、そう言う『真っ当な』命令に反発して出て行ったくせに、親になった今、全く同じことをしてらっしゃるのよ!
     その体たらくで『剣士としての誇り、理念』云々ですって? お姉様、一体あなた、何様になったおつもりなの!?」
    「ぐ……っ」
    「お姉様自身が30年以上も前にやったことを、今、他の誰もやってはいけないだなんて、烏滸がましいにも程があります!」
    「……」
     ぐうの音も出ない程に叱咤され、晴奈は黙るしか無かった。
    「……これ以上責めるのは心苦しいですけれど、もう一つだけ言わせてください」
     晴奈の様子を見た明奈は、一転、やんわりとした口調になった。
    「昔のお姉様の方がもっと、融通無碍な方でしたよ。長い旅を終えられて、様々な経験を積んで人間が磨かれたばかりの頃の方がよっぽど、気軽に話せる人でした」
    「……人は変わるさ。変わるものだ」
    「変わってほしくないところもあります。ありましたのに」
    「……」
     晴奈はうなだれたまま、明奈の部屋を後にした。



     姉が眠りに就いた後、明奈は己の執務室で密かに、ある剣士と会っていた。
    「……それは、本当に?」
    「ええ」
     晴奈の妹弟子、藤川霙子である。
     明奈は彼女から、「気になることがあるが現時点では確信が持てないため、晴奈の耳には入れたくない」と相談され、こうして密談することになったのだ。
    「しかし、それが本当なら、大変なことになります。でも確かに、今は姉に聞かせられるようなお話ではありませんね。
     まさか姉も、自分の身内にそんな者がいるとは夢にも思ってもいないでしょうし、何より今、姉は精神的に不安定です。そんなことを聞けば前後の見境を失うほどに激昂するか、卒倒するかしてしまうでしょう」
    「ええ、あたしもそう思うわ。姉(あね)さん、結構そう言うの弱そうだし」
    「『妹』ですものね、分かってしまいますよね」
    「そりゃ、ねぇ」
     二人でクスっと笑い、互いに真顔に戻す。
    「……コホン。ともかく一度、調べてみなくてはなりませんね。
     幸い調べものに関しては、うってつけの友人がいます。彼に頼めばすぐにでも、『その剣士』の生い立ちや素性を調べてくれるでしょう。
     そしてもし、霙子さんの懸念が本物であった場合――即座に手を打たなければいけません」
    「そうね。この差し迫りつつある状況下で、本当に『あいつ』がそうだった場合、この状況は『あいつ』にとってまたとない、復讐の機会だもの」
    「……ふむ」
     明奈は机から離れ、窓の外に目をやる。
    「むしろ、もしかしたら『その人』が今回の騒動の主犯、……なのかも知れませんよ」
    「え?」
    「狙い澄ましたように、時期が重なり過ぎていますもの。
     小雪さんの蹶起や月乃ちゃんの反発、……すべて『その人』にとって、あんまりにも都合がいい話ばかりですしね」
    「まさか……」
     顔を蒼くした霙子に、明奈は振り返ってこう続けた。
    「一人の怨念で歴史が動くこともあります。
     わたしたちは今まさに、岐路に立たされているのでしょうね――央南興亡の、岐路に」

    白猫夢・剣宴抄 終

    白猫夢・剣宴抄 9

    2013.02.05.[Edit]
    麒麟を巡る話、第178話。妹たちの懸念。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -9. 晴奈の怒りに対し、明奈はこう返した。「確かに賭けはしておりました。けれどお姉様、それが何か、いけない結果を生じさせましたか?」「市民はともかくとしてもだ、剣士や門下生に対してまで射幸心をあおるようなことを仕掛けるなど、剣士としての誇り、理念を惑わせるようなものだ」 晴奈はそう反論したが、明奈はふるふると首を振った。「...

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    麒麟を巡る話、第179話。
    仁義と礼節なき乱暴者。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     柊派の離反以降、紅蓮塞における「本家」焔流――小雪派は、混乱と暴走の一途をたどっていた。

     まず、紅蓮塞の台所事情が既に火急の状況であったことが、冷静になる機会を失わせた。
     柊派離反以前の資金源の7割に上る、軍や商家からの謝礼や献金、援助金を差し止められた上に、軍をはじめとする武力組織からの強制的な解雇・排斥を受けた剣士たちが集まり、収入の無い浪人と化したために、離反から一ヶ月もしないうちに、早くも紅蓮塞の有する資産は半分近くまで削られていた。
    「これでは黄州に攻め入るどころの話ではございません、家元」
    「じゃあ、どうするのよ?」
     財政状況を報告してきた御経に対し、小雪は苛立った声で尋ねる。
    「その……、現状といたしましては資金の確保が、何より優先されるべきではないかと」
    「だから?」
    「軍からの献金は恐らく、送られてくることは最早無いでしょう。近年の銃武装計画推進がございますし、剣士を追い出したがっていた傾向もありましたから。
     とは言え商家らの方にはまだ、話を付ける余地はございます。これまで献金額の筆頭でございました黄家の方に交渉を行い、資金を融通していただくのがよろしいのではないかと……」「よろしいのではないかと、ですって?」
     御経の言葉を遮り、小雪はまくし立てる。
    「黄家と交渉!? 我が本家焔流を差し置いて売名行為にひた走ったあの駄猫に、このわたしが頭を下げろと言うの!? はっ、御免だわ! 誰があんな奴に!」
    「し、しかし黄家が金を出さねば、他の商家も出そうとはしないでしょう。となればここはうわべだけでも……」「御経おおッ」
     小雪は御経の胸倉をつかみ、その顔に拳骨を叩き付けた。
    「ぶげ……っ」
    「べちゃくちゃべちゃくちゃと、情けないことばかりさえずってんじゃないわよッ!
     いい? わたしが家元なのよ? わたしが、上なの! あいつは、その下! なのにわたしがあいつに頭を下げて、金をくれと頼めって言うの? ふざけてんじゃないわよ!」
     小雪は御経を蹴り倒し、他の者をにらむ。
    「他には? もっとましな案は無いの? とりあえず当座の資金を手に入れられる、手っ取り早い方法は無いの!?」
    「手っ取り早いかどうかは、断言しかねますが」
     そう前置きし、深見が手を挙げた。
    「紅州の各都市は観光地として、それなりに稼いでいます。これまでにも多少ながら、献金はありました。
     現在は先の件で他と同様、資金を止めてきていますが、しかしこちらは緊急事態であるわけで」
    「で?」
    「武力組織の最たるものである軍隊は、何かしら不足があれば支配下の地域において徴発を行い、それを補います。これは非常時においては至極当然に行われている措置です。
     我々も非常時。ならばそれに倣えばよろしいのではないかと」
    「つまり、……襲えと言うのね? その各都市を」
    「そうです」
     うなずいて見せた深見に対し、小雪は顔をしかめた。
    「いくらなんでも、それはできないわよ」
    「何故です?」
    「だって、それをやったら、いよいよ周囲はわたしたちを、ただの破落戸として……」「ちょっと借りるだけじゃないですか」
     弱気になる小雪を奮い立たせるように、月乃が口を挟んできた。
    「黄海を落とし、黄家の財産を没収してしまえば、そんな借金はいくらでも返せるはずです。確実に返す当てがあるんですし、多少の無理くらい聞いてもらっても、全然問題ないじゃないですか」
    「……」
    「それ以外に家元が誇りを失わずに済む道はありません。頭、下げたくないんでしょう?」
    「……ええ」
     小雪は結局、側近に誘導される形で、紅州各地の都市を襲撃することを承諾した。



     この荒唐無稽かつ粗暴な企みは、結果的にはあっさりと成功した。
     元より焔流の本拠地であるため、州軍そのものや央南連合軍の駐屯地などが無く、紅州における軍事勢力は紅蓮塞ただ一つだけだったためである。
     抗う術を持たない紅州各都市は、瞬く間に陥落。当初の目論見通り、紅蓮塞は大量の剣士たちを悠々と養えるだけの資金源を手に入れることができた。
     そして今後も徴収を継続させるため、陥落させた各都市には焔流剣士たちが詰め、統制・統治する形となり――事実上、紅州は紅蓮塞に支配されることとなった。

    白猫夢・暗計抄 1

    2013.02.07.[Edit]
    麒麟を巡る話、第179話。仁義と礼節なき乱暴者。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 柊派の離反以降、紅蓮塞における「本家」焔流――小雪派は、混乱と暴走の一途をたどっていた。 まず、紅蓮塞の台所事情が既に火急の状況であったことが、冷静になる機会を失わせた。 柊派離反以前の資金源の7割に上る、軍や商家からの謝礼や献金、援助金を差し止められた上に、軍をはじめとする武力組織からの強制的な解雇・排斥を受...

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    麒麟を巡る話、第180話。
    連合の不安。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     小雪派による紅州実効支配を受け、央南連合は戦々恐々としていた。
     央南連合は元々、各州間で起こる諸問題を、戦争と言う最終的・暴力的手段を使わず解決するために設立された機関である。
     そのため今回のように、一つの州が不当な暴力を以て占拠・征服され、近隣州にまで危害が及ぶことなど、あってはならない事態だったからである。

    「奴らの目的は黄州征服とまで聞いている。このまま看過していてはその周辺にも害が及ぶぞ」
    「事実、既に西辺州や白州との境に位置する都市へも侵攻しようとしているとか」
    「関係者筋からの情報だが、これはほとんど金目当ての行動らしい」
    「ええ、相当の資金難にあるとのことです」
    「地に落ちたな……、焔流も」
     玄州、天玄の央南連合本部に集まった、紅州を除く各州の代表たちは、揃って頭を抱えていた。
     この会議に、黄州の代表として出席していた明奈は、この騒動について対策を述べた。
    「黄州征服と仰っていましたが、正確には黄海に逗留する、昨年暮れに離反した柊派焔流剣士らの抹殺と、彼らが本拠地から持ち出した宝物の奪還が目的のようです。
     とは言え、確かに現在の彼らが金品目的に行動していることは明らかです。先程も申し上げたように、彼らは現在資金難であり、略奪しなければその体面を保てない状態に陥っているためです。
     となれば彼らの侵略を止める手段は、やはりその資金難の解消にあるのではないかと」
    「どうすると? まさか乱暴狼藉を繰り返す輩に、金を送れと言うのか?」
    「それは論外でしょう。わたしとしても、その手段は採りたくありません。
     問題をもう一段踏み込んで考えるに、その資金難は大量の剣士が失職し、浪人となって出戻ったことに一因があります。
     ならば逆に、この浪人たちが紅蓮塞からいなくなれば、紅蓮塞の資金難は解消。同時に機動力を失い、これ以上の侵攻を止めることができるのではないかと」
    「ふむ……」
     一方で、央南連合軍の司令官が手を挙げる。
    「しかし既に、我々のところで使役できるような部署は存在しない」
    「ええ、存じております。さぞやお気軽に厄介払いをなさったことでしょうね。こうなることも予想されずに」
    「……オホ、オホン」
     ばつの悪い顔をした司令から顔を背け、明奈はこう続けた。
    「私事ですけれど、我が黄州にも一時、浪人たちが多数詰めかけておりました。
     しかし現在ではその浪人たちを教員とした学校を設立し、彼らの雇用安定を確立しております。その他にもわたしの有する商会で様々な雇用策を講じ、浪人があぶれるような事態はどうにか収まっています。
     どうでしょう、他の州でも同じように学校など設立して、雇用口の拡大を試みては?」
    「なるほど……」
    「いや、しかしそれは金がかかる。よしんば設立したとして運営なり、維持ができるかどうか」
    「いやいや、このまま看過していてはいずれ黄州以外にも侵攻するのは明白。その被害額や州軍、連合軍を動員する経費、実際に交戦まで事態が発展した場合の戦費や損害を考えれば、そっちの方が金銭面でも、人的・物的被害の面でも圧倒的に安く上がるはずだ」
    「それも一理あるな」
    「では、どうやって紅蓮塞内の浪人たちを寝返らせる? まさか向こうまで足を運び、引っ張り出すわけにもいくまい?」
     これについては央南連合の現首席、三国が案を出した。
    「いえ、公式に出向き、これ以上の侵攻を行わないよう話し合う機会を設けること自体については、元より考えていました。このまま連合が何も言わず、遠巻きに見つめているだけでは、状況の打開は難しいでしょう。
     その合間に浪人ら、ないし彼らを説得できる人物と接触し、黄氏の案を遂行しましょう。ただ、出向いて正面から説得……、では効果は期待できないと思います。
     本営は元より、集まってきた浪人たちも既に悪事に手を染めた身であるでしょうし、『もう後戻りはできない』と考え、こちらの説得に耳を貸そうとしないことは、十分に考えられますから」
     三国の言葉を継ぐ形で、さらに明奈がこう述べた。
    「確かにその通りです。安易な説得や、ましてや強引に連れ戻すような対応は、却って事態を悪化させかねません。
     ここは彼ら自ら『本拠地を蹴ってでも話に乗りたい』と思わせるような話を持ち掛けないと」

    白猫夢・暗計抄 2

    2013.02.08.[Edit]
    麒麟を巡る話、第180話。連合の不安。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 小雪派による紅州実効支配を受け、央南連合は戦々恐々としていた。 央南連合は元々、各州間で起こる諸問題を、戦争と言う最終的・暴力的手段を使わず解決するために設立された機関である。 そのため今回のように、一つの州が不当な暴力を以て占拠・征服され、近隣州にまで危害が及ぶことなど、あってはならない事態だったからである。「奴らの...

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    麒麟を巡る話、第181話。
    馬脚を露した家元。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     央南連合は紅蓮塞に対し、これ以上の侵略行為を行わないことと、占拠した都市を解放することを要請した。
    「『なお、従わない場合には実力行使もやむを得ないものとする』、……ですって? 従う義理なんか無いわよ!」
     これを受けて、小雪はあからさまに不快感を示した。しかしそれを、御経が平伏してなだめる。
    「いや、ここは聞き分けていただかねばなりません」
    「なんでわたしが……」
    「家元だからです」
    「えっ?」
    「我が紅蓮塞は現時点で事実上、紅州を治めているも同然の状況です。そして紅州が央南連合に属する以上、彼らとの付き合いを確立しておかねば、最悪の場合、問答無用で攻め込まれてもおかしくはないのです。
     その紅蓮塞の長たる家元はもう既に、それだけのことをなさっていらっしゃるのですから」
    「は? え、ちょっと待ってよ? 攻めろって言ったのは、わたしじゃないわよ」
    「襲撃は家元の名において行われたこと。であればその責は、家元に帰属します」
    「な、なに、それ? 知らないわよ、何を勝手なこと……」「もし責任を負いたくないと言うことであれば」
     と、やり取りを眺めていた月乃がニヤ、と笑う。
    「家元の座を降りていただくしかありませんね」
    「なっ……」
     面食らう小雪に対し、月乃が嘲るようにこう続ける。
    「だってそうじゃないですか?
     我々焔流剣士すべてを指導・監督する立場にある、ひいては我々の合意、総意の上に起こした行動に対する全責任を負う。家元はそう言う立場にあるはずです。
     ところが『小雪さん』、あなたは責任なんか知らないと言う。じゃあ家元失格、その器じゃないってことですよ。
     もっとふさわしい人間に託してもらうしかありませんねぇ……?」
    「つ、きの……ッ!」
     この物言いに、小雪の頭に血が上りかける。
     だが――遠巻きに見つめる御経をはじめ、この場に集まった側近らの顔色を見て、小雪はぎくりとさせられた。
     側近らが皆一様に、半ば呆れたような、そして半ば失望したような顔を、自分に向けていたからである。
    (それが狙いか……、月乃!
     わたしに難癖をつけて家元の座から引きずり降ろし、籠絡した良蔵を傀儡にして、自分がその座に成り替わろうとしているのかッ!
     さ、させるものか……!)
     小雪はギリギリと歯ぎしりを立てながら、こう返した。
    「せ、責任はわたしが取るわよ! 取ればいいんでしょ!?
     分かったわよ、御経! 央南連合と話し合いをするわ! そう返事を送りなさい!」
    「御意」
     ほっとした顔をして、御経はうなずいた。

     それと同時に――御経は内心、これ以上無いくらいの落胆を感じていた。
    (資金源が一斉に消えた時、これは紅蓮塞にとって、焔流にとって、最悪の事態になったと嘆いていたが……! この逆境はさらにまだ、一段と深く底を打つと言うのか!
     今のやり取りで、拙者のみならず、皆が失望したであろう。我らが主君と仰いできたこの方が、ただの考えなしの、小心者の、そしてあの小娘の操り人形に過ぎぬ凡君、愚君であると、皆が悟ってしまったのだからな。
     もはやこの先、焔小雪を塞の主軸に据えては立ち行かぬだろう。あれはもう、本当に本当の、お神輿人間だ。この先一生、あの娘は黄月乃に操られることになろう。
     そんなものは――拙者の思い描いていた焔流の未来では、決して無い!)
     御経はこの時、小雪に対する忠誠心を失った。

     とは言え御経には範士としての、かつ、塞内の家宰役としての矜持もある。
     小雪に命じられたことを反故にはせず、律儀に央南連合との交渉の場を立て、小雪、深見と共にその場へ臨むことにした。



     この一件により、小雪と彼女率いる紅蓮塞は、さらに混迷の度合いを強めることになった。
     そしてこの後の交渉と、その裏で行われた「取引」とが、紅蓮塞の暴走をより一層激しくさせた。

    白猫夢・暗計抄 3

    2013.02.09.[Edit]
    麒麟を巡る話、第181話。馬脚を露した家元。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 央南連合は紅蓮塞に対し、これ以上の侵略行為を行わないことと、占拠した都市を解放することを要請した。「『なお、従わない場合には実力行使もやむを得ないものとする』、……ですって? 従う義理なんか無いわよ!」 これを受けて、小雪はあからさまに不快感を示した。しかしそれを、御経が平伏してなだめる。「いや、ここは聞き分けてい...

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    麒麟を巡る話、第182話。
    紅蓮塞と連合の交渉。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     連合と紅蓮塞との交渉は紅州と白州の境にある街、椛町で行われることとなった。

    「ではまず、現在起こっている問題の確認を行い、そしてそれについて対応策を検討したいと思います」
     連合主席、三国が連合側の代表となり、交渉が始められる。
    「現在、紅州は武力組織、紅蓮塞がその実力を行使し、不当に支配している状態である。これが我々の見解です。相違はございますか?」
    「あんた、もっと言い方ってもんが……」「家元、我々が話をしますので」
     いきなり声を荒げようとした小雪を抑え、御経が応答する。
    「その見解には若干の誤りがございます。
     確かに現在、紅蓮塞は紅州の主要都市に対し実効支配の形をとってはおりますが、これは我々への資金供与を不当な形で打ち切った商家らに対する報復行為であります。
    勿論その問題が解決し次第、即ちこれまで通り資金供給を行っていただきさえすれば、すぐにでも剣士らを撤退させ、従来通りの統治体制に戻すことを検討しております」
    「資金供給を行ってもらうと言うのは紅州下の商家の方に対して、でしょうか」
    「それもありますが、あなた方央南連合からの供給も考慮に入れていただきたく存じます。何しろ昨年まで、その供給額は我々の歳入の2割弱に相当しておりました故」
    「なるほど。しかし我々の方から資金を融通することはしていないはずです」
     こう返され、またも小雪が噛みつこうとする。
    「寝言言ってんじゃないわよ!? 金送ってたのは事実……」「家元、家元」
     再度それを抑え、御経が質問を返す。
    「家元からの指摘があったように、我々に多額の資金を送っていたのは事実のはずですが?」
    「無条件での融通はしていません。これまでの供給は央南連合軍に対する奉仕、協力の見返りとしての謝礼金であり、援助金や献金の類ではありません。有り体に言えば仕事をしていただいた分の報酬としてです。
     それを踏まえた上で再度、我々からの資金を受けたいと言うことであれば、それに見合う働きができるかどうか、と言うことになります。
     どんな形でももう一度軍に入り、我々の姿勢、体制の元に勤務していただく、と言う条件であれば、謝礼金の件は吝かではありませんが」
     これを受け、御経と深見は揃って眉をひそめた。
     一方、この言葉を今一つ理解できていない小雪は、応じようとする。
    「なにゴチャゴチャ言ってんのかワケ分かんないけど、うちの剣士もう一回引き取ってくれるんなら……」「家元、家元。お待ちください」「何よ?」
     深見がそれを止め、小雪に耳打ちする。
    (彼らの主張は、言わば『焔流の剣士として雇う気は無い。剣を握らせることは絶対無いが、それでもよろしいか』と言うことです)
    (どう言うこと?)
    (現在の連合軍は銃武装を推進しております。であれば、軍に入れば否応なく銃を装備させられることになります。
     軍に入れば剣士として扱われることはまず、ありませんでしょう。せいぜい最低格に毛の生えた程度の、事実上の一兵卒扱いの待遇。であれば、以前のように剣士の腕を見込んだ分を含めての豊富な謝礼金はまず、出ません。
     そうなるとその額は恐らく、昨年の3分の2、いえ、2分の1にも満たないものになるかと)
    (つまりわたしたちの門下をはした金で買い取ろうとしてる、ってこと?)
    (平たく言えばそうなります。
     こんな条件で剣士らを引き渡したことが公になれば、『紅蓮塞は身を寄せてきた剣士たちを二束三文で売り払った』とうわさを立てられるでしょう)
     こう説明され、悪評に耳ざとい小雪は当然、突っぱねた。
    「ふ、ふざけんじゃないわよ! そんな条件呑めるわけないじゃない!」
    「なるほど」
     三国は肩をすくめ、こう続けた。
    「我々にはそれ以上の条件での引き受けはいたしかねます。残念ですがそれ以外の打開策を見付けなければいけませんね」
     その後も何点かの提案はあったものの、互いに妥協点を見出すことができず、話し合いは一向にまとまらなかった。

    白猫夢・暗計抄 4

    2013.02.10.[Edit]
    麒麟を巡る話、第182話。紅蓮塞と連合の交渉。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 連合と紅蓮塞との交渉は紅州と白州の境にある街、椛町で行われることとなった。「ではまず、現在起こっている問題の確認を行い、そしてそれについて対応策を検討したいと思います」 連合主席、三国が連合側の代表となり、交渉が始められる。「現在、紅州は武力組織、紅蓮塞がその実力を行使し、不当に支配している状態である。これが我...

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    麒麟を巡る話、第183話。
    おてがみ?

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     交渉に進展が見られないまま、3日が過ぎた。

    「侵略を行ったのは資金不足によるもの。それを央南連合が補うなら紅州解放を約束する」として金を要求する紅蓮塞と、「我々の提示した内容に従うなら、資金供給は吝かではない」として、紅蓮塞にとってひどく分の悪い条件を突きつけてくる央南連合との話し合いは平行線をたどるばかりであり、紅蓮塞側の交渉の主軸となっていた御経は疲れ果てていた。
     その上、相手とろくに対話もしようともせず、自分勝手に口を挟もうとする小雪を何とか抑え込むため、余計な気遣いまでさせられていたため、御経の心労は極限に達しつつあった。
    「はあ……」
     3日目の交渉も物別れに終わり、御経は定食屋で一人、黄昏ていた。
     一応、好物であるすき焼き風定食を注文したものの、胃の辺りがキリキリと痛み、膳が運ばれてから15分ほどが経っても、一向に箸を付けられない。
    (もっとあっさりしたものにした方が良かったか……)
     そんなことをぼんやり考えながら、御経はどんよりとした心持ちで座っていた。

     と――店に一人、客が入ってくる。
    「あら、あなたは……」
    「うん?」
     御経が振り返ると、そこには連合側の人間として交渉に参加していた、明奈の姿があった。
    「ああ、黄大人。本日はどうも」
    「どうも、御経範士。……相席、よろしいかしら」
    「え? ええ、構いません」
     自分の向かいに座った明奈を、御経は訝しむ。
    「拙者に何か御用が?」
    「いいえ? わたしもお腹空いちゃったので。それに、知った方がいらっしゃるのに相席もせず背を向けるなんて、無粋じゃありませんか?」
    「はあ……、まあ、そうですな」
     明奈はニコニコと笑いながら丼物を注文し、もう一度御経に向き直る。
    「大変ですね」
    「ええ、まあ」
    「わたしが何とかできるのなら、してあげたいのですけれどね。焔流の方とは、並々ならぬ付き合いがございますし」
    「ああ、そうでしたな。黄……、範士の妹御でいらっしゃいましたね」
    「ええ。姉も此度の一件、ひどく胸を痛めておりました」
    「でしょうな。まさか自分の娘御がこんな醜聞に関わって、……あ、いや」
    「ふふ、大丈夫です。ここにはわたしとあなたしかいませんから」
     明奈はいたずらっぽく笑い、片目を閉じて見せる。
    「ああ、そうそう。用が無いとは言いましたが、姉から『機会があれば御経に渡しておいてくれ』と、こんなものを渡されていました」
    「え?」
     御経は晴奈と同年代であり、面識も少なからずある。若い頃には共に修行したり、碁を囲んだ覚えもあって、決して疎遠な関係ではない。
     しかしここ数年は会っておらず、小雪の一件もあったため、そんな彼女が自分のことを気にかけているとは思ってもいなかった御経は、虚を突かれる。
    「黄が、拙者にですか?」
    「ええ」
     明奈は鞄から一通の手紙を取り、御経に渡した。



    「敬愛する我が同輩 御経周志へ

     此度の一件、家宰役を務めるお主にとっては誠に心痛め、頭悩ます事態であろうと察する。
     それは私にとっても同じことだ。
     だが一方で、なるべくしてなったことでもあろうと、割り切ってもいる。
     小雪も月乃も、その道を選んだが故の結果であろう。
     心痛むことであるが、そう考えるしかないと、今では諦めている。

     しかし一方で、望まずして巻き込まれた者たちの多さにも憂いている。
     そのような者たちをただ見過ごすのは、私にとってはなお心を苦しめることになる。
     然らばその者たちに手を差し伸べるべきではないかと思い立ち、こうして筆を取った。

     周志。お主の力で、左様な者たちを我が黄海に引き込むことは可能だろうか?
     無論、お主自身もこちらへ来てくれると言うのなら、これほど喜ばしいことは無い。
     もしこれが成れば、手厚く保護し、然るべき待遇を以て……」



     ここまで読んだところで、御経は手紙をぐしゃ、と握り潰した。
    「えっ」
    「黄大人。人をからかわないでいただきたい」
     御経は手紙をくしゃくしゃに丸め、机の上に捨てた。

    白猫夢・暗計抄 5

    2013.02.11.[Edit]
    麒麟を巡る話、第183話。おてがみ?- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 交渉に進展が見られないまま、3日が過ぎた。「侵略を行ったのは資金不足によるもの。それを央南連合が補うなら紅州解放を約束する」として金を要求する紅蓮塞と、「我々の提示した内容に従うなら、資金供給は吝かではない」として、紅蓮塞にとってひどく分の悪い条件を突きつけてくる央南連合との話し合いは平行線をたどるばかりであり、紅蓮塞側...

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    麒麟を巡る話、第184話。
    定食屋での密談。

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    6.
    「共に修行した頃から数十年が経てども、拙者は黄の字を忘れてはおりませんし、奴の言いそうなこと、言わなさそうなことも見当が付きます。
     黄がこんな、人を利、不利で誘うようなことを言うはずが無い」
    「あら……、バレちゃいましたか」
     明奈はぺろ、と舌を出して見せた。
    「姉の字を真似るの、得意だと思っていたんですけどね」
    「ええ、字は割合似ておりましたな。ただ、内容は似ても似つかない」
    「……では正直に」
     運ばれてきた鯛まぶし丼に目もくれず、明奈は自分の狙いを打ち明けた。
    「その手紙の内容、ほとんどわたしがお願いしたいことなんです。
     御経範士、あなたのお力で浪人たちを紅蓮塞から逃がし、我が黄海に送ることは可能でしょうか?」
    「何故それを拙者に……、もとい、そんなことができるはずも無いでしょう」
    「あら」
     明奈はニコ、とまたもいたずらっぽい笑いを見せる。
    「何故ですか?」
    「拙者は紅蓮塞の家宰、即ち紅蓮塞を取りまとめる役目を先代の頃より仰せつかっております。そんな拙者が『紅蓮塞から出よ』などと言えるはずも……」
    「そのお言葉、本心ですか?」
    「……!」
     明奈は依然笑顔のまま、こう続ける。
    「失礼を承知で申し上げるのはわたしの悪い癖なんですが、それでも一つ、言わせてくださいな。
     今の紅蓮塞、あなたが家宰を務めたいと思うほど、格の高い組織ではなくなっているはずです。
     今の紅蓮塞はまるで野武士や山賊の隠れ家のごとく、滅多やたらに街を襲い、その金品を強奪して回っている、地に落ちた存在。
     さらに言えば、その上に立つ家元はそれ以下の所業を繰り返している。親を殺そうと画策し、街を襲うことを咎めようとせず、揚句に……」
     明奈は机に身を乗り出し、御経にひそ……、とつぶやく。
    「その責任から逃れようとされた」
    「なっ……! 何故それを、……う、う」
     慌てて口をつぐんだが、明奈は見透かしていたことを告げる。
    「この3日間の彼女の態度を見ていれば、そんなことは手に取るように分かります。
     まるで余所事のような応対でしたものね。自分が手を汚したと、心の奥ではまったく思ってらっしゃらないみたい」
    「……でしょう、……な。拙者もそれは、……ええ、少なからず感じておりました」
    「その誇りを失った紅蓮塞に」
     明奈は座り直し、こう尋ねる。
    「義理立てをする理由があるんですか?」
    「……紅蓮塞は、……代々、焔流剣士が守ってきた、伝統ある城です。その家宰役を命じられた以上、裏切ることなど」
    「それについても、あなたは疑問を抱いているはずです。
     今の焔流家元が、その伝統を受け継ぐに相応しい人間であると、あなたはそう思っていますか?」
    「……っ」
    「失礼が過ぎているのは、十分に弁えているつもりです。
     でも、あなたの本心もわたしには、見えていましたから」
    「……」
     黙り込んだ御経に、明奈は優しく、しかし凛とした声でこう続けた。
    「御経範士。あなたの悩み、迷いに対する最上の解答は、わたしたちに、密かに協力することです。
     あなたが『紅蓮塞を出よう』と声をかければ、大勢の方が付いてきてくれるはずです。そうして紅蓮塞の機動力を弱め、動けなくしたところで、わたしたちが逆に攻め落とすんです」
    「な……」
    「そして現家元を追い出し、今、黄海にいる焔家の血を持つ人間を改めて、家元として立てる。そうすれば……」
    「……なるほど。……なるほど、確かに」
     これを聞いた御経は、久々に心の晴れた気持ちになった。
    「少なくとも今、わたしのところにいる晶奈ちゃんは、今の小雪さんとは比べ物にならないほど出来た子ですよ。より相応しい人間だと思います。
     ……さて、と」
     明奈は箸を手に取り、御経に促した。
    「食べましょ、御経さん。わたしもういい加減、お腹が鳴っちゃいそうですもの」
    「え? ……そ、そうですな、うむ」
     先程までまったく手を付ける気にならなかったすき焼き風定食を、御経はこの時、すんなりと口に運ぶことができた。

    白猫夢・暗計抄 6

    2013.02.12.[Edit]
    麒麟を巡る話、第184話。定食屋での密談。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -6.「共に修行した頃から数十年が経てども、拙者は黄の字を忘れてはおりませんし、奴の言いそうなこと、言わなさそうなことも見当が付きます。 黄がこんな、人を利、不利で誘うようなことを言うはずが無い」「あら……、バレちゃいましたか」 明奈はぺろ、と舌を出して見せた。「姉の字を真似るの、得意だと思っていたんですけどね」「ええ、字は...

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    麒麟を巡る話、第185話。
    剣士にあるまじき者。

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    7.
     御経と明奈が密談を交わした翌日――これまで無理難題に近い提案をし続けてきた央南連合が突如、こんな案を出してきた。
    「これまでの3日、交渉を続けて参りましたが、どちらの意にも沿わない案ばかりが出ており、まったく進展が無いまま過ぎました。
     これでは互いに時間を浪費するばかりです。心苦しいですが、我々が多少、譲歩しようかと考えています」
    「え?」
    突然こんなことを言われ、面食らう御経らに対し、三国はこう続けた。
    「やはり今回の騒動の発端において、央南連合軍が過敏に反応したことが、ここまで騒動を広げた一因であるかと思います。
     軽率に措置を下し、これまで長らく関係を保ち続けてきたあなた方紅蓮塞と無理矢理に手を切ろうとし、このような結果になったこと。そのお詫びも兼ねまして」
     そこで三国が言葉を切り――何故か明奈がその後を継いだ。
    「央南連合軍に働きかけ、従来通りの待遇で軍に戻っていただけるよう説得しようと考えております。また、他の武力組織から戻られ、他の職に就けないでいる方につきましても、連合の方で新職を設置し、出来る限り雇用したいと考えております。
     簡単に申し上げれば、従来通りの状況に可能な限り戻せるよう、我々の方で最大限努力させていただく、と言うところです」
    「ふ、む……」
     この案を提示され、御経は考える。
    (確かに軍や新職とやらで、紅蓮塞に溢れていた浪人らを吸収してもらえるのであれば、資金難は解消される。特に軍の方は『従来通り』と言うことであれば、金も概ね元通り入ってくるようになる、……か?
     しかし何故だ? これまで散々、こちらの人材を元通りに採ることを避けてきた連合が何故、今になってこんな案を、……ぬっ?)
     その時、御経は確かに明奈が、自分に向かってにっこりと笑いかけて来るのを見た。
    (……そう言うことか。この案に乗り浪人らを集めさせ、そして拙者ごと紅蓮塞から抜けさせようとしているのだな?)
     御経はもう一度、明奈をチラ、と見る。
     それに応じるかのように――明奈は御経だけに見えるよう、指で「○」を作って見せた。
    (やはり、そうか……。
     元々、家元にはうんざりしていたのだ。……是非も無し。乗るが吉、か)
     御経は体面上、適当に質問や意見のすり合わせなどをし、その案を呑むと返答した。
     そして交渉の結果、連合側が提示した案が実現し次第、紅蓮塞による紅州支配を解くことが約束された。

     紅蓮塞に戻ったところで、小雪がはーっ、と疲れ切ったため息を吐いた。
    「4日もうだうだ、うだうだと……。ちゃっちゃとまとめなさい、っての!」
    「まあまあ、家元。これでどうにか問題は解決いたします」
    「そうね。これでようやく、黄州に攻め込めるわ」
    「……あの?」
     ぎょっとする御経に、小雪は馬鹿にしたような目つきで、こう返した。
    「振り出しに戻ったってだけじゃない。余計な問題がすっきりしたんでしょ? じゃあ元々考えてた通り、黄のところに押し入るだけじゃないの」
    「お、お待ちください、家元! それでは約束が反故になってしまいます!」
    「反故? 紅州解放だけでしょ? 黄州をこれからどうするかなんて、誰も話してないわよ」
    「攻めれば同じことです! 攻めればまた今回のように、連合が押しかけてきますぞ!?」
    「その時はその時じゃない。また今回みたいにあんたが話まとめて、黙らせりゃいいのよ」
    「はい?」
     御経は小雪の傍若無人な態度に怒りを覚えたが、小雪はそんな御経に目もくれず、こう言い捨てて自室に戻っていった。
    「何でわたしがあんなしみったれた下衆共なんかとの約束を、まともに守らなきゃならないのよ。馬鹿馬鹿しい」
    「……」
     一人残された御経は――それでも小雪に聞かれないように――こうつぶやいた。
    「約束も守れぬ、……と言うのか。左様な性根でよくも剣士だ、家元だなどと……ッ!
     もう沢山だ。拙者、貴様のような馬鹿殿には、これ以上付き合っていられん」



     4時間後――御経は浪人230名余を連れ、紅蓮塞を後にした。

    白猫夢・暗計抄 7

    2013.02.13.[Edit]
    麒麟を巡る話、第185話。剣士にあるまじき者。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -7. 御経と明奈が密談を交わした翌日――これまで無理難題に近い提案をし続けてきた央南連合が突如、こんな案を出してきた。「これまでの3日、交渉を続けて参りましたが、どちらの意にも沿わない案ばかりが出ており、まったく進展が無いまま過ぎました。 これでは互いに時間を浪費するばかりです。心苦しいですが、我々が多少、譲歩しようか...

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    麒麟を巡る話、第186話。
    仄見える、悲惨な結末。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    8.
     明奈は、きっちりと約束を守った。

     御経をはじめ、紅蓮塞から黄海へ逐電した浪人たちに、明奈は柊学園での教職や用務員、黄商会関係の用心棒、黄州軍での指導教官など、様々な職をあてがった。
     そして御経自身にも柊学園における教頭職が打診され、御経はこれを快諾した。



    「黄、まさかお前とまた、こうして碁を囲むことができようとは」
    「全くだ」
     晴奈とも十数年ぶりに再会し、御経は久々に彼女と囲碁を打っていた。
    「となると、御経範士」
     それを眺めていた明奈が、御経に現在の状況を尋ねる。
    「現在の紅蓮塞に、浪人の方はほぼ残ってらっしゃらないと言うことでしょうか」
    「ええ、塞内にいた者はほぼ全員、拙者と共にここへ。
     ただ、紅州各都市の制圧要員として出た者は、まだ200名近くおります」
    「それについては……、今後の展開に絡んできそうには無いですね」
    「うん?」
     明奈は苦い顔をしつつ、それについて語った。
    「今回の『裏』の交渉が実ったことにより、紅蓮塞の力が著しく弱まったのは事実です。
     資金繰りをしてくれていた御経範士がいなくなり、経済面では最大級の混乱をきたすでしょう。
     そして多数の兵力を以て、これまで抑え付けてきた各都市も、本拠に人がいなくなったこの機に乗じて、反旗を翻すはず。隣州の州軍や駐屯している連合軍に働きかけ、街を解放しようとするでしょう。
     その2つの混乱に呑まれず、逆にこの黄海にまで押しかけられるような機略と度量が小雪さんやその側近にあるとは、非常に考えにくいですし」
    「然り。知恵者と言えば深見がまだ残ってはいるが、彼奴一人でどうにかできるとは思えん。ましてやあの馬鹿殿がいるとなれば、そのお守りで手一杯だろう」
    「恐らく小雪さんにできることは、紅州各都市を占拠させていた浪人たちを呼び戻し、紅蓮塞の守りを固めさせることくらいでしょう。それ以外に体面を保ち、小雪さんの社会的・肉体的生命を維持する手段はありません。
     ですが恐らく、それは実らないでしょう。今にも連合軍が攻めて来ようと言う時に、形勢の傾いた本拠地から遠く離れた浪人たちが、わざわざ小雪さんの言うことを聞くとは思えません。十中八九見捨て、連合軍に投降するでしょう。
     となれば――今回の騒動は、ほぼ終息したと言ってもいいでしょう」
    「うん……?」
     この結論に対し、御経が質問する。
    「黄大人、定食屋で言っていたあの件は、いつになるのです?」
    「あの件? ああ、新しい家元を、と言う話でしょうか」
    「ええ。黄大人の今の話だと、結局焔小雪が残っているではないですか」
    「それも風前の灯でしょう。わたしの話の通りに事が進み、紅蓮塞が連合軍に包囲されることになれば、間違いなく塞内で争いが起こります。
     それを収める方法は一つしかありません。即ち、争いを起こした張本人を引きずり出し、塞外に放逐するか、軍に引き渡すか、それとも内々で処刑するかです」
    「……なるほど。無残と言う他ないが、自業自得ですな」
    「……」
     と、ここで晴奈が席を立つ。
    「どうした、黄? まだ勝負は……」「お主の勝ちでいい。私は寝る」
     そう言い捨て、晴奈は部屋を出て行ってしまった。
    「どうしたと言うのだ……?」
    「無理もありません。わたしの言う通りになれば、処刑されるのは小雪さんだけでは済まないはずですから」
    「……黄月乃か。あの娘も同じ目に遭うでしょうな」
    「失礼なことを平然と言ってしまうのはわたしの悪い癖、と承知してはおりますが、それでも今のは失言でしたね。
     ……まあ、でも。丁度良く人払いができました」
    「え?」
     きょとんとする御経に構わず、明奈は辺りを見回した。
    「霙子さん、いらっしゃるんでしょう?」
    「ええ」
     窓が開き、霙子が音も無く、するりと入ってきた。
    「流石ですね。それで、エルスさんと小鈴さんは何と?」
    「あたしの言う通りだった、と。いえ、それ以上に悪いことになっていた、と言ってました」
    「それ以上に?」
    「ち、ちと待って下さい、黄大人。一体、何の話なのです?」
    「この騒動を裏で操っていた、ある男の話です」
     これを聞いて、御経は唖然とした。
    「操っていた……? この、央南西部全体を引っ掻き回すような大騒動を、操っていた男がいると言うのですか!?」
    「ええ。恐ろしく狡猾で、残忍で、その冷血振りは、他に類を見ないほど。
     そして黄家と焔流に対し、底知れぬ恨みを抱いている。両家の徹底的な、完膚無きまでの破滅を、何より願ってやまない。
     まさに悪魔と称するべき、そう言う男です」
     霙子の説明に、御経はぶる……、と身震いする。
    「何と言う奴ですか、それは……?」
    「御経範士、あなたも耳にしたことがあるはずです。
     篠原、と言う男のことを」

    白猫夢・暗計抄 終

    白猫夢・暗計抄 8

    2013.02.14.[Edit]
    麒麟を巡る話、第186話。仄見える、悲惨な結末。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -8. 明奈は、きっちりと約束を守った。 御経をはじめ、紅蓮塞から黄海へ逐電した浪人たちに、明奈は柊学園での教職や用務員、黄商会関係の用心棒、黄州軍での指導教官など、様々な職をあてがった。 そして御経自身にも柊学園における教頭職が打診され、御経はこれを快諾した。「黄、まさかお前とまた、こうして碁を囲むことができようと...

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    麒麟を巡る話、第187話。
    側近らの本意。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     双月暦544年、夏間近の、しかし重苦しい天気が続く頃。
     昨年暮れから続いた資金難を解消し、塞内の人間と、抱えていた500名もの浪人たちを充実させたのも束の間、家宰であった御経の裏切りでその半分近くを失い、小雪は半狂乱と化していた。
    「なんで……なんでよ……なんでこんなことばっかり……」
    「……」
     残された側近、深見と月乃、そして九鬼はそんな家元を放置し、ひそひそと密談する。
    「家元がこの状態じゃ、外に出すのは無理ね」
    「確かに。幸い資金については余裕があるが、一方でその資金を吸い上げた各都市に、反旗を翻そうかと言う雰囲気もある」
    「その通り」
     ちなみに、御経と深見、月乃は家宰およびその補佐の任に就いていたため、小雪と共に行動していたが、九鬼は指揮官として各都市の襲撃と制圧に回っていたため、ここしばらくの間は塞を離れていた。
     そんな彼女が戻ってきたのは、単に御経離反を聞きつけたからだけではない。
    「既に紅州東端の街、雀台では一度、白州軍との衝突になるかと言う状況があった。これは事前に動きを察知することができた故、攻めさせる前に威嚇し、撤退させることができた。
     しかしこうしている間にも、いつ州軍や連合軍が大挙して押しかけて来るか。そう懸念し、増員を願いに来たが……」
    「ご覧の通りよ。家元は茫然自失、総勢600人以上いた兵隊は御経の裏切りに加え、紅蓮塞の形勢悪化に耐え切れず逃げ出した者もいて、今や200を割る状態。その要請は却下せざるを得ないわね。
     まあ、状況は刻一刻と悪くなってるって感じよ」
    「何を呑気な!」
     憤る九鬼に、月乃は肩をすくめて見せる。
    「あたしとしては、あのまま家元に全部責任被せて、生贄になってくれればと思ってるのよね」
    「なっ……!」
     あまりにも剣呑な台詞に、九鬼は面食らった。
     一方、小雪がまだぼんやりしているのを確認した深見が、そっと九鬼の背後に回る。
    「なんだ?」
    「九鬼彩錬士。まあ、良くも悪くも直情径行、とにかく主君のためであれば命をも賭して任に当たる、って姿勢は評価できる。
     だがな、事はそう単純じゃないんだよ。上の命令をただ聞いてりゃ自分の役目は終わるって話じゃ、もう無いんだ」
     深見は九鬼の虎耳に、そっとささやいた。
    「実を言うと、俺も、黄もな、始めっから家元をこうして貶め、その座から叩き落としてやろうって計画してたんだ」
    「な……!?」
    「分からんわけじゃあるまい? あの家元は器じゃない。ほっとけばいずれ、焔流の評判を落としていたはずさ。
     だが、腐っても家元だ。多少の悪事じゃ、揉み消されて終わりさ。だから消しようが無いくらいの悪事を働いてもらって、その責任を全部押し付けてしまおうって、そう計画したんだよ」
    「馬鹿な、……ぐえ、っ」
     九鬼が背後の深見に一瞬気を取られた隙に、月乃が鳩尾に拳を突き入れ、気絶させる。
    「……どうしたの?」
     ここでようやく騒ぎに気付いた小雪が、月乃たちに目をやる。
    「九鬼が気を失いました。恐らく心労によるものでしょう。休ませてきます」
    「心労……? 馬鹿言ってんじゃないわよ……わたしの方が百倍疲れてるわよ……気楽なもんね……」
    「まあ、まあ。家元ももうしばし、お休みください」
     やんわりとそう返し、月乃と深見は九鬼を運び出した。

    「……う……」
     暗い部屋の中で、九鬼は目を覚ました。
    「起きたか」
     しぼっ、と小さな音を立てて、深見が蝋燭に術で火を灯す。
     蝋燭の薄明かりに彼と月乃が照らされているのを確認し、九鬼は声を荒げた。
    「いきなり何をする!?」
    「なに、今回の騒動について、じっくり説明してやろうと思ってな。
     流石にあそこじゃできない話だったし、お前さんもそんな話をいきなり聞かされりゃ、騒ぐだろう?」
    「当たり前だ!
     何故だ!? 何故お前らは、家元を罠に嵌めた!? 何故こんな、央南を巻き込むような大騒動を起こしたんだ!?」
    「ま、いっこずつ説明してやるから、よ」
     深見は煙草をくわえ、蝋燭を使って火を点けた。

    白猫夢・背任抄 1

    2013.02.15.[Edit]
    麒麟を巡る話、第187話。側近らの本意。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 双月暦544年、夏間近の、しかし重苦しい天気が続く頃。 昨年暮れから続いた資金難を解消し、塞内の人間と、抱えていた500名もの浪人たちを充実させたのも束の間、家宰であった御経の裏切りでその半分近くを失い、小雪は半狂乱と化していた。「なんで……なんでよ……なんでこんなことばっかり……」「……」 残された側近、深見と月乃、そして...

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    麒麟を巡る話、第188話。
    壊れた正義。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     深見は煙草を一息吸い、ふーっと吐き出してから話し始めた。
    「俺も黄も、実はある男から命じられてるんだ。ここに残り、焔流を徹底的に混乱させろってな」
    「ある男……? 誰だ、そいつは?」
     九鬼が問うが、深見は肩をすくめて返す。
    「それは、ま、おいおい話す。とりあえず、『ある男』だ。
     そいつはな、焔流と、そこの黄のお袋さん、つまり『蒼天剣』黄晴奈に滅茶苦茶深い恨みを抱いてたんだ。
     なんでもそいつの両親が、焔流と黄範士のせいで路頭に迷い、そして死んだ。いや、黄範士に殺されたんだとさ」
    「なんと……!」
    「で、そいつはどうにかして恨みを晴らそうとしたわけだが、お前さんも知っての通り、黄範士は異様に強い。今年でもう51だってのに、そいつは一度も勝てたことが無いそうだ」
    「え……? 既に仇討ちをしたと言うのか?」
    「いいや、そうじゃない。順を追って説明するから、とりあえず黙って聞いてくれ。
     で、だ。黄範士も強いし、焔流なんてのはもっとだ。一個人じゃ太刀打ちなんてとてもできない、巨大な組織だからな。一筋縄じゃ、どっちも潰すことなんかできない。
     じゃあどうするか? そいつはまず両方の弱点を知るため、黄派焔流道場に入門した。さっき言ってた『勝てない』ってのはあくまで稽古での話だが、それでも強いってことに変わりはない。……と、話が逸れちまったな。
     で、修行してるうちに弱点は見付かった。焔流の方の弱点は知っての通り、あの馬鹿殿様だ。あいつに余計な重圧をかけさせ、ちょっと唆して暴れさせておいて、そこで梯子を外す。これでもう、後は勝手に自滅してくれる。
     焔流はそれまで培ってきた名声を焔小雪のせいですべて失い、墜落するってわけだ」
    「そ、そんなことが、許されると思っているのか!」
    「許すも許さないも無えよ。そいつにとっちゃ焔流は、かつて焔流剣士であった親を追い出して路頭に迷わせた、憎き仇なんだからよ」
    「う……ぬ」
     自分の顔から血が引いていくのを感じながらも、九鬼は深見の話に聞き入っていた。
    「で、では、黄先生の弱点と言うのは?」
    「それについては、黄。お前さんから話してやれよ」
    「ええ、そうね。その方が分かりやすいでしょうし。
     母の弱点って言うのは、それはずばりあたしなのよ。あたしや兄貴と言った、自分の家族。あいつは長年、母の下で修行を積んでいくうち、それに気が付いた。
     傍目に見れば、溺愛してると見えたんでしょうね。いえ、きっと母はそうなんでしょうね。……あたしからすれば、ウザいだけなんだけど」
    「お前、自分の親を……」
     とがめかけた九鬼を、月乃はにらみつける。
    「親だって限度はあるわよ! 顔を合わせる度に『お前は黄家の人間なのだから、他の規範となるべく生活するよう心がけろ』なんて、20年近くも言われ続けてみなさいよ? 自分としちゃ、これ以上ないってくらいに真面目にしてるのによ!?
     13歳くらいかしらね、もういい加減、そう言うお小言に耐え切れなくなって、家出しようとしたのよ。で、荷物まとめて家を出て、そしたら偶然、その人に会ってね。
     その人は本当に、あたしの気持ちを汲んでくれたわ……! そして聞いたのよ。あの母が実は、その人の親を殺した極悪人だってね。
     もうその瞬間よ――あの女に雁字搦めに縛られてた自分の13年間が、ガラガラに崩れ去ったわ! あんなに正義感面してやがったあの女が、自分自身でそれをこれっぽっちも守っていない、口先だけのクズだったんだから!
     ……だから、あたしは」
     月乃はにやぁ、と笑みを浮かべた。
    「あの人のためなら、何だってするの。してあげたいのよ。
     そのためにあたしは、焔良蔵を誘惑し、傀儡にした。焔小雪をあおり、滅茶苦茶なことをさせ続けた。
     もうすぐ、終わるのよ。母は討たれる。紅蓮塞は悪に堕し、瓦解する。もう少しであの人の、そしてあたしの悲願が達成できるのよ」
    「……ってわけだ」
    「……」
     月乃の凄絶な思いを打ち明けられ、九鬼は茫然とするしか無かった。
     が――一方であることに気付き、それを尋ねる。
    「お前は……?」
    「あ?」
    「豪一、お前は何のために加担している?」
    「ああ」
     深見は二本目の煙草に火を点けながら、こう答えた。
    「俺はもっと単純さ。金と名声と権力だよ。
     小雪が処刑されりゃ、塞に残ってる焔家の血筋は焔良蔵だけだ。新たに良蔵を家元に立てた後、いずれ黄と結婚し子供ができりゃ、……ま、良蔵もそこでお払い箱だ。
     そこに残るは、良蔵との子供を次々代家元と立て、その代理となった黄と、その新たな夫となるその男、そして新たに家宰を仰せつかる俺、……ってわけだ。
     しかも俺も黄も、それからお前も、その時にゃ『愚かな家元を討ち取った英雄』ってハクが付く。美味しいだろ?」
    「怖気が走る……! よくも貴様ら、そこまで邪悪に染まったな!」
    「ははは……」
     九鬼の怒りを、深見はげらげらと笑い飛ばした。

    白猫夢・背任抄 2

    2013.02.16.[Edit]
    麒麟を巡る話、第188話。壊れた正義。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 深見は煙草を一息吸い、ふーっと吐き出してから話し始めた。「俺も黄も、実はある男から命じられてるんだ。ここに残り、焔流を徹底的に混乱させろってな」「ある男……? 誰だ、そいつは?」 九鬼が問うが、深見は肩をすくめて返す。「それは、ま、おいおい話す。とりあえず、『ある男』だ。 そいつはな、焔流と、そこの黄のお袋さん、つまり『...

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    麒麟を巡る話、第189話。
    詭弁で誇りを焚き付ける。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
    「何がおかしい!?」
     いきり立つ九鬼に、深見はニヤニヤしながらこう返す。
    「お前さんもなかなか、目先しか追えない奴だなと思ってな。
     この目論見を知って、今更塞を抜けるか? なるほど、仁義と礼節に篤いご立派な剣士だ。そりゃ、そうしてもいい。それはそれで、お前さんの矜持は一応なりには守られるだろうさ。
     だが得られるものはそれだけだ。暮れからこっち、ずーっと血と汗を流して頑張ってきたお前さんは、誇りだけしか得られないわけだ」
    「何を言うか! 侍、剣士たる者、それだけあれば十分だ!」
    「十分? お前さん、飯を食ってるよな? 食ってないわけないよな?」
    「ぬ……」
    「人間として生きる以上、飯は食べなきゃならないし、何かしらモノや寝床やらもいる。いや、剣士として清廉潔白に生きるにしてもだ、刀は持たなきゃならないし、いざって時には武装もしなきゃならん。
     生きる以上、金は稼がにゃならんのよ。誇りだけじゃ人間、生きられんぜ」
    「詭弁だ! それで誇りを失っていい、と言う話ではない!」
    「勿論、そこも考えてのことさ。
     考えてもみろ、ここまで事態が深刻化したら、小雪一人の頭を刎ねれば全部元通りって話じゃ無くなる。それで騒動が収まったとしてもだ、この先焔流は信用を回復させ、もう一度興隆させていかなきゃならんわけだ。
     その未来を見捨てるってことだぜ、今、塞から抜けるってことは」
    「……!」
    「今抜ければ、確かにこれ以上悪事に手を染めずに済む。それなりに誇りを保てるだろうさ。だが、その後はどうなる?
     塞からは本拠地を捨てた腰抜けとして蔑まれ、二度と敷居はまたげないだろうな。そうなると敵方の黄派や柊派を頼ることになるだろう。だがそうなりゃ適当に丸め込まれ、安い給料で先生だか用務員だかの職をあてがわれてぬくぬくと飼い馴らされ、それで人生終わりだ。
     だが今、ちょっとの悪事と苦境を堪え、最後まで俺たちと共に戦い、塞内の体制が一新されれば、お前さんはこの塞の重鎮になれる。『今回の騒動を収めた立役者の一人』として、堂々と胸を張って、生涯剣士でいられるわけだ。
     どっちがお前さんを、満足させられる?」
    「……ぐ」
     九鬼は目をつぶり、ギリギリと歯ぎしりを立て――やがて、折れた。
    「貴様らのような悪魔に与するなど、……確かに、……確かに心苦しい。
     だが貴様らの言うことも一理だ。今逃げれば、私は二度と剣士でいられない」
    「分かってくれて嬉しいぜ、彩。
     さて、と。それじゃあ早速、最後の作戦に打って出るとするか」
     立ち上がった深見に続きながら、九鬼はまた質問した。
    「最後の作戦? いったい何をするんだ?」
    「そろそろ家元も『あやしく』なって来てるからな。こんな時に発狂でもされちゃ、どうもこうも無い。
     その前に『最大の悪役』として散ってくれないとな」
    「散って……? 何をさせる気なんだ?」
    「特攻さ。もいっちょ唆して焚き付けて、黄海に突っ込ませる。
     で――突っ込んだところで俺たちが小雪を捕まえ、黄州軍なり連合軍なりに引き渡す。『今回の騒動の首謀者を騙し、ここまで引っ張ってきた』とでも適当に弁解してな。
     そうなりゃ悪者は小雪一人、それを引き渡した俺たちは悪者に追従してきた側近から一転、悪を討ち取った英雄ってわけさ」
    「卑怯者め……!」
    「じゃあお前さん、進んで首を刎ねられたいってのか? 俺は嫌だぜ。お前さんだって嫌だろう?
     最初っから、あいつが全部悪かった。そうしておけば、極刑を食らわずに済む。最悪、食らったとしても従犯扱いで1年、2年の懲役刑くらいだ。それだって残った資産で、いくらでも減刑できるしな」
    「……」
     それ以上何も言えず、九鬼は月乃たちの後に続いた。

    「家元、準備が整いました」
     月乃ら3人は小雪の自室の前に立ち、彼女を起こした。
    「……準備……?」
     部屋の中から、重たげな声が返ってくる。
    「黄海に攻め込む準備です」
    「……はぁ?」
     ずず……、と引きずるように戸が開き、小雪の目が覗く。
    「……今更……?」
    「確かに各地での緊張が高まり、紅蓮塞の形勢が不利であるのは事実です。
     しかし敵方の頭である黄家を制圧すれば、央南連合に対する最強とも言える交渉材料を手にすることができます。
     そうなればこの苦境など、いくらでも対処可能でございます。おまけに『証書』も戻りますし、金も入ります。
     攻めるべきは、今かと」
    「……どうやって攻め込むの?」
     深見の説得に揺れたのか、小雪の声に張りが戻ってきた。
    「九鬼に命じ、紅黄街道までの道を拓いておりました。既に塞が集められるだけの軍備および人員も、州境に配置しております。
     塞からそこまでは、2日ほどかかります。今にも連合軍が動くかと言う状況ですので、時は一刻を争います。さ、今すぐ出立の準備を」
    「……分かったわ。黄、着付けを手伝って頂戴」
    「承知」
     月乃は小雪の部屋に入る直前――嘲った笑みを、深見と九鬼に見せた。

    白猫夢・背任抄 3

    2013.02.17.[Edit]
    麒麟を巡る話、第189話。詭弁で誇りを焚き付ける。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3.「何がおかしい!?」 いきり立つ九鬼に、深見はニヤニヤしながらこう返す。「お前さんもなかなか、目先しか追えない奴だなと思ってな。 この目論見を知って、今更塞を抜けるか? なるほど、仁義と礼節に篤いご立派な剣士だ。そりゃ、そうしてもいい。それはそれで、お前さんの矜持は一応なりには守られるだろうさ。 だが得られる...

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    麒麟を巡る話、第190話。
    裏で手を引く者たち。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     紅蓮塞が妙な動きを見せたことは、黄州側でも早急に察知された。
    「紅州境に、浪人が結集……?」
     報告を受けた明奈は、直ちに動いた。
    「最後のあがきに出よう、と言うことかも知れません。至急州軍に連絡し、紅黄街道の警備体制を最大限強化するよう伝えてください。
     黄州に入られれば、州内の焔流道場は少なからず動じるでしょう。それらが敵に付くにせよ、味方に付くにせよ、被害が拡大するのは明らかです。それを防ぐため、何としてでも突破されないよう、徹底的な防衛をお願いします」
     落ち着いた調子で命令を送ったが、一方で強い不安も覚えていた。
    (ついに動いたわね……。『あの人』がここでどんな手を打ってくるか)
     その不安を見越したように、そこへ霙子と御経がやって来た。
    「黄大人、紅蓮塞が動いたと聞きましたが」
    「ええ、わたしも今、報告を受けました。直ちに州軍に動いてもらいます」
    「なるほど。報告する余裕はありそうですね」
    「また何か、分かったことが?」
     霙子は小さくうなずき、報告を始めた。
    「はい。エルスさんたちの追加調査の結果、彼奴は少なくとも3名、腹心を持っているだろうとのことでした」
    「それは誰です?」
    「一人は黄月乃。彼女が13か、14歳辺りから頻繁に接触を重ねており、それから彼女が黄海を離れるまでの3年間、篠原と共に街で見かけることが度々あったとのことでした。恐らく言葉巧みに誘惑して仲間に仕立て上げ、紅蓮塞に送り込んだものと思われます。
     二人目は小雪派の側近、深見豪一。篠原が免許皆伝試験を受けた辺りから親交があり、その後も度々『魔術頭巾』で話をしていたことが、彼の使用していた『頭巾』を密かに押収し分析した結果、判明しています。特に柊派離反から以降、その頻度は著しく多くなっており、通じていることは明白でしょう。
     そして三人目ですが……」
     霙子はそこで一旦言葉を切り、そして苦々しく言い捨てた。
    「あの笠尾松寿です。恐らく柊派離反に加担したのは、こうして何の疑いも持たせず黄海に入り込むため。……まったく、うまいくらいに騙されましたよ!」
    「でも紅蓮塞を離れる前に雪乃さんが月乃ちゃんと対峙したことを考えると、それでは辻褄が合わないのでは? 笠尾さんはわざわざ雪乃さんを塞内に向かわせ、仲間の月乃ちゃんを危険にさらしたことになります」
    「恐らく想定外の事情だったんでしょう。
     元々は笠尾が晶奈ちゃんを連れてくる予定、……いや、連れて来る振りをして『既に手遅れだった』とでもごまかして、奴一人で付いて来るつもりだったんでしょうが、師匠自ら『迎えに行く』と言われ、ましてや本当に連れて来られては、笠尾はどうにもできなかったでしょうし。
     それに関しては、もう一つ想定外の事態があったでしょうね」
    「霙子さんをはじめとして、お弟子さんがいっぱい付いてきちゃったことですね」
    「ええ。恐らく当初の計画としては、師匠と良太さんのご夫妻2人だけを監視する程度で済むはずだったんでしょう。ところが50名以上がなだれ込み、黄派と交流して稽古を始める始末。笠尾も参ったでしょうね」
    「敵方の門下生を指導することになるなんて、思ってもいなかったでしょうね」
    「ええ。……しかし状況の差し迫った今、笠尾の存在は危険です。彼奴の実力は確かですし、いざ小雪派が攻め込んできた時、中から手助けしたり、暴れたりされれば……」
    「勝てる戦いを落とす危険がありますね。では皆に知られないよう、密かに拘束することにしましょう。もし笠尾さんが敵の手先と知れれば、みんな驚きますし」
    「ええ。では直ちに……」
     明奈が立ち上がった、その時だった。

    「……うっ? う、……っ」
     明奈ががくん、と机に突っ伏した。
    「黄大人? ……!」
     御経と霙子は戦慄した。
     明奈の右肩から胸へと抜ける形で、矢が刺さっていたからだ。

    白猫夢・背任抄 4

    2013.02.18.[Edit]
    麒麟を巡る話、第190話。裏で手を引く者たち。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 紅蓮塞が妙な動きを見せたことは、黄州側でも早急に察知された。「紅州境に、浪人が結集……?」 報告を受けた明奈は、直ちに動いた。「最後のあがきに出よう、と言うことかも知れません。至急州軍に連絡し、紅黄街道の警備体制を最大限強化するよう伝えてください。 黄州に入られれば、州内の焔流道場は少なからず動じるでしょう。それ...

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    麒麟を巡る話、第191話。
    不安な指揮体制。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     突然の狙撃により、明奈は重傷を負った。
     心臓や頭と言った、当たれば即死するような箇所は奇跡的に外れたものの、それでも肺と肝臓を貫通する形で矢が刺さっており、病院に運ばれて即、面会謝絶となった。
    「先生、母は助かるのですか……!?」
     朱明は顔を真っ青にし、医師に尋ねる。
    「一応、峠は越しましたが、射られた場所が場所です。魔術と薬とで、数日中にはどうにか回復できるでしょうが、それでもその間は絶対安静にしなければなりません」
    「そう……ですか」
     助かると聞き、朱明はほっとした顔をしたものの、晴奈には別の不安があった。
    「その……、絶対安静と言うことであれば、黄家当主しての公務などは……」
    「できるわけないでしょう。もっての外です」
    「……でしょうな」

     明奈が復帰できるまでのその数日間、晴奈が代理を務めることになったが、晴奈に経営センスや交渉力などは無いし、黄商会代表および黄海市長としての業務は、事実上の休業となった。
    「とは言え数日業務を停止して傾くような街ではないからな。黄海防衛に努めれば、私の任は十分に果たせるだろう」
     まだ蒼い顔を見せながらも、晴奈はそううそぶく。
     しかし明奈の指示の下、密かに内偵調査を進めていた霙子たちは内心、不安を覚えていた。
    (困ったわ……。姉さんには秘密にしてたから、『笠尾が小雪派の手先であり、早急に身柄を拘束しなければ』なんて言うわけにいかないし――言ったらうろたえるの、目に見えてるし――かと言って、あたしの独断で動くわけにも行かない。うかつに手を出して逃げられたら、それこそ黄海防衛と笠尾探しとで人員を割く羽目になるし。
     どうしようかしら……)
     チラ、と横目で御経を見たが、御経と目が合ってしまう。
    (……御経さんも同じこと考えてたみたい)
     カチカチと強張った態度で執務机に座る晴奈に目をやり、それから霙子は御経と同時に、はあ……、とため息をついた。

     その頃、黄海郊外では――。
    「笠尾です」
    《ご苦労様です、笠尾錬士》
     明奈の狙撃に使った弩を焼き捨てていたところに、笠尾の元に「頭巾」による連絡が入った。
    《ただ、殺せなかったのは残念でしたね》
    「申し訳ございません」
    《いえ、まだ大丈夫です。警察部の動きも鈍いですし、実行犯は今のところ、特定できていないようです。差し当たり計画に支障は無いですし、不問としますよ。
     それより、早急に次の手を打っていただきたい》
    「承知いたしました。なに、後は火を点けるだけでございます。
     この時のために、準備は整えておりました故」
    《ありがとう、助かります》
     通信を切り、それから笠尾は郊外の森へと向かう。
     街を護る外壁に到達したところで、笠尾は辺りを伺う。
    「……よし」
     人がいないことを確認し、笠尾は地中から雑草に紛れて伸びていた導火線に火を点けた。
    「さて、沙汰があるまでこの辺りで潜むとするか」
     壁から離れて十数秒後、ドドド……、と言う炸裂音が立て続けに響き、外壁を粉々に打ち崩した。



     この異変は、すぐに晴奈の元に報告された。
    「黄代行、南西側の街壁が崩落しました!」
    「なに!? 既に小雪らが到達していたと言うのか!?」
     面食らう晴奈に、伝令は報告を続ける。
    「いえ、まだ敵の姿はありませんが、突然崩れたとのことです。
     しかし周囲に硝煙の匂いが強く残っていたこと、そして壁の街側に爆発痕があったことから、内部から爆発物によって破壊されたものと思われます」
    「なんと……! では、既に黄海に敵が侵入していると言うことか」
    「……姉さん」
     と、報告を聞いていた霙子が渋々、手を挙げた。
    「なんだ?」
    「実は明奈さんからの指示で、黄派と柊派の内偵調査を行ってたんです、あたし」
    「なに?」
    「姉さんが代表代行である今、その内容を伝えるべきであることは明白でしたが、姉さんにとってはあまりに衝撃的なことなので、……黙っていようかとも考えていました」
    「何かあったと言うのか?」
     霙子は意を決し、打ち明けた。
    「ええ。……まず、その爆破を行い、明奈さんを襲ったのは恐らく、笠尾です。密かにある男と通じていました」
    「なんと、笠尾が……!? い、いや。
     それより、『ある男』とは?」
    「その男こそが今回の騒動の、すべての元凶なんです」
    「誰なんだ、それは?」
    「本名を篠原朔明と言い、……姉さん、あなたの道場で20年余修行してきた男です」
    「……しの、はら、……だと!?」
     霙子の予想通り、この時晴奈はこれ以上無いくらいの、強い衝撃を受けた様子を見せた。

    白猫夢・背任抄 終

    白猫夢・背任抄 5

    2013.02.19.[Edit]
    麒麟を巡る話、第191話。不安な指揮体制。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 突然の狙撃により、明奈は重傷を負った。 心臓や頭と言った、当たれば即死するような箇所は奇跡的に外れたものの、それでも肺と肝臓を貫通する形で矢が刺さっており、病院に運ばれて即、面会謝絶となった。「先生、母は助かるのですか……!?」 朱明は顔を真っ青にし、医師に尋ねる。「一応、峠は越しましたが、射られた場所が場所です。魔...

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    麒麟を巡る話、第192話。
    30年越しの恨み。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     篠原朔明が生まれたのは、双月暦502年のことである。
     その1年前、彼の両親である篠原龍明と竹田朔美は、紅蓮塞において「新生焔流」を名乗り謀反を起こしたが、当時の家元である焔重蔵に阻止され、失敗。
     扇動し、味方に付けた門下生20余名を連れ、そのまま紅蓮塞から逃亡した。

     それから2年後、篠原らは隠密の職を得ることになるのだが、その間の生活は困窮を極めていた。
     新たに剣術流派を立ち上げはしたものの、本家焔流に楯突いた謀反人らである。まともな人間が集まるわけも無く、篠原龍明は貧困の最中にいた。
     そんな時に子供が生まれても、持て余すのは仕方の無いことと言えた。
     朔明は「そんな時」の子供だったのである。

     朔明を自分たちの手元に置いておくことができず、竹田朔美は自分の母親に我が子を預けることにした。
     その翌年に篠原一派は職を得て、生活は安定するのだが、何しろ職務内容が内容である。1歳にもならぬ幼子を呼び戻すわけにも行かず、そのまま預けることになった。

     そして両親に会えぬまま時は過ぎ、朔明14歳の時。
     既に己の主君を操る程にまで増長していた篠原一派は、央南転覆を狙った工作に失敗し、壊滅した。
     副統領であった竹田朔美は懲役230年の、事実上の終身刑を言い渡されて、後に獄死。統領であった篠原龍明も、あの剣豪――黄晴奈によって討たれた。

     それを知った朔明が、晴奈を恨まないはずがない。
     そもそも紅蓮塞が己の両親を追い出したりしなければ、自分は親と共に過ごせたかも知れないのだ。
     彼は並々ならぬ恨みを晴奈と焔流に抱き、そして復讐のため焔流に入門し、後に晴奈の道場へ転入したのである。



     話を聞き終えた晴奈の顔は、真っ青になっていた。
    「では……、あいつが此度の騒動を引き起こしたと言うのか」
    「はい」
    「小雪を惑わし、娘をもたぶらかして」
    「ええ」
    「……」
     晴奈は突然、机に突っ伏した。
     それがつい先程倒れた明奈の姿と重なり、霙子は戸惑う。
    「あ、姉さん!?」
    「……く、……くく、……くっ」
     突っ伏したまま、半ば泣くような、晴奈の笑い声が聞こえてくる。
    「何と言う半端者だ……! 己の手足さえ清められぬ半端者が、正義だの仁だのを説いていたわけか……!
     何のことは無い、私がすべての元凶だったのだ……!」
    「それは違います!」
     霙子は慌てて机に駆け寄り、晴奈の肩を抱く。
    「姉さんが篠原を討ったのは、職務上やむを得ずのことじゃないですか!
     いいえ、そもそも篠原こそが元凶だったんです! 奴が先代に刃向かったり、央南転覆を狙ったりしなければ、姉さんがそれを討つことは決してなかったんですから……!」
    「だが殺したのは事実だ。そしてその上で正義を、いい気になって説いてきたのもな。
     まったく、明奈の言う通りだったよ……! こんな体たらくで娘に『真っ当な生き方を』などと、よくも臆面も無く説教できたものだ……」
    「あねさ……」「……先生!」
     と――街壁の崩落を報告し、そのまま命令を待っていた伝令が、口を開いた。
    「え……?」
     晴奈が顔を挙げたところで、伝令は顔を真っ赤にしてこう叫んだ。
    「じ、自分は、自分は、先生に指導していただいた者ですが、その、先生に教わったことは、何の間違いも無いと、その、そう思っております!」
    「……そうか。見覚えがあると思った」
    「覚えていてくださり、ありがとうございます!
     ……か、重ねて申しますが、自分は先生が、……先生のお言葉が、正しいと、そう信じております! そして、その、それはきっと、他の同輩たちも同様であると思います!」
    「……っ」
     これを受けた晴奈は、ぼろぼろと涙を流す。そして霙子に、こう勇気づけられた。
    「……そうですよ、姉さん。この世にはじめから聖人君子たる人間なんか、いません。
     学び、経験することで、正しい人間に近付けるんです。姉さんが昔どんな人であったとしても、今の姉さんは、数多くの人間を正しく導いて来られた、尊敬すべき人です」
    「……ありがとう」
     晴奈はぐしぐしと、袖で涙を拭く。
    「さあ、先生! ご命令を!」
     びし、と敬礼した伝令に、晴奈はまだ目を真っ赤にしながらも、凛とした声で応じた。
    「……まず、優先すべきは街の防御だ。速やかに街壁を修復し、敵の襲撃に備えてくれ。
     もう一つすべきは、笠尾と『篠原』の捜索および拿捕だ。彼奴らをこのまま放っておけば、また何らかの妨害工作が行われるかも知れぬ。
     早急に動いてくれ」

    白猫夢・龍息抄 1

    2013.02.21.[Edit]
    麒麟を巡る話、第192話。30年越しの恨み。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 篠原朔明が生まれたのは、双月暦502年のことである。 その1年前、彼の両親である篠原龍明と竹田朔美は、紅蓮塞において「新生焔流」を名乗り謀反を起こしたが、当時の家元である焔重蔵に阻止され、失敗。 扇動し、味方に付けた門下生20余名を連れ、そのまま紅蓮塞から逃亡した。 それから2年後、篠原らは隠密の職を得ることにな...

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    麒麟を巡る話、第193話。
    黒幕の露呈。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     晴奈は霙子と信頼できる剣士――晴奈の直弟子である水越と紀伊見、柊派の関戸、そして御経を連れ、笠尾と「篠原」の捜索に乗り出した。
    「笠尾錬士については、朝から姿が見えません」
    「道場にも顔を出しておりませんし、他の錬士や門下生らも見ていないとのことです」
     水越らの報告に続き、御経が手を挙げた。
    「ただ、『篠原』に関してはいつも通り朝稽古に出ておりましたし、仕事先の事務所にも普通に出勤していたとか。もっとも我々が動いてからすぐ、姿を消したとのことです」
    「ふてぶてしい奴め……! ばれていないと思っていたらしい」
     苦々しく吐き捨てる水越に対し、関戸がつぶやく。
    「しかしまだ信じられないぜ……。まさかあの人が、悪名高き『魔剣』篠原の息子だったとはなぁ」
    「ええ、あたしも実際に刀を交えるまで気付かなかったもの」
     そう返した霙子に、水越が「ああ……」と納得したような声を出す。
    「そう言えば藤川範士は、あの交流戦で戦ってらっしゃったんですね」
    「ええ。その時にちょっとね、『あれっ?』と思うことがあったのよ」
    「と言うと?」
    「その前の、あいつが笠尾と戦ってた時は、見ていて惚れ惚れするくらいに最小動作での反撃一太刀で――それこそあの伝説通りの、『魔剣』と言ってもいいくらいの動きで――試合をすぱっと終わらせたくせに、あたしと戦った時はこれでもかってくらいに猛然と打ち込んできたわよね」
    「ええ」
    「その仕掛け方が、まるで『あたしの何らかの切り札を持っていると仮定し、それを警戒したような』打ち込み方だったのよ」
     婉曲的な言葉に、錬士らが首をかしげた。
    「と言うと?」
    「そいつの親とあたしの親は、かつて『三傑』とうたわれた剣豪同士なのよ。その評判を聞いてたんでしょうね。そしてその、切り札も」
    「……え、じゃあ藤川範士の親御さんって、……『霊剣』ですか!?」
    「あら、言ってなかったっけ?」
    「聞いてないっスよぉ」
    「まあ、そう言うことなのよ。
     ……『三傑』の子供同士であったが故の警戒。それが今回の事件の『裏』を露呈するきっかけになった、ってわけ。
     ちなみに残念ながら、あたしは父の『霊剣』を会得できなかったわ。あたしは、普通の剣士」
    「ふむ……。ところで黄」
     と、御経が晴奈を呼び止める。
    「どうした?」
    「闇雲に回っているように感じられるが、何か当てはあるのか?」
    「一応はな」
    「ほう。それは一体?」
     尋ねた御経に、晴奈は郊外の丘を指差した。
    「街壁が崩されたと言っていただろう? しかし小雪らが来るにはまだ、2日か3日は間があるはずだ。
     だと言うのに今日、早々と壁を崩した理由が分からぬ。来ると同時に崩せば機が合うだろうし、うかつに事を起こせば州軍がすぐ対応に回ることは明白。
     これくらいのことは、多少知恵が利く者ならすぐ想定できるはず。だが今日崩したのは、何故だ?」
    「ふむ……」
    「私の読みが正しければ、『篠原』は何かもう一つ仕掛けを施し、防御を徹底的に無力化させるつもりなのだろう。
     それを自分でやるか、笠尾に命じるかは分からぬが、どちらにしても自分から行かねば、仕掛けを施すことはできまい」
    「なるほど。策を実行するその時、二人のどちらかがいるはず、と言うことか」
     晴奈の予想に従い、一行は郊外の、壁が崩れた現場に向かった。

     そして晴奈の予想通り――いや、予想より悪い事態がそこにあった。
    「ぐ……あ……っ」
    「はぁ、はぁ、はっ……」
     壁の補修作業を行っていたらしい兵士たちが数名、血まみれになって倒れている。
     そしてその中心に笠尾と、清滝がいた。
    「まさか二人同時に、ここにいるとは思わなかったが……、ともかく、こちらがやることは変わらぬ」
     晴奈は二人の前に立ちはだかり、刀を抜いた。
    「観念してもらうぞ、笠尾松寿。……そして清滝、いや、篠原朔明ッ!」
     真の名を呼ばれ、清滝はにや……、と薄ら笑いを浮かべた。

    白猫夢・龍息抄 2

    2013.02.22.[Edit]
    麒麟を巡る話、第193話。黒幕の露呈。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 晴奈は霙子と信頼できる剣士――晴奈の直弟子である水越と紀伊見、柊派の関戸、そして御経を連れ、笠尾と「篠原」の捜索に乗り出した。「笠尾錬士については、朝から姿が見えません」「道場にも顔を出しておりませんし、他の錬士や門下生らも見ていないとのことです」 水越らの報告に続き、御経が手を挙げた。「ただ、『篠原』に関してはいつも通...

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    麒麟を巡る話、第194話。
    壁際での攻防。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     清滝――いや、篠原朔明は晴奈と対峙し、こう尋ねた。
    「私の本名まで分かってらっしゃると言うことは……、我々の計画は、ほとんど発覚していると言う認識でよろしいでしょうか?」
    「無論だ。此度の騒動、貴様がすべて裏で手を引いていたこと、既に割れている」
    「なるほど、なるほど。では我々の目的もご存知でしょうね」
    「私と、焔流に対する復讐だな」
    「ええ、その通りです」
     朔明は刀を抜き、晴奈に向けて構える。
    「本名をご存じであるならば、私の恨みも分かっておいででしょうね。
     この時を待っておりましたよ、黄晴奈」
    「勝てると思うのか」
    「勝てますとも」
     朔明の言葉に、晴奈の後ろにいた一行も刀を構える。
    「この人数相手でもかッ!」
    「人数? ……くくく、なるほど、なるほど」
    「何がおかしいのよ?」
     苛立った声を立てる霙子に、朔明はこう返す。
    「恐らく2対6、とお思いなのでしょうな。ここには私と、笠尾しかいないと」
    「違うとでも?」
    「ええ」
     朔明がそう答えた次の瞬間――崩れた壁の向こうから、武装した者たちがぞろぞろと現れた。
    「……!?」
     それは紛れも無く、紅蓮塞に集まっていた浪人たちだった。
    「2対6ではないのですよ。ざっと……、50対6と言うところでしょうか」
    「な、……何故だ!? 小雪派が到着するまで、少なくとも後2日はかかるはず……!?」
    「簡単なことですよ」
     50人の味方を背にした朔明が、にやにやと笑う。
    「州境で目撃されたのは確かに焔小雪率いる本隊でしょうが、それより2日早く、別に動かしていたのですよ。『州境に敵の姿あり』と報せられ、そこを注視する者はいても、その目的地にわざわざ目を配るような者はいませんからね。
     完全に虚を突くことができたようですな、くくく……」
    「くっ……」
     いくら精鋭の剣士が揃っていたとしても、50対6では戦うどころではない。
    「……退くぞ! 体勢を立て直す!」
    「逃がすものですか! 笠尾ッ!」
     朔明は笠尾に命じ、背後の浪人たちを扇動させた。
    「殺せ! 相手はあの黄晴奈だ! 我が本家焔流を貶めた、憎き逆賊だぞッ!」
    「おうッ!」
     浪人たちは刀を振り上げ、晴奈たちに襲い掛かってきた。

     晴奈たちは逃げようと試みたが、50名を相手にそうそう逃げおおせるものではない。
     即座に囲まれ、窮地に陥った。
    「ぐ……!」
    「ふふふ……、黄範士、いや、黄晴奈!
     私はこの時を、四半世紀以上も待った! こうして貴様を、血祭りにあげるのをな……!」
     包囲の外から、朔明の勝ち誇った声が響いてくる。
    「今は浪人に身をやつしたとは言え、彼らは軍で鍛えた精鋭揃いだ! 手練れ5名といえど、突破などできるはずも無い! ここで全員、刀の錆にしてくれるわ!」
     笠尾の高笑いも聞こえてくる。
    「5人……?」
     尋ねた霙子に、またも顔を見せず、朔明が返す。
    「1人、役立たずがいるはずですよ。
     そう、剣士と名乗っておきながら、『人を斬ることなどとてもできない』などと臆病風に吹かれた老猫が一匹……」
    「私のことか?」
     晴奈が応じる。
    「他に『猫』が?」
    「少なくとも、無闇やたらに刀を振るう粗忽者ではないな」
    「私共の方ではそれを『臆病者』と呼んでいますがね。
     調べましたが……、あなたは日上戦争以降、あの『蒼天剣』を床の間に飾ったまま、一度も抜いていない。
     口では『刀を置かない』とか『生涯、剣士でいる』とか言っておいて、あなたはもう20年以上、まともに刀を握っていないはずだ。
     そんな臆病者が、我々の敵であるはずは無い。……とは言え」
     朔明は依然として奥に引っ込んだまま、こう付け加えた。
    「この一大計画の結果如何にかかわらず、黄晴奈、お前は殺すと決めていた!
     今が臆病者だろうが老いぼれだろうが、どんな形であろうとお前を殺さなければ、私の復讐は完成しない。
     さあ、袋叩きにしてしまえ!」
     朔明に続き、笠尾が浪人たちに命じる。
    「やれッ!」
     その号令に応じ、浪人らが刀を一斉に、晴奈たちに向けた。

     だが――晴奈たち6人は、笑っていた。

    白猫夢・龍息抄 3

    2013.02.23.[Edit]
    麒麟を巡る話、第194話。壁際での攻防。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 清滝――いや、篠原朔明は晴奈と対峙し、こう尋ねた。「私の本名まで分かってらっしゃると言うことは……、我々の計画は、ほとんど発覚していると言う認識でよろしいでしょうか?」「無論だ。此度の騒動、貴様がすべて裏で手を引いていたこと、既に割れている」「なるほど、なるほど。では我々の目的もご存知でしょうね」「私と、焔流に対する復讐...

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    麒麟を巡る話、第195話。
    晴奈の一喝。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
    「……くく」
     晴奈のクスクスと笑う声が、その殺伐とした場に響く。
    「何がおかしいんです? 最早これまでと諦めましたか?」
    「はは……。いいや、馬鹿な奴らだ、と呆れたのだ」
    「何ですって?」
    「ええ、そうね。おかしくてたまらない」
     霙子が同意する。
    「左様。斯様な光景、滑稽この上なし」
     御経もうなずく。
    「何がおかしい! ……と聞いているんです」
     上ずった朔明の声に、関戸と水越が答える。
    「剣士云々を偉そうに高説しやがったが、肝心のお前はどこにいる?」
    「黄先生に関係ない奴らをわんさか集めてけしかけておいて、本気で恨んでるはずのお前が何故、前に出ようとしない?」
     それに、紀伊見が続く。
    「それで誇りある剣士のつもりだと言うの? ええ、おかしいことよ。笑わずにいられるものですか」
    「……」
     答えない朔明らに、そして自分たちを囲んでいる者たちに、晴奈が怒鳴った。
    「篠原! そして笠尾! 貴様らは剣士の風上にもおけぬ、ただの大馬鹿者だ!
     ことごとく他人を利用し、踏み台にし、そしてそのまま蹴落とそうとする、腐り切ったその性根! 人を導く立場にありながら、土壇場で他者をけしかけ、自分たちだけは安全な場所に避難するその卑怯振り!
     貴様ら二人、いい加減に恥と言う言葉を覚えたらどうだ!?」
     そして晴奈の叱咤は、浪人たちにも及ぶ。
    「そもそもだ! お前たちもいい加減、目を覚ましたらどうだッ! この期に及んでまだ、そんなろくでなしの口車に乗せられたまま、漫然と人を斬ろうと、ぼんやりとしたまま殺人を犯そうとするつもりかッ!?
     そんな体たらくでまだ、お前たちは剣士のつもりでいるのか!? 自分自身を省みろッ! 今のお前たちは自分が世間に誇れる剣士だと、胸を張ってそう言えるのかッ!
     どいつもこいつも――いい加減、目を覚ませーッ!」
     晴奈の怒りの声が、その場にこだました。

     晴奈の一喝が、相当に効いたらしい。
    「……っ」
     晴奈たちを囲んでいた浪人たちが、一人、また一人と刀を下ろす。
    「おい! 何をしている!?」
    「さっさと殺さんか!」
     騒ぐ朔明らに対し、浪人たちは何も言わず、目だけを向ける。
    「……」
    「な、何だ、その眼は? 何か文句があるのか?」
    「……」
     浪人たちは何も言わないまま、包囲を解いた。
    「お、おい!?」
    「……」
     完全にばらけた浪人たちを、朔明たちは慌てた様子でなじる。
    「ま、待て! 敵の口車に乗る奴があるか! そんな浮ついた性根だから……」「黙れ、篠原」
     晴奈が再び一喝し、そして立ち尽くした浪人たちに声をかける。
    「……お前たち、もう何もしなくていい。そこで立っているだけでいい。じっとしていて、いいからな。
     こいつを片付け次第、私が何とか職を世話してやる。だからこれ以上、罪を重ねるな」
     浪人たちが離れ、ようやく姿を現した朔明たちに、晴奈たちが近付く。
    「か、片付けるだと? できるはずが無い!」
    「何故だ?」
    「笠尾は紅蓮塞で指折りの剣豪! そして私も、伊達に範士と呼ばれていない!
     その反面、そちらはお荷物を一人抱えている状態だ! 負ける要素がどこにあると!?」
    「私を見誤っているようだがな、篠原」
     晴奈が刀を抜き、その切っ先で朔明を指す。
    「平和な世で刀を抜く必要が無かったからこそ、私は刀を置いていただけのこと。その平和を乱す狼藉者があれば、私には抜く覚悟がある。
     今がその時だ」
    「う……」
     朔明は絶句し、後ずさる。
     その前に笠尾が立ちはだかり、晴奈に刀を向ける。
    「さ、させんぞ!」
    「こっちの台詞だ、馬鹿野郎」
     その笠尾を、関戸と水越、紀伊見が囲む。
    「邪魔させるかよ。てめえは俺たちが相手してやる」
    「ぐぬ……っ」
    「任せた」
     晴奈は彼らを避け、改めて朔明と対峙した。
    「行くぞ、篠原」

    白猫夢・龍息抄 4

    2013.02.24.[Edit]
    麒麟を巡る話、第195話。晴奈の一喝。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4.「……くく」 晴奈のクスクスと笑う声が、その殺伐とした場に響く。「何がおかしいんです? 最早これまでと諦めましたか?」「はは……。いいや、馬鹿な奴らだ、と呆れたのだ」「何ですって?」「ええ、そうね。おかしくてたまらない」 霙子が同意する。「左様。斯様な光景、滑稽この上なし」 御経もうなずく。「何がおかしい! ……と聞いているん...

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    麒麟を巡る話、第196話。
    傲慢な剣。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     関戸たちは三人がかりで笠尾に対峙する。
    「1対3が卑怯とは言うまいな? 50対6で袋叩きにしようとした貴様らが」
    「……ふん」
     笠尾は刀を一振り抜き――。
    「言うものか。……貴様らには俺一人で十分だからだ」
     さらに脇差を抜き、二刀流の構えを見せた。
    「二刀流……?」
    「焔流の流儀では無い……、型だな」
    「一刀流の焔流に、それぞれの手に刀を構えるような教えは無い。何のつもりだ、笠尾」
     そう問われ、笠尾は両方の刀に火を灯しながら答える。
    「これぞ俺が新たに編み出した流派、名付けて『笠尾派陰陽焔流』だ。以前の交流戦だかで披露したのは、まだ小手先の遊びよ。
     さあ……、参られよ、お三方!」
     挑発され、まず関戸が仕掛ける。
    「来いってんなら行ってやらぁ! おらよッ!」
     関戸も刀に火を灯し、勢い良く振り下ろす。
     それを笠尾は左の脇差で受け、右の刀で反撃する。
    「食らえ、『火閃』ッ!」
    「……!」
     関戸に迫り来る炎を、紀伊見が受け止めた。
    「させるかッ! えやああッ!」
     紀伊見の放った炎が笠尾のそれを巻き込み、彼方へと飛んで行く。
    「ほう……、やはり相当の腕前だな」
    「なめるなッ!」
     今度は紀伊見が、笠尾と刃を交える。
    「せやッ! りゃあッ! たあああッ!」
     相手に攻撃させまいと畳みかけるが、それを見た水越が叫ぶ。
    「駄目だ奈々! それは俺がはまった……」「もう遅いッ!」
     突如、紀伊見の攻撃が止まる。
    「う……っ」
     恐らく、笠尾がわずかに身を引いたのだろう。
     目一杯に踏み込み、打ち込んでいたため、紀伊見は手応えを失って体勢を崩す。
    「その細い目、こじ開けてやるわあッ!」
    「うあ……」
     よろけた紀伊見の顔目がけて、笠尾が刀と脇差とを突き込む。
     が――とっさに水越が紀伊見の襟を引き、体勢を立て直させる。その一方で、関戸が笠尾の頭めがけて蹴りを放っていた。
    「奈々さんの綺麗な顔に何しようとしてんだコラああッ!」
    「うぐ、お、っ、……ふぬうううッ!」
     側頭部から蹴りを受けた笠尾の首が、一瞬曲がりかける。
     だがその瞬間、笠尾の首の筋肉がぼこぼこと盛り上がってその衝撃を受け切り――。
    「効く、……かああああッ!」
    「うおおお!?」
     そのまま首の力だけで、関戸を弾き飛ばした。
    「……なんてぇ馬鹿力だ。一瞬、首回りが糸瓜みたいに膨らんだぞ」
    「あ、ありがとう、兵治」
     と、紀伊見が服の乱れを直しながら、水越に礼を言う。
    「ああ、いや、……危なかったな。危うく目がいっこになるところだった」
    「いててて……、大丈夫っスか、奈々さん」
     関戸の方も、肩を押さえながら二人の側に戻る。
    「あなたこそ……、大丈夫?」
    「着地し損ねて肩を打った、けど、まあ、大丈夫。
     ……ってか、流石に言うだけあるな、あいつ」
    「ああ。膂力(りょりょく:筋肉の力、強さ)だけじゃなく、確かに二刀流の捌き方も見事と言う他無い。手強いぜ……!」
    「まるでゴム製の人形が刀を持って、ぐにぐに縒れながら暴れてるみたい。真っ向から行っても、弾かれるだけだわ」
    「どうした、貴様ら」
     笠尾は仁王立ちになり、三人を牽制する。
    「俺を仕留めるのではなかったのか? うん?」
    「チッ……」
    「来ないのなら、こちらから行かせてもらうぞ」
     笠尾はそう宣言し、ふたたび刀に火を灯す。
    「先代家元が考案し、あの猫侍が小癪にも確立したとされる技があるな? 『炎剣舞』と言ったか……。
     俺はその技を、さらに昇華させた! 食らえ、『爆炎剣舞』!」
     笠尾は突如、回転し始めた。
    「爆炎だと?」
    「……って、まさか」
    「来る!」
     回転している間も刀の火は燃え上がったままであり、やがてその炎が大きくなる。
     炎は際限なく膨れ上がり、辺り一帯に飛び散った。
    「うわ……!」「わあッ!?」「きゃあっ!」
     三人の悲鳴も、爆轟によってかき消された。

     回転をやめたところで、笠尾の刀から火が消える。
    「ふうっ、ふうっ、はあ……。
     くくく、辺り一面焼け野原だ。見たか、木端共め! 我が『笠尾派陰陽焔流』こそ、後世に名を残す優れた剣術なのだ、うわははは……」「おい」
     勝ち誇り、大笑いしようとした笠尾の背後から、またも関戸が飛び蹴りを放った。
    「うごっ!?」
    「だっせぇんだよ、一々ガキみたいな名前付けやがって。
     だからこんな引っ掛けに騙されんだよ」
     虚を突かれたためか、今度は威力を受け止め切れず、笠尾は膝を着く。
    「全くだ。筋肉はあっても、感性がからきしだったな。
     まさか俺たちが、本気で貴様にてこずるとでも?」
     膝立ちになったところで、笠尾の顔面に水越の拳がめり込む。
    「ふごあ……っ!」
    「しかも勝ちを確信した瞬間に隙、丸出し。
     ……こんな愚か者に刀を振るのも馬鹿馬鹿しいですね」
    「ああ」「全く同感」
    「では、峰打ちで勘弁してあげましょうか」
     目と鼻から血を噴き出し、悶絶する笠尾に、紀伊見が頭から刀を振り下ろす。
     ごきん、と恐ろしく痛そうな音が、笠尾の脳天から響いた。
    「ふが、は、が、っ……、な、なへは、なへいひへひぅ……」
    「『何故生きている』、だと? 避けたからに決まってんじゃねえか」
    「あんな子供だまし、誰でも避けれます」
    「お前が黄先生の技を昇華? 劣化させた、の間違いだろ」
    「……ほひゅ……」
     何だかよく分からない音を鼻と口から漏らし、笠尾はその場に倒れた。

    白猫夢・龍息抄 5

    2013.02.25.[Edit]
    麒麟を巡る話、第196話。傲慢な剣。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 関戸たちは三人がかりで笠尾に対峙する。「1対3が卑怯とは言うまいな? 50対6で袋叩きにしようとした貴様らが」「……ふん」 笠尾は刀を一振り抜き――。「言うものか。……貴様らには俺一人で十分だからだ」 さらに脇差を抜き、二刀流の構えを見せた。「二刀流……?」「焔流の流儀では無い……、型だな」「一刀流の焔流に、それぞれの手に刀を構え...

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    麒麟を巡る話、第197話。
    ×印。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     霙子と御経がじっと見守る中、晴奈と朔明は互いに刀を構えたまま、にらみ合っていた。
     いや――晴奈の方はまったくブレを見せず、凛と構えているが、一方の朔明はボタボタと汗を流し、刀の切っ先をカタカタと揺らしている。
    「……勝てると思っているんですか」
     それでもなお、朔明は強がった台詞を口にする。
    「20年まともに刀を握っていないあなたが、20年修行を欠かさなかった私に勝てると?」
    「思うさ」
    「持っている刀は『蒼天剣』ですらない。間に合わせの鈍(なまくら)ではないですか」
    「十分だ」
     淀みなく返され、朔明は目に見えて覇気を失っていく。
    「だ、……第一、あなたは何も気付いていない。
     娘の心情も察せられない。弟子の肚(はら)の内も見抜けない。そして何より、自分のしてきたことがまったく滑稽であることに、今なお気付いていないのだ!」
    「ほう? それは何だ?」
     尋ねた晴奈に、朔明は得意げな声色になる。
    「あなたは道場を構え、人に教える立場に立ってからずっと、『自分の教えが正義である』と言ってきたはずだ。
     だがその実、あなた自身はそんな潔癖な生き方をしたわけではない。血に塗れた、薄汚れた生き方を……」「ああ、そうだな」
     晴奈にうなずかれ――朔明は「え」と漏らし、絶句した。
    「確かに私の生き方は決して綺麗ではないし、誇れるものでも決して無いさ。
     だが私の生き方や所業はどうであれ、『教えてきたこと』に間違いは無い。この20年、正しいことを教えてきたと信じている。
     娘は……、私の教えてきたこととに反発し、聞き入れないかも知れない。いや、今はまだ、聞き入れてはくれていない。
     だがきっと、いつかは分かってくれる。私はそう信じている」
    「ひっ、……開き直るな! 開き直るんじゃないっ!」
     朔明が叫ぶ。
    「何故落ち込まない! 何故あんたはしょげかえっていないんだ! でなければっ……」
    「でなければ、勝てる見込みが無いとでも?」
    「うっ……」
     朔明の刀が、がくんと震えた。
    「……い、いや。できますとも。
     私も血筋ですから、あの『魔剣』を生まれつき会得しています。それに加え、あなた自身から剣術を学んでいます。
     あなたの手は全部分かっている。あなたが父と戦った頃より、『魔剣』には磨きをかけています。これだけあれば、負けることなど……!」
    「なるほど。篠原、お前の弱さが見えた」
    「は……!?」
     うろたえる朔明に、晴奈は静かに言い放った。
    「お前はどこまでも『守り』が欲しいのだ。自分に危険が及ぶことを殊更に避け、保険の上に保険を重ね、その上さらに保障に次ぐ保障を欲してやまない。そう言う奴だ。
     だから月乃を籠絡し、その月乃に小雪や良蔵を操らせるようなことをして、自分には徹底的に危害が及ばぬよう画策した。
     今もそうだ。笠尾を盾にし、その笠尾に命じさせて浪人を集め、自分には私の刃が絶対に届かないようにと策を弄した。
     徹頭徹尾、自分は手を汚したくないと言うわけだ! 焔流を傾けさせ、央南全土を騒がすような大それたことをしておいて、自分は無関係を装おうとしている!
     どこまでも卑怯で臆病な、薄汚い奴め。篠原、お前は到底許しておけぬ。よって、こうして決着させてやろう」
     次の瞬間――晴奈は消えた。

    「な!?」
     目の前からぽん、と消えた晴奈に、朔明は真っ青になった。
    「ま、ま、まさか……っ! せせ、せ、『星剣舞』っ……!」
     朔明はがば、と頭を抱え、しゃがみ込んだ。
     その姿は到底、剣士と呼べるような雄々しいものでも、堂々としたものでもない。
    「なんとまあ……」「ひどいわね」
     あまりにも哀れなその姿勢に、見守っていた霙子と御経は吹き出していた。
    「ひいい……っ」
     刀も放り出し、朔明は身を縮めている。
     と、その背中が突然裂ける。
    「ぎゃああっ!」
     立て続けにもう一筋、傷ができる。
    「うあああー……っ!」
     背中があらわになり、大きく真っ赤な×字が出来上がったところで、晴奈が再び姿を見せた。
    「ここ、こっ、殺さないでくれ、死にたくないぃ……!」
    「お前は殺す価値も無い」
     晴奈は朔明に背を向け、そしてこう続けた。
    「ことごとく他人を犠牲にし、己の保身のため逃げに逃げた、その腐った性根。
     敵を目の前にして戦おうとせず刀を捨て、あまつさえ身を屈めて助けを乞う情けなさ。
     お前を剣士と思うような者など、誰一人としているまい。
     お前は永遠に剣士を失格した。その背中の二太刀がその失効の証だ」
    「ひっ……、ひっ……、ひぃ……」
     晴奈はそこで刀を納め、周りに声をかける。
    「兵治と侍郎はそこで伸びている阿呆と、こいつを縛っておいてくれ。霙子、お前は州軍に連絡して改めて、壁の補修をするよう要請してくれ。ああ、それと斬られた者の手当てだな。皆、協力してくれ。
     二人と怪我人を州軍に任せた後は、そうだな……、とりあえず私の屋敷に来い。疲れているだろうし、腹も減っただろう?」
     問いかけた晴奈に霙子たちと――そして浪人たちが、一斉に頭を下げた。

    白猫夢・龍息抄 終

    白猫夢・龍息抄 6

    2013.02.26.[Edit]
    麒麟を巡る話、第197話。×印。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -6. 霙子と御経がじっと見守る中、晴奈と朔明は互いに刀を構えたまま、にらみ合っていた。 いや――晴奈の方はまったくブレを見せず、凛と構えているが、一方の朔明はボタボタと汗を流し、刀の切っ先をカタカタと揺らしている。「……勝てると思っているんですか」 それでもなお、朔明は強がった台詞を口にする。「20年まともに刀を握っていないあなたが、...

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    麒麟を巡る話、第198話。
    戦いの終わり。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     拘束された朔明と笠尾の両名は、翌日のうちに拘置所へ移送されることとなった。現時点での罪名は、公務執行妨害、傷害および殺人未遂、またその教唆となっている。
     笠尾に命じて州軍の兵士8名を襲わせ、うち2名は重体である。死者こそ出なかったものの、それでも軍相手に狼藉を働いた現行犯である。
     そして今後は当局から然るべき処置が下され、央南西部を揺るがした重政治犯として裁かれるだろうと思われた。

     ところが拘置所へ向かう、その道中――。
    「な、……なんだ!?」
    「焔流の……、小雪派か!?」
     二人を運んでいた分隊を、小雪たちが襲ったのだ。
     元々最後の賭けに打って出ようと集められた、150近い浪人である。一挙に押し寄せてきた彼らに、流石の兵士たちもうろたえた。
    「狙いはこの二人か! 渡しはせんぞ!」
     分隊が銃を構え、一斉に射撃する。浪人らのうち十数人が倒れたが、それを乗り越えて残りが次々と歩を進めて来る。
    「……くそ、退くぞ!」
     いくら撃ってもきりが無いと判断した分隊は、やむなく退却した。
    「……はあっ、……はあっ、はあ……」
     先陣を切って兵士たちを追い払った月乃は、そこで膝を着く。
    「大丈夫か、黄? どこか撃たれたのか?」
    「いいえ……、撃たれてない、けど」
     残された笠尾と、そして朔明を確認し、月乃はボタボタと涙を流した。
    「あなたが捕まったって聞いたから、こうして私……!」
    「……」
     が――朔明は何も言わない。
    「……朔明さん?」
    「……」
    「ねえ……? ちょっと、朔明さん?」
    「呼んでも無駄だ、黄」
     顔中に包帯を巻いた笠尾が、ふがふがとした声でそれを止めた。
    「どう言うことよ?」
    「貴様の母に散々おどかされたせいで、……頭のネジが飛んでしまったようでな。
     何の反応も示さなくなってしまった。いわゆる狂人と言うわけだ」
    「は?」
     言われて彼の顔を見てみると、確かにそれは、かつて自分が惚れた男の、自信あふれるそれでは無かった。
     言うなれば――その顔は木に洞が空いたも同然の、虚無の形相だった。
    「……ひっ」
    「最早自分がどんな恨みや野心を抱いていたのかさえ、覚えておらんだろうな。
     ……すべては潰えたのだ。参謀も家宰もいなくなった以上、紅蓮塞は、もう終わりだ」
    「な、何言ってんのよ? どう言うことよ? こいつ誰?」
     未だ事情を知らされていない小雪は、笠尾の絶望的な言葉が呑み込めないでいる。
     それに苛立ったのだろう――これまで恭しく小雪に付き従ってきた深見が、声を荒げた。
    「……るっせえなぁ、このバカ女がッ」
    「は、はぁ? なんですって? 今あんた、何て……」
    「うるせえって言ったのが分からねえのか、あ?」
    「あんた、家元に向かってそんな……」「は? 家元? い・え・も・とぉ?」
     深見は小雪の胸倉をぐい、とつかみ、その額に向かってコツコツとノックする。
    「もしもぉし、誰かいますかぁ? え、おい?
     まーだ、自分の立場が分かっちゃいねえようだな、あ?」
    「なっ、なに、すんのよっ」
    「お前はずーっと俺たちにとって、体のいいお神輿だったってことだよ! それこそ本気で奉られようが、壊れっちまおうが、一切構わねえやってくらいのな!」
    「な……ん……っ」
     小雪の顔に、瞬く間に怒りの色が満ちる。
    「この無礼者めッ! 叩っ斬ってやるッ!」
    「やってみろや、ボンクラぁ!」
     小雪と深見は、同時に抜刀する。
     が――それを九鬼と、月乃が止めた。
    「お収め下さい、殿!」「やってる場合じゃないでしょ!?」
     止められた二人は、同時ににらみつける。
    「邪魔をするな!」
    「いいえ、いたします! このままここで立ち止まっていては、黄州軍が大挙して押しかけて来るのは明白! 早急に紅州まで退かねば、進退を窮めます!」
    「九鬼の言う通りよ。ここでぎゃーぎゃーわめくなんて、マジでバカのやることよ」
    「……」
     諌められ、小雪は渋々刀を納める。一方の深見も「チッ」と毒づきつつ、小雪に背を向けた。
    「行くわよ!」
     月乃が先導し、皆を退却させる。
     と、それに乗る形で笠尾が、抜け殻となった朔明を引っ張りつつ付いてきた。
    「……何してるのよ」
    「いや、俺も……」
    「それはいい。私が聞いてるのは、『それ』をどうする気かってことよ」
    「『それ』だと?」
     尋ね返したが、間をおいて笠尾はうなずいた。
    「……いや、そうだな。連れて行く価値は無し、か」
    「そう言うことよ」
     笠尾はいまだ虚空を見つめたままの朔明から手を離し、そのまま月乃たちと共に、その場から去った。

    白猫夢・落紅抄 1

    2013.02.28.[Edit]
    麒麟を巡る話、第198話。戦いの終わり。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 拘束された朔明と笠尾の両名は、翌日のうちに拘置所へ移送されることとなった。現時点での罪名は、公務執行妨害、傷害および殺人未遂、またその教唆となっている。 笠尾に命じて州軍の兵士8名を襲わせ、うち2名は重体である。死者こそ出なかったものの、それでも軍相手に狼藉を働いた現行犯である。 そして今後は当局から然るべき処置が下...

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    麒麟を巡る話、第199話。
    月乃、去る。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     黄州軍がやって来る前に、どうにか月乃たちは紅州の州境を越えることができた。
    「……話してもらうわよ」
     ようやく安全圏に到着したところで、小雪が口を開いた。
    「一体あんたたちは、わたしに隠れて何をやっていたの?」
    「……言えば高慢なあんたは、間違いなく激昂する話よ。それでも聞きたいの?」
    「わたしに何にも聞かせなかったくせに、あんたたちはわたしを担ぎ出して好き勝手やってたんでしょ? 聞く権利はあるはずよ」
    「じゃあ、一から説明するけど。
     その前に刀から手、離しておいてよ」
    「……いいわよ」
     小雪は九鬼に刀を預け、近くの岩に座り込んだ。
    「これでいいかしら」
    「ええ。じゃ、まず『これ』を分かってもらおうかしら」
     そう返し――月乃はとん、と一足飛びに小雪に迫り、抜刀した。
    「なっ……、に、を」
     小雪は面食らったが、彼女が立ち上がるより前に、月乃は小雪に当たらない程度に刀をくるんと一回転させ、納めていた。
    「分かってもらえたかしら」
    「な、何を、よ?」
    「あんたが器じゃないってことをよ」
    「なっ……」
    「他人から『やれ』と言われれば、疑いもせず従う。その行為に関わる危険性なんか、考えもしない。いざ危険が及ぼうものなら、ただただわめいて怒鳴り散らして、責任逃れしようとする。
     自分の考えや矜持、誇りなんか、雀の涙ほどにも無い。そんな薄っぺらよ、あんた。人の上に立って皆を導くような、そんな器じゃないのよ。
     まずそれが、私から言いたいこと」
    「……」
     憮然とする小雪に、月乃は続けて打ち明けた。
    「だからここにいる、九鬼以外の側近はみんな、あんたをかなり早いうちから家元としてじゃなく、『お神輿』として扱ってた。適当におだてて祭り上げて、それでうまく行けばそのまま祭り続ける。うまく行かなきゃきっぱり捨てて、私たちの身代わりにする。
     そう言う姿勢でこの戦を続けてきたのよ。……で、やっぱり大方の予想通り、この戦は負けに終わりそうだと思った私たちの参謀は、あんたを黄州まで引きずり出して人身御供にしようとしてたのよ」
    「な、何ですって!?」
     顔を真っ青にした小雪に、月乃は肩をすくめて見せた。
    「でも、その参謀は私の母、黄晴奈との戦いに敗れた。そうよね、笠尾?」
    「ああ」
    「その結果、あのざまよ。もう使い物になんてなりゃしないわ。
     一方で、真面目に紅蓮塞の運営を考えてくれていた家宰の御経は、あんたを見限った。もうこれ以上面倒見きれない、ってね。
     残った側近で家宰役を務めてくれそうなのは深見だけど、あいつはあんたをバカにしてるし、結局自分のことしか考えてないし、あいつ自身も結局バカ。
     九鬼はクソ真面目だし腕も立つし、あんたに忠誠誓ってくれてるけど、この敗勢を覆せるような人材じゃない。無闇やたらに走り回って討ち取られるのが関の山よ。
     私たちの勝つ可能性を高めてくれる人材も、私たちの足元を固めてくれる人材も、もういない。紅蓮塞はこのまま央南連合軍に四方八方から攻め込まれて、それでおしまいよ」
    「……」
     これだけこき下ろしたにもかかわらず、誰一人として月乃を非難したり、責めたりしようとはしなかった。
    「……じゃあ、どうするのよ」
     その代わりに、小雪がこう尋ねた。
    「わたしたち、このまま全員死ねって言うの?」
    「そんなの嫌よ」
     月乃は大きく首を振り、それを否定した。
    「私は抜けるわ。もうこれ以上、紅蓮塞に未練は無いもの。故郷だってクソ食らえって感じだし。第一、良蔵に媚を売るのもいい加減、疲れたし」
    「お前、そんな勝手が……」「止める? 腕一本くらい覚悟することになるわよ」
     そう返し、刀に手をかけた月乃に、深見も刀に手をかけようとする。
     しかしそれを途中で止め、「けっ」とだけ言い捨てるだけに留まった。
    「ま、あんたはそう言う奴よね。結局、面倒事になるのも、腕を失うかもって危険を冒すのも、そう言うのから全部逃げる奴だもんね」
    「……るっせえな」
    「他に私を止める奴は、いる?」
    「……」
     誰も、何も言わない。
     誰一人として自分に刃を向けようとしないことを確認した月乃は、はあ、と嘲るようなため息を一つ吐き出し、それから踵を返した。
    「じゃ、ね」
    「待って」
     と、小雪が顔を挙げた。
    「やる気? あんたが?」
    「違うわ。……どこに行くつもりなの?」
     こう問われ、月乃は立ち止まって振り返る。
    「どこでもいいわ。央南じゃなきゃ、どこでも」
    「全部捨てるつもりなのね」
    「そうよ。もう未練は無いわ。もうあんたたちとも、二度と会うことは無いでしょうね」
     月乃は誰とも目を合わせず、その場から立ち去って行った。

    白猫夢・落紅抄 2

    2013.03.01.[Edit]
    麒麟を巡る話、第199話。月乃、去る。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 黄州軍がやって来る前に、どうにか月乃たちは紅州の州境を越えることができた。「……話してもらうわよ」 ようやく安全圏に到着したところで、小雪が口を開いた。「一体あんたたちは、わたしに隠れて何をやっていたの?」「……言えば高慢なあんたは、間違いなく激昂する話よ。それでも聞きたいの?」「わたしに何にも聞かせなかったくせに、あんた...

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    麒麟を巡る話、第200話。
    「あいつ」に瓜二つ。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     月乃は一人、何処へと消え去ったが、残った者にそこまでの度胸は無い。
     他に行くところも無く、紅蓮塞へと戻ってきた。
    「……」
     門を潜り、本堂に着いても、口を開く者は誰一人としていない。
     誰もが悟っていたからである――自分たちに残された手段は、緩やかに侵攻されるのを待ち、そのまま討たれるか、それとも潔く自決するかの二択しか無く、話し合う内容が存在しないことを。

     と――コツ、コツと硬い革靴の音が、外から響いてくる。
    「……?」
     小雪はふらふらと立ち上がり、堂の外を見た。
     そこには央南連合の役人と思われる者が数名と、その護衛らしき連合軍の兵士が1分隊おり、そして北方風のスーツに身を包んだ猫獣人が一人、彼らの前に立っていた。
    「……は?」
     その猫獣人の顔を見た途端、小雪は声を荒げた。何故なら彼女にとって、その顔は二度と見たくない、鼻持ちならないものだったからだ。
    「何であんたが今更ここに来るのよ!?」
    「何でって、仕事だよ」
    「は? 仕事? 央南から逃げたあんたが、連合に就けるわけないじゃない!
     大体何よ、そのヘンテコな格好! 刀も持ってないじゃない! 剣士がどうのこうのって、わたしに向かってあれだけ偉そうに説教したくせに!」
    「刀? 剣士? ……あのさ、小雪さん」
     と、その白地に黒斑の、童顔の猫獣人は、困った顔を小雪に向けた。
    「弟と勘違いしてないかな」
    「え?」
    「僕、秋也じゃない」
    「……あれ?
     え、じゃあ、……えーと、春司くん?」
    「そう」
    「……なんでここに?」
     唖然とする小雪に、その猫獣人――黄晴奈の長男であり、秋也の双子の兄である黄春司は、肩をすくめて見せた。
    「だから仕事だってば。つまり、停戦交渉だよ。2回目の。
     央南連合から父さん……、あー、と、同盟総長に、『第三者として間を取り成してくれ』って要請があったんだけどさ、父さんはご存知の通り北方に行ったり央中に渡ったりで忙しいから、こうして代理として僕が任命されて、交渉に来たってわけ」
    「……あ、そう」

     央南連合は以前、紅蓮塞と取り決めた懐柔案を反故にされ、困り果てていた。
     裏の取引があの会議の本懐だったとは言え、紅蓮塞側がこの案を完全無視したために、裏のことなど何も知らない連合軍では、実力行使もやむなしと言う意見が非常に強まっていた。
     とは言え実際に連合軍を出動させ、それが戦争にまで発展してしまえば、戦費がかさむ上に国際社会における央南連合の評価も下がる。
     央南連合はどうにか戦争を回避しようと、事実上の最後通牒として、第三者を交えた再度の交渉を持ちかけてきたのだ。
     その第三者として選ばれたのが、央南と央中・北方を結ぶ地域共同体、「西大海洋同盟」の第2代総長、トマス・ナイジェル卿である。しかしナイジェル卿は多忙に次ぐ多忙のため、その息子であり秘書兼名代であった春司が、その役目を請け負うことになったのである。

    「そっか、月乃はどっか行っちゃったかぁ」
     場所を移し、小雪と深見、九鬼から経緯を聞いた春司は、残念そうな顔をした。
    「6年ぶりに会えるかなって思ってたんだけどな」
    「6年前ってあんた、16じゃない。そんな早くから、同盟の仕事してたの?」
    「いや、正式に秘書になったのは18歳からだよ。その修行みたいなことを、16からやってたから。
     ま、僕の話はどうでもいい。重要なのは、君たち紅蓮塞が死に体ってことだよ」
    「交渉の余地なんかないでしょうね。攻め込まれて終わりよ」
    「それはいけない」
     意外にも、春司はその悲劇的結末を迎えることを忌避した。
    「どうして?」
    「まあ、勿論君たちがしたことはほめられることじゃないよ。無法にも程があると嘆きたくなる。
     でも君たちがやったからって、連合軍が同じことしていいって理屈は無い。そんな野蛮を見過ごしたら、この紅州は焼け野原だ。どれほどの人的被害、経済的被害が出るか、考えてみたことはあるかい? 間違い無く、尋常じゃない額になる。それは回避したい。
     と言うわけでこの紅州を保全するため、僕がこうして来たわけだ」
    「で?」
     小雪は春司に、苛立った声で問いかける。
    「あんたが嫌だって言っても、どの道連合軍が来るんでしょ?」
    「それは今、僕が止めてる。こう見えてもそれくらいの権限はあるんだ。
     と言っても、この話し合いが決裂したら、そりゃ攻めて来るよ。そうなった場合、君の言う通り為す術も無く終わりさ。
     死ぬの、嫌だろ? だからまず、僕の案を聞いてほしい」
    「……いいわよ。言ってみなさいよ」
    「うん。……まあ、今回の騒動は、公には紅蓮塞の武装蜂起による紅州および黄州侵略として捉えられてる。家元の君がどんなつもりだったかは別にして。
     で、事実として紅州攻略は今現在、成功している。でも黄州まで攻められるような体力は残ってないし、これ以上の侵略も、ましてや連合軍と戦うなんてのも避けたいはずだ。
     そこで紅蓮塞はこの、公の認識を事実として認め、その上で連合と相互不可侵の約定を結んで、紅蓮塞が今後一切の侵略行為を行わない代わりに、連合も干渉しないよう取り決める。
     と言う体で連合と話を付けたい。いいかな?」
    「……深見。……説明して」
    「あぁ? ……しゃあねえな」
     深見は嫌々そうながらも、小雪に解説した。

    白猫夢・落紅抄 3

    2013.03.02.[Edit]
    麒麟を巡る話、第200話。「あいつ」に瓜二つ。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 月乃は一人、何処へと消え去ったが、残った者にそこまでの度胸は無い。 他に行くところも無く、紅蓮塞へと戻ってきた。「……」 門を潜り、本堂に着いても、口を開く者は誰一人としていない。 誰もが悟っていたからである――自分たちに残された手段は、緩やかに侵攻されるのを待ち、そのまま討たれるか、それとも潔く自決するかの二択し...

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    麒麟を巡る話、第201話。
    紅州ゲットー化計画。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
    「つまりこのお坊ちゃんは、俺たちを侵略者に仕立て上げたいんだよ。その方が面倒な説明や根回ししなくて済むっつってな。
     で、『その鼻つまみ者がこれ以上余計なことをしないように訓告しときましたんで、もう心配ないですよ』って向こうに言って、恩を売っときたいんだ、こいつは」
     半ば喧嘩を売ったような深見の解説に、春司は何の反論もせず肯定した。
    「まあ、そうなるかな。それが僕の本意と言える。
     で、連合の方なんだけど、実際、君たちがもう疲労困憊でこれ以上侵攻なんかできないってことは連合の方にバレてるけど、それでも敵の本拠地に迂闊に攻め込んだら、被害は少なくないと予想されてる。
     連合首脳部としては、こんな意味も無いし利益も出ない出動なんか、させたくない。勝っても負けても損なわけだし。
     と言って何の行動もせずに静観してるって言うのも、央南内での連合の評判が悪くなる。紅州の各都市から度々救援要請が出てるのに、何もしないんじゃ体裁悪いし。
     じゃあ形だけでも交渉の体を取って、その結果として、この関係のまま状況を凍結させておきたい。……って言うのが連合の本意なわけさ」
    「……いまいち分かんないんだけど。つまり連合って何したいの?」
     困った顔を見せた小雪に、深見ははあ、とため息をつく。
    「どう言ったら分かるんだよ……」
    「あー、じゃあ、ぶっちゃけて言おう」
     春司はまた肩をすくめ、こう説明し直した。
    「連合は州ごと、君たちを厄介払いしたいってわけさ。
     君たちは紅州を好き勝手に弄れるし、州の中で暴れる分には連合も文句言わない。悪くない条件だろ?」
    「ん? おい、そりゃつまり……?」
     これを聞いて、深見は怪訝な顔になる。一方で、小雪はまた困った顔をしている。
    「え? え?」
    「ちょっと黙ってろ、小雪」
     深見は人差し指を彼女の唇に当て、小雪に黙るよう示す。
     深見自身もしばらく黙り込んだ後、春司に向き直ってこう尋ねた。
    「あれだ、浪人問題が片付かねえんだろ? つまり、連合の本意としてはこれ以上雇用創出政策なんかやってらんねー、全部丸投げしちまいてー、ってわけだ」
    「ご明察。黄州じゃ叔母さんが学校作ったり商会の用心棒として雇ったりして、何とか浪人を養えたみたいだけど、叔母さんみたいな人が一つの州に一人も二人もいるわけじゃないもの。
     他の州じゃ雇用政策に失敗したところもあって、もう既に揉めてる有様でね。『紅州に送り返したい』って言っちゃってる偉い人も、チラホラいるんだよ。
     連合はその集積地にしたいのさ、紅州をね」
    「……ふざけやがって。はぐれ者の掃き溜め扱いかよ」
     深見は小雪から手を離し、尋ねる。
    「だが連合軍に攻め込まれずに済むってだけでも美味しい話だ。しかも相互不可侵ってことは、支配した件については不問も同然ってわけだ。
     つまり俺たちは――相当貧乏ではあるが――国を一つ丸ごともらったも同然だ。
     小雪、こりゃ受けるべきだ。これを蹴って得られるものは何も無いぜ」
    「あんたが決めないでよ」
     そう言いつつも、小雪もこれが好条件であることは察したらしい。
    「……いいわ。まだ色々分かんないけど、戦わずに済むならそれでいいわ。
     話し合うことはこれだけ?」
    「とりあえずは。まあ、後何回かちょくちょく来させてもらうけど、基本的にさっき言った案で話を進めるよ。
     じゃ、僕はこれで」
     春司はそそくさと席を立ち、塞を後にした。



     3ヶ月後――春司の画策した通り、紅州は紅蓮塞の領地となり、央南連合の支配圏から離れることとなった。
     当然この流れに、紅州内に住む者の多くは驚愕し、嘆き、連合を非難した。しかし反発まで起こすような気概も風潮も無く、結局は黙々と従うに留まった。
    「まったく阿呆な肩書きだな。俺が『大臣』でお前が『王様』かよ。子供のお遊戯会かっつの」
    「るっさいわね」
     紅蓮塞は連合との協議の結果、紅州の統治権を正式に与えられ、政府として認められた。側近らは紅蓮塞における階級に準じて要職を与えられ、小雪もまた、女王として君臨することを認められ――と言うよりも、連合から暗に命じられた。
    「結局、浪人らの掃き溜め扱いなのにな。あの会議じゃ散々、いいように扱われたし」
    「あんたの交渉力不足でしょ」
    「お前もだろ。会議の間中、あれやこれや俺に聞いてばっかだったじゃねーか」
    「ふん」
     このやり取りを眺めていた九鬼は内心、クスクスと笑っていた。
    (喧嘩するほど仲が良いとはよく言ったものだな。……戦の時のようなギスギスした感じが、殿から抜けた。深見も口ではああだが、何だかんだと言って殿を助けているし。
     州内の執政、浪人らの受け入れと、これからが大変になるが――案外、何とでもなるかも知れんな)

    白猫夢・落紅抄 4

    2013.03.03.[Edit]
    麒麟を巡る話、第201話。紅州ゲットー化計画。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4.「つまりこのお坊ちゃんは、俺たちを侵略者に仕立て上げたいんだよ。その方が面倒な説明や根回ししなくて済むっつってな。 で、『その鼻つまみ者がこれ以上余計なことをしないように訓告しときましたんで、もう心配ないですよ』って向こうに言って、恩を売っときたいんだ、こいつは」 半ば喧嘩を売ったような深見の解説に、春司は何の反...

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    麒麟を巡る話、第202話。
    墜落し往く央南。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     時間は明奈が狙撃を受けた、その1週間後に戻る。

    「最低です」
     肩に受けた傷もすっかり癒えた明奈は、連合主席の三国と甥の春司から、紅蓮塞に対する処置が決定されたことを聞かされ、それを非難した。
    「こんな終わり方があっていいものですか!」
    「そう言われても、これはもうどうしようもない。各州の意見を最大公約数的にまとめるに、これ以外の決着は無かった」
    「ええ、他に方法はありませんでした。それは分かってください、叔母さん」
    「『黄大人』と呼びなさい、黄書記官。
     三国主席も、何故わたしを頼ってくださらなかったんですか? わたしがいれば、こんな最低な結末は回避できたはずです」
    「いや、それは君が怪我を負って、伏せっていたからだよ。そんな状態で相談など、とても……」
    「さぞ好機とお考えになったでしょうね。わたしが出しゃばれなかったこの機に、そんな話をひっそり通すようなお二人ですもの」
     明奈はここですう、と息を吸い、二人を叱咤した。
    「央南各地の政策失敗のツケをまとめて全部紅州に押し付けるような、この杜撰で厚顔無恥な措置! それを横からのこのこと現れて、したり顔で取り決めた図々しさ!
     わたしは到底、あなたたち二人の暴挙を許す気はありませんからね!?」
    「そこまで怒らなくても……。元々黄大人も、紅州は孤立させようと言っていたではないですか」
    「それは過程であって、結末ではありません! わたしの考えではいずれ、紅州は元のように戻すつもりでした! 決してこんな、無責任の極みのようなことには……!
     まったく……! あなた方のやったことは、央南の将来に禍根を残しました! 多少の出費と手間を惜しんで、病巣を取り除こうとしなかったこと! わたしが怒るのはそこです!」
    「と、言うと?」
    「考えてもみなさい――今回の交渉で、散々乱暴狼藉をはたらいた紅蓮塞は、連合に認められたも同然ではないですか! それは即ち、今後別の州で同じような騒動が起こったとしても、連合はそれを見て見ぬ振りをしますよと宣言したようなもの!
     何より世間から見捨てられた者がどんどん押し寄せられると言うことは、その地が犯罪の温床、社会不安の坩堝になっていくと言うこと! わたしたち自ら、危険の種を作って育てるも同然です!
     この一事をきっかけに、央南連合はこの先どんどん、ならず者たちの影に怯えることになるでしょうね。あちこちで武力蜂起が起こり、治安もみるみる悪くなっていくでしょう。そしてそれはきっと、央南の平和を著しく乱し、発展を阻害することになります。
     あなたは首席失格です、三国さん。央南を導く立場にあるはずのあなたが、まさかこんな最低な策を採るなんて!」
    「そう言われてもねぇ……」
     薄ら笑いを浮かべる三国に、明奈はいよいよ激昂した。
    「……失望しました。あなたに央南の舵は、この先絶対に取らせてなるものですか。
     覚悟しておいてください」
     明奈はぷりぷりと怒ったまま、席を立った。
    「……やれやれ。口ばかりの正義漢には難儀するよ」
     そう毒づいた三国に、春司も愛想笑いで返した。

     数ヶ月後、明奈が弾劾決議を開き、三国を徹底的に糾弾した。三国は失脚し、連合から離れることとなった。
     一方の明奈も、後に主席の座を勝ち取り、3期に渡って紅州独立問題の解消に努めたが、連合首脳部にはこの問題で「厄介払い」ができた者が多かったために同意を得られず、結局は失敗した。

     そして明奈の予期していた通り、この騒動を境に州の、あるいは央南連合の政権奪取を狙った、大規模な事件が横行し始めた。
     それは明奈の危惧通りの結果――央南内の混乱を招くこととなり、央南に対する諸外国の評価を下げる結果となった。



     明奈が願っていた央南の飛躍的な進歩と発展は、この長い長い騒乱の時代が訪れたことによって、幻と消えた。

    白猫夢・落紅抄 終

    白猫夢・落紅抄 5

    2013.03.04.[Edit]
    麒麟を巡る話、第202話。墜落し往く央南。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 時間は明奈が狙撃を受けた、その1週間後に戻る。「最低です」 肩に受けた傷もすっかり癒えた明奈は、連合主席の三国と甥の春司から、紅蓮塞に対する処置が決定されたことを聞かされ、それを非難した。「こんな終わり方があっていいものですか!」「そう言われても、これはもうどうしようもない。各州の意見を最大公約数的にまとめるに、こ...

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    麒麟を巡る話、第203話。
    設計者。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     焔流騒乱が一応の解決を見せ、央南の情勢が落ち着き始めた、双月暦544年の秋頃。
    「免許皆伝試験用の道場を作れないだろうか」
     黄海や、その近隣に住む焔流剣士たちから、そんな意見が出始めた。

     紅蓮塞と断絶して以降、「証書」は手元にあったものの、試験を行いそれに名前を連ねることができず、免許皆伝を得る者が1年近くもの間、輩出されないままでいたのである。
    「しかし作るとなるとなぁ……」「ですよねぇ」
     晴奈は紅蓮塞の試験会場、伏鬼心克堂の「構造」を実際に目にしたことがあるだけに、その再建が困難なことは十分に承知していた。
     そして晴奈と一緒にその「仕掛け」を見ていた良太も、一緒にうなる。
    「僕も姉さんと一緒にあれ見ましたけど、普通の大工さんとかじゃ、絶対作れないですよ」
    「そうだな。あれはよほど優れた魔術知識を持つ人間でなければ、建設は不可能だ。
     ……一応、心当たりはあるが」
    「え?」
    「しかしその人を呼ぶのは多少、心苦しいと言うか、顔を合わせ辛いと言うか」
    「どう言う人なんです? 昔の恋人とか?」
    「阿呆。黒炎教団の現人神と言えば分かるだろう?」
    「は? ……はぁ!?
     ちょ、ちょっと姉さん? 何言ってるんですか? そんな、まさか、呼べるわけないじゃ……」
     目を白黒させる良太に対し、晴奈は胸の前で腕を組みながら、はぁ、とため息を漏らした。
    「既に争う間柄でなくなって久しいし、呼んでも体面上、何の問題も無いだろう。呼ぶ手段も一応はある。ツテがあるからな。
     ただ――焔流の私がこんなことを言うのも何だが――畏れ多くてな。もう20年以上は会っていないが、会う度に身のすくむ思いをしていたからな。今思い出しても尻尾がざわっとする。
     とは言え生半可な魔術師では到底、あんなものは作れまい。もう一人、央中に辣腕の魔術師を知っているが、彼女は央中から離れられぬと言うし。
     頼むしかあるまい。……黒炎殿に」

     晴奈は魔術の心得がある明奈を通じて渾沌に連絡し、大火に会えないか相談した。
    《あんたの頼みなら師匠も動いてくれると思うわよ。
     ただ、うちの原則として『契約は公平にして対等の理』ってのがあるから、お願いするとしたら、何らかの見返りが無いと駄目でしょうね》
    「ふむ……」
    「お金であれば多少はありますが、黒炎様では動いてくれないでしょうね」
    「それは言える」
    《ま、それ抜きにしても師匠、あんたに会いたがってるでしょうから、話は通してみるわね。
     ……あ、そうそう》
    「魔術頭巾」で渾沌からの話を聞いていた明奈は、「まあ」と嬉しそうな声を上げた。
    「どうした?」
    「お姉様、秋くんがベルさんと来年、結婚するそうですよ。
     向こうで開いた道場が軌道に乗り、来年にはベルさんも20歳になるので、それを機に身を固めよう、……とのことです」
    「……そうか。……うん、そうか」
     これを聞いた晴奈も、顔をほころばせていた。



     それから2週間後。
    「久しぶりね、晴奈」
    「ああ。……お久しゅうございます、黒炎殿」
    「ああ」
     渾沌が大火を伴い、2年ぶりに黄海を訪れた。
     出迎えた雪乃夫妻と晴奈に、大火は会釈しつつこう返す。
    「晴奈。50歳を超えたそうだが、まだ若々しいな。今なお凛々しさが残っている」
     大火にそう褒められ、晴奈は気恥ずかしくなる。
    「はは……、恐縮です。
     それで黒炎殿、渾沌から伝えていた件ですが……」
    「ああ。伏鬼心克堂の建設だな」
     そう言って大火は、懐から金色に光る、手帳のようなものを取り出した。
    「それは?」
    「『黄金の目録』と言って……、まあ、平たく言えば俺の手帳だな。
     少々待て。確か設計図を書き留めていたはずだ」
    「書き留めて……?」
     おうむ返しに尋ねた晴奈に、大火は晴奈たち焔流剣士が仰天するような回答をした。
    「ああ。以前に設計した際、何かに転用できるかと考え、保存しておいた。全く同じものを造ってもいいが、現代風に設計し直しても構わん。そこは晴奈、お前の希望に任せるが、どうする?」
    「……お、お待ちください」
     晴奈はこほん、と小さく咳を立て、もう一度尋ねる。
    「その仰り様、まるで黒炎殿が伏鬼心克堂を設計したか、……のような?」
    「そう言ったつもりだが、そう聞こえなかったのか?」
    「……まさか」
     思いもよらない事実を聞かされ、晴奈も、側にいた雪乃も、互いに蒼い顔を向けた。

    白猫夢・蘇焔抄 1

    2013.03.06.[Edit]
    麒麟を巡る話、第203話。設計者。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 焔流騒乱が一応の解決を見せ、央南の情勢が落ち着き始めた、双月暦544年の秋頃。「免許皆伝試験用の道場を作れないだろうか」 黄海や、その近隣に住む焔流剣士たちから、そんな意見が出始めた。 紅蓮塞と断絶して以降、「証書」は手元にあったものの、試験を行いそれに名前を連ねることができず、免許皆伝を得る者が1年近くもの間、輩出されな...

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    麒麟を巡る話、第204話。
    堂の試運転。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     晴奈たちの反応に、大火は細い目をわずかに開く。
    「知らなかったのか? てっきりその事実を知っていたからこそ、俺を呼んだものと思っていたが」
    「い、いえ。存じませんでした」
     晴奈と雪乃は目を白黒させ、大火の顔やお互いの顔を見比べている。
     一方、良太は動じていない。それどころか、納得したような顔をしていた。
    「なーるほど。合点が行きました」
    「え? どう言うこと、良さん?」
     妻に袖を引いて尋ねられ、良太はあっけらかんと答えた。
    「あのお堂、僕も何度か調べたことがあるんだ。起源を明らかにできないかなと思って。
     ところが調べれば調べるほど、これは黙っておいた方がいいなー、って点がぽろぽろ出てきちゃってさ。……ま、それはまだ、黒炎教団と対立してた時の話なんだけど、だから今まで内緒にしてたんだ。
     その気になった点って言うのがね。まず、堂の地下には魔法陣が描き巡らされてたんだけど、あれはいわゆる『ウィルソン型』、つまり黒炎教団が使ってる魔術っぽかったんだ。
     これだけでも、焔流にとってはそれこそ、足元が崩れるような話だよ」
    「黒炎教団には俺が魔術を指導したから、な。俺が設計したものと似ていても、不思議はあるまい」
    「ええ、克さんとの関係を示すものは、他にもありました。
     焔流初代家元の父親、焔流の太祖である焔玄蔵翁とあなたに交流があったことは、ちょっと古い歴史書を紐解けばあちこちに出てきますし、……あと、こんなことを焔血筋の僕が言ったら大事ですが、焔流剣術の魔術的な側面を見れば、あなたの使う魔術剣に似た点が多く見受けられます。
     だからもしかしたら、伏鬼心克堂はあなたが造ったものなんじゃないかとは、薄々思っていました。お堂の名前にも『克』が付いてますしね」
    「堂の名前を付けたのは俺では無い。玄蔵だ。
     あいつは妙に洒落っ気と言うか、茶目っ気を出すところがあったからな。その時もお前と同じようなことを言っていた。
     黒炎教団が誕生し、焔流と対立したのは、その数十年後のことだからな。建てた当時には、そんなしがらみはどこにも無かったのだ。元々、試験会場としての使用も想定していなかったから、な」
    「その辺りのお話も是非、拝聴したいところですが……。所期の目的は、お堂の建設ですからね。
     まずはその話を」
    「ああ」



     大火と相談した結果、新たな堂は黄海郊外に建立されることとなった。
     また、大火に打診されていた通り、外観や工法を現代の建築様式に合わせたり、管理のため地下では無く、近隣に小屋を造ったりと、元々のものとは多少変化を加えていた。
     そして、最も大きな特徴であったあの「仕掛け」にも、ある違いが付加された。

    「痛っ、……?」
     晴奈は頭部にちく、とした痛みを感じ、後ろを振り向く。
    「……? 黒炎殿?」
    「……」
    「何か……?」
     背後にいた大火に尋ねたが、大火は何も答えず去って行った。



     堂の完成数日前、秋も終わる頃。雪乃が大火に呼び出された。
    「黒炎さん、わたしに何か?」
    「ああ。試運転に付き合ってもらいたい」
    「試運転? ……と言うと?」
    「堂の魔法陣が正常に作動するか、その点検と言うところだ。
     この件は晴奈本人には頼めん。同等の実力ではさっくり終わらせられんから、な」
    「……?」
     はっきりとしない物言いに、雪乃は首をかしげる。
    「どう言うことでしょう?」
    「まずは、会ってみてくれ。
     試運転が成功したら、詳しく話してやろう」
     大火は堂の扉を開け、雪乃を中に入れた後、扉に鍵をかける。
    「仕掛けを動かす装置は一緒みたいですね」
    「ああ。起動から1分後、出現する」
    「分かりました。危険は?」
    「本来の堂と変わらん。ただし」
     大火は扉越しに、こう告げた。
    「出現するものはお前にとって、『刃を向けたくない』と言う相手に限りなく似ている」
    「……黒炎さん」
     雪乃は多少苛立った声で、大火に尋ねる。
    「はっきりと話していただけませんか? 抽象的なお言葉ばかりで、わたしちょっと、イライラしてきてるんですが」
    「終わったら、いくらでも具体的に話そう」
    「……分かりました。試運転はどれくらいかかります?」
    「10分に設定している。終わり次第、鍵を開ける」
    「はい」
     雪乃ははあ、とため息をつき、刀を抜いた。

    白猫夢・蘇焔抄 2

    2013.03.07.[Edit]
    麒麟を巡る話、第204話。堂の試運転。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 晴奈たちの反応に、大火は細い目をわずかに開く。「知らなかったのか? てっきりその事実を知っていたからこそ、俺を呼んだものと思っていたが」「い、いえ。存じませんでした」 晴奈と雪乃は目を白黒させ、大火の顔やお互いの顔を見比べている。 一方、良太は動じていない。それどころか、納得したような顔をしていた。「なーるほど。合点が...

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    麒麟を巡る話、第205話。
    隠れた剣聖。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     堂の中央に立ち、雪乃は思案する。
    (なるほど、うわさに聞く剣呑っぷりね。賢者ってみんな、あんな感じなのかしら。……と言ってもわたし、黒炎さんを含めて2人しか知らないけれど。
     ……元気してるのかしら、モールさん。ずっと姿、見てないけれど。……元気にしてるわよね。あんな人だもの。
     さて、と。黒炎さんの言い方だと、わたしが知ってる人を具現化させて出すみたいだけれど、誰かしらね。……いいえ、大体思い当たるわ。
     あの人が出会った数多くの人の中で、わたしとあの人に接点があり、かつ、わたしが戦いたくないと思うような人なんて、……そんなの、一人だけよ)

     雪乃の読み通り、やがて彼女の目の前に「それ」は現れた。
    「やっぱりね」
    「……」
     凛とした目つき、自分より高い背丈、後ろに高くまとめた黒髪、そして三毛の猫耳と尻尾――「それ」は晴奈そっくりの姿をしていた。
    「でも四半世紀も前の姿だとは思わなかったわね。黒炎さんも案外、思い出を引きずる方なのかしら」
    「……」
     やがて「彼女」は刀を抜き、雪乃に向けて構える。雪乃も応じる形で刀を構え、対峙した。
    「じゃ、行きますか。
     ……こう言う時『偽者』って分かるのは、いいわね」
     雪乃は一歩踏み込み、「彼女」にこう告げた。
    「本物の晴奈だと、どうしても本気で打ち込めないもの。愛弟子だし、何より妹のようにも思っているから。
     でもあなたは『偽者』だもの。本気で行けるわ」
     雪乃は刀に火を灯し――堂全体が一瞬、ビリビリと震えるほどの、気合に満ち満ちた声を放った。
    「覚悟ッ!」
    「……っ」
     幻影、現ならざる存在の「彼女」ですら、その迫力に気圧される。
     ほんのわずか、「彼女」がたじろいだ瞬間――雪乃の刀が、「彼女」を袈裟斬りにしていた。
    「……あら。10分も持たなかったわね」
    「彼女」は堂の端に叩きつけられ、そのまま掻き消えた。

     同時に、堂の扉が開かれる。
    「あら?」
    「お前の一撃で、制御系統の魔法陣が焼き切れたぞ。また調整し直さねばならん。余計な手間を増やしてくれたな。
     ……予想をはるかに上回る、すさまじい魔力だ。一体何者だ、お前は?」
     憮然とした顔で、大火が入ってきた。
    「確か、柊雪乃と言ったな。……ふざけた奴め」
    「どこが、かしら」
    「その実力があったなら、この近代化され、銃火器が発達、躍進した時代においてすら、天下を獲れたはずだ。
     俺の見立てでは、お前は晴奈の――最盛期のあいつをも凌ぐ強さを持っている。20年、いや、10年前にでもその気になっていれば、今日『蒼天剣』と呼ばれたのは晴奈ではなく、お前であった可能性もある。
     なのに何故だ? 何故、実力を隠していた? 何故お前は、身を引いていたのだ?」
    「……」
     雪乃は刀を納め、肩をすくめて見せた。
    「獅子と言う獅子がみんな、百獣の王になりたいと思う? のんびり伴侶と寝転んでいたいと思う獅子も、いていいんじゃないかしら」
    「……ククク」
     大火は笑いながら、雪乃の前に立つ。
    「勿体無いことだ。晴奈が知ればさぞ、悔しがる」
    「それもあるわね。だからあの子が免許皆伝を獲得し、錬士になって以降は、あの子より目立たないように努めてきたわ。もっと高みを目指そうと躍起になっていたあの子に、影を落とさないように、……ってね。
     ま、その後に結婚もしたし。さっき言った通り、愛する夫と一緒にのんびり過ごしたいって気持ちの方が、わたし、強かったのよ」
    「なるほど」
     大火はもう一度ニヤ、と笑って刀を抜き、雪乃に向ける。
    「どうだ? 一戦、交えてみないか? ここにいるのは古今無双の奸雄だぞ。
     普通の剣士ならば武者震いのしてくる展開だが、……どうする?」
     だが、雪乃は首を横に振り、刀を納めてしまった。
    「拒否は?」
    「できる」
    「じゃ、拒否するわ。理由は、さっき言った通りよ」
    「そうか」
     大火はそれ以上誘うことなく、刀を納めた。
    「試運転は失敗だ。『想定外の』多大な負荷の発生により装置は破損。修復のためにもう数日を要する。
     ……と伝えておこう」
    「ごめんなさいね、黒炎さん」



     竣工予定日から2日遅れで、堂は完成した。この堂は晴奈と雪乃の姓を取り、「柊黄伏鬼堂」と名付けられた。
     これにより、黄派と柊派、そしてこれに追従した他の焔流派はおよそ2年ぶりに、免許皆伝試験を受けられるようになった。



     ちなみに、後日――。
     伏鬼堂建設の代金を何にするか、大火と商談に臨もうとした明奈は、当惑していた。
    「え、……ええ?」
    「契約の悪魔」とまで称された、等価交換を普遍の理念に置いていたはずの大火から、「代金はいらない」と言われたからである。
    「この地で非常に面白いものに出会った。それで十分だ」
    「は、はあ? え、っと、……分かり、ました。えっと、黒炎様、ありがとうございます、はい」
     何があったのか分からず、明奈は混乱していた。

    白猫夢・蘇焔抄 3

    2013.03.08.[Edit]
    麒麟を巡る話、第205話。隠れた剣聖。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 堂の中央に立ち、雪乃は思案する。(なるほど、うわさに聞く剣呑っぷりね。賢者ってみんな、あんな感じなのかしら。……と言ってもわたし、黒炎さんを含めて2人しか知らないけれど。 ……元気してるのかしら、モールさん。ずっと姿、見てないけれど。……元気にしてるわよね。あんな人だもの。 さて、と。黒炎さんの言い方だと、わたしが知ってる人...

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    麒麟を巡る話、第206話。
    焔流の蘇生。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     時は進み――双月暦545年の、春の夜。
     雪乃は晴奈を招き、共に茶を飲んでいた。
    「明日からね」
     雪乃がぽつりとつぶやいたその言葉に、晴奈はうなずいた。
    「そうですね。明日から、開校です」
    「……あー」
     雪乃は椅子にもたれかかり、こう続ける。
    「不安なのよね。入学式、ちゃんと訓辞できるかしら」
    「大丈夫でしょう。設立表明の時も立派な演説をされていらっしゃいましたし、今回もそれと同じように臨めば、うまく行きますよ」
    「そうかしら。……あの頃とはちょっと、気持ちが違うのよね」
     そう言って、雪乃はうつむいた。
    「幸いと言っていいのか分からないけれど、結局、小雪と対決するようなことは無かったのよね。でもそれは、ちゃんとした決着じゃない。……と言って、決着させる気にもならない。
     今は何て言うか、中途半端な気持ちなのよね。いざ刃を交えようと向き合った瞬間、そのまま相手が目の前から消えてしまったような、そんな感じ」
    「ふむ……」
    「あの時みたいに、切羽詰まった気持ちで話すようなことにはならないわね。……もやもやしてはいるけれど、楽にはなったし」
    「……それならそれで、師匠のいい面を押し出した訓辞ができるでしょう」
    「わたしの、いい面?」
     尋ねた雪乃に、晴奈はにっこりと笑って見せた。
    「お優しいところです。師匠は深い優しさをお持ちです。
     あれだけ親不孝を重ねた小雪に対して、師匠は今なお冷淡な感情を抱かれない。今も身を案じ、傷つけることを恐れていらっしゃいます。
     その優しさを、剣士として優柔不断だと断じるような者もいるでしょうが、それは紛うことなく、師匠の持つ最も美しい長所です」
    「……ありがとね、晴奈」
     微笑んだ雪乃に、今度は晴奈の方が身をすくませる。
    「私はなかなか至りません。此度の騒動の片棒を担いでいた月乃を、今なお許せないでいるのです」
    「そう……」
    「聞けば紅蓮塞からも離れ、どこぞへと消えたと。恐らく二度と会うことは無いだろうと覚悟しています。
     明奈に言われてずきりと来たことですが……、私はあいつを立派な剣士にしようと、厳しく接し過ぎてしまいました。
     もっと優しくすれば良かったと、後悔しています」
    「……でも、同じ教えを受けた秋也くんは、ちゃんと立派に成長したわ。それは確かよ」
    「ええ、それだけが救いです。
     そう、……春司もどこかおかしくなっていると、明奈から聞いています。紅蓮塞を浪人やはぐれ者の溜まり場にすべく、画策したと。
     私の子供たち3人は、それぞれ別方向に飛び去ってしまいました。秋也は遠い地へ住み、春司は故郷を切り売りして平然としていられるような冷血漢に。そして月乃は……」「いいの、もういいのよ、晴奈」
     雪乃が晴奈の手を取り、ゆっくりと首を振る。
    「あなたが悪いことなんて、何も無いわ。正しいことを教えていた。それは秋也くんが証明している。
     月乃ちゃんに対しては、ちょっと、歯車がずれただけなのよ」
    「……そうですね。……ええ」
     重い空気が漂い、二人は黙り込んだ。

     と――部屋の扉が叩かれる。
    「あら、誰かしら? どうぞ」
     扉を開け、晶奈と朱明が入ってきた。
    「うん? どうした、二人揃って」
     どちらも顔を真っ赤にしながら、横に並ぶ。
    「……ははあ」
     晴奈がニヤっとしたところで、晶奈が口を開いた。
    「母様、晴奈さん。えーと、その、わたしと朱くん、……その、気が合うと言うか、通じたと言うか、えーと」
    「あら、まあ」
     口をもごもごさせる晶奈に代わり、朱明が説明した。
    「付き合うことになりました。それで、挨拶しようと思って」
    「……く、ふふ、ははは」
     晴奈はクスクスと笑い、こう返した。
    「真面目だな、二人とも。結婚ならともかく、付き合うことから報告しに来るとは」
    「そ、それも、あの、……ちょっと考えてたり」
    「ほほう」
     これを聞いて、晴奈は雪乃に笑いかけた。
    「これは久々の吉事ですね、師匠」
    「ええ、本当。……うふふっ」
     晴奈と雪乃はにこにこと笑いながら、二人を抱きしめた。



     この数年後――。

     朱明と晶奈はおぼろげな宣言通り、結婚した。
     そしてそれを機に、朱明は母、明奈の後を継ぐべく、黄商会に積極的に参与するようになる。
     そのため、当初晴奈が目論んでいた、「朱明を道場の跡継ぎに」と言う計画は頓挫したものの、黄家と親戚関係となった晶奈が、代わりに継ぐこととなった。



     焔流は再び、仁義と礼節を重んじる誇り高き剣術一派として、黄海に蘇った。

    白猫夢・蘇焔抄 終

    白猫夢・蘇焔抄 4

    2013.03.09.[Edit]
    麒麟を巡る話、第206話。焔流の蘇生。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 時は進み――双月暦545年の、春の夜。 雪乃は晴奈を招き、共に茶を飲んでいた。「明日からね」 雪乃がぽつりとつぶやいたその言葉に、晴奈はうなずいた。「そうですね。明日から、開校です」「……あー」 雪乃は椅子にもたれかかり、こう続ける。「不安なのよね。入学式、ちゃんと訓辞できるかしら」「大丈夫でしょう。設立表明の時も立派な演...

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